Aちゃんねる

焼きおにぎり

プロローグ

直前の記憶がおぼろげだ。


俺は立ち尽くしている。

目前に広がっているのは見覚えのない西洋風の街並み。


煉瓦仕立ての家々と道路。しかし、そこに人々や車の往来は無い。まるで、人の気配が、いや、生活感が感じられない静寂の街。


ふと、視界の隅に入り込んだ自身の腕を見る。


数字のタトゥーが刻まれていた。「24:00」。ぼんやりと光っているようにも見える。心当たりはない。趣味の悪いタトゥーだと思った。少なくとも、俺が好き好んでこんなタトゥーを彫ったとは思えなかった。


夢を見ているようだと、錯覚する。

肌に感じる湿度も、街を吹き抜ける風も、どこまでもリアルだ。

だが、この街を包み込む雰囲気はどこか現実離れしていた。


どうして俺がここにいるのか、思い出せない。


ぼんやりとした記憶が頭の上に浮かんでは消える。もう少しで思い出せそうなところで、肝心なところが霧に霞む。


そんな思考の堂々巡りを遮り、どこからか男の悲鳴が聞こえた。


次に何かが炸裂する音。

実物は体験したことが無いが、これはおそらく、銃声というやつだ。


男の悲鳴を皮切りに、静寂そのものだった街がその色を急速に変えていく。銃声、爆発音、怒号に悲鳴に、叫び声。そう遠くは無いどこかで、血生臭い争いの気配が漂っている。


俺は夢見心地のまま、ゆったりと歩を進める。


家々の壁沿いをゆっくりと進む。


どの家も同じような造りをしていて、共通して言えるのは窓が無いことだった。


存在するのは扉だけ。


扉には小窓のようなものが付いているが、そこには数字が刻まれているか、真っ黒に塗り潰されているか、どちらかだ。いずれにせよ、小窓としての機能は有していない。


辿々しい足取りで最初の角を曲がる。



「え」



思わず絶句した。

絶望が目の前に転がっていた。


地面に広がるいくつもの血溜まり。

嗅いだことのない血肉が焼ける臭いに胃袋の奥の方から吐き気が催す。


見たことのない街で、見たことのない人々や化物が戦争をしている。

目の前で起こる全ての事象がCGに見えるほど現実離れしていた。


誰かが叫び、泣き、死んでいく。一秒ずつ、景色が目まぐるしく移り変わっていくようだ。怒りと憎しみと悲しみ、そして、狂気。おぞましい感情の全てがこの街に滞在している。


世界は百八十度、その概念をひっくり返し、俺の前に立っている。


西洋風の街並み。

青い空に浮かぶ二つの太陽。

扉の窓枠に数字が刻まれた家々。


俺はこんな街を見たことがない。いや、聞いたこともない。


ここは日本なのか。

いや、日本どころか、世界中探したってこんな場所は……。


耳をつんざくような銃声が聞こえて、意識が現実を突きつける。


強張った身体が辛うじて行動に移せたのは、身を屈めることくらいで、それがどれほど防衛としての意味を持つかは疑問だと、頭では分かっていた。


銃声は近い。


それ自体は、俺を狙ったものではないと思うが、凶器を持った人間がかなり近くにいる。というより、この街全体が抗争状態にあるとすれば、この一帯で安全な場所など、どこにもないのではないかとも思う。


