第28話 ひらひらと舞う鮮やかな蝶

 ドウナッテルンダ!?


 俺は自分に起きた異常に気が付くと同時に、大声で叫び出しそうになった。


 しかし、喉から声が出ることは無く、かわりに、沸騰しそうなほどの熱を帯びた鮮血が辺りに飛び散る。


 喉を焼く痛みと、再び腹の奥から込み上げて来る熱に耐え切れず、俺は何度もえずく。


 堪らずに右膝と左手を地面に付いた俺は、立て続けに信じられない物を目にした。


 左手を付いた場所を起点に、バリバリと音を立てるひび割れが、四方八方に伸びだしたのだ。


 それらの内の幾つかが、眼前にいる敵達の方へと伸びて行く。


 流石にバカではないのだろう、敵達は即座に俺から距離を取ると、尚も様子を伺ってきている。


 同じく敵の様子を伺っていた俺は、ふと、仮面の女に視線をやった。


 このオンナが、マーニャをコロシタ!


 胸の内から沸々と湧き上がってくる感情が、一瞬にして俺の頭へと到達し、気が付けば、身体が勝手に動き出す。


 地面に付いていた筈の左手を大きく振りかぶりながら、勢い良く蹴り出した俺は、即座に仮面の女の眼前に詰めると、躊躇いなく左腕を振るう。


 と、振るわれた俺の左腕は、スキンヘッドの男に遮られてしまった。


 無骨なガントレットで俺の一撃を受けたスキンヘッドの男は、苦悶の表情を浮かべて、弾き飛ばされてゆく。


 何やら叫んでいるように見えたスキンヘッドの男だったが、俺はその言葉を聞き取ることが出来ない。


 ドウデモイイ。


 それよりもイマは、メのマエのこのオンナをシマツする。


 弾き飛ばされたスキンヘッドの男を見て、一瞬ひるんでいた仮面の女は、躊躇することなく踵を返した。


 そんな女の頭を掴もうと右腕を伸ばした俺は、背後から迫る違和感に気づく。


「ジャマ……っ!」


 ジャマスルナ! と背後を振り返りながら叫ぼうとした俺は、再び吐血してしまう。


 しかし、振り返りざまに繰り出した右腕は、しっかりと敵を捉えたようで、鈍い衝撃波と共に一人の男が吹き飛ぶ。


 その場に散らばる肉塊を一瞥した俺は、思い出したように仮面の女を振り返ったが、既に姿を眩ませていた。


 よく見れば、その他の敵も姿を眩ませてしまっている。


 ドコイッタ?


 俺の中に湧き上がった疑問は、瞬く間に消えてしまう。


 その理由は明確だ。


 先程まで仮面の女が居た付近に、取り残されている一つの像。


 完全に動かなくなってしまったマーニャの姿を目にしてしまったからだ。


 僅かながら、俺がめり込んでいた壁に向かって左手を伸ばしかけている少女は、何かを叫ぼうとしていたのか、口を大きく開けている。


「……マーニャ」


 ガラガラに枯れてしまった喉で呟いた俺が、ゆっくりと彼女の元へと歩み寄ろうとした時。


 それは突然現れた。


「ふぃ~、これはこれはヒッ、面白い余興が見れたぜぇ」


 白髪交じりの茶色い短髪と無精髭を蓄えている、どこか気の良い雰囲気を持った面持ちの男。


 酒瓶を片手に現れたそのみすぼらしい男は、フラフラとマーニャの元に歩み寄りながらも、酒を煽っている。


 そうして、マーニャの目の前で立ち止まった男は、彼女の頭の上に左肘を乗せると、少し屈みながら彼女の顔をまじまじと眺め始めた。


 途端、胃の奥の方から、再び怒りが込み上げてくる。


「オマエッ!」


「まぁまぁ、盗って行ったりしねぇからよぉ、もうすこ~し待てや、少年」


 すぐにでもこの男をとっ捕まえて、捻り潰してやりたい。


 そんな願望に駆られた俺は、躊躇うことなく男に突進しようとするが、目の前を舞う何かに意識を取られ、足を止めてしまった。


 ヒラヒラと舞う、鮮やかな蝶。


 その蝶は、俺の目の前を通り過ぎたかと思うと、ゆっくりと酔っ払いの方へと飛んでゆく。


「お! ラック~! ヒッ戻ったか! 首尾は上場ってか? 流石ラックだぜぇ!」


 右肩に止まった蝶に、一人で語り掛けた酔っ払いは、満足したように大きく頷くと俺へと視線を向けてくる。


「よう、少年。ちょ~っとだけ、お前さんを利用させてもらったぜぇ? とはいえ、お前さんも助かったんだから、おじさんに感謝しろよぉ?」


 飄々と言ってのけるその酔っぱらいは、全く躊躇することなく俺の元へと歩み寄って来ると、勢い任せに俺の肩に手を乗せてきた。


「っ!?」


 反射的に男の腕を払いのけた俺は、吹き飛んでゆく酔っ払いの右腕を視線で追う。


 右肩から下が、確実に吹き飛んで行った。


 少し遠い場所へボトリと落下する酔っ払いの右腕。


 それなのに、なんでこの男は未だに目の前に立っているのだろう?


「おいおい、いきなり何するんだよ」


 もげてしまった右肩からドバドバと出血している酔っ払いは、しかし、相変わらず飄々とした顔で笑い続けている。


 その姿に狂気を感じた俺は、次の瞬間、元通りになった酔っ払いの右腕を目にして、絶句してしまう。


「よしよし、そろそろ正気を取り戻し始めたみたいだな? そんな少年に良い事を教えてやろう! これはおじさんからのサービスだぞぉ?」


「は? え?」


 意味が分からない事が続きすぎて、短い声を発してしまった俺を、更に混乱させるように、酔っ払いは笑った。


「あの娘はまだ死んじゃいねぇ。そして、おじさんは彼女を直す方法を知ってる。どうだい? 少年にとってはいい話だろう? だから、すこ~しおじさんに着いて来てくれよ。大丈夫、おじさん、怪しいおじさんじゃないから」


 怪しさ満点の笑顔でそう言ってのける酔っ払いを、ジットリとした目で見ていた俺は、ふと気が付いた。


 全身を襲っていた痛みや熱が、完全に収まっている。


 光り輝いていた両手の紋章も、すっかり暗くなっていた。


 何よりも、先ほどまでの異常な精神状態が嘘だったかのように、元に戻っている。


 気が付いて初めて、俺はとある言葉を思い出していた。


 5年前、トルテがバーバリウスに対して告げていた言葉。


「俺……化け物になってた?」


「ん? あぁ、まぁ、そうだな。大丈夫だって、人間誰でも、人生に一度くらいは化け物になるときくらいあるさ」


「いや、無いだろ」


 軽口を言ってのける酔っ払いが、再び酒を煽り始めたのを見ながら、俺は冷たく呟く。


 崩れてしまった広場の壁も、飛び散っている血痕や肉塊も、怯えたまま固まってしまっている奴隷たちも。


 そして、動かなくなってしまったマーニャも。


 何もかもが、先ほどまでの物事が現実だったことを告げている。


「で? どうする? おじさんに着いて来るか?」


 再び問いかけて来た酔っ払いの言葉に、俺はゆっくりと頷くほか無いのだった。

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