箱庭攻略⑧

背筋が凍る。

想起されるのは、エルザの死。


このはまずい。


「チェシャ猫……ッ!!!」


「無理だッ」


チェシャ猫は数人のウィング級に阻まれている。


吸血鬼の群れの奥からナイト級はゆっくりと歩みを進める。口元が僅かに緩んだのが見えた。勝ちを確信した顔だと直感した。


辺り一帯の血の海。

ナイト級はこれを操ることもできる。


これだけの血を刃や棘に変えられてしまったら、一溜りもない。不可避の大虐殺だ。


奴はその一手を、この血の海の一部に触れるだけで成すことができる。


チェシャ猫も、ニーナも吸血鬼に行く手を阻まれている。俺の後ろに控えるクロエ達は、まだ奴の存在に気づいていない。


俺だけだ。

俺だけがどうにかできる状況にある。


あのナイト級に届く可能性がある。


走れ。

とにかく、走れ。


ナイト級はゆっくりと歩く。


行く手に立ちはだかるソルジャー級の一人を躱し、俺は飛び込むように、ナイト級に斬りかかった。


甲冑をしたナイト級は腰に差さっていた大剣で俺の刀を受け止める。


昨日とは違う。

すぐにはチェシャ猫の援護は望めない。


死ぬかもしれない。


何度も刀を振るう俺に対し、ナイト級は受ける一方だ。攻撃するつもりがないようにさえ見える。


度重なる攻撃にも関わらず、その刃は届かない。遠い。こんなにも間近なのに、あまりにも遠い。


“血装”がどうとか以前に、剣術だけでも圧倒的な実力差がある。弄ばれている。


「ユズハ!」


クロエの声がすぐ背後から聞こえた。


咄嗟に退いたタイミングで、俺に代わってクロエがナイト級に踊りかかった。


「地面に触れさせたら終わりだ……!」


「分かってる」


ナイト級と斬り結ぶクロエの額には血が滲んでいる。それだけじゃない。至る所が傷だらけだ。


満身創痍でない者など、もうここにはいない。それでも殺らなくてはいけない。殺らなければ、殺られる。


二人がかりで斬りかかる。

それでもなお、遠い。


ナイト級はたった一本の大剣で俺達の太刀筋を全て弾いている。それも憎たらしいほどに事もなげに、だ。


チェシャ猫の援護を待つか?