平凡な日常はどこに行ったのか。

俺はついさっきまで薄暗い自室の中で携帯電話を片手にしていたはずだ。


大学生活という人生の夏休みのスタートを今まさに踏切り、勉学に、バイトに、それから恋と青春を全身全霊で謳歌する。その始まりの手前だったのではないのか。


ぼんやりとした記憶は少しずつ輪郭を取り戻している。


だが、今はそれどころではない。

死の気配がじわりと、いや、まさに目と鼻の先に近づいている。


俺は悲しくも、街の大きな路上の真ん中に立っていた。


目の見える範囲に人影は無いが、この位置が格好の的になり得ることは馬鹿でも分かった。角から凶器を持った戦闘員が出てくれば、その時点で終わりだ。



「あ」



この街で、初めて発した言葉は何とも拍子抜けするような呆けた声だった。


頭に浮かべた通りに角から姿を現す人影。

黒いマントで全身を覆った男は頭から角を生やしていた。

その手には、大きな機関銃が握られている。


意味もなく、その銃口が俺に向けられる。



ーー終わりだ。



死が俺の背中を撫でるのを感じた。

全身の毛が逆立ち、毛穴という毛穴から汗が吹き出す。


身体中のありとあらゆる機能が、文字どおり全身で危険信号を鳴らすが、もうすでに何もかもが遅かった。一個人の身体能力では、その死を退けることはもはや、不可能だった。


銃声が響き渡る。


次の瞬間、俺の身体が何かに突き飛ばされた。

誰かが俺の身体を抱きしめ、煉瓦仕立ての地面に一緒に転がり、建物の物陰に飛び込む



「君は、死にたいの?」



ビードロのような青い瞳と目があった。


銀髪の女の子だった。


短めの髪と白い肌が特徴的な彼女は、心底不思議そうな表情で俺の顔をまじまじと見た。日本人には見えなかったが、言語はしっかりと日本語だった。



「自殺志願者でも構わないけど、私の目の届かないところでやってくれると、助かる」


「い、いや……」



情けない声しか出ない。

死神と挨拶をしたばかりで生きた心地がしていないのだ。



「野良?」


「え?」


「えっと、傘下は?」



言語は一致しているはずだが、言葉の通じない俺に対して、彼女は困ったように眉を顰めた。



「記憶が、無い?」


「多分、そんなところ……かもしれない」



ここに至るまでの記憶が無いことは事実だ。


俺とは全く無関係のはずの抗争だが、やりとりの返答次第では、彼女は敵にも味方にもなり得るはずだ。少なくとも、あの黒マントの男は躊躇なく撃ってきた。迂闊な受け答えはできない。



「訳あり、なの?」


「分からない」


「名前は……?」


「えっと……ユズハ。藍澤ユズハ」



彼女は少し考えるような素振りを示した後、さっきまで俺達のいた通りの方向に鋭い視線を向けた。



「今はこの場を切り抜けることが大事」



彼女は自分に言い聞かせているようだった。心なしか、俺の身体を抱える手が震えているように思えた。俺と同じ歳くらいに見えるが、こんな女の子まで戦闘員として駆り出されているのか。



「ーー!!」



さっきの黒マント男が通りから勢いよく身を乗り出してきた。

機関銃の銃口は真っ直ぐこちらに向けられている。



「クロエ・ラインハルト、その首、もらった!!!」



男は狂気に満ちた声を荒げ、躊躇なく引き金を引く。

目眩がするような火花が飛び、銃声が連なる。


同時に、クロエと呼ばれた少女がその背中の剣を抜く。


今度こそ、死んだ。あの弾丸をこの距離で防ぐ手立てはない。それこそ、身の丈にも合わないそんな大きな剣一つでーー。



「え」



クロエが剣を振るったと同時に、変な声が口から漏れた。


さっきからロクな語彙を発することができていない。

目の前で起こっている現実が未だに受け止めきれない。


弾丸が宙の上で停止していた。

まるで、その時を止めたかのように。



「今のうちに」



呆気にとられる俺の手を引き、クロエが走り出す。



何が起きているかも分からないまま、俺とクロエは西洋風の街を走り続ける。抗争は未だに街の至る所で物騒な音を鳴らしていたが、彼女は戦況を俯瞰できているのか、上手く主戦場を回避しているように思えた。



「待てよッ、クロエ!」



さっきの男の気配が後方に付き纏う。



「しつこい」



銃声が鳴り響くと同時に、再びクロエが剣を振るうと、またしても弾丸がその時を停止させる。この剣が弾丸を止めていることは間違いなさそうだ。もちろん、原理は全く持って理解できそうにない。



