箱庭攻略③
結局、一睡もできなかった。
当のマリッサはどこ吹く風で、寝不足で顔色が優れない俺に対して、管理不足だ何だのと文句を垂れている。理不尽だ。
問題は、そんなことよりも、だ。
「霧が出ている」
森は深い霧に包まれていた。
つい昨晩にエルザとニーナが話していた霧のことだろう。見計ったかのようなタイミングだ。
「館に乗り込むなんてことはしないぜ。ナイト級を倒していないうちはな」
深い霧を見て、ラークが言った。
「霧の日は何が起こるか分からない。こういう日は狩りもしないと決めている」
ラークは頑なだ。
この箱庭で暮らしてきた知恵というやつか。
最大戦力のラークが乗り気ではない時点で、俺達も選択肢は無くなる。この深い霧で、尚且つイレギュラーが発生しやすいとなれば、俺達だけで森の探索は危険すぎる。
寝不足な俺にも幸いなことだが、今日は一日体を休めそうだ。
残りの死ミットは俺とクロエが二十時間程度。マリッサが四十時間弱。寝ている間は死ミットは動かないから、およそ半日の浪費となる。許容範囲だろう。
「今日はーー」
家の前の畑で土いじりをするラークの手元が止まった。
「奴ら、なんで……」
ラークは鼻が良い。
嗅覚で敵の接近を誰よりも早く察知することができる。
「どうしたの?」
「吸血鬼がこっちに向かってきている。おい、坊主ーーエルザとニーナを叩き起こせ! すぐに戦闘態勢だ」
「この家には吸血鬼が近寄らないんじゃ……!?」
「霧の日には何が起こるか分からねぇって言ったろうが……! 早くしろ!」
ラークの身体が大きく膨らみ、狼の姿へと変貌する。
俺は家の入り口へ走った。
扉を開け放つと、ラークの怒声を聞いたのか、既にエルザもニーナも準備を始めていた。ちょうど揃いの赤頭巾を羽織るところだ。
「状況は?」
「分からない……! ただ、吸血鬼が向かってきてるって!」
二人はそれぞれの銃を手にすると、覚悟を決めた顔立ちになった。スイッチが入ったと思った。
三人で外に戻ると、既に吸血鬼の姿を確認すすることができた。囲まれている。
「数は!?」
エルザが言うと、ラークは「八人はいる」と即答した。八人足らずなら、なんとかできる数だ。
ーーそう思ったのも束の間、そのうちの一人の姿を見て、俺は絶句する。
黒い鎧と赤いマント。
頭頂部まで禿げかかった頭髪と顔の皺からして、それなりに高齢のようにも思える。少なくとも、他の吸血鬼とは存在感が違う。
「あ、あれって……」
予め聞いていた特徴と一致する。
おそらく、いや、間違いないだろう。
ーーナイト級。
『おい、後ろ』
チェシャ猫がいつになく真剣な口調で言った。振り返って、また言葉を失う。
黒い鎧と赤いマントの吸血鬼がもう一人。
「ナイト級が……二人」
「奴ら、ここでオレ達を皆殺しにするつもりなんだろうよ」
ラークの顔は険しい。
状況は言われるまでもなく絶望的だ。
不意にナイト級が隣に立つソルジャー級の吸血鬼の首に指先を突き刺した。
「は?」
頭の中に浮かんだ疑問はすぐに消し飛ぶ。
首筋を刺された吸血鬼がみるみるうちに萎んでいく。まるで、血を抜かれているようだ。
いや、吸血鬼はまさに血を抜かれていたのだと、すぐに分かる。ナイト級の指先に収束するのは、大量の血液。
それはやがて、二本の巨大な大剣と化す。全身の血を一滴残らず抜かれた吸血鬼は、ミイラのような無惨な姿で地面に崩れ落ちる。
ナイト級は仲間の吸血鬼の血すらも操ることができるのか。そして、そのためには仲間を殺すことも厭わない。
ナイト級が二本の剣を振り上げる。
十分な距離がある。
決して間合いに入っているわけではない。
あの刃が届くわけがない。
そう分かっている。
誰が見ても明らかだ。
だが、なんだーーこの胸騒ぎは。
波打つ赤い刃。
吸血鬼は冷たい声で言う。
「死を」
真紅の大剣が振り下ろされる。
同時に、その刀身が消えて無くなった。
否、飛散した。
無数の血の刃となって。
何が起きたか分からなかった。
ただ、まだ生きているという感覚と、またチェシャ猫に助けられたという事実だけはすぐに理解した。
紫色の傘のようなものが俺の腹部から伸びて、全身を覆い被さるように広がっている。表面はフサフサだが、この傘があの無数の血の刃を遮ってくれたようだ。
「ギヒヒヒ、間一髪ってところか。だがァ……」
チェシャ猫の声が鼓膜を通して聞こえる。出てきているみたいだ。
「パパ……ァっ!!」
ニーアの悲鳴に近い声に振り返る。
マリッサは自身の影で、クロエは時を止める剣で、それぞれ血の刃を防いだようだ。
問題は、ラークだ。
彼らには、あれを防ぐ手立てが無かった。結果として、ラークがその身を呈して、エルザとニーナを庇った。
ラークは、背中に無数の血の刃を浴びていた。立ってはいるが、あの傷で果たしてどこまで戦えるか。
「パーティとしては、致命傷だな」
チェシャ猫が他人事のように言う。
“灯台”の治癒は一緒にダンジョンに入った同一パーティにしか適用されない。つまり、ラークに治癒を使うことはできない。
チェシャ猫の言葉通りだ。
致命的だ。
ナイト級二人を相手するには、あまりにもラークの負った傷は大きい。
逃げるか?