いや、無理だ。チェシャ猫も相当な数の吸血鬼に囲まれていた。期待は薄い。


そもそも一人の吸血鬼に二人分の人数を割けるほどの余裕なんて無いのだ。ここにクロエが助けに来た時点で均衡は崩れ始めている。


「ユズハ!」


「ーー!!」


ハッとしたときには遅かった。


防御の一点張りだったはずの奴の大剣が振り抜かれて、俺の右腕を切り裂いた。


零れ落ちる刀。


「下がって……!」


クロエが俺を押し退け、追撃として振り下ろされた大剣を真っ向から受け止めた。


ドクドクと血が流れ落ちる。

大きい血管が切れたようだ。


死ぬかもしれない。

今度こそ、本当に。


「マリッサ、マリッサ!!」


クロエがナイト級の剣筋を受けながら、マリッサを呼ぶ。


マリッサが即座に駆け寄ってきてくれた。“灯台”による治癒が始まると、みるみるうちに傷口が塞がっていく。


「急がない、と」


すぐに前線に戻らなくては……。


立ち上がった拍子に体勢が崩れる。立ちくらみだ。


「流した血までは戻らないわよ」


「わかってる」


この身体で、戦えるのか。

あまりにも血を流しすぎている。


それでもーー


「やれるだけのことは、やる」


マリッサも頷き、二人で同時に駆け出した。


それぞれの持ち場は、誰が決めたわけでも無く、大まかに決まっていた。俺はクロエの援護に、マリッサはソルジャー級が大挙する三時の方向に。


クロエは未だに耐え忍んでいた。


おそらく、奴がその気になれば、勝敗は既に決していたであろう。だが、そうしなかった。そうしなかったのには、きっと訳がある。


「クロエ!」


ナイト級に斬りかかる。

案の定、その太刀筋は大剣で弾かれる。


クロエが魔導書を顕現して、水竜を放つ。


「二人で、畳みかける」


ナイト級は血の盾を生成して、水竜を防ぐと、クロエに向かって斬り込んだ。


受け止められた剣の切先が歪む。


「クロエ……ッ!!!」


剣は重ね合わせたまま、刃先だけが伸びる。


吸血鬼の血は変幻自在。触れてさえいれば、あらゆる硬度、あらゆる形に変化する。


クロエはギリギリのところで身体を転がし、伸びてきた刃先を躱す。しかし、ナイト級の追撃は止まない。


「やらせるかよ!」


ナイト級が次の一撃に身を乗り出したところに、今度は俺が接近する。


俺の渾身の一撃は血の盾で防がれる。


「ーー!!」


直後、血の盾が変異する。


大きく口を開けるかのように、あるいは、薔薇の花が咲き誇るかのように、盾が俺の刀を


バキッという嫌な音がして、刀身がへし折れた。


「くそ……っ」


使い物にならなくなった刀をすぐに手放し、ナイト級から距離を取るが、血の盾はそのまま大きく拡散して、俺の体を飲み込もうと伸びる。


避ける、というよりも、逃げる。拡散し続ける血の海に飲み込まれないように、森を縫うように駆け抜ける。


同時に、ナイト級はクロエに対しても猛攻を仕掛けていた。右手に握った血の大剣を何度もクロエに振り下ろす。


防戦一方となりつつある。


端から力量差があり過ぎたと言えばそれまでだが、気力と勢いで乗り切っていた部分と、奴が弄んでいた余力分とで、ようやく釣り合いが取れていたに過ぎないのだ。


気力はまだ保てているが、体力と勢いが追いつかなくなっている。肝心の武器も失ってしまった。ナイト級も俺達の疲労具合を見て、あからさまに畳み掛けに来ている。


ラークからは孤立するなと言われていたが、今やクロエ以外はどこでどう戦っているかも分からない状況だ。


辛うじて、ニーナとチェシャ猫が十数メートル先で戦っているのが見えた。なおも、大量の吸血鬼に囲まれている。


一騎当千のラーク、それに、“灯台”を持つマリッサは姿が見えない。悪い想像がどうしても頭を過ぎってしまう。


着々と、そして、確実に、事態は悪化している。


ナイト級の対処は、間違いなくこの戦場における最重要局面だ。


俺達がこの吸血鬼をフリーにさせた瞬間、奴はこの血の海を針山へ変えてしまう。


いや、そうじゃない。

それは最低条件だ。


ナイト級を速やかに倒し、他の仲間達の援護に行かなくては、どちらにしたって、周りが保たない。


そもそも、ラークとマリッサは既に殺されている可能性だって考えなくてはいけない。


死ミットが必要だ。


もっと大量の死ミットを、色装に使う。武器を失った今、ナイト級を倒すには、この肉体に頼るしかない。


試したことはないが、感覚的にはできそうだ。それで能力自体が強化できるか分からないが、やってみる価値はある。


色装を使う際に普段開けている“蓋”を、全開にする。


息苦しい。呼吸が荒くなっていく。身体への負荷が次第に強まっているのが分かる。同時に、俺の肉体を覆う黒い靄の量も膨らんでいる。


黒い靄が渦巻き、脈打つ。

それは、靄というよりも、炎のようだ。


熱くはない、黒い炎。


世界が更に鈍化していく。

迫り来る血の波が、赤子のよちよち歩きにさえ見える。


息苦しさこそあるが、身体は重力から解放されたように軽くなった。


腕に刻まれた死ミットの数値は恐ろしい速度で擦り減っていく。


無数の吸血鬼を倒したことで余裕のあったはずの死ミットでも、この速度で消耗すれば五分と保たないかもしれない。


だが、戦える。

この状態なら届く。奴の喉元に。


奴はこれまでの俺の動きに慣れているはずだ。勝負は一瞬だ。


血の波がこちらに押し寄せる中で、俺にはナイト級までの進路ルートが見えていた。


地面を蹴る。

一気にその距離を詰める。


片手でクロエに猛攻を仕掛けるナイト級は、懐に入るその直前まで、俺の存在に気がついていなかった。


視線が交差する。


どうして、お前がここにいるのだーーそう言いたげな目をしていた。


黒炎を纏った拳をその顔面にぶち込む。


何かが折れるような音と感触がして、凄まじい勢いでナイト級の体が弾き飛ばされた。


「ユズハ……?」


クロエの戸惑う声さえも、この黒炎の中ではゆっくりに聴こえる。


俺は追撃のために、もう一度地面を蹴った。


「死、死死死」


ナイト級はまだ生きていた。


ゆっくりと起き上がると、歪んだ甲冑を脱ぎ捨て、恨めしそうな目でこちらを見た。


散らしていた血を収束させると、その血を使って全身を鎧で包んだ。


鎧は形状が安定していない。

脈打っているように見える。


ダメージによるものか。

否、あれは見覚えがある。


「クロエ、退け……ッ」


嫌な予感に従って、地面を蹴り返して後退すると、直後に真紅の鎧が膨れ上がった。針山のように無数の棘が伸び、その全てが俺に向けられている。


ターゲットを俺に絞ったようだ。


棘は細く、鋭い。


刺されれば致命的なダメージとなり得るが、横からの攻撃には脆い。


伸び切った棘を横から殴ると、案の定砕けた。次々に棘を砕き、少しずつ距離を詰めていく。


触れていない血液を操ることまでできない。砕かれた棘の先は、奴の操作適用外だ。


棘の破壊と共に、奴の鎧が剥がれていく。


ナイト級は棘の鎧を解除すると、残りの血でもう一度大剣を作った。流れるように、振り下ろされる大剣。


どれだけ色装で強化されていようと、あの剣をうけることはできない。


「【赫】!!!」


正直なところ、一か八か、ではあった。


刀身が破壊された“王牙二色”の能力がまだ機能しているかどうかは、俺自身にも分からなかった。


だが、結果として、刀身を砕かれた刀は俺の手元に引き寄せられる。


そして、四分の一ほどになった刃で、ナイト級の大剣を受け止めた。


「クロエ!」


背後には、クロエが迫っていた。


黒い鎧の隙間を縫って、彼女の剣がナイト級の腹部を突き刺した。


「死……を」


ナイト級は血走った目で俺を、次に、自身の腹部を貫く刃を見た。


血の大剣が溶ける。


ナイト級の血を浴びながら、俺は短くなった“王牙二色”をその首に突き刺した。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


鉛のような疲労感が全身を押し潰す。事切れたナイト級にそのまま寄りかかるように崩れ落ちる。


次だ。

これで終わりじゃない。


まだ、他の皆は戦っている。

こんなところで、這いつくばっている時間なんて、無いんだ。


それでも、俺の思いに反して、意識がぼんやりと遠のいていく。


「ダメ、だ」


ここで倒れてしまえばーー


プツリと、そこで意識が途切れた。





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