ダンジョン
全てを思い出した。
だが、思い出したうえで、何が起きているのか、ここがどこなのかが分からない。不気味な山羊頭の男、そもそも、あれが男だったのか、人間だったのかも分からないが、あの異質な存在に触れられて、俺は意識を失った。
そして、目が覚めたときには見覚えのない景色。知らない街。そこで繰り広げられる血みどろの抗争。人智を、想像を遥かに越える不思議な力。
理解できる方がどうかしている。
耳に障る何かの鳴き声が目覚まし代わりになって、俺は目を覚ます。心地よい風が前髪を撫でる。俺は草原の上に寝転がっていた。いや、辺りは木々に囲まれている。ここは自然の中。
ーー森?
そもそもおかしい。
俺はあのクロエという美女に手を引かれ、あの街の家屋に飛び込んだはずだ。本来であれば、家の中にいるはずなのだ。それがこんな木々が生茂る自然の真ん中で寝ているなんてこと……。
上半身を起こす。
「あ、え……」
視界に飛び込んできた光景に、ぼんやりとしていた意識が一気に覚醒した。
「クロ、エ」
視界の真ん中には、剣を構えるクロエ。
左腕から手首にかけて血を流し、肩を揺らすほど大きく息をする彼女は何かと戦っていた。そして、その何かもすぐに分かった。
「何だ、あれ。どうなってんだよ、これ」
囲まれている。
どうやら、ウサギのような獣に。
目を血張らせたその獣は、俺が知る動物の中ではウサギに最も近い生物だったが、明らかにウサギではないことは確かだった。
血走った赤い目に、口元から垣間見える黒く牙。
その額には鋭く尖った一本角が伸びる。腹部には、数字が刻まれている。
俺の知るウサギよりは一回り大きく、サイズだけで言えば、大型犬に近い。
そして、その手には武器が握られていた。
剣、槍、斧ーー二足歩行で殺気を垂れ流すこの奇妙な生物達は思い思いの武器を片手に、威嚇するような鳴き声を上げている。
「キィィイ」
「キイ」
「キイイ」
俺を叩き起こした鳴き声はこれか。
よく見ると、既に地面にはこのウサギ擬きの仲間と思われる生物の死体があちらこちらに散らかっている。俺が眠っている間にクロエが斬り殺したのだと、瞬時に理解する。
「キイィィ!」
ウサギ擬きの一匹が鳴き声を上げて地面を蹴ったのを皮切りに、次々に他の個体が飛び出し、クロエへの距離を詰める。
彼女は最低限の動きで飛びかかってくるウサギ擬きの攻撃を躱し、その背中に剣を振り下ろす。次に斬り掛かってきた個体の腹部に思い切り蹴りを入れると、後ろへ引き下がり、横一線に剣を振って、ウサギ擬き達の動きを牽制する。
「まさか」
俺がどれほど気絶していたか分からないが、彼女はずっとここで俺を守りながら戦ってくれていたのか。赤の他人を俺を守ってくれていたというのか。
「やっと、起きた」
クロエは俺を一瞥すると、間髪入れずに追撃してきた二匹のウサギ擬きをまとめて斬り伏せる。
「君、武器は?」
「ぶ、ぶき?」
「え、えっと、何が得意、なの?」
クロエはウサギ擬きの攻撃を体術や回避で器用に往なし続ける。しかも、俺のところに向かってきそうな個体はしっかりと仕留めている。とんでもない運動神経と判断能力に脱帽だ。
しかし、完璧ではない。
辛うじて躱すような場面が所々で増えている。
それでも、クロエは表情ひとつ変えず、淡々とウサギ擬き達を捌き続ける。
「何が得意……?」
目の前でそんな奮闘を見せつけられて、せめて投げつけられた質問くらいには答えて上げたい気持ちでいっぱいだったが、言っている意味がまるで理解できないのが本音だった。
彼女は俺が戦闘員だと思い込んでいるのだろうか。
「あの、俺、民間人で……」
「民間、人?」
クロエはその言葉自体、理解できていないかのように首を傾げる。
「とにかく。ここは危険」
彼女は突進してきたウサギ擬きを迷うことなく串刺しにする。ずいぶんな数のウサギ擬きの死体が積み上がっていると思うが、それでも、こちらを囲う奴らの数が一向に減っているように思えない。
埒が明かないと見て、一旦逃げようという判断らしい。
「ーー!!」
クロエが俺のすぐ目の前まで後退したところで大きく一回だけ地鳴りがした。
地震かと思ったが、同じくらいの振動がもう一度地面を揺らす。
どしん、どしん、その振動の頻度は徐々に小さく、そして、その大きさは徐々に大きくなっていく。何か、巨大な何かが、近づいてきている予感がした。
