死ミット
「
「ああ。窓枠に数字が刻まれてた」
「あの扉の一つひとつが迷宮ーーいわゆる、ダンジョンに繋がっている」
やはり、あの扉の先の世界がこのダンジョンと呼ばれる場所で認識は間違っていないようだ。
だとすると、腑に落ちないのは、明らかにあの家の中に収まるとは思えないサイズ感の世界が広がっていることだ。
あの家の中にこれだけ広大な森が構築され、様々な化物が生態系を形成している。
今に始まったことではないが、物理法則を完全に無視している。この世界に俺のいた世界と同じ物理法則を求める方がどうかしているのかもしれないが……。
「Aちゃんねるで生きる全ての人間は、そのダンジョンから入手できる“時間”を奪い合って生きている。君が体験した戦いもその一端」
「時間を?」
クロエは立ち止まると、その左腕を俺に差し出した。
「これは」
その腕には俺と同じように数字のタトゥーが刻まれていた。
「11:22」。その数字はやはり、時計の表記のように思える。それこそ、何かの時間を表しているように見える。
「ーー!」
クロエが腕を突き出した十数秒後、その表記が動いた。「11:21」。後ろの一桁が数字を一つだけ減らした形だ。タトゥーが目の前でその形を変える様は奇妙な光景だった。
「君のも、減ってるはず」
慌てて、俺も自身の腕に視線を落とす。「23:30」。さっきよりも数字が減っている。
時計というより、何かのタイムリミットなのか、これは。
感覚からすると、この数字の一番左の桁は分刻みで擦り減っている。つまり、この数字が意味するのは、23時間と30分ということか。
「この数字が死ミット」
「し、みっと」
「そう。落ち着いて、聞いて欲しい」
もう何を聞いても驚かないつもりだった。
ここに来て確かにはっきりと分かったのは、この世界では何でも有りだということだ。その小さな気付きは俺がまた取り乱して泣きじゃくったりしないためには必要不可欠な学びだった。
「その数字が『00:00』になった時、君は死ぬ」
「へ?」
驚かないと誓ったばかりなのに、驚きの声を上げてしまった。
どういう原理だ、と何かに向かって叫びたくなる。
クロエの言葉を鵜呑みにするなら、俺の寿命は残り23時間足らずだということだ。
「言ったよね、私達は“時間”を奪い合って生きているって」
まだ言葉の意味を飲み込むことができない。何だか物騒なことがこの世界に来て起きていることの原因は、こんなちっぽけな数字にあるらしかった。
「じゃあ、俺はあと一日もしないうちに死んじまうってことなのか? いや、クロエなんてもっと……」
「何もしなければね」
そうだ。
わざわざ前置きされたはずだ。
落ち着いて聞け、と。
何か生き残る方法がある。
これまでの会話の節々にその可能性を考えうる言動があった。
クロエはダンジョンから“時間”を入手することができるとも言っていたはずだ。つまり、今俺達がいるこのダンジョンこそが、その方法の一つに違いないのだ。
「うん。落ち着いてる」
クロエは満足げに頷くと説明を続けた。
「この死ミットを引き延ばす方法がある」
やっぱりだ。
この世界に生きる人々は、ただこの死の制限時間に理不尽に怯えている訳ではない。
「“死ミット”もしくは“時間の針”を持つ生物を殺すこと」
ーー殺す。
物騒な言葉に心臓が跳ねた。
予想はしていた。
あの
「時間の針っていうのは」
「さっきの魔物、アルミラージの腹部に数字が刻まれていたのを見た?」
俺は頷く。
さっきのウサギ擬きのことを指しているのだろう。あのウサギーーアルミラージの腹部には、「2」とか「3」とかの数字が刻まれていた。
「あれが“時間の針”。あの数字が刻まれた生物ーー魔物を殺すことで、その分だけの死ミットを引き延ばすことができる」
