第9話 諦念と、もう一つ
男に連れられた俺は、どこかの部屋へと放り込まれた。
未だ痛みの消えない左足を案じながら、部屋の様子を伺った俺は、思わず声を上げてしまう。
「母さん!」
叫ぶと同時に、母さんの隣に立っている男に気が付いた俺は、拳を握り締めながら立ち止まった。
背中で手を縛られている様子の母さんの頭を掴み、まるで何かを恐れているような視線を俺に投げかけてくる。
「トルテ……」
何かに怯えているトルテを無視した俺は、改めて母さんの様子を観察した。
顔や腕に出来ている青痣は、あの時の暴行によるものだろう。
あの後も暴行を続けられたのだろうか、ずいぶんと憔悴しきっている様子の母さんは、項垂れたまま下を見つめている。
よく見れば、母さんの背中にも、俺と同じように小さな箱が取りつけられている。
そこまで考えた俺は、一つの事に気が付き、口を堅く結んでいるトルテに問いかけた。
「シエルとテツはどこに居る?」
しかし、俺の問いかけに応えたのは、トルテでは無かった。
「背中に居るではないか」
ドスの利いた、低い声。
トルテの妙に甲高い声とは、似ても似つかない声が、部屋の一番奥にある椅子の方から響いてくる。
やたらと大きな椅子が、窓の方を向いて置かれているのを、視界の端で確認していた俺は、ゆっくりとそちらに向き直った。
「まぁ、まだ幼いのならば、もの知らぬのも無理はなかろう。おい。この小僧が、例の?」
「は、はい! この小僧です! 間違いありません!」
「ふん」
小さく鼻を鳴らしたその男は、ゆっくりと立ち上がると、俺の方へと向き直った。
窓から差し込む光を全て遮ってしまうほどの巨体に、オールバックに整えられた黒髪。
指や首や耳には、ありとあらゆる装飾品が身に付けられており、男の風貌を飾り立てていた。
見るからに、危ない男。
直感的にそう感じた俺は、本能的に、男が話し始めるのを待つことしか出来ない。
それを見て取ったかのように、男は俺の眼前へと歩み寄ると、まるで獲物を観察するように俺の全身を見やる。
「本当にこの小僧なのか? あのクソ爺の部屋では何も無かったようだが?」
「いえ、間違いありません! 私はこの目で、その小僧が醜い化け物に変わるのを見たのです! あのウィルキンス兄弟を、まるで赤子のように投げ飛ばしたのです!」
「ふん……まぁ良い。だが、もし見込み違いだった場合、分かっているな?」
「はい……」
目の前で繰り広げられている会話を聞いていた俺は、必死に頭を回転させていた。
『は? 俺が化け物に変わった? どういう事だ? そんなこと、どうやったら……』
考えるだけで、言葉を発することが出来ずにいた俺は、不意に、目の前の大男に左腕を掴み上げられる。
「痛っ……!」
無理な体勢で引っ張り上げられた上に、足が付かないため、左肩に全体重がかかる。
耐えられない傷みに顔を歪める俺の顔を覗き込んだ大男は、問答無用と言わんばかりに告げた。
「これが例の紋章か……おい、小僧、今すぐにこの紋章を光らせろ。さもないと、お前の母親がどうなると思う?」
「そ、そんな事……!」
出来るわけが無い、と口をついて言いそうになった瞬間、言葉とは裏腹に、左手の紋章が光を帯びる。
「バーバリウス様! 危険です! 離れてください!」
「ふん……」
俺の左手が光るのを見て危険を感じたのか、それとも、トルテの言葉に従ったのか、バーバリウスと呼ばれた大男は俺を放り投げた。
そして、椅子の元に戻ると、今度はこちら向きに腰を下ろし、深いため息を吐く。
「小僧。お前は今日から俺の奴隷だ。存分に働け。稼ぎが少なければ、どうなるか分かっているな?」
一方的に告げたバーバリウスは、念を押すように、母さんの方へと目配せをした。
それを合図ととらえたかのように、トルテが母さんの頭を掴み、床へと叩き付ける。
「母さん!」
「くっ……ウィー……ニッシュ……逃げなさい!」
「このクソババア! 余計な口を利くんじゃねぇよ!」
苦痛に悶えながらも、切に訴えかけてくる母さん。
そんな母さんの腹を何度も蹴り飛ばすトルテ。
その光景を見た瞬間、俺の中で何かがトんだ。
固く握りしめた拳を振り上げ、トルテに向かって飛び掛かる。
突然動き出した俺に怯んだ様子のトルテを視界で捉えた俺が、そのまま拳を叩き付けようとした瞬間。
俺は背中から地面に叩き付けられていた。
強い衝撃とともに、肺の中の空気を全て吐き出してしまう。
急いで空気を吸い込もうとする俺だったが、それを見越したように、何者かが俺の首元を強く踏みつけた。
退屈そうな表情で俺を見下ろすバーバリウスは、更に踏みつける力を強めながら、俺に問いかける。
「おい、人の話を無視するな。返事はどうした、返事は! 殺されてぇのか!?」
問いかけられる言葉を聞き取ることが出来ても、呼吸が出来ない事には返事をすることもできない。
俺は必死にもがき、何とか呼吸をしようと試みるも、体重の掛かったバーバリウスの脚をどけることなど、できるわけもない。
このままでは、意識が飛んでしまう。
口をパクパクと動かすことしか出来ない俺が、飛びかける意識の中でそう思った時、母さんがバーバリウスの脚にしがみついた。
「止めてください! 私は何でもしますので! 息子には! 息子には何もしないでください!」
俺を踏みつける脚を必死にどかそうとしている様子の母さんは、次の瞬間、蹴り上げられる。
バーバリウスが脚を動かしたおかげで、何とか呼吸を取り戻した俺だったが、それどころではない。
視界の端で横たわっている母さんに、バーバリウスが詰め寄っているのだ。
全て、俺のせいだ。
俺が、トルテに飛び掛かっていなければ、こんなことにはならなかった。
だから、母さんを危険な目に合わせるわけにはいかない。
一瞬にして決断した俺は、視界の端で左手の紋章が光り輝くのを目にしながら、声を張り上げる。
深く、深く土下座をしながら、泣き叫ぶ。
「ごめんなさい! 俺が、悪かったです! 働きます! 俺、何でもやりますから! 母さんに酷いことしないでください!」
一瞬の沈黙が、部屋の中に充満する。
全く反応のないバーバリウスの様子に焦りを抱きながらも、額を床にこすりつけたまま、俺は懇願を続ける。
そうして、数秒が経った頃だろうか。
俺の後頭部を踏みつけにしたバーバリウスが、ゆっくりとした口調で告げた。
「それでいい。せいぜい、身体を壊さんようにな。大事な仕事道具だからなぁ」
一人で高笑いを始めるバーバリウス。
そんな男に踏みつけにされながら、俺は諦念の他に、もう一つの感情を抱いた。
忘れることの無い、屈辱を。
決して悟られる訳にはいかない、感情を。
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