箱庭攻略⑦
想定外は何度も降り掛かる。
当たり前のことなんて、この世界には一つもないのだと、またしても思い知った。
ーー朝になっても、霧が晴れる事はなかった。
「マジ、かよ」
思わず、心の声が漏れる。
箱庭を覆う霧は月に二度程度だと聞いていた。こんな事態は誰も想定していなかったはずだ。
一同は森に立ち込める霧を前に呆然としていた。ただ一人を除いて。
「次に霧が出た日に攻めに転じる。そういう約束でよかったよな」
ラークは苦しそうに笑う。
その額には汗が滲む。
昨晩から彼は高熱に冒されている。背中の傷は決して浅く無い。それこそ、下手をすれば死んでいたかもしれない。
「その身体じゃ、まだ無理だ」
「無理かどうかはこのオレが決めることだ」
彼は本気だ。
もう彼を押し留めることはできない。
「アンタ、死ぬわよ」
マリッサが身も蓋もなく言った。率直だ。
「構わん。オレは奴をこの手で討ちさえすりゃ、もう何もいらねぇよ」
「撤回して」
これに空かさず異を唱えたのはクロエだ。
「貴方にはまだニーナがいる。もし、貴方が死ぬようなことがあれば……」
彼女の言葉にニーナは俯く。
「オレはそういう話をしてんじゃーー」
「そういう話をしている」
クロエははっきりとラークの言葉を否定する。
「貴方の決断は貴方を殺しかねないだけじゃない。ニーナをも殺すかもしれない」
彼女は続ける。
「貴方に今求められているのは冷静さ。これ以上失わないためにも、ここから先の選択は一つも間違えられない」
ラークの歯軋りの音がした。
彼の丈夫な歯のせいか、歯軋りと呼ぶには物騒な音だったが、彼なりの葛藤が現れているように聞こえた。
「分かった。分かったよ。こんなか細い嬢ちゃんに諭されるまで血が昇ってやがるってのは、確かに情けねぇ」
ラークは自分の頬をパチンと叩く。
「ニーナ、すまねぇな。だが、もう安心しろ。オレはお前を独りぼっちにはさせねぇ」
彼はクロエに礼を言うと続けた。
「冷静に、戦略的に戦う。これ以上犠牲を出さず、奴に勝つ方法を探る。……それでいいよな、お前ら」
クロエは黙って頷く。
それに続くように、俺とマリッサ、それからニーナも頷いた。
風向きが変わった。
悲しみに沈むのにも、怒りに溺れるのも、まだ早い。目の前には、非情な現実が待っている。
まずはその現実と戦ってからだ。
「マリッサの影と奴の影が同じ類のものだとして、何か対策はあるか? 例えば、弱点とか」
ラークの問いかけにマリッサは即答する。
「あるわ。影鬼族と同じ性質の影だと、仮定すれば、の話だけどね。アタシは奴らと縁を切るために、奴らの対策は徹底してきた。いわば、専門家と言ってもいいわ」
ここまで言い切れるとは恐れ入る。
相当の自信があるようだ。
「影は強い光を受けると歪むの」
「歪む?」
「使用者の制御が部分的に効かなくなる、ってところかしらね。歪み方には癖があるけど、アタシはそれを研究し、熟知している」
マリッサは魔導書を顕現させると、続ける。
「そして、奴らの影を歪ませるための
「意表を突ける、と」
マリッサは頷く。
そして、「間違いなく」と付け足した。
「だけど、最初の数分でしょうね。相手もバカじゃないでしょうから、すぐに慣れる。場合によっては、早々に“血装”だけに頼った戦い方に切り替えるかもしれない」
ラークはしばらく考え込む。
勝算を探っているのだろう。
イメージを膨らませ、勝ち筋を手繰り寄せる。きっとそんなシミュレーションを幾度となく脳内で繰り返しているのだ。
「ナイト級がもういないと仮定したうえで、低く見積もると、五分五分だろうな」
怪我をしていても五分。
それがラークの出した答えだ。
ナイト級の有無という大きな要点が気になるが、勝算が無いわけではないーーというのが、ラークの見込みだ。
「冷静に考えた上で、オレの結論は変わらねぇ。今日このまま攻め込むーーだが、早期決着が条件だ。息をつく間も無く、奴の息の根を止める。それができなかったら、さっさと撤退する」