「スペル“水竜の戯れ”」



クロエが地面に手を当て、何かを唱える。


直後、煉瓦仕立ての地面が水面のように一瞬だけ揺らいだかと思うと、地面の中から三体の水の鉄砲ーー小さな竜を象った水柱が飛び出した。



「んなもんが、俺らの影に通用するかよ」



男が語気を強めると、その背後に大きな黒い影が浮かび上がる。そう、文字通りーー男の影が立体的に浮かび上がったのだ。


その黒い影は四角いパネルような形を構築すると、盾のように男の前に立ち塞がる。三体の水竜は黒い影の壁に衝突すると、水飛沫を上げて爆ぜた。


一帯を覆い尽くす白い霧。


その間に俺はクロエにもう一度手を引かれていた。どうやら、端からあの水竜は攻撃用ではなく、目眩しの霧を発生させる仕掛けだったらしい。



「ど、どこに逃げるんだ……? この街、どこも殺し合いが起きているんじゃないのか?」


「ダンジョン」


「ダンジョン!?」


「そう。悪いけど、付き合ってもらう」



ダンジョン。

それはRPGゲームでよく耳にする響きだった。



「あくまで、私の目的は、ダンジョンの奪取。そこを捨て置くことは、できない」


「ダンジョンの奪取って、えっと」



状況は飲み込めない。


最初から謎に満ちているのに、その上から次々に謎を塗り潰しされていくような心境だ。もう流されるがままに流されろと、どこか開き直っている自分さえいた。



「君をここに捨て置くこともできない。だとすれば、できることは君を一緒に連れて行くこと。分かった?」


「全然……」


「君は、本当にどこの人なの」



感情の読めない口調でクロエは問いかける。それでも、心底不思議そうにしていることは何故か伝わるのが面白い。



「ここがどこだか聞きたいのは俺の方なんだけど」


「本当に記憶も、知識も無い、みたい」



直前以外の記憶はあるが、目覚めてから必要になったであろう知識を持ち合わせていないことは紛れもない事実だった。



「詳しくは下層したで聞く」



下層したというのは、さっき言っていたダンジョンのことだろうか。こんな不気味な街のどこかに、俺のイメージするような所謂ところのダンジョンが存在するとは思えなかった。俺が考えるダンジョンは、もっと物々しい場所にある洞窟や城だ。



「そこは、ここより安全なのか?」


「少なくとも、今のここよりは」



クロエは言う。



「目的の場所は近い。君、ポジションは?」


「ポジション?」


「……そんな気は、した」



クロエは無表情のままだ。


前方に複数の人間が対峙しているのが見える。激しい戦闘の真っ只中だ。


俺の手を引く彼女が向かう先に変更は無い。

まさか、あの中に突っ込むつもりなのか。


完璧なルートガイドで敵を躱し続けてきたさっきまでの彼女とはまるで別人だ。猪突猛進。



「手、離さないで。ダンジョンは、すぐそこ」



彼女の目的とする場所が、あの激戦区の最中だということか。生きて帰れる気がしない。



「クロエ、何しとったんじゃ!」



クロエを視認した男の一人が声を張った。


どうやら、彼女の仲間らしい。

四面楚歌では無いと知って、少しだけ安心した。


男は派手なアロハシャツと半ズボンで、寝起きみたいにボサボサの金髪を振り乱し、戦場を駆ける。


その両手には、真っ赤な炎が燃え滾っているが、熱そうな素振りは一切見せず、平然としているところを見ると、あれも“停止する弾丸”と同じ類の不思議な現象の一つだろうか。



「ごめん。拾い物をしてしまって」



クロエは抑揚のない声で言葉を返す。


拾い物と称された俺は何となく居心地が悪くなって、申し訳程度に肩を窄める。



「なんじゃ、そいつは」


「分からない」


「素性の分からん奴を連れて行くつもりじゃなかろうな!?」


「連れて行くよ」


「駄目じゃ、不確定よーー」


「シュウゾー、うるさい」



シュウゾーと呼ばれた男の言葉を遮り、クロエははっきりと忠告を否定する。どう言うわけか、俺に確固たる意思を持って、俺の肩入れをしてくれている。


そんな大声でのやりとりをしている最中でも、戦場は目まぐるしく動いている。弾丸や火球が飛び交い、多勢と多勢が武器を交え、血を血で洗う闘争が繰り広げられている。


シュウゾーはそんな戦いの最中をまるで日課のランニングでもこなすかのように闊歩かっぽする。自身の頭上に落ちてくる火の玉を両手の業火で振り払い、向かってくる兵士をあっけらかんと蹴り飛ばす。そして、時には、俺達の元へ向かってくる敵に炎を放ち、文字通りに焼き払う。