つまり、アルミラージを一体倒すことでその数字に刻まれていた「2」分とか「3」分とかの死ミット分の数値をクロエは回復することができたわけか。
「魔物は上層では生息していない。彼らがいるのはダンジョンの中だけ」
「あの街での戦いは、魔物が生息しているダンジョンの中に入ろうとするためのものだったってことか」
クロエは頷く。
だんだんと理解が追いついてきた。
それで“時間”の奪い合いだとかいう表現の仕方になるのか。
つまり、ダンジョンは死ミットの期限を引き延ばすための“時間”の産地。
「察しがいい」
クロエはぼそっと呟く。
褒められている、ということでいいのだろうか。
「あと、死ミットを持つ生物って言ったよな?」
彼女は頷く。
それが意味することは明白だ。
「要するに、人を殺しても、同じことが言えるってこと?」
「そう。Aちゃんねるの人間には、ほぼ例外なく死ミットが刻まれてる。だから、人を殺せば、その人が持っていた分の死ミットが加わる」
納得はしたくない話だが、理解することはできた。
あの街であの時、何が起きていたのかを。
その意味で、俺がクロエに巡り合い、彼女がこうして俺を救ってくれたことは奇跡に近い。
もし、彼女が俺を見つけてくれなかったと思うと、ゾッとする。本来、俺はあの街で訳も分からないまま、あっという間に殺される運命だったはずだ。
「ありがとう……」
「え?」
「クロエがいなかったら、俺、簡単に死んでた」
クロエは首を横に振る。
「当たり前のこと、しただけ」
この世界でそれが当たり前でないことは、この世界のことを知らない俺ですら想像がつく。
俺の持つおよそ24時間の死ミットがどれほど貴重なものなのか分からないが、あの街において、俺が格好の的であったことは紛れもない事実だ。
「あと」
クロエは付け足す。
「ダンジョンはクリアするだけでも死ミットがもらえる」
「クリア?」
「管理者の討伐」
また専門用語だ。俺がまずしなくてはならないのは、この世界の常識を知ることなのだろう。
「ダンジョンの主みたいなもの?」
「そう。赤い“針”を持つ魔物がそれ」
「赤い、針……」
「管理者の肉体には赤い数字の刻印が刻まれている。そして、どれもその数値は格段に高い」
クロエ曰く、数字の大きさはその個体の強さに直結するらしい。
アルミラージに刻まれていた数字は「2」や「3」と言ったところで、魔物の中でも最弱の部類にあたるのだろう。
ダンジョンから脱出するためには、赤い数字の刻印を持つ強力な魔物ーー管理者を倒す必要があり、まずはその管理者を探すことが当面の目的となる。
「半分以上のダンジョンは既に誰かが攻略していて情報があったりする」
俺が思うよりもAちゃんねるの歴史は長いようだ。
既にダンジョンでの冒険の記録は積み上げられていて、ダンジョンの生態系や管理者が既に解明されているダンジョンも少なくないようだ。この半分という数字を多いと取るか少ないと取るかは、俺には分からない。
「ちなみに、このダンジョンは?」
「あの男のせいで目的とは違うダンジョンに入ってしまった」
つまり、答えとしては、ノー。
このダンジョンに関する攻略情報は無いということだ。
「とにかくこの世界で生き残るには、魔物を倒すなり、ダンジョンをクリアするなりを半永久的に続けなければいけない……そういうこと?」
クロエは頷く。
終わりの見えない死ミットの採集。
それがこの世界で生きる者に課せられた絶対条件だった。
俺がいた世界でも、生きるためには食事をする必要があったし、十分な睡眠も必要だった。
Aちゃんねるという世界では、それに加えて死ミットという要素が加わったと考えるべきか。