ラーク達は一度は影を操る吸血鬼と遭遇して、何とか逃げ切っている。その際に、エルザが腕を失ったようだが、逃亡という選択肢は十分に取れるという判断のようだ。
「アンタの傷が癒えるのを待つっていう考えは無いわけ?」
一般論で言えば、それが正しい。
万全で無い現時点でさえ、それだけの勝ち筋が見えているのであれば、傷を癒やし、全てを整えた上で臨んだほうが勝率は上がるはずだ。
しかし、ラークは首を横に振る。
「奴らがオレ達を悠長に待ってくれるのならな」
ラークは後方を親指で指差した。
「奴ら、向かってきてる」
「昨日の今日だろ……? 間違いないんですか?」
「霧の日には何だって起こり得る。構成は分からねぇが、数の上では昨日より多い。奴らはオレ達を本気で潰しに来るぞ」
「ギヒッ、オレ様も狼男に賛同するぜ」
思わぬところから突然聴こえた声に、一同は身構える。一同、と言っても、俺以外だ。
「チェシャ猫、ね」
マリッサは影を召喚する。
当たり前だが、警戒心は剥き出しだ。
「ギヒヒヒヒヒ、そう邪険にしてくれるな。オレ様はいつだって味方だ。仲良くしようじゃねェか、ええ?」
「生憎、アンタみたいな得体の知れない奴と仲良くするほど脇が甘くないのよ」
「君は何なの」
クロエも剣を抜いている。
いつ斬りかかられてもおかしくはない。
「オレ様はチェシャ猫。それ以上でも、それ以下でも、それ以外でも無い」
「答えになってないのよ、アンタ」
「ギヒヒヒヒヒ、答えがいつも差し出されるほど、この世界は甘くねぇンだ」
「だったら斬り捨てるまで」
クロエはいよいよ本気だ。
殺気が刺さる。
このままだと、本当に斬られるかもしれない。
「おい、チェシャ猫。お前、いい加減にしろよな……ッ! ふざけてる場合じゃーー」
「ギヒヒヒ、そうだな。一つ、答えを教えてやるとすれば、オレ様の存在意義は
チェシャ猫が俺の腹部から少しずつ顔を出す。
歪な容姿。
頭が大きく、黒い目に浮かぶ赤い瞳は邪悪そのもの。悪魔的、という表現がぴったり当てはまる。
紫を基調とした模様が移り変わり、縞模様の尻尾はバネのように畝っている。実際に、ナイト級との戦いでは、尻尾をバネとして使っていた。
「コイツが信用に足るかどうかはこの際どっちでもいい。少なくとも、コイツがいなきゃ昨日の時点でオレ達は全滅してた。その事実だけが間違いない。違うか?」
意外にも、ラークがフォローした。
こうしている間にも、吸血鬼達が迫っている。その焦りを誰よりも感じているのはきっと彼だ。
「ギヒヒ、話が早くて助かるぜ」
「で、お前の意見とやらを聞こう」
「今まで霧が二日連続でかかったことはあるか?」
ラークとニーナが二人揃って首を横に振る。
「つまり、この霧は前例がねェ。計ったようなタイミングが二日連続。偶然? いーや、違うな。これは何者かのーーというか、ダンジョンの管理人の意図だと思うがね、オレ様は」
したり顔でチェシャ猫は言うと、満足したように悪魔のように笑った。
前例のない、二日連続の霧。
そして、二日連続の襲撃。
これを偶然と片付けるのは、むしろ不自然だ。何者かの意思が透けて見える、と考えてもいいかもしれない。
「もし、仮に、これが管理人の意図だとすりゃァ、明日以降も霧はかかるだろうよ」
チェシャ猫は笑う。
「狼男の見込み通り、奴らは本気でオレ様達を潰しに来るだろうよ。連日連夜、多数の吸血鬼に命を狙われるとなれば、こっちは消耗する一方だ。無尽蔵の数には、どう足掻いても勝てやしねェ」
全ては仮説の話だ。
もしも、の話は尽きない。
だが、それでも、十分に説得力のある仮説だと思った。
霧も、ナイト級の有無も、的の数も、ダンジョンの管理人もーー全ては仮説の域を出ない。全てを把握するなんて不可能だ。
だから、俺達は今手元にある心許ない情報だけを頼りに推測し、何かを決めるしかない。