どこに?
この森で休める場所はこの家だけだったはずだ。逃げ場なんて無い。そもそも、奴らがそれを許さない。
この状況で、このメンバーで戦うしか無い。
ナイト級が動き出す。
今度は別のソルジャー級を吸血して、血液で巨大な腕を形成しながら、こちらに向かって歩みを始めた。
「ふざけんな」
ニーナの声がした。
「ふざけんな!!!」
そして、銃声。
ニーナが引き金を引いた。
彼女が放った銃弾は一直線にナイト級に向かう。しかし、その弾丸が奴の肉体を貫くことは無い。
ポシュっという音がした。
弾丸を遮ったのは、赤いマント。
ただのマントでは無い。
あれも血だ。血装で出来ている。
自由自在に動かすことができ、なおかつ、柔らかくも硬くもなる。絶対の防衛。時として、最強の矛にもなる。
重ねて銃声。
ニーナが乱射する。
しかし、その全ては赤いマントに沈む。
誰もが無駄だと分かっている。
ニーナ自身も、分かっているはずだ。
取り乱している。
あれでは勝てるものも勝てない。
いや、そもそも、勝てるのか。ベストを、死力を尽くせば何とかなるような力量差なのだろうか。そういう次元なのか。
勝てる方法なんてーー
「あるぜ」
そう言ったのは、チェシャ猫だ。
「ギヒヒヒ、テメェ次第だ。全てはオレ様とテメェでどこまでやれるかに懸かってる」
チェシャ猫は不気味に笑う。
悪魔が囁くように。
「何だってやる」
悪魔の誘いだろうが何だろうが、後はない。きっと選択肢なんて無い。やるか、やらないか以前に、やるしかないのだ。
「教えてくれ」
この状況を乗り越える術を。
「抜け」
チェシャ猫の笑い声が森に響き渡る。
俺の体を守っていた傘が収束し、剣の柄のような形になる。腹部から剣の柄が伸びている光景は、何ともゾッとする気分だ。
悩んでいる間はない。
俺は言われるがままに、その柄を手に取り、思いっきり引き抜いた。
腹部から飛び出したのは、巨大な刀身。
ギザギザに歪んだ紫色の刃は、水面が揺れ動くように模様と色合いが移り変わる。
柄の上部に、ギザギザの口が浮かび上がっている。腹部の刻印から浮かび上がっていたものと同じものだろう。
「ギヒヒヒ、ギャッヒャハッハッハッ」
不気味な笑い声はなおも響く。
俺達を取り囲む吸血鬼達も尻込みしている。
「ギヒヒヒ、やることはシンプルだ。いいか、あのナイト級とやらを一人、オレ様とテメェだけで片付ける」
チェシャ猫は小声で言った。
さも、それが簡単なことのような言い方だ。
「残りの戦力はもう片方のナイト級に全て注げ」
ラークでさえ倒せなかったナイト級を俺とチェシャ猫だけで倒す。そんなことが可能なのだろうか。
いや、違う。
そうでもしなければ、この状況は打破できないのだ。そして、チェシャ猫はそれができると信じている。
オーガを倒したのもこのチェシャ猫だ。
だったら、決して不可能じゃない。
コイツの力は未知数だ。
まだ底が知れない。まだ底がある。
ナイト級が血装により肥大化した腕を振り上げる。この吸血鬼に間合いは関係ない。
だったら、むしろこっちから近付いたほうがいい。そう思ったときには、俺は奴の間合いの中にいて、巨大な拳をチェシャ猫の剣で受け止めていた。
ナイト級が迫ってきたのではない。
俺から近付いたのだ。
厳密に言えば、チェシャ猫の剣に引っ張られた。
「ギヒヒヒヒヒ、奇遇だなァ! 考えることが一緒とは!!」
チェシャ猫は笑う。
「マリッサ、クロエ! こっちは俺が請け負う! そっちの奴をラーク達と当たってくれ!!」
「はぁ!? 何なの、それ? てか、そもそも何でアンタに指図されなきゃーー」
「いいから頼む……! それしか方法が無いらしい!」
ナイト級の血の腕が収束する。
それは二本の剣と化す。
どうやら、奴の攻撃スタイルは双剣らしい。
「死を」
ナイト級はお得意の呪いの言葉を吐くと、双剣を構える。そして、猛撃が始まった。
一の太刀に合わせて、チェシャ猫の剣に腕が引き寄せられる。俺が剣を操っているのではない。俺が剣に、いや、チェシャ猫に操られている格好だ。
凄まじい速度で繰り出される剣戟を、チェシャ猫の剣は漏れなく弾く。もはや、自分でも何が起こっているのか理解できていない。
互角だ。
いや、余裕があるとさえ言える。
チェシャ猫は奴の斬撃を受けながらも笑う。笑い続ける。まるで、ゲームでも楽しむかのように。
ナイト級のマントが揺れる。
「チェシャ猫、マントが来る……!!」
「テメェで反応しやがれ、こっちは忙しい!」
直後、マントから血の棘が伸びた。
俺はチェシャ猫に身体を引っ張られながらも、上半身を逸らして、それを何とか躱す。
「ギヒヒヒヒヒッ、上出来だァ!!!」
チェシャ猫はなおも笑う。
「んだが、埒が明かねェ……!! そろそろ反撃といこうじゃねェか!! ギヒッ!」
悪巧みの臭いがする。
この笑い声が頼もしく思えている自分がいる。
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