あれほどまでに殺気を放っていたウサギ擬きの群れが何かから逃げるように離散していく。空気が変わったのが、俺にも分かった。
「まずい」
深刻さが伝わる口調でクロエはそう言うと、視線をウサギ擬きの群れと反対側に逸らした。
同じ方向に目を向けると、その音の正体を視認できた。何かが争っている。巨大な図体をした二体の生物がその巨躯をぶつけ合っている。その体は優に5メートルは超える。
「何だよ、あれ」
これもまた、見たことのない生物だった。
片方は全身の肌が緑色だった。その肌の色と大きさを除けば、容姿は人間に近いが、目は黄色、瞳は赤色をしていて、耳は尖っている。ぼてっとしたお腹が地鳴りの度に揺れる。腰には獣の皮らしきものが巻かれていて、図体のバランスに不釣り合いな長い手もまた特徴の一つだった。
「ウボォオオ」
対するもう一体も限りなく人に近い造形をしている。しかし、最大の特徴はその頭部にあった。牛。その巨人は牛の頭を持っていた。全身が毛むくじゃらではあったが、頭から下の造りはほぼ人間と同じ。こちらは陰部を隠すような外装はなく、見事な巨根が動く度に右へ左へと動くのには少し目のやり場に困る。
緑の巨人と牛頭の巨人。二体は絶えず咆哮を上げながら、その巨大な体をぶつけ合う。その度に辺りが揺れる。
「動ける?」
二体の巨人は手の平を掴み合い、押し合いを始める。
「ウボォォオオオオオオ!」
「ハァアアァアアアッ!」
二体の人ならざる者の雄叫びが森を震えさせる。
牛頭がその体を屈めたかと思うと、空かさずその二本角を緑の巨躯に突き立てる。緑の巨人は脇腹を角に抉られたまま、角によって体を挟み込まれる。
「アウァアッ」
緑の巨人の体が持ち上げられる。
「ウボォォオオオっ!!!」
牛頭の雄叫びが耳をつんざく。
「来る」
クロエが呟く。
次の瞬間には、俺の体を抱き上げ、木々の隙間へ駆け抜ける。
為されるがまま、守られるがままで、情けない限りだ。
「下ろしーー」
下ろしてくれ、そう告げようとしたところで、大きな地響きがすぐそこで起こった。さっきまで俺達がいた場所に緑の巨人が投げ飛ばされていた。あのまま、あの場にいたら下敷きになっていた。
「あれの小競り合いには踏み込めない。逃げるだけ」
クロエは俺を抱きかかえたまま走る。森の中をただひたすら走る。
「あ、あいつらは……!? 何者なんだよ」
年齢がいくらも変わらない女の子に抱えられ、あまりにも情けない格好のまま俺は何とか言葉を紡ぐ。その後背では、例の巨人達が今も殴り合いの喧嘩をしている。幸いにも、こちらに興味は無いようだったが、あれだけの巨体が二つも同時に暴れると、周囲の環境も堪ったものじゃない。木々は倒れ、他の生物は逃げ惑う。
「君は」
しばらく走ったところでクロエが足を止める。
十分な距離を稼いだと言う判断だろうか。確かに巨人達の戦いはさっきに比べると、随分と遠くにあるように感じた。
「君は、誰」
「えっと、藍澤ーー」
「藍澤ユズハ。君は、誰?」
俺の名前をわざわざ口にし、彼女はもう一度問いかける。
それは、名前ではなく、俺という存在に対する疑問。
彼女は俺を下ろすと、真っ直ぐな視線でじっと俺を見る。
綺麗なビー玉みたいな瞳に俺の顔が映る。
「君は、誰」
クロエは問う。
何かがおかしい。
彼女もそう感じたのだろう。
俺はここで起きる全ての事象に驚きを隠せないように、彼女にも俺という存在が異質に映った。ここは、この世界は、俺が知る現実から逸脱している。
この街で目を覚ましてから、会話が噛み合わないことが多々あった。いや、会話というよりは俺の持ちうる常識が噛み合わない瞬間が無数にあった。
俺は一つの可能性に気がついている。
そんなことは有り得ないと、頭では否定しているが、その有り得ないことが目の前で現実として度々起こっていることを目にしてしまえば、その気力も削がれる。
「俺は……」
知らない街。
知らない空。
知らない力。
ここは、俺の知る世界ではないのではないか、という可能性。
見たことがない化物や事象の全てがそれを物語っている。少なくとも、俺の知る世界は“こういう風”にはできていない。弾丸は宙の上で止まらないし、動物は武器を持たない。巨人もいなければ、家の扉を抜けると、知らない森に繋がっていない。
常識が覆されている。
「潜者、なの」
クロエが俺の答えを待ちきれず、言う。