つまるところ、この世界で生きていくためには、「戦うための力」が不可欠になる。
先行きの見えない未来に不安が募る。
力が必要だと、口では簡単に言えるが、ついさっきまでの俺は平凡な学生でしかなかった。兵役の経験どころか、熱心に部活動に打ち込んだことすらない。もちろん、そんな訳で運動神経に自慢がある部類の人間でもなかった。
そんな俺にいきなり戦闘能力を求められても、困り果ててしまうというのが正直なところだった。
あの血の海を見た後じゃ、そんな甘ったれたことを言っている場合ではないことは承知の上だが……。
「異世界から来たんだよね」
クロエの言葉に俺は頷く。
この世界の常識が全く分からないので判断のしようが無いが、こういう情報は無闇に開示すべきでは無いのだろうと、素人ながらに思う。それでも、彼女は無条件に俺を救ってくれた人間だ。全面的に信頼していい、というより、彼女に縋るしか俺に道はなかった。
「君の世界では、戦いは無い?」
俺は頷く。
「世界規模で見れば、あちこちで紛争はあったけど、少なくとも俺のいた国ではそういう物騒なことはなかった」
「国。君の世界にもそういう概念があるんだ」
クロエの口ぶりからすると、Aちゃんねるにも国の概念はあるようだ。
「じゃあ、君は戦ったこと自体、無い?」
クロエは首を傾げる。
おそらく、彼女にとって、戦闘経験の無い人間というのは、存在自体が摩訶不思議なのだろう。
常識が根底から違いすぎる。
死ミットのことを考えれば、彼女は物心ついた当初から戦いに触れていたに違いない。そうで無ければ、この世界では彼女の年齢まで生き残ることができないのだから。
「無い。人間どころか動物だって殺したことがないんだ。正直、今だって手が震えている」
少しでも気が緩めば、
俺もああなるかもしれない。
そして、俺も誰かを殺すかもしれない。
その事実に俺は震えている。
そして、この世界においては、その「かもしれない」が限りなく、「すべき」ことに近いという現実が頭にチラつく。
人間にせよ、魔物にせよ、この世界では何かを殺さなくては生きていけない。
「どうぶつ?」
クロエはまた首を傾げる。
反応から察するにこの世界には動物はいないらしい。もしかすると、魔物自体が動物の概念を担っているのかもしれない。
外国に行っただけで、とんでもないカルチャーショックを受けたりするくらいだ。世界が違えば、常識や概念が全く違っても不思議ではない。
「動物ってのは、魔物みたいなものかな。いろんな種類がいて、犬とか猫みたいに人と共存するような奴もいれば、人を食い殺しちゃうような凶暴な奴もいる。こっちも魔物もそんな感じなのかな」
「近いような、遠いような。イヌ?とかネコ?とかはよく分からない。でも、魔物を使役することはある」
クロエの反応はいちいち新鮮で可愛らしい。
知らない言葉の一つひとつに何だか目を輝かせているような気もしたが、相変わらず表情は乏しいので、気のせいかもしれない。
今更ながら、彼女の顔ははっとするほど美しい。元いた世界にいたら、モデルでもやっていそうなくらい容姿端麗だ。ふとした瞬間に見惚れてしまう、気がする。
「使役……か」
「ん」
クロエの顔つきが変わった。
視線があちらこちらに飛ぶ。
何かを察知したのか、明らかに彼女の警戒レベルが上がった。背中の剣に手を伸ばし、いつでも抜刀できる準備をする。
「ユズハ、後ろに」
初めて名前を呼ばれた気がした。
俺は腰を屈めながら、彼女の後ろに回る。守られてばかりでつくづく情けない。
「なんだ」
「魔物、かも」
森の奥ーー茂みの中からこちらを見つめる一対の目があった。刺すような敵意を感じる。
狙われている。
「来る」
茂みの中から飛び出した影。
その姿が露わになったときには、十メートル近くあった距離が縮められていた。
