Aちゃんねるは存在する
酷い雨の日だった。
バケツをひっくり返したような雨は、外に出るのも億劫になるほどで、出席予定だった講義の開始時刻もとっくに過ぎ去っていた。
兄が失踪してから一ヶ月が経っていた。
数年前に父が不慮の事故で死に、後を追うように兄が蒸発。
いよいよ母の心は折れ、祖父母の家で寝込んでいる。
大学を辞めようと考えていた。
必死で勉強して、ようやく手にした第一志望の大学。
花のキャンパスライフに夢を見て、初めての一人暮らし。
ここから始まるはずだった明るい未来。
今は少なくともそんな気分にはなれなかった。
こんなことをしている場合ではないと、心のどこかで自身に問いかけている。母の傍にいるべきだと。
祖父母は「気にするな」と言ってくれたが、「はい、そうですか」と聞き入れられるほど、俺の心は野太くない。
心ここにあらずの三週間を棒に振った俺は、この土砂降りの雨を理由に、ついに学校を休んだ。
新一年生にとって、最初の一ヶ月が重要であることは言うまでもない。おかげで、サークルにも部活にも入りそびれて、友達一人作ることができなかった。
帰省用の荷物をまとめながら、兄のことを考える。
兄は引きこもりだった。
それも特殊なタイプの。
研究者だった父が死ぬまでは、兄は優等生だった。秀才、いや、天才と呼ばれるほどの人材で、大学院で書き上げた論文のいくつかは、小難しい名前の賞に輝いていた。一流企業への就職も決まり、これからと言うときに父が死に、全てが変わってしまった。
父の死から数ヶ月して、兄は会社を辞めた。
職場の同僚たちにも、労働環境にも恵まれていた中、突然の辞職だった。前触れもない辞表に、社内は騒然としたらしい。
ちなみに、これらは全て、わざわざ引き留めに家まで来た取締役と部長の談だ。結局、兄は会社には戻らず、その日を境に父の書斎に引き篭もった。
兄の引きこもりは、他のそれとは一線を画す。
まず、兄は家にしっかり金を入れていた。一万、二万ではなく、母の収入と同程度の金を、だ。どこでどう稼いでいたのかは今も謎のままだが、兄は書斎に引きこもりながら、それだけの金を稼いでいた。
今の時代、ネット環境さえあれば、お金を稼ぐ方法はいくつかあるが、それだけで食っていけるレベルの収入となると、訳が違う。
そして、二つ目に兄は時折、家を出た。それも一度出ると、二、三日は戻らなかった。
何を目的にした外出だったのか、今となっては全く分からないが、家を出て行くときに目にした兄の顔は、どこか鬼気迫るものがあった。何かに取り憑かれている、そんな気配だった。
俺は持っている中で一番大きいリュックに必要最低限の荷物を詰め込み、携帯で電車の時間を確認する。
父の書斎に、きっと何かあるはずだと、俺は確信していた。
兄が引き篭もったことには何か理由がある。そして、それはこの失踪にも通ずる何かだ。ヒントが残されているとすれば、父の書斎しか見当がつかなかった。
確認してみる価値はある。
きっと、このままじゃ俺のキャンパスライフは燻んでしまう。
傘を差し、家を出る。
雨は止まない。天気予報では、この雨は夜まで続くらしい。
どんよりとした気分を引きずりながら、俺は駅へと向かった。
* * *
無人の実家は静かで、異様なほどに広く感じる。
リビングに入ると、鼻先に腐敗臭が漂ってくる。悪臭を放つキッチンまで鼻を摘みながら向かい、ゴミ袋を片手に冷蔵庫を開ける。腐り切った野菜の数々を指先に袋に一つひとつ放り込んでいく。
母を独りにしてしまったことを悔いる。
兄が二、三日の家出で済まなくなったのだと確信した時、母の心はぽっきりと折れ、兄を探しに裸足で飛び出した矢先に倒れた。
家を出た直後に倒れたことが幸いして、すぐに通行人が救急車を呼んでくれたため、大事には至らなかったが、もし、この静かな家で倒れていたと思うと、ゾッとする。
今は祖父母が面倒を見てくれているが、どうにも生きる気力を失いつつあると、見舞いに行った時に思った。彼女には、俺ではなく、兄や父が必要なのだと。
兄の身に何があったのか。
俺にはそれを知り、母を安心させる義務がある。
申し訳程度に部屋の片付けをして、二階にある父の書斎に向かう。
父の書斎は、まだ兄と父の面影が残っているようだった。
名残、と表現するのがいいのかもしれない。兄が書いたであろう殴り書きのメモも、父が遺したであろうボールペンも、今ではどれも懐かしく感じる。
書斎には大量のプリントとメモ書き。それからすっかり使い古したパソコンが一台。あとは山積みにされた無数の本。足の踏み場もなかった。