「せん、じゃ?」
俺は訳も分からず、その言葉を反芻する。
さっきの街で襲ってきた男の一人もそんなキーワードを口にしていたような記憶がある。それが何を意味するのかさっぱりだったが。
「魔導書は?」
「魔導、書?」
さっきから彼女の言葉を繰り返すロボットみたいだ。何だか悔しくて情けないが、彼女の口にする言葉の一々が理解できないから、そうするしかない。
「顕現」
「けん、げん?」
またその言葉を舐めるように繰り返すと、クロエと俺のすぐ節目に二冊の本が突如として現れた。緑色の本と、黒い本。分厚いそれらの本は俺達の顔のすぐ横に浮かび上がっている。
「う、うわ、なんだよ、これ」
「やっぱり」
「え?」
クロエは突如として現れた本を見て、何かを悟ったようだった。
「君は、異世界から来た、
「異世界」
クロエがついにその可能性について、言及する。
いよいよ認めなくてはならないらしい。俺の常識の全てが通じないこの世界が、俺が今まで生きてきた世界とは、全くの別物であると言うことを。
「俺は」
「目的は?」
クロエが剣を引き抜き、その切先を俺の鼻先に向ける。
言葉が出ない。
すぐ目と鼻の先に突きつけられた死の香りが、俺の喉を締め付け、体を硬直させる。体が僅かに震え、冷たい汗がこめかみを伝う。
「目的、なんかない」
「ない?」
それでも、どうにかして絞り出した答えに彼女は首を傾げる。
「知らない。俺は、どうして自分がここにいるのか。ここがどんなところで、何が起こっているのか、何も知らないし、分からない……っ!」
そこからは堰き止めれていた言葉が自然と溢れ出した。何か口にしないと、何かを伝えないと、俺はきっとこのまま訳も分からず殺されてしまう。そんなのは嫌だ。理不尽に殺されるのも御免だ。
「俺はあの山羊頭に触れられて……っ、気がついたらあの街にいた……。たくさん、たくさん人が死んでいて」
記憶がフラッシュバックする。
血の臭いが想起される。人々の悲痛な叫びと断末魔がまだ鼓膜の奥の方で鳴り響くような錯覚があった。胃の奥から不快な感触がこみ上げてくる。
「お、おぇ……」
顔を背けたところで俺は嘔吐した。
殆ど胃酸だけを地面に吐き出し、それでも、まだ吐き気が追撃してきて、もう一度吐いた。最後に何かを口にしたのはいつだったろう。
「ごめん。大丈夫……?」
クロエは剣を背中に収め、困ったような表情で俺に近寄る。
「俺は、俺はどうしたら……」
口に残る胃液の残りを唾と一緒に吐き出すと、頭の中に混沌が押し寄せる。さっきまでは目の前のことに対処するので一杯いっぱいで、何かを考える余裕なんてなかった。
だけど、考える隙がほんの少しでも生じてしまったら、もう考えるのを、いや、混乱するのを止めることができなかった。
分からないことだらけになると、分からないことが分からない。いくつか分かっていることは、ここでは当たり前のように目の前で人が死に、俺の想像の及ばない力や生物が当たり前のように
それにこの腕に刻まれた数字。「23:44」。
タトゥーかと思っていたが、さっきと数字が変わっている。
まるで、時計のようだと思った。何かの時を刻んでいるように思えた。
俺の肉体にも異変が起きている。数字が変わるタトゥーなんて、これまでの世界では有り得ないことだ。何でも有りの世界で、有り得ない、有り得ないと嘆くことが馬鹿らしくなっている。
「落ち着いて」
クロエが俺の頬に手を当てる。
冷たい手だった。
だけど、小さくて、柔らかくて、優しい手だった。
何だか不思議と、急にこれまで混乱していたのがアホらしく思えてきて、目の奥が潤んできた。仮にも、女の子の前で男が泣くなんて、つくづく情けない。だけど、その涙を止めることはできなかった。
「大丈夫。君は、大丈夫」
クロエの言葉が俺を落ち着かせる。彼女は俺を優しく抱き締めると、子供をあやすようように、頭を撫でる。俺はその腕の中で静かに泣いた。情けなくて、恥ずかしくて、穴があったら逃げ出したい、そんな気分だったけど、その腕の中はずっとこうしていたほど居心地がよかった。
「落ち着いた?」
一頻り、クロエの腕の中で泣いた後、彼女は優しく問いかけた。
「うん、ごめん。男のくせに、情けなくって」
彼女は黙って首を横に振る。
「私も君にどう接したらいいか分からない。きっと、爺様ならもっと上手くできるんだろうけど」
爺様?