「速い……っ」
クロエが剣を抜き、迫り来る敵に向かって迷わず振り抜く。キィンと鋭い音が鳴り響く。刃と牙がぶつかり合う音だった。
俺達の前に現れたのは、真っ黒い毛並みの狼。全長にして、三メートル近くある。元の世界の基準だと、とんでもないサイズの獣だ。
その胸には、「15」の数字が刻まれている。さっきのアルミラージと比べると、数倍強いと考えていいだろう。
「勝てるのか?」
「一体なら問題、ない」
クロエが狼を押し返す。狼は後方へ大きく引き下がると、もう一度飛びかかろうと体勢を立て直した。
その後ろから続々と現れる二体の狼。どうやら、群れで行動していたらしい。
「三体は……?」
「ちょっと厳しい」
狩りの世界、本物の殺し合いで、待ったは無しだ。間髪入れずに、三体の狼が飛び出した。
速い。
戦闘経験の無い俺にも分かる。
さっきのアルミラージとは、別次元のスピードだ。
クロエは一体目の狼を一撃で弾き返すと、続けて襲いかかってきた二体も辛うじて押し返す。しかし、仕留めるには至らず。
押し返された狼達は次の攻撃の機会を窺っている。
頭はいつになく回転していた。脳細胞を総動員して、俺が今何できるのか、何をすべきなのかを必死に導こうとしている。
このままではジリ貧だ。
確実にクロエの体力は削がれ、反応は少しずつ遅れ、防御は乱れる。そして、やがて狩られる。
そうなる前に、足手まといの俺がどうしたらいいのかを考える。どうしたら、彼女を救えるのか。いや、違う。どうしたら、彼女の足枷にならずに自由に戦ってもらえるかを。
「こ、こっちだ!」
次の瞬間には、俺は声をあげて走り出していた。
それは半ば本能だった。
俺の単純な脳味噌が導き出した答え。
それは一体でも多く、その注意を俺に向けること。
俺には戦うことはできない。
唯一出来ることは逃げること。
クロエは一体であれば問題あるないと言っていた。だったら、一対一の状況に持ち込めるように俺が動くしかないだろう。
柄にも無い。
怖くてたまらない。
だけど、俺と同じくらいの年齢の女の子が、血を流して戦っているんだ。我儘なんて言えない。
あれだけ泣き喚いた後じゃ、何の説得力もないかもしれないが、ただ守られてばかりじゃ男が廃る。
俺は走る。
走る、走る、走る。
ただひたすらに、後ろを振り向くこともせずに走った。
狼の吠える声がすぐ後ろに迫っているのを感じる。少なくとも、一体は俺を追いかけている。
「ユズハ!」
「少しでも引きつける! そのうちに一体ずつ片付けてくれ!」
狼の息遣いが段々と近付いている。後ろを振り返ると、今まさに狼が俺の背中に向かって爪を突き立て、飛びかかってくる瞬間だった。
ヘッドスライディングをする要領で前のめりに飛び込む。俺のすぐ頭上を狼が通り過ぎていく。
狼はすぐに体を反転させると、「グルグル」と唸り、前足を踏ん張る。また飛びかかってくるつもりだ。
さっきは偶然にも避けられたが、次はそうはいかない。この距離では、とてもじゃないが反応できるとは思えない。
「ガゥッ!!!」
狼が跳んだ。
その直後、その頭上に人影が舞い降りた。
「ギャウ!?」
狼の頭部に一直線に落ちてきた人影が、その額にそのまま刀を突き刺す。
狼が短い悲鳴を上げ、血潮を上げると同時に、その肉体が灼熱の炎に包まれる。
「え、あ、え……?」
燃え上がる狼の死体から刀を引き抜き、静かに立ち尽くすその男は、何も言わずに俺に視線を向けた。
男は天狗の面を付けていた。
えんじ色の和服に身を包み、炎を宿す刀を握り締める男。その素顔は天狗の面で隠され、表情を読み取ることはできない。