最悪も、最高も、全てを想定したうえでも、きっと確実な正解なんて分からない。
結局のところ、何をしようと結果論だ。選ばれなかった未来が、どうなったかなんて、俺達には見当もつかない。
「とりあえず、ここに押し寄せてるっていう吸血鬼を片付けてからにしない?」
マリッサの提案に一同は頷く。どちらにせよ、迫っている敵をどうにかしないことには、腰を据えて考えることもできない。
「距離は?」
「もうすぐだ」
クロエの問いにラークがそう答えると、間も無くして、森の隙間に奴らの姿を視認する。
ソルジャー級と思しき敵影が少数。
そして、空を覆うと錯覚するほどのウィング級が多数。
「ギヒヒヒ、多いな」
ウィング級の群れは、ある程度の距離まで近付くと、その場で滞空する。
その手には、武器が握られている。
あれは、弓だ。
「木の陰に隠れろ!」
ラークが声を荒げた。
一同が木の裏に隠れると同時に、ウィング級の群れから矢が放たれた。
矢の雨が降り注ぐ。
「待てよ、これ。流石に多くないか!?」
矢の数、というのもあるが、それ以上に吸血鬼の数が多い。多すぎる。昨日の倍、いや、三倍近くはいる。
矢は止まない。
木の裏から飛び出そうものなら、瞬く間に針の筵にされるだろう。
「私が止める」
「援護するわ、クロエ!」
木の陰からクロエとマリッサが同時に飛び出す。タイミングはピッタリだ。
降り注ぐ矢の雨をマリッサの影が薙ぎ払うと、クロエが大剣、タイムキーパーを振るう。
時間が止まる。
無数の矢は滞空したまま、その場を動かない。空に固定された矢は、あまりにも不自然に映る。
「今よ!」
マリッサの一声を合図に、ラークが駆け出した。とても重傷とは思えない俊敏さだ。
「何ボサッとしてやがる! オメェも走れ!」
チェシャ猫の喝で、遅れて俺も走り出す。
木の陰から出ると、思っていたよりもソルジャー級が接近していたことにまず驚く。刀を引き抜き、狙いを定める。
地上にいるソルジャー級の数は、ざっと数えたところで、十人強。そのうちの二人を既にラークが惨殺したところだ。
向かって右側の吸血鬼に標的にする。
「
俺の横を並走するチェシャ猫が空から降ってきた落下物を対し、右手を湾曲する刃に変えて弾き落とした。
「血の鉄球ってところか、ギヒヒヒ」
見ると、赤い球が転がっている。
どうやら、上空のウィング級達は、飛び道具を切らしたらしく、“血装”で作った矢だの球だので攻撃を仕掛けてきているらしい。
例によって、クロエがそれらの時間を止めてくれているが、タイムキーパーの網を擦り抜けたいくつかが落ちてきたようだ。
そうこうしているうちに、ソルジャー級が目と鼻の先に迫っていた。
振り下ろされた血の剣を力強く弾くと、吸血鬼の脇腹は隙だらけになる。空かさず、刀を突き出した。
吸血鬼の腹部に深々と、簡単に突き刺さる刀。我ながら手際が良い。この庭での実戦一つでここまで動けるものかと自分でも思う。
「死、を」
跪いた吸血鬼の首をそのまま刎ね、次の標的に向かう。
斬る。斬る。
無我夢中で斬りまくる。
敵陣のど真ん中に入り込むと、目測よりもずっと吸血鬼の数が多いことに気がつく。
既に俺とラーク、そして、チェシャ猫が相当数の吸血鬼を狩ったはずだが、それでも、視界から奴らが消えることはない。
「マズイ、ジリ貧だぞ」
チェシャ猫が吸血鬼の一人を血祭りに上げながら吐き捨てた。いつになく、余裕が無い。
「全員、オレの声が聞こえるか! 聞こえたら返事しろ!」
戦場は混乱している。
それはラークとて、同じのようだ。
誰がどこで、何をしているかも把握できていない。目の前の敵を斬り伏せるので手一杯だ。
「いるわ……!」
マリッサの余裕の無い返事を皮切りに、クロエとニーナが声を上げた。
俺とニーナは殆ど隣り合わせで戦っていて、ラークを視界に収められる位置にいたが、全員に安否が伝わるように、遅れて返事をした。
「そのまま聞け……!!!」
ラークは続ける。
「このまま、洋館を目指す!」