目についたプリントやメモを手に取ってみるが、どれも難解な内容で父達は違い、平凡な俺の頭では理解できないものがほとんどだ。
数式が羅列されているもの、英語や中国語、その他の言語で書かれたもの、全てが不規則で、同様に複雑怪奇だった。
早々に音を上げて、パソコンを立ち上げる。
真っ暗な画面が光を帯び、使用者を迎え入れる「ようこそ」の表記が浮かび上がる。随分と古いOSだ。もはや、骨董品の域に到達しているかもしれない。
「aizawa_mokuba」とユーザー名が表示される。
父の名前だ。
このアカウントしか無いところを見ると、兄は父のアカウントを使ってこのパソコンを使っていたらしい。しかし、パスワードが設定されていて、ログインはできない。
家族の名前や誕生日を使って、それらしいパスワードを作ってみるが、そう簡単には行かない。ログイン失敗を繰り返し、パソコンには五分のロックが掛かってしまった。
「ダメ、か」
早速、手詰まりか。
少しでも理解できる資料は無いかと、辺りの書類をもう一度漁る。
論文のタイトルから、兄が何について探っていたのかを知ることができれば御の字だったが、どれも脈略が掴めないものだった。
「仮想現実」「電子」「都市伝説」「噂」ーーどれもこれも、関連性が読めないし、そもそも、こんな論題に兄が興味を示すとも思えなかった。
しばらく書類を漁っていると、ひとつだけ気になる言葉を見つけた。
難しい論文や数式の羅列が並ぶ資料が書斎の殆どを埋め尽くす中、ネット記事や電子掲示板を印刷したものが僅かに見つかった。
そして、そのどれもが「Aちゃんねる」という都市伝説について触れられていた。
「Aちゃんねる」とは、一部のオカルトファンに広まるマイナーな都市伝説のひとつらしい。
英語表記では「@channel」と呼ばれ、一応のところは海外にも流通している都市伝説のようだ。
ーー『そのサイトに辿り着いた者はどんな願いも叶えることができる』
ーー『それを見た者は死ぬ』
ネットの住人達が語るパターンは主にその二つだった。伝説のサイトとか、死神のサイトとか、そういう類の話だ。どれも陳腐な噂話をおもしろおかしく装飾されているものが殆どだ。
何にせよ、他の書類とは性質が違いすぎる。理解不能な書類の中に紛れ込むB級オカルトは不自然の極みだった。
兄がこの書斎で人生を投げ出してまで調べていたことのひとつが、全く無関係な都市伝説だとは思えなかった。
何か、意味がある。
この書斎にある全てに、意味があるはずだ。
俺はロックが解除されたのを確認し、新たなパスワードを打ち込む。「Achannel」「@channel」「Ach」、そして、「@」とだけ入力したところで、ログインに成功した。
やはり、無関係ではない。
もしかしたら、このパスワードのためだけに用意された資料なのかもしれないとも思ったが、デスクトップに並ぶ文章ファイルを見て、確信に至る。
その殆どが「Aちゃんねる」に関わるものだった。
ファイル名のほぼ全てに「Aちゃんねる」の名前が表示されている。取り憑かれたような狂気を覚える。何が起きているのか、理解が追いつかなかった。
最初のファイルを開こうとしたところで、俺の携帯が鳴った。
画面に表示された名前に息が止まった。動悸が鳴り止まない。
冷たい汗が背筋を伝う。有り得ないことが起きている。
『藍澤 一葉』
それは失踪したはずの兄からのメールだった。
「何で」
見計ったかのようなタイミングに鳥肌が立つ。まるで、俺がこの部屋でパソコンを開くのを待っていたかのようだった。
辺りを見回してみるが、隠しカメラのようなものは見つからない。パソコンを遠隔操作でもしているのか、それとも、パソコンへのログインが一種のスイッチとなったのか。
送られてきたメールには、画像ファイルが添付されている。
そして、たった一言だけ記されている。
ーー『Aちゃんねるは存在する』
何の悪ふざけだと、怒りが湧き上がるのと同時に、得体の知れない不気味さを感じていた。恐る恐る画像ファイルを開く。
画像は一枚の写真だった。
そこには空が写されている。そして、その空の真ん中には亀裂が走り、そこから黒い炎が溢れ出そうとしているのが見える。
状況から見るに合成写真だろうが、何かを暗示しているように思える。その何かがさっぱり見当がつかないのは、もはや今に始まったことではない。
意味の分からないメールを閉じ、パソコンにもう一度目を移したところで画面が真っ暗になった。電源スイッチを再度押し込むが、上手く起動できない。何者かの、おそらくは、兄の手の平で転がされているように感じる。