クロエの祖父だろうか。街での戦闘でも、何人か協力者がいたようだが、彼らも共に生活しているのだろうか。
疑問は尽きない。
「何にしても」
クロエは言う。
彼女は表情が乏しい。
しかし、不思議とその感情は伝わってくる。
「時間が無い。
セントラル?
死ミット?
また聞いたことのない語句が飛び出してきた。同じ日本語なのに、まるで別の世界の言語を扱っているようだ。
「ついてきて。君が本当に“潜者”なら聞きたいことが沢山あると思う、お互い」
クロエはそう言ってせっせと歩き出す。理由はともかく、彼女にも何らかの目的があって、それも急を要するものであるものらしい。
黙々と歩き続ける彼女の背中を、俺も黙ったまま追う。さっき目の前に現れた魔導書と呼ばれる本も、俺達の動きに合わせて浮遊したまま付いてくる。危害を加えてくるようなことは無いみたいだが、なんだかこの本自体が意思を持っているようで不気味だ。
道中、クロエが「解除」と一言口にしたところで、クロエの分と思われる一冊は消滅したので、俺もそれに倣い、「解除」と口にしてみる。黒い本は淡い光に包まれると、空気の中に溶けるようにして消えた。今に始まったことではないが、ここで起こることは一々常識を逸脱している。
「腕、大丈夫なのか」
クロエは左腕から血を流していた。さっき衣服の裾を破って止血処理をしていたが、その切れ端も真っ赤に染まっている。
「大丈夫。もう血は止まってる」
「そうか」
俺を守ってくれたことが原因の一つだと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。こんな訳の分からない世界では仕方のないことなのかもしれないが、彼女の足を引っ張ってばかりだ。
「何か聞きたいことは?」
クロエは話を切り替えようとしたのか、ようやく自ら口を開いた。
正直、聞きたいことは山ほどあった。だが、根本的に分からないことが多すぎる。ここじゃ、俺は生まれたばかりの赤ん坊みたいなものだ。
「ここはどこなんだ」
頭の中に溢れ返った疑問の数に耐え切れずに、その背中に問いかける。その答えは何となく見当が付き始めている。ここに至るまでに耳にしてきた言葉や目にしてきた有象無象が壮大なパズルとなって、俺にある仮説を与えている。
クロエは俺のことを異世界から来たと憶測していた。そして、俺もこの場所を日本、いや、俺がいた世界ではないと信じざるを得ない状況にある。
そして、あの山羊頭の最後の言葉を、唯一放った言葉を、今も鮮明に憶えている。
ーー『Aちゃんねるへようこそ』
山羊頭は確かにそう言った。だとすれば、ここはーーこの世界そのものが、兄が正気を失ったかのように固執していた“Aちゃんねる”なのではないか。
「ここは、Aちゃんねる」
彼女は答える。
ようやく答え合わせができたと、無数の疑問のうちの一つが解消されたことに、とりあえずは安堵する。あのままでは、どこかで頭がパンクしていた。
やはり、俺が予測していた通り、この世界そのものが“Aちゃんねる”と言う場所らしい。都市伝説で噂されていたような電子的なサイトではなかったが、こんな世界はネト住民は想像することすらできないだろう。
俺がいた世界とは全く異なる概念を孕むこの世界。
“Aちゃんねる”とは、異世界の名称のことらしい。
「君が最初にいたあの街は“
クロエは続ける。
「ここはダンジョンの中」
ダンジョンと呼ばれる無数の異界のその一つ。
ーークロエはそれが当たり前のようにそう言った。
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