男と形容してはみたが、実際のところ、この男が人間なのか、魔物なのか、区別がつかない。結果として、救われたことは間違いないが、目に入る者を全て敵として認識するような獣は珍しくないだろう。
「お主、何者じゃ」
天狗が言葉を発した。
ようやく男が人間であるということが分かった。ついでに、少し嗄れた声からするに、初老の男だと察することができる。
「俺は……」
こっちの台詞だと言いたいところではあったが、クロエが苦戦した魔物を一瞬にして屠るような腕の持ち主だ。回答を間違えれば、瞬く間に首を斬られてもおかしくはない。
「天狗、待って」
背後からクロエの声が届いた。
二体の狼は既に討伐したようだ。
難なく二体を狩ってしまったところを見ると、俺の心配は杞憂で、俺の行動は無駄な徒労そのものだったのかもしれない。
「無事で何より。しかし、随分と手傷を負ったの。クロエが見知らぬ男を連れて、予定外のダンジョンに入ったと聞いての。追随させてもらった」
「ありがとう。すごく、助かる」
どうやら、見た目通りの名で呼ばれたこの初老の男はクロエの仲間のようだ。男は刀を腰の鞘に収めると、改まって俺を凝視する。
「して、お主……“潜者”か」
クロエも俺のことをそう呼んだ。
「一目でわかるものなの?」
クロエは不思議そうに首を傾げる。
表情の乏しさは変わらずだが、ちょっとだけ眉が動いた。
「せんじゃ……」
「異世界から来た人間のことを総称してそう呼ぶ。知らない世界に迷い込んだ子羊のような様はまさにこの世界のことを知らぬと見える。何より、“潜者”という言葉の意味を理解していないこと自体がその証左」
天狗面の男は得意げにそう説明すると、続ける。
「何を隠そう、儂もその一人じゃからのぉ。随分と昔のことになるが、お主と同じ経験を踏み、同じ心細さを味わった」
「貴方も……」
天狗面はどこか遠い場所を見つめるように空を仰ぐ。
この人も、俺と同じように別の世界からこのAちゃんねるにやって来た。その事実に心が震える。一人ではないことに安堵を、それと同時に、「随分と昔のこと」という言葉にある種の絶望を覚える。
この男が随分と昔のことだと形容する程度には、俺はこの世界と付き合っていかなければならない可能性が高い。この、死と血の臭いが付き纏う世界に。
「クロエ、どこまで説明した?」
「死ミットのこと。それと、ダンジョンや魔物のことをちょっと。それくらい」
「うむ、それではまだまだ訊きたいことは山ほどあるじゃろう。お主、名は?」
「ユズハです、藍澤ユズハ」
「日本人か、同郷じゃの。今の日本はどうじゃ。相変わらずかの?」
天狗面の男から逆に質問をされて戸惑う。
彼はいつからこの世界にいるのだろうか。
「あなたがいた頃とはいくらか変わってると思いますけど、平和です。えっと……」
「儂のことは天狗と呼んでくれれば良い。皆もそう呼んでいる」
「天狗さんはいつからここに?」
「こっちには暦の概念が薄いのでな。もはや正確な年月は覚えておらんが、少なくとも十年はおる」
十年。
その途方もない年月に唖然とする。
どこかで甘い考えを持っていた。
これは何かの間違いだと。
ここに俺がいる現実こそが何かの間違いでーーそれこそ、夢か何かで、きっと少し我慢すれば、元の世界に戻れるのではないかという幻想を抱いていた。
天狗の話が真実だとすれば、俺は根底から変わらなくてはならない。この世界に、根っこの部分から適合しなくてはならない。
そんなことができるのだろうか。
こんな無茶苦茶な世界に適合するということの意味を俺は本当に理解できているのだろうか。武器を振るうことが前提のこの世界で生きるということはーー。
「途方に暮れるではない。儂のような老いぼれでも何とか生き残っておる。お主は幸運じゃよ。クロエに助けられ、儂と出会い、今もこうして生きておる。この世界で生きるために最も必要なのは、その悪運じゃ」