兄の視線を、息遣いを、気配を感じる。
頼みの綱であるパソコンが完全に再起不能になったことに音をあげて、俺はリビングに戻る。
生憎の雨のせいで、薄暗い一室はどことなく陰湿で、不気味な雰囲気を漂わせている。本来は家族四人で住むことが想定された広いリビングは生活感を僅かに残すだけで、意味を失った家財が寂しそうに並んでいる。
「ーー!」
視界の端に映った影に戦慄が走る。
奥の部屋。
その薄暗闇の中に誰かいる。
息を殺し、腰を屈める。
この家にいるはずの家族はもういない。この空間に誰かがいるとすれば、それは招かられざる者。強盗の類か。
その暗闇に視線を向けたまま、武器になりそうなものに見当をつける。近くのテーブルに放置されていたハサミを手に取り、静かに構える。
相手が強盗なりの凶器を持っていれば、こんな文房具は申し訳程度のものにもならないだろうが、無いよりはマシだ。
人影がこちらに踏み出してくる。
どうやら、向こうもこちらに気がついたようだ。
「え」
暗闇からその影が抜け出し、その姿を視認する。
言葉を失ったのは、それが人には見えなかったから。
黒いタキシード姿に、黒い山羊の頭部。
精巧に作られた被り物だろうか。はっきりとは見えないが、恐ろしくリアルだ。本物の山羊の剥製を使っているのかもしれない。だが、何にせよ、この男は単なる強盗では無いことだけははっきりと分かった。
その男が放つ雰囲気は言葉にできない異様さがあった。
そもそも、強盗が精巧な山羊の被り物をして現れること自体が異常だ。
それに普段は不在にしている家に俺がいるこの瞬間をピンポイントで狙い澄ましたかのようなタイミングも不自然だ。確率的には、殆ど考えられない。
「兄貴の失踪に関係してるのか、あんた」
十分に考えうる可能性だった。
場合によっては、兄はこの男に誘拐ーー最悪の場合、殺されている可能性さえある。
山羊頭は答えない。
ただ黙ったまま、静かにゆっくりと、しかし、着実にこちらに歩み寄る。
見たところ、凶器は持っていない。
あのタキシードの下に何かを隠し持っている可能性は拭えないが、身構える気配もなく、態勢はあまりにも無防備に思える。紛いなりにも、凶器を手にしている相手に対する態度ではない。
故に、不気味だった。
その無防備が意味するのは、ある意味で余裕にも受け取れた。
棒立ちのまま、武器などに頼らずとも返り討ちにできるーーそんな自信がこの男にはあるのではないか。男はこうしている間にも、ゆっくりと近づいてくる。
決断が迫られている。
選択肢は二つ。
立ち向かうか、逃げるか。
「くそっ」
テーブルの上に広がっている雑多な小物を払い除けるようにして、男に投げつける。同時に駆け出し、男とは反対方向に走った。
立ち向かうのはリスクでしかないと判断した。
どこから現れたのかも、何が目的なのかも、何もかもが不明な相手に対し、心許ないハサミひとつで立ち向かうなんてことができるほど、俺は度胸も身体能力も持ち合わせていない。
近くの窓を開け放ち、雨が降り頻る外へと飛び出す。
靴下が水溜りに浸かり、土砂降りの雨によって殆ど一瞬にして全身がびしょ濡れになるが、そんなことには構っていられない。後ろを振り返ると、既に山羊頭の姿は無い。
どこに消えた。
いや、どこでもいい。
今は何よりも早く、ここから離れるのが最優先だ。
人がいるところに出ればーー
「あ?」
腑抜けた声が出た。
さっきまで家の中で佇んでいたはずの山羊頭が目の前にいた。
雨の中、山羊の不気味な目が俺を見下ろす。
近くで見て分かった。
この山羊頭は被り物なんかじゃない。
信じられないが、この男の頭部は本物の山羊そのものだ。
男の手がこちらに伸びる。
白い手袋をしているが、垣間見える手首は人のものだ。
俺の体は縮こまって動かない。
「あ、あんたは、いったい……」
絞り出した言葉は、意味を持たない。
男の手が俺の額に触れる。
その瞬間、山羊の口元が笑ったような気がした。
頭を過ぎる死の予感。
冷たい雨粒の一つひとつが、俺の体温を奪う。
山羊の口が初めて動く。
「Aちゃんねるへ、ようこそ」
ーーAちゃんねる……?
次の瞬間、視界の中の山羊頭がぼんやりと輪郭を失い始める。
否、俺の視界自体が霞み始めている。
視覚の異常に続き、頭の奥に響くような耳鳴りが俺を襲う。
「何だよ、これ」
きっと意味がないことだと分かっていても、懸命に山羊頭に手を伸ばす。しかし、その手は届かない。そして、俺の意識は闇に飲まれた。
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