第79話 無数の蝶のよう

 夢を見ていた。


 遠い昔の、遥か彼方の。


 どこかの誰かの夢。


 その夢の中では、痛みも苦しみも恐怖も、何一つ感じることがない。


 陽射しは柔らかく、風は暖かく、私達を包んでくれる。


 木立が風に揺られ、その揺れにあやされた小鳥たちが、耳障りの良い歌を奏でる。


 そんな光景を、私達は草原の只中に寝転がって聞き、真っ青な空を仰いで笑っているのだ。


 ひどく心地よい夢。


 私が、そしてヴィヴィが、いまだかつて思い描いたことのない、夢。


 どうして、こんな夢を見ているのだろう。


 フッと湧いて出た疑問を前に、私は一人、黙り込むしかなかった。


 私が知っている世界には、こんな光景は一つもない。


 それなのになぜ、こんな光景を見ているのだろう。


「どうせ目覚めるなら、気分良く目覚めた方がいい。っていうのが、彼の言い分みたいですよ」


「誰!?」


 突然、頭の中に響き渡った声に、私は声をかける。


 気づけば平原の中に一人で立っていた私は、必死にあたりを見渡してみるが、人影は一つもない。


 動くものと言えば、風に揺られる無数の草花や、空に浮かぶ雲、そして、一匹の小さな蝶だけだった。


「私ですよ」


「どこにいるの!?」


 再びかけられた声の主を探そうと、何度も周囲を見渡すけど、見えるのはやはり、美しい光景だけ。


「分かりませんか? 私はあなたの目の前にいる蝶なのですが……」


「え?」


 掛けられた言葉に、思わず短い声を漏らした私は、鼻先をひらひらと舞う蝶を凝視した。


 よく見れば、私に視線を向けながら舞っているようにも見える。


「あなたは、誰?」


「私の名前は、ラック。あなたを助けに来ました。体の調子はいかがですか? アルマさん?」


「私を……助けに?」


 ラックと名乗る蝶の話を聞いた直後、急激にぼやけていく視界を取り戻すために、私は何度も瞬きをする。


 その度に、周囲の光景がぼやけ、薄れ、闇に閉ざされてゆく。


 同時に、誰かの声が耳に入ってきた。


「会話する資格ねぇ……」


「何が可笑しい?」


 会話をしている二人の間には、非常に緊迫した空気が流れているようで、その言葉の端々に、鋭い棘を聞いて取れる。


 しかし、いまだぼやけている視界のせいで、二人の姿を目にすることはできなかった。


 瞬きをしながらもどかしさを感じていた私を余所に、二人の会話は続く。


「丸腰のまま戦うつもりか? 拾え。その程度の時間であれば、待っていてやろう」


 その言葉を皮切りに、しばし静寂が訪れたかと思うと、ぼやけた二人は続けざまに呟いた。


「へぇ……」


「ゆくぞ」


 刹那、ぼやけている視界の中で、何かが激しく動く。


 なんとか様子を伺おうと目を凝らした時、男の声が、見知った名前を叫んだ。


「ラック!」


 未だに私の鼻先を舞っていたラックが、ヒラヒラと私から離れてゆく。


 待って! と叫びたい衝動に駆られたが、あいにく、それは出来なかった。


 のどに酷い痛みを感じる。


 痛みを感じたことで、ようやく体中の感覚が戻り始めたのか、私は少しずつ状況を思い出し始めた。


「ここは……」


 かすれた声で呟きながら、自分の身体を見下ろす。


 四肢は壁に繋がれており、鎖で圧迫された手首足首が、非常に痛む。


 それだけでなく、全身に刻まれた鞭による傷跡が、ヒリヒリと熱を帯びていた。


 鮮明になってきた頭と視界で牢屋の中を見渡した私は、一つの大きな異変に気が付いた。


 牢屋の外に、人が立っているのだ。


 金色の鎧に身を包んでいる、赤髪の男。


 あまり詳しくは知らないが、恐らく、騎士なのだろう。だとするなら、私にとっては敵のようなものだ。


 幸いなことに、その騎士の注目は私ではなく、別の人間に注がれている。


 牢屋の前で金色の騎士と対峙しているもう一人の男。


 見た目だけで言えば、かなりみすぼらしく見えるその男は、何者なのだろう。


 そんな私の疑問を助長するように、みすぼらしい男の眼前を、ラックが舞った。


 途端、周囲に深い深い暗闇が充満する。


 男が何かしたのか、これからどうなるのか。


 頭の中を駆け巡る焦りと不安。


 それらを紛らわせようと、目を閉じた私は、唐突に鳴り響く笑い声と呟きを耳にした。


「アラン、出番だぞ」


 直後、あたりを包んでいた闇が、一斉に光へと転換する。


 光を発しているのは、金色の騎士の隣に立っている、金色の獅子。


 その光にみすぼらしい男が驚いている様子を見るに、やはり先ほどの闇は男が仕掛けたもののようだ。


 光に怯んだ男に、金色の騎士が剣による突きを繰り出す。


 突きを受けてしまった男の傷口からは、脈打つように大量の血液が流れ始めている。


 かなりの深手のようだ。


 このままでは、あの男は無事では済まないだろう。


「思っていたより、大したことないな。どうした? 調子でも悪いのか?」


「調子は良いはずなんだけどな。強いて言うなら、相性が悪いな。なんだそのピカピカのライオンは。松明代わりによさそうだな」


「ジャック、今こやつは儂を松明呼ばわりしたのか? だとするならば、こやつは儂にやらせろ。儂は儂を侮辱する者を許しておけるほど、懐の広い男では無い」


 明らかに見栄を張って見せる男に、獅子が告げる。


 よほど怒り心頭なのか、獅子はジャックに手出ししないように告げると、攻撃態勢に入った。


 対するみすぼらしい男は、傷口を押さえながら朦朧とし始めている。


「気を失うのはまだ早いぞ」


 男の様子を見ても手加減するつもりはないらしい。獅子はそう言うと、男の胴に前足の一撃を加えた。


 あっけなく吹っ飛び、壁に衝突する男。


 男に舞い寄るラックは、恐らく心配しているのだろう。彼の周囲を飛び交っている。


 明らかに不利な状態。


 そんな状態でも、諦めずに何とか立ち上がろうとした男は、バランスを崩し、壁にもたれかかりながら座り込んだ。


 そして、小さな笑みとともに、呟きを零す。


「聞こえてるぜ……これでやっと、本気を出せるな」


 言うと同時に前に突き出された男の右腕。


 ピンと突き立てられている人差し指に、ラックが近寄り、ゆっくりと止まった。


 意味が分からない。


 こんな状態で何をしているのか。


 私の思考を染め上げていったそれらの考えは、しかし、次の瞬間には消えてなくなっていた。


 ラックが指先に止まった直後、男の身体が一瞬にして崩れ去ったのだ。


 それはまさに、煙のように。はたまた、無数の蝶のように。


 細かく薄く分離して、空間の中に溶け込んだ。


 きっと、何が起きたのか理解できていない。私も、騎士も、獅子も。


 だからこそ私は、唐突に真横からかけられた声に驚き、変な声を上げてしまったのだった。


「あれ? もう目覚めてたんだ? 悪いね、もう少し待っててもらえる?」


「ひゃぁい!?」

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