第3話 知らない世界

 赤ん坊としての生活を送る中で、俺はただひたすらに思考を回転させていた。


 左手の甲にあると言う紋章。


 来る日も来る日も、俺の周りで騒ぎ立てる少女。


 しっかり者に思えて、どこか抜けたところのある母さん。


 そして、生まれ変わる前に地獄で見た光景と、閻魔大王の言った言葉。


 今俺がいるこの世界が、俺にとってのジゴク。


 それらのことを考えるのに、時間がいくらあっても足りなかった。


 少なくとも今のところは、俺にとってここが地獄だとは思えていない。


 ひもじい思いをするわけでもなく、虐待を受けたりするわけでもない。


 一方的に話しかけて来る少女も居るおかげで、寂しい思いをするわけでもない。


 そんな中で俺は、心の片隅にちっぽけな違和感が芽生え始めたことに気づく。


 今になっても尚、俺は少女の名前を知らないのだ。


 少女はくだらない雑談を、延々と話し続けるくせに、自分のことを一切喋らない。


 その上、母さんまでもが、少女の事を詳しく喋ることがない。


 名前を呼ぶことすらないのだ。


『あの娘は誰なんだ? てっきり近所に住む女の子だと思ってたけど……』


 日なたの薄っすらとした温もりの中で、何度も考えた俺だったが、結論が出ることは無かった。


 だからこそ、その日が訪れて、俺は度肝を抜かれることになる。


 その日、明るさしか感じることの無かった俺は、うすぼんやりとした視界を手に入れたのだ。


 ようやく手に入れた視覚をフルに活用して、周囲を見渡した俺が、愕然としたことは言うまでも無い。


 温もりを感じていた日なたは、くすんだ窓から差し込む日光だった。


 爽やかに感じていた空気は、薄暗い部屋の中で淀み切っていた。


 柔らかく感じていた寝床は、傷みとほつれと汚れにまみれたシーツだった。


 優しく感じていた母さんは、疲れとやつれの入り混じった女性だった。


 そして、いつも騒がしく話しかけて来ていた少女は、人ではなかった。


 子猫ぐらいの大きさの生き物が、背中に生えた小さな羽で、フワフワと宙を漂っている。


 リスのような大きな尻尾で、身体のバランスを取っている彼女は、ふと、俺と視線を交わすと、ニンマリと笑みを浮かべる。


 黒くてテカテカした鼻をピクリと動かした彼女は、笑みを浮かべたまま、叫び出したのだった。


「セレナ! ねぇ! セレナってばぁ! ウィーニッシュが私を見て驚いてるよ!」


 まるで、猫とリスが混ざったような“少女”の姿を呆然と見つめていた俺は、覗き込んでくるセレナの顔を見て、つばを飲み込んだ。


 セレナの左肩に、“少女”よりも一回り大きな生物が、腰かけているのだ。


 その生物は少女とは対照的で、無口なようだ。


 狐と人が混ざったような風貌の彼は、鋭い視線で俺を見つめている。


 じーっと見つめられながら、俺は少しずつ焦りを実感し始めていた。


『何なんだ? どうなってんだ? ここはどこなんだ?』


 紋章と謎の生物。


 ウィーニッシュにとって、いや、早坂明はやさかあきらにとって、理解の追い付かない状況が舞い込んで来ている。


 部屋の様子が予想していたものと大きく異なっていたことなど、忘れてしまうほどの衝撃を、俺は受けていた。


 何かが違う。


 根本的に、俺の知っている世界じゃない。


 よく考えれば、それは当たり前のことだったのかもしれない。


『ならば、より過酷な世界にしてやろう』


 あの時、閻魔が告げた言葉。


 軽く流してしまっていた言葉を、なぜか思い出した俺は、嬉しそうにのぞき込んでくるセレナたちを見ながら、一つの結論に辿り着いた。


『異世界……ってことだよな、ウィーニッシュって名前だから、てっきり外国だと思ってたけど。……ってことは、なんで外国語を理解できてるのかとか、そう言う話じゃないぞ? 何で異世界の言葉を理解できてんだ?』


 新たに湧き上がった疑問を、頭の中で反芻した俺は、ふと、自身の左手に目を落とした。


 小さくて柔らかな手の甲に、薄っすらと紋章が浮かび上がっている。


 何やら見覚えのあるその形は、まるで、鬼の顔のように見える。


「ウィーニッシュ、ほら! こっち見て! これが見える?」


 少女の声に呼び掛けられた俺は、無意識のうちに少女へと目を向けた。


 くるくると宙返りを繰り返しながら漂っている少女。


 そんな彼女の様子を見ていると、俺はなんだかどうでもよくなってしまう。


 ああだこうだと考えたところで、今の俺は目の前の二人に尋ねることすら出来ないのだ。


 ましてや、体を起こして歩き出すことすら出来ない。


 そんな状態で考えても仕方がないではないか。


 そう考えた次の瞬間、俺は視界の端で眩く輝く何かを捉えた。


 当然ながら、母さんや少女、そして母さんの左肩に腰かけている狐面の男も、俺の左手を凝視している。


「また……どうなってるの?」


 ぼそりと呟く母さんの言葉を聞きながら、俺はひたすらに頭を働かせ始めていた。


 つい今しがた、考えることを止めたはずではあるのだが、こうして光り輝く紋章を目の当たりにして、放棄する気になれない。


 そうしてまたしばらく、時間だけが無為に過ぎてゆくのだった。

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