第19話 黄色い毛並み
立ち上がった途端、俺は軽い眩暈に襲われた。先程、傷の男に投げられた衝撃で、頭を打ってしまったのだろう。
危うく前のめりに倒れ込みそうになりながらも、何とか踏ん張った俺は、深く息を吐きながら状況を観察する。
バーバリウスと傷の男は、相変わらず取っ組み合いを続けている。
彼らを包む熱気と冷気は、とめどなく蒸気を作り続け、次第に屋敷の中の視界を曇らせているようだ。
そんな二人の様子を階段の踊り場で食い入るように見ているのが、トルテだ。
未だに母さんを拘束しているトルテは、炎に嘗め回された壁を背にしながらも、平然としている。
もしかしたら、何らかの魔法を使うことで、自身に炎がまとわりつかないようにしているのかもしれない。
それを示すように、トルテの右肩には、彼のバディである妖精が腰を下ろして、何やら腕を動かしている。
そんな妖精もまた、拮抗しているバーバリウス達の戦いをまじまじと見つめているようだ。
それはつまり、誰も俺に気を止めていないと言うことだ。
「あちーな……」
気が付けば、玄関まで広がっていた炎が、俺の背中をジリジリと焼き始めている。
頭からとめどなく溢れてくる汗を、右手の甲で拭った俺は、意を決し、身を低く屈めた。
そして、両足に全力を込め、一息に床を蹴る。
トルテに向かって俺が勢いよく飛び出したのと同時に、屋敷中に鈍い音が鳴り響いた。
耳をつんざくようなその音を置き去りにするように、俺の視界は一瞬にしてトルテの眼前に到達する。
しかし、事はそう簡単には進まない。
俺の突進に気が付いたであろうトルテが、すかさず母さんを盾のように突き出してきたのだ。
それだけではなく、影のような何かが、俺の頭上を勢いよく飛んでゆくのが見えた。
「っ……!?」
バーバリウスがトルテの加勢に来たのだろうか。
どちらにしろ、母さんを巻き添えにしてしまえば、元も子もない。
俺は咄嗟に身をよじって軌道を逸らそうとするが、間に合うわけもない。
心の中を強烈な諦念が満たしていった次の瞬間、トルテに突き出されていた筈の母さんが、横に大きく飛ばされていった。
あまりに突然の事で、俺もトルテも対処することが出来ない。
そのまま、勢いに乗った俺の拳は、狙い定めていた通りに、トルテの顔面へと叩き込まれる。
右手の拳に強烈な痛みを覚えながらも、俺はトルテと一緒に、壁へと突っ込んだ。
豪快な音を立てながら、崩れゆく壁。
ガラガラと降って来る瓦礫で頭を打った俺は、一瞬意識が飛びそうになりながらも、何とか気を保つことが出来た。
衝撃で立ち込めた砂ぼこりが、俺の喉を刺激し、否応なく咳き込んでしまう。
それでも何とか視界を確保できた俺は、四肢や腹の上に乗っている瓦礫を、手当たり次第にどかしてゆく。
そうやって、ようやく立ち上がることが出来た俺は、少し離れた場所に横たわっているトルテを見つけ、呟いた。
「……ざまぁみろ」
思わず漏れ出た言葉をすぐに飲み込みながら、今しがた自分で開けた大穴を通り、エントランスに戻る。
すぐに母さんを連れて逃げ出そう。
頭の中を占めるのはそんな考えと、母さんの無事を願う思いだけ。
一瞬のことで何が起きたか分からなかったが、母さんは確かに、踊り場から階段の下へと吹き飛ばされてしまった。
普通に考えれば、大けがをしていてもおかしくない。その上、周囲は火の海なのだ。
悠長なことをしている余裕はどこにもなかった。
そのはずなのだが、壁の穴を出た俺は、あまりに素っ頓狂な光景を目にし、呆然と立ち尽くしてしまう。
「事情は分かんないけどぉ、アンタがその子供を助けようとしてたから、咄嗟に助けちゃったわぁ。あ~あぁ、いやんなっちゃう。で? 私が急いで仕事を終わらせて帰って来たっていうのに、アンタはいつまでそんなことしてる気?」
黄色くてモフモフとした何かが、母さんを乗せた状態で、宙に浮いているのだ。
そんな黄色いモフモフには、手足のような物は見当たらず、あるのは2つのとんがった耳と、大きな目、そして、細長い尻尾だけだ。
「うるさい、お前は少し黙ってろ」
「はぁ!? 誰に向かってそんな口を利いてんの!? このシェミー様をないがしろにするつもり!? いくらアンタがアタシのバディだからって、そんなことは許されないのよ!? 分かってんの?」
どうやら、この黄色いモフモフは、傷の男のバディらしい。
いつの間にか、互いに得物を取って睨み合っているバーバリウスと傷の男は、時折激しく剣で撃ち合い続けている。
見るからに取り込み中の傷の男に対して、やたらと甲高い声で喚き散らすシェミーは、思い出したように、俺の方を振り向いた。
黄色い毛並みの中にある大きな黒い瞳が二つ、俺をまじまじと見つめてくる。
「何見てんのよ!」
「え、いや……じゃねぇ! 母さんを降ろせよ!」
動揺のあまり、一瞬言葉を詰まらせてしまった俺だったが、シェミーの背中に乗っている母さんを見て、思い出したように叫ぶ。
「ふーん……アンタ、アタシにそんな口を利いても、良いの?」
「は?」
そう告げたシェミーは、サッと一振り、尻尾を動かして見せた。
途端、一陣の風が屋敷中を駆け巡って行く。
その風が何を意味しているのか、俺が気付いたのは数秒後の事である。
屋敷全体を覆いつくすように広がっていた炎が全て、跡形もなく消えてしまったのだ。
「バカ野郎! なぜ消した!?」
バーバリウスの剣戟を見事に裁きながら、傷の男が叫ぶ。
そんな叫び声に、シェミーは憤りを綯い交ぜにしながら叫び返し始めた。
「誰が野郎よ!? あたしはれっきとしたレディーなのよ! それに、アンタは何でもかんでも燃やしすぎなのよ! ほら、いい加減こんな陰気臭い場所出るわよ! もう、いやんなっちゃう!」
意味が分からない。
無性に叫び出したくなった俺だったが、そんなことを許してくれるシェミーではなかった。
「ほら、アンタも行くわよ!」
急に膨張を始めたシェミーに、母さんが飲み込まれてゆく。
その姿を見て、思わず母さんを助け出そうと一歩を踏み出した俺は、気が付けば、シェミーの毛の中に包みこまれていったのだった。
どこか遠くの方から、バーバリウスの叫び声が聞こえた気がするが、気のせいだろうか。
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