「わしゃ、責任は持たんぞ!」


「いい。自分の責任は自分で持つ」



クロエは剣を振り回しながら、あちらこちらから飛んでくる脅威を停止させ、この戦場を凌いでいた。



「わぁった、一度言い出したら譲らんっちゅうのがおめぇさんの性分じゃ。とにかく急げ、そのうち手に負えねぇんが来るぞ」



クロエは黙って頷くと、その足を速める。

その行く手を阻む影が、民家の屋根から降り立つ。



「それは、オレのことだろ? シュウゾー」



黒いスーツをラフに着こなす金髪の男。二階建の屋根の上から降り立ったというのに、大した着地姿勢も取らずに平然としているのを見ても、常人ではなさそうだ。



「間に合わんかったかい」



俺達と新手の男の間にシュウゾーが駆けつけ、割って入る。



「行け、クロエ。こいつぁ、わしが抑える」


「一人じゃ荷が重いんじゃないのかい? オレだって、仮にも“潜者”だよ」


「一人じゃねっ!」



また一つ、人影が屋根の上から飛び立った。


金髪男の視線が頭上に向かう。

その視線の先には、黒いワンピースの少女がいた。



「アンタの相手はアタシよ」



少女の背後に浮かび上がる大きな黒い腕。

最初に遭遇した角の男の背後に現れた立体的な影に酷使している。


屋根から飛び降りた少女の背後から伸びる黒い腕が、金髪男の頭上に振り抜かれる。


黒い拳が地面に衝突し、その煉瓦を深く抉る。直撃すれば、タダでは済まないだろう。しかし、男は軽やかな動きで後ろへ跳び、難なくその巨大なパンチを回避していた。



「ちゅうことで、二人のお相手を頼むぞ。“八咫烏”さんよぉ」


「行きな、クロエ。ここはアタシとシュウゾーに任せて!」


「じじいの側近、二人となるとオレもそれなりに本気を出さんとかね?」



少女の一瞥に対して、クロエは頷くと同時に、再び走り出す。

その視線は一点を見つめている。煉瓦造りの家の一つだ。その扉の窓枠には、「2」という数字が刻まれている。



「行こう」



クロエに手を引かれ、俺も懸命に走る。


すぐ脇を、すぐ背後を、そして、すぐ目の前をあらゆる死線が通り過ぎて行く。俺が味わったことのない、あらゆる死の予感がすぐそこにいた。


それでも、懸命に走る。

ただ、走り続ける。


俺の先を行くクロエが目的の扉に到達する。



「待てよ」


「ーー!!」



しかし、世の中は万事が上手くいくようにはできていない。


横から声を掛けられたかと思うと、クロエが俺を押し倒す。頭上を何かが通り過ぎた。攻撃か。



「どこから」


「どこでもいいだろ。もうちょっと遊んでいけよ」



俺達の行方を阻むのは、邪悪な笑みを浮かべる男。その手には、大きな鎌が握られている。死神が存在するのなら、こんな風貌をしているのだろうと思った。


さっきの正体不明の攻撃を避けた隙に、入ろうとしていた扉の前に男は陣取り、完全に進路を阻まれた形だ。



「お前と遊んでいる、暇はない」


「オレァ、暇なんだよ。 悪いが付き合え!」



男が鎌を振るうと同時に、クロエが剣を振るった。見えない何かが止まったような気がした。



「その剣は厄介だな。だが、無条件で発動できるってわけじゃねぇんだろ?」



男の背後に浮かび上がる影。



「数で押し切りゃ……どうだ」



背後から黒い弾のようなものが次々に飛び出す。クロエは俺の手を引き、後方へと走り出した。



「と、扉は……!?」


「現状、あれを突破するのは、無理。違う扉を使う」



走る先には、また別の扉があった。窓枠には、「3」という数字。



「逃げんじゃねぇよ!」



後ろから男が声を荒げるのが聞こえる。



「しょうがない。行くよ」


「え」



ひしひしと伝わる強烈な殺気を背中に浴びながら、クロエはそのドアノブに手を掛ける。


その瞬間、視界に異変が起きる。


視界が大きく渦を巻いて歪んでいく。

絵具を掻き混ぜたパレットの上のように。


ぐちゃぐちゃに、ぐちゃぐちゃに。


やがて、視界は光に閉ざされる。

眩く、強い、凄まじい光の中に、俺は意識を奪われる。


同時に、薄らとしていた記憶がはっきりと取り戻されて行くのを感じる。


薄れゆく意識の中で、俺は思い出す。

そして、その言葉を口にする。





「Aちゃんねるは、存在する」





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