おそらく、全員の頭に一度は過っていたはずだ。反対意見を言う者は誰もいない。
無尽蔵に現れる吸血鬼退治よりも、ゴールの見える管理人の撃破の方が勝算があるように思える。
結局、最初にチェシャ猫やラークが言っていた通りの展開だ。このままでは、いずれ数で押し切られる。
「ニーナとユズハ、それからその猫を戦闘に、クロエとマリッサが続け! オレが
「パパ……!?」
殿という言葉に不吉な予感を覚えてしまったのは俺だけではないようだ。
「ニーナ、お前を遺して死ぬ気はねぇよ。それに、あの影野郎をぶち殺すまでは死んでも死に切れねぇ」
二人の吸血鬼を同時に相手取りながらラークは言った。
手負いとは思えない速度で一人目の背後を取って、頭蓋骨を握り潰すと、そのままその死体を盾にして、二人目の刺突を防いだ。
「ニーナ、行けッ! とにかく逸れるな、孤立した瞬間に殺られると思え……ッ!」
ラークは二人目の首を手刀だけで刎ねると、俺を見た。
「
俺は黙って頷いた。
ニーナが進路を変えて走り出したのを見て、俺とチェシャ猫も続く。
「クロエ! マリッサ! 見えるか!?」
吸血鬼を斬り倒しながら、大声で二人を呼ぶ。
「見えてる!」
クロエの声がした。
七時の方向だ。
吸血鬼を斬り伏せ、進路を作る。
もう何人の吸血鬼を斬ったか分からない。最初の目測が見当外れだったというより、どこからか続々と湧き出ているような印象だ。
「ニーナ、急くな! 逸れるぞ!」
「わかってる!!」
ニーナは前方に立ちはだかる吸血鬼達を銃撃していく。命中こそしているが、急所にはヒットしない。中には、血の盾を作って、完全防備に入っている者もいる。
「チェシャ猫、前に出ろ!」
「ギヒヒヒ、了解。ご主人様」
チェシャ猫がニヤリと笑って、尻尾をバネのように地面に押しつける。一っ飛びでニーナの前に飛び出すと、そのまま両腕を巨大な刃に変質させて、三人の吸血鬼の胴体を同時に切り離した。
ニーナにとって、近接戦闘は苦手とするところだ。チェシャ猫の圧倒的な突破力は、それをカバーできるはずだ。
討ち漏らした吸血鬼を斬り伏せ、後ろを振り返ると、クロエとマリッサがすぐ近くまで迫っていた。
「ラークさん!」
ラークはクロエ達のさらに後方で吸血鬼に取り囲まれている。ソルジャー級が四人。ウィング級が五人。合計で九人だ。
「早く行け……ッ! オレに構うな!」
「チェシャ猫、下がれるか!?」
「ギヒヒヒヒヒ! 無理だ、前見ろ! バカ」
前方には、まだ十数の吸血鬼が控えている。上空にいたウィング級の殆どが降りてきている。
あの数をチェシャ猫抜きで相手にするのは不可能だ。
「クソ……ッ」
頭に過ぎる全滅の文字。
考える余裕が無い。乱戦に次ぐ乱戦で、生傷の数はもう一つや2つじゃ済まなくなっている。
「ユズハ、下がって! マリッサから治療を!」
クロエの声が聞こえる。分かっている。分かってはいるが、後退するタイミングが掴めない。
一人を斬っては次の吸血鬼が間髪入れずに迫ってくる。後退すれば、この前線はすぐに崩れてしまう。
「ユズハ!」
「わかってる……!」
あとどれだけ斬ればいい?
この苦しみは、どれほどで終わる?
辺りは血の海だ。
吸血鬼達の血という血が一帯に広がっている。
体中、汗と返り血でびっしょりだ。いや、おそらく、自分の血もそれなりに流れている。
差し迫っている。どこかで何かを変えないと、この状況は打開できない。全員が限界を迎えようとしている。
ちょっとした弾みで全ての均衡が崩れかねない。
「ーー!!」
前方に見えた人影に言葉を失う。
見たくないものを見てしまった。
決して避けることのできない現実。
黒い鎧に、赤いマント。
一丁前に甲冑までしている。
ナイト級だ。
もう全滅させたと仮定していたナイト級が一人。森の先に佇んでいた。
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