天狗がお面の向こう側で笑う。
余程俺の顔が引き攣っていたのだろう。
天狗が言う通り、悲観することばかりではないのかもしれない。
運が良かったとはいえ、こんなにも早く、同じ境遇の他の“潜者”に出会えたのだ。きっと、この世界には俺のような人間が沢山いて、こんな血みどろの世界で生き続けている。他の多くの人にできていることなら、俺にもできないことは、きっとない。
「ちなみに、自身が“潜者”であることは口外せんほうがよい」
「え?」
「Aちゃんねるにおいて、“潜者”という存在は希少で異端じゃ」
俺の考えを読み取ったように天狗は補足し、その浅はかな考えを否定する。
「“潜者”は後天的に他の者には無い特殊な能力が備わる。そして、時にそれはこの世界のパワーバランスを脅かすほど強大なものであることがある。洗練された“潜者”は、特級戦力として戦局をただ一人でひっくり返すことさえ珍しくはない。“三王”、“三傑”ーーこの世界の歴史を動かしてきた者の多くは“潜者”じゃ」
“三王”に“三傑”、聞き慣れない言葉に戸惑っている俺を置いて、天狗は続ける。
「その性質上、“潜者”は良くも悪くも特別視される。味方につけて利用しようとする者、力をつける前に殺そうとする者。その者の立場によって様々ではあるが、何にせよ、お主が“潜者”だと知られてろくなことにはならん」
今、天狗は自身や俺がこの世界でとんでもない特別な存在であることを説明している。
全く実感が湧かないのは、あまりにも無力で弱い自分を目の当たりにしたばかりだろうか。それとも、このまだこの現実を受け止めて切れていないせいだろうか。
どちらにしても、どうにも他人事のように聞こえて仕方がない。
「とりあえずの話はここまでじゃ。今はこのダンジョンの攻略が先決じゃんp。この世界のあれこれは道中にでもすればよい。まとめて話したところで、頭には入りきらんじゃろう」
「天狗はこのダンジョン、知ってる?」
クロエが問いかける。
「実際に入ったことはないのぉ。帰還率は五分と言ったところか。最後に攻略したのは確か……」
「“仮面の教団”」
「うむ、そうじゃ。彼奴らは円卓の騎士を含めた四人以上での攻略を定石としておる。つまり、戦力的には今のパーティーより余程強かったと見てよい」
また訳の分からない語彙が次々に飛び出してくる。一々話を止めるわけにもいかないので、俺は黙って耳を傾ける。
分からないなりに察するに、このダンジョンの攻略は難しそうだというのが要点らしい。
「まずはあの高台を目指し、下層民の生活圏の場所を確認する」
「生活圏? ダンジョンの中にも人が住んでいるんですか?」
「うむ、それも詳しくは道中で説明するとしよう。魔物がダンジョンで独自の生態系を構築しているの同様、人間もダンジョン毎に独自の生態系を作り、独自の文化を形成していることがある。このタイプのダンジョンであれば、おそらく、ここにも下層民が住んでおると儂は見ている」
天狗がわざわざ「このタイプのダンジョン」という言葉を使ったのは、おそらく、もっと別のタイプのダンジョンがAちゃんねるに存在するということだろう。
太陽があり、空があり、自然があるダンジョン。俺の連想するダンジョンのイメージとは大きくかけ離れている。
きっと俺のイメージするような室内型のダンジョンーー例えば、洞窟や要塞と言ったダンジョンも存在するのかもしれない。
未だにこの広大な空間が
「ダンジョンに住む人を下層民っていう」
クロエが天狗の説明に補足を入れる。
「そう。そして、情報の無いダンジョンでは、まずはこの彼ら下層民への聞き込みから始める。ダンジョンの全体像を知るには、先人である彼らに訊くのが最も手っ取り早いのじゃ」
