赤鬼
「このダンジョンはオーガによって支配されています」
怪我人の手当てやらの後処理が落ち着いた頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
同じ屋根の下で同じ卓を囲み、このダンジョンの状況を切り出したのは、この集落の首長であるクォント。首長と言っても、三十代後半とまだ若い。だが、体中に走る傷跡や鍛え上げられた肉体を見るに、数々の死戦を超えてきた歴戦の戦士の一人であることは容易に想像がついた。
部屋の片隅では、まだ言葉も覚束ない男の子が積木で遊んでいる。
「オーガ……」
「週に一度か二度、オーガの襲撃があります。火矢や投石器でこれまではほぼ追い返すことができていたのですが、今回はいつもとは別の個体だったようです」
天狗が今しがた討伐した青いオーガもその個体の一つなのだろう。武装化された集落から察するに、ここは何度もオーガの襲撃を受けているようだ。
「数は……?」
「これまで確認できているのは二体だけです。赤いオーガと青いオーガ。配下と思われる別の魔物が時折確認されていますが、集落に踏み込まれたのは数ヶ月前の一度と今回のみです」
「ふむ。今回は別の個体だった、と言っておったが、いつもの襲撃は赤の方か?」
クォントは頷く。
「其奴に刻まれている数字は見たことがあるか?」
「いえ。赤いオーガについては、集落への接近をこれまで許したことがありません。故に、魔物に刻まれている数字を視認できるほど近づいた者も皆無です」
天狗は少し考え込んでいるように見える。
その赤いオーガこそがダンジョンの管理人であると当たりをつけているのだろうか。
「この村の歴史はオーガに搾取され続けてきた軌跡です。私達はこれまでに沢山のものを奪われてきました」
クォントの視線は部屋の片隅で無邪気に遊ぶ男の子に向かう。無邪気と言っても、その表情は虚無感に満ちている。笑顔はなく、感情を読み取ることはできない。
「あの子も私の本当の子ではありません」
「え……」
「この子の父は討伐隊の隊長でした。それに、私の親友でもあった」
クォントの表情には、無念と怒り、そして、悲しみが混ざり合っていた。このダンジョンで生きる絶望と理不尽を憎んでいる、そんな顔をしている。
「討伐隊……」
「オーガの襲撃に耐えかねて、この村の十数人の男が決起して、オーガへ反撃に出たんです。結果として、ここに戻ってきた人間は誰一人いませんでした」
クォントによると、この男の子の母はその後に精神を病み、身体を悪くしてあっという間に亡くなってしまったらしい。
物静かに遊ぶ男の子に視線をやる。元の世界では、少なくとも、俺のいた日本では到底考えられないような境遇だ。幼くして不条理に父と母を失ったこの子の悲しみは想像するに余りある。
「オーガの討伐は儂が引き受けよう。奴の根城を示す地図はあるかの?」
「あります。しかし、たった三人では……」
「いや、儂一人で十分じゃ。青い奴と対峙してみて、万に一つも負ける可能性を感じなかった」
天狗は強気だった。オーガの片割れである青いオーガの討伐も、無傷で成したような男だ。その自信も根拠が無いわけではない。
「私達も行く」
「言ったはずじゃ。儂だけで十分。対オーガ戦において、お主らはむしろ足手まといじゃ」
青いオーガの襲撃時、天狗がクロエに下した指示は静観。クロエの力では、オーガの分厚い肌に刃が通らず、有効な攻撃を打ち出すことができないと判断してのことだった。
それはダンジョンの管理者であるもう一体の赤いオーガにも言えるはずだというのが、天狗の見解だった。
「管理者を倒せば、ダンジョン内にいる全ての人間に死ミットが付与される。お主らがオーガ戦に参戦するメリットは一つも無い」
「でも……」
「お主らはこの集落の防衛を頼む」
天狗はわざわざ俺とクロエのことを「お主ら」と複数形で呼んでくれているが、殊戦闘に関しては、俺は全くの戦力外であることは言うまでもない。頼まれたのは俺では無く、クロエだ。文字通りの足手まといである俺に、何か意見する権利など無かった。
自身の無力さにある種の恥ずかしさを覚えながらも、俺は天狗の提案に従った。
「明日の早朝、ここを発つ」
「明日?」
明日の早朝という時間に一抹の不安を覚える。俺とクロエの死ミットはもう一日として残っていない。天狗のことだから、俺達の死ミットを一切考慮していないということは考え難い。俺の知らないルールがまだあると考えていいのだろうか。
「残りの死ミットを危惧しておるのか。安心せい、死ミットは睡眠中は動かない。このまま寝たら、そのまま御陀仏というのは無い」
やはり、別の法則が存在した。睡眠中は死ミットが減らない。これは大きな朗報だ。睡眠時間まで死ミットの消費にカウントされるようなことになれば、この世界では一瞬でも休まる時間がないことになる。精神的には、かなり楽になった気がする。
「慣れぬことばかりで疲れたじゃろ。今日は早いうちに眠るのが吉」
上手く寝付けない時は闇雲に死ミットを減らすことになるが、今日はその心配は要らなそうだ。天狗の言う通り、体も心も随分と疲れているのが自分でも嫌と言うほど分かった。今日はぐっすり眠れるだろう。
* * *
朝、目を覚ます。
長閑な陽気に二度寝を決め込みたいところだったが、初老の男に命懸けの戦いを全て委ねておいて、弱者の俺が抜け抜けと眠り続けているのは、人道的にできなかった。
集落の人が用意してくれた麻の服に着替え、外に出ると集落の人々達が訓練用の木刀を振り回しているところだった。どうやら、オーガや魔物の襲撃に備え、定期的に鍛錬を積んでいるらしい。その人混みから少し離れたところにクロエがいた。
「おはよう」
彼女の死ミットは俺よりも一時間ほど早く進んでいる。つまり、俺よりも一時間近く早く起きていたようだ。
「おはよう」
クロエはこちらには目もくれず、自身の大剣を素振りする。人一倍眠りこけていた俺に呆れているのかもしれないと思うと、バツが悪かった。
「天狗さんは?」
「もう発った、らしい」
この言いようだと、クロエも眠っている間に天狗は集落を発ったようだ。あとは彼が無事にダンジョンの管理人である赤いオーガを討伐することを祈るのみだ。
「お目覚めですか」
後ろから声を掛けられる。首長のクォントだ。
手には木刀が握られている。他の男達が例外なく熱心に素振りをしている中、どこか油を売っているような雰囲気がある。
「おはようございます」
「おはようございます」
クォントは笑顔で挨拶を返す。
「いつもこうして鍛錬を?」
「ええ。屈強な男達は討伐隊としてみんな出て行ってしまいましたから。現状、剣をまともに扱えるのは私だけ。しかし、ここは残った男達でどうにか守っていくしかありません」
貴重な男手を瞬く間に奪われた彼らの心中は決して穏やかではないだろう。クォントは唯一の剣士の生き残りとして、彼らの指導役に徹しているらしかった。
「結局、たった一人の、この集落とは無関係な方に全てを委ねるしかできな買った我々の弱さを恨みます。私の剣は、何も為すことができなかった」
歯を食いしばり、拳を握り締め、悔しさを滲ませるクォントの表情は、オーガに奪われ続けてきたこの集落の