第8話 普通の男
俺は……
学生の頃に目立っていたわけでもなく、就職してバリバリに仕事に打ち込むわけでもない。
社会と言う名の荒波と、無難という風潮に押し出されるかのように、田舎の中途半端な工場に就職し、エンジニアとして細々と暮らしていたのだ。
そんな俺にも、大切なものが一つだけあった。
同期として入社し、紆余曲折を経て恋人となった彼女の存在だ。
同僚や先輩に茶化されながらも、程々に楽しい毎日を送り、そろそろ彼女との結婚も考えていたのを覚えている。
心当たりなど、何もない。
むしろ、どの辺りに問題があったのか、閻魔大王に教えてもらいたいくらいだ。
胸中で蠢く、それらの疑問に圧迫された俺は、ようやく意識を取り戻すと、ゆっくりと目を開け、呟いた。
「……痛てぇな」
初めに感じた痛みは背中。
その痛みがジワジワと広がり始めたかと思うと、腕や脚や腹、そして頭へと駆け抜けて行く。
右半身を下に横たわっていた体を、ゆっくりと起こした俺は、初めに抱いた痛みの正体を目の当たりにした。
「何だ、これ?」
金属で出来ている箱のような物が、背中に取りつけられているのだ。
胸部と肩をぐるりと囲む金具で、ガッシリと固定されているその箱は、素手で外せるものでは無い。
ひとしきり箱を調べた俺は、次に気になっていた、周囲に目を向ける。
完全に暗闇に閉ざされてしまっている空間を見渡した俺は、未だに走り回っている全身の痛みを逃がすように、ため息を吐いた。
当然、それで痛みが和らぐわけもなく、代わりに、俺の肺が悲鳴を上げる。
「カハッ、カハッ……」
漏れ出る咳の中に、甲高い音が響く。
耳障りなその音は、真っ暗闇の中に響き渡ると、ゆっくりと薄れていった。
「ここは……? どこだ?」
「……おい、クソガキ、さっきからうるせぇぞ」
乾いた空気の中、周囲を視認できるわけでもない俺が、無意味に呟いた瞬間、背後から掠れた声が響いてきた。
咄嗟に背後を振り返った俺だったが、やはり何も見えない。
「誰だ?」
「……うるせぇって言ってんだろ? 人の話が分からねぇのか?」
相変わらず覇気のない掠れた声が、闇の中から聞こえてくる。
『これ以上刺激するのは良くないよな』
そう考えた俺は、今一度状況を整理することにした。
『税務局のトルテとその取り巻き……母さんもシエルもテツも、捕まったってことだよな。皆、無事か? これから、どうなるんだ? くそっ……どうしたら良い?』
状況を整理しようにも、情報が無い。
逸る気持ちに圧されるように、何か行動に移そうと考えてみるものの、何もいい案は浮かばない。
これではどうしようもないなと思い、もう一度ため息を吐こうとした俺は、突然射し込んできた光に、目を細めた。
一瞬、何者かが灯りを持ってやって来たのかと考えた俺は、すぐにそれが間違いであることに気が付く。
何しろ、光の源は俺の左手だったのだから。
「そういやそうだった……これはつまり、俺は諦めたってことだよな」
意味を成さない独り言を呟きながら、ゆっくりと目を開いた俺は、改めて周囲の様子を伺う。
「牢屋か……。で、さっきの声は」
ぼんやりと浮かび上がった鉄格子が、その奥にもずらりと並んでいる。
それだけ見れば誰の目にも明らかであろう。
そして、思い出したように背後を振り返った俺は、地べたに横たわる爺さんを見つけた。
どれだけの間、食事を摂っていないのだろう。
そんな心配を抱かせる程に、爺さんはやせ細っており、おまけに目つきも鋭かった。
眩しくて目を細めているだけかもしれないが、今はどちらでも良いだろう。
「……クソガキ、お前、なんで魔法が使える?」
「え? いや、これは魔法じゃなくて……魔法じゃないなら、何なんだろうな、俺もよく分かんねぇや」
問いかけに対して、反射的に答えてしまった俺は、一つ息を呑みながら、爺さんに歩み寄る。
よく見れば、爺さんも俺と同じ箱を背中に取りつけられているようだ。
左半身を下に横たわっていた爺さんは、深く息を吐き出すと、渾身の力を込めるようにして体を起こした。
咄嗟に爺さんの肩を支えた俺は、間髪入れずに掴みかかって来た爺さんに驚き、思わず声を漏らしてしまう。
「うわっ! 何するんだよ!」
左腕にしがみつき、爪を立てて来る爺さんを力ずくで引きはがした俺は、咳き込み、しな垂れている爺さんを遠巻きに睨む。
対する爺さんは、壁に右肩を預けるようにして立ち上がると、俺をジッと見下ろしてきた。
「お前さん、ナニモンだ?」
ボロボロになった歯を覗かせながら、問い掛けて来る爺さんは、プルプルと震える左腕で俺の左手を指差す。
「それは、呪われた紋章か? そうなんじゃろ? 何をした? もしや、ついに儂を喰らいに来おったか!?」
「じ、爺さん、何言ってんだ?」
次第に声量を張り上げていく爺さんの様子に、単純な恐怖を抱いた俺は、ジリジリと後ずさりをした。
鉄格子と壁で出来た隅っこまで追い詰められた俺は、今にもチビッてしまいそうになるのを堪えながら、爺さんを睨む。
「喰いに来おった! 儂を喰いに! 許さん! 許さんぞ! 儂はそんな事許さんぞ! 喰ってやる! 儂がお前を喰らってやる!」
先程までの、覇気のない爺さんの面影はどこに言ったのか。
唾液をボタボタと滴らせながら、激しく歯ぎしりをする爺さんは、まるで獲物を見るかのように、俺を凝視している。
そんな爺さんが、音もなく壁から右肩を離した瞬間、俺は戦慄した。
間髪入れずに飛び掛かって来る爺さんの顎を、横跳びで何とか躱した俺は、しかし、左足を掴まれてしまう。
「離せっ……!?」
転がって逃げようとしていた俺は、つんのめりながら、足を掴んでいる爺さんを睨みつける。
途端、左足のふくらはぎに激痛が走った。
「があああああああああぁあぁぁあぁぁっっ!!」
俺の左足にしゃぶりついている爺さんの頭を、何度も右足で蹴り飛ばしながら、俺は絶叫する。
完全にパニックに陥っていた俺は、だからこそ、気が付かなかった。
俺の叫びを聞いた大勢の人間が、すぐに爺さんを俺の脚から引きはがしてくれたことを。
そして、爺さんの顔が、見る影もないほどに粉砕されていたことを。
そんなことは露知らず、込み上げて来る涙と共に嗚咽を漏らしていた俺は、一人の男に抱きかかえられ、牢屋を後にしたのだった。
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