命の延長に直結するだけあって、ダンジョンの攻略は攻略の定石のようなものが確立されているようだ。
今の俺には目の前のことでいっぱいっぱいだが、この世界で何年も生きていくことになるのだとしたら、きっとそういう知識も一般常識として身につけていく必要があるのだろう。
天狗の先導で高台を目指す。
道のりは森の中を貫く獣道で、不慣れな俺にとっては優しいものではなかったが、何とか食らいついて、二人のペースを遅らせるという事態だけは免れた。
道中もアルミラージや狼の襲撃に何度か遭ったが、天狗とクロエが難なくやっつけてしまった。鬼に金棒とは、まさにこのこと。本当に心強い。
「あった」
高台に辿り着くと、下層民の生活圏と思われる集落を確認することができた。
天狗の見立て通り、このダンジョンでは人間が生活を営んでいるようだ。木材と藪で出来た粗末な造りの民家が密集している。集落の中央部分には、井戸のような物も視認できる。
生活水準は遅れているようだが、生活様式は元の世界と大きくずれていないように見える。
「思ったより近い位置にあったの」
「目算で、一時間」
天狗とクロエが言うように、集落は高台から程近くに位置していた。
仮に、俺達が最初にいた地点から真っ直ぐ向かっていたとすれば、もうとっくに到着していたところだろう。
「余裕が無い。さっさと向かうとするかの」
天狗の視線が一瞬こちらに向かった気がした。
俺の死ミットは既に22時間台、そして、クロエの死ミットは11時間しか残されていない。
命の消費期限は刻一刻と擦り減っている。このまま何もしなくては、明日を待たずに俺とクロエは死んでしまうことになる。
そして、何より致命的なのは俺の存在だ。
俺には戦う力が無い。戦力面でも二人の足枷になっていることは間違いない上、魔物を倒して死ミットを回復することも出来ない。
つまり、死ミットの減り幅が二人よりもずっと大きい。魔物を倒し、死ミットを引き延ばしているクロエとは違い、俺に残された時間はこの死ミットに刻まれた数字がそのままなのだ。
少なくとも、残り22時間余りで情報の少ないダンジョンを攻略しなくてはならない。天狗もクロエも相当の実力者だと分かるが、その二人の表情は決して余裕のあるものでは無いことは俺にでも分かった。
「ーー!!」
集落の様子を観察している最中にそれは起きた。
「あれは……」
集落に向かう大きな化物。
一直線に突き進むそれは、魔物の一種と見て間違いない。
今まさに、集落が大型の魔物によって襲撃されようとしていた。
さっきの緑の巨人や牛頭よりも一回り以上大きいその魔物はアンバランスな大きな頭部に二本の角を有し、その手に棍棒のような武器を持つ。屈強な肉体と青い肌、ギョロリとした赤い目と口からはみ出すほどの大きな牙も特徴的だった。
形容するとすれば、鬼。
まさに俺がイメージする鬼そのものだ。
「青い、オーガ……?」
「まずいの。場合によっては、あれが管理人の可能性もある」
集落から鐘の音が鳴る。
集落の端に建てられた木造の塔の上から一人の男が鐘を懸命に鳴らしているのが見える。天狗達が説明してくれた通り、本当にあの集落には人間が住んでいるのだ。
集落の民家から次々に武器を持った男達が飛び出してくる。
日常的に訓練されていることが窺える迅速な動きだったが、共通して装備している槍は、正直なところ、貧相としか形容することができない程心細いもので、とてもあの鬼のような魔物に太刀打ちできるとは思えない。
「儂は先に行く。クロエはユズハを護衛しつつ、後から来てくれ」
ここでも足手まといか。
天狗はそう言い残し、風のような速度で高台を下り、森の中へと消えてしまった。この高台までの道中も、俺のペースに合わせてくれていたのだと、今更になって自覚する。
