第2話 話し相手

 俺が改めて生を受けてから、何日が経っただろうか。


 目を開けることが出来ない俺が、唯一情報を収集できたのは、耳から入って来る音だけだった。


 それだけでも、今の俺にとっては貴重な情報だ。


 そして、幸運なことに、俺には既に話し相手が存在している。


「あ! 見て見て! 天井をデッカイ蜘蛛が這いまわってるよ! 捕まえれるかな! ねぇ、どう思う? 私ならきっと出来るよね! ちょっと待っててね! すぐに捕まえて、ウィーニッシュの顔に乗せてあげるから!」


『絶対にやめてくれっ!!』


 全力の心の声を張り上げた俺は、少女が離れて行く気配を感じながら、一人怯えていた。


 話し相手とは言え、俺はまだ会話が出来るわけでは無いので、その少女が一方的に話しかけて来るだけである。


 それにしても、その少女は自由奔放と言うか、おしとやかさの欠片も無いような女の子だった。


「残念! 逃げられちゃったよ! 少し待ってたら、また出て来るかな?」


 本気で残念そうに呟く少女の声を聞き、俺は安堵する。


 と、緊張が解けたせいだろうか、俺は股の辺りが急速に生暖かくなってゆくのを感じた。


 記憶を保ったまま生まれ変わると言うのは、思った以上に精神に来ることを、俺は最近知った。


 何しろ、自分の意志とは関係なく、排せつをしてしまうのだ。


『……恥ずかしすぎて死ぬ』


 自然と湧き上がってくる声を抑えきれず、俺は泣きわめいた。


 そんな声を、まるで他人事のように聞きながら、俺は羞恥に悶える。


 もう少しすれば、慣れてくるものなのだろうか。


「ウィーニッシュがお漏らししたぁ! セレナ! お漏らしだよぉ」


「はいはい! 分かってるわ。ほーらほら、ウィーニッシュ。すぐに洗いに行きましょうね」


 俺の羞恥心が追い打ちを掛けられたことを知ってか知らずか、セレナと呼ばれた女性が俺を抱えて移動を始めた。


 どうやら彼女が俺の母親であるらしい。


 彼女の柔らかくて甘い温もりに包まれたことで、俺の羞恥心は癒されてゆく。


「ウィーニッシュはまだまだおこちゃまだなぁ~。ねぇセレナ、ウィーニッシュはいつになったら私と遊んでくれるのかな?」


「もう少し先よ。大丈夫、気が付けばすーぐに大きくなってるわ。何しろ、男の子だもん」


 俺の中で沸々と煮立っていた少女への怒りは、セレナの言葉によって吹き飛ばされていった。


 何故だろう、こうして抱き上げられている間は、何をされても怒りを感じないような気がする。


 これが、愛情というモノなのかもしれない。


 そんなことを考えていた俺の下半身が、生暖かいお湯の中へと沈んでいった。


 途端、俺は心の中で絶叫する。


『ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!』


 そんな俺の絶叫が聞こえているのか、俺を両手で支えていたセレナが、一拍の後に声を張り上げた。


「あ!? ウィーニッシュ! ちょっと、もう~!」


 全身を、羞恥心が蝕んでゆく。


 セレナはと言うと、一旦俺をお湯から引き上げると、近場に寝かせながら、なにやら作業をしているようだ。


 恐らく、俺がしでかした粗相の後始末をしているのだろう。


 セレナ、本当にごめんよ。


 けど、我慢できなかったんだよ。


 赤ちゃんだから許してくれ。


 心の中で何度も謝る俺は、傍で笑い転げている少女の言葉を耳にし、口を閉ざすしかないのだった。


「あはははははははっ! ウィーニッシュったら、お湯の中でお漏らししちゃったの!? セレナも大変だね!」


「もう! 笑ってないで、少しは手伝ってよ!」


 楽しそうな少女に対して、苛立ちを滲ませるセレナの声を聞き、俺は記憶の中で閻魔が告げていた言葉を思い出した。


 ジゴク。


 確かに、この状況は俺にとって、これ以上ないほどに地獄だと言えるのではないだろうか。


 いっそのこと、このまま死んでしまいたい。


 そんなことを俺が考えた時、セレナと少女が、急に黙り込んだ。


 突然の沈黙に驚いた俺は、注意深く周囲の音を聞き取ろうとする。


 しかし、次に俺が得た情報は、音ではなく触覚だった。


 セレナと思われる柔らかな手が、俺の左手をゆっくりと持ち上げたのだ。


 俺の手に何か付いているのだろうか、と不安を覚えた瞬間、セレナがポツリと呟く。


「これは、紋章? ……何がどうなってるの?」


『紋章? え? どういう事?』


 すぐにでも自身の左手を確認したい衝動に駆られるが、残念ながらそれは出来ない。


「今、その紋章が光ってたよね? セレナ、これってどういうこと? 私、そんなの見たことないんだけど」


「私にも分からないわ……」


 不安を滲ませたようなセレナの声を聞き、俺も不安を募らせる。


 手に紋章があると言うだけでもおかしな話なのだ、その上、その紋章が光を放つなど、明らかにおかしいではないか。


 結果から言えば、この時、得体の知れない嫌な予感を覚えた俺の勘は、あながち間違っていなかった。


 出来れば、もっと早くにその事実を知っていれば、俺はあれほどの苦痛を覚える必要は無かったのかもしれない。


 どちらにしろ、俺としてはそのおかしな紋章を受け入れて生きていくしかない。


 セレナも同じ結論に辿り着いたのか、ギュッと俺の左手を握ると、まるで祈りでも捧げるように、呟いたのだった。


「どうか、この子が無事に育ちますように……」

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