「急ごう」
「あ、ああ」
集落の喧騒がここまで届く。
多くの男達の悲鳴。
現在進行形で、沢山の人が殺されている。
森を駆ける。
クロエもかなり速度を押さえているように思うが、それでも、俺にとってはとてつもないスピードだ。
根が張り巡らされた地面は、少しでも気を緩めると、すぐに足を取られて転倒してしまうだろう。
結局、集落に辿り着くまでに十数分の時間を要することになった。
既に天狗とオーガと呼ばれる青い巨人との戦闘は始まっている。
オーガの肩に刻まれている数字は「40」。
オーガの基本的な戦い方は棍棒による打撃。間近で見ると、棍棒は金属製で思ったよりも巨大。そして、その大振りな振り下ろしによる攻撃は、地面を抉るほどに強力だった。あんなもの、一撃でもまともに食らえば、そのまま勝負が決する。
オーガの周囲には既に数人の亡骸が転がっており、その誰もが棍棒による打撃を受けたものだと一目で分かる損傷だった。
直視できないが、体のパーツがあらぬ方向に曲がっているのが見えた。全身の骨が砕かれたような状態だ。
正直、その無残な死体には嗚咽を禁じ得ない。
「援護する。君はここで」
「クロエ、近寄るで無い。お主の攻撃では有効打にはならぬ!」
クロエが近寄ろうとしたところで天狗が声を荒げた。
天狗は後手に回らざるを得ない状況だった。
天狗はオーガの棍棒を躱すことを第一とし、巨大なオーガの足元を意図的に動き回っているように見える。足元は棍棒の死角となり、素人目に見てもオーガが戦いづらそうなのが分かる。
天狗はオーガの攻撃を躱しながらも、小さな隙を突いて、炎を纏う刀でオーガの体に着実に斬撃を加えている。
だが、その傷自体は大したダメージでは無いことは一目瞭然だ。端的に言うと、擦り傷程度にしかなっていない。あの肉体、見た目以上に硬度らしい。
おそらく、天狗の狙いはあの小さなダメージでは無く、それに伴う炎によるダメージ。刃に纏わり付く炎は、オーガの巨躯に少しずつ火傷を残し、火種を積み上げていく。
「ウボォオオオオォォ」
オーガは炎に包まれていく。
ダメージの蓄積と共に、オーガの攻撃は乱雑になっていく。
そこから終始、天狗の一方的な攻撃だった。
「終いじゃ」
天狗が縦一文字に刀を振り下ろす。
その剣先から放たれる溢れんばかりの業火。
これまでにはなかった、圧倒的な熱量と火力にオーガは一瞬にして全身を飲まれる。
炎に包まれ、もはや悲鳴を上げることもなく、静かに崩れ落ちるオーガ。地面に伏した巨大な体は真っ黒に焼かれ、その息が絶えた後も轟々と炎を吹き出す。
天狗は自身の腕に刻まれた死ミットをしばらく見つめた後、刀を鞘に収めた。
倒した魔物の“時計の針”に応じて、死ミットは延長されるという特性を利用して、オーガの死を確かめたようだ。
遠巻きから見ていた集落の人間達から歓声が上がる。
多勢に無勢で歯が立たなかった相手をたった一人で討伐した姿は、彼らの目からすると英雄にも見えるだろう。
「喜ぶのは怪我人の手当てを全て終えてからじゃ。まだ息をしておる者は誰一人として殺すで無いぞ」
天狗の喝に人々はハッとしたようにそれぞれが慌ただしく動き出す。
そこから一時間は戦いの後始末に費やされることとなった。
死ミットによる死の期限が迫っている俺達からすると、この一時間ですら惜しいところではあったが、人道的にも、目的のためにも、この集落の復興には積極的に力を貸した。
何より、ダンジョンをクリアするためには、このダンジョンに長く住んでいる彼らの情報は必要不可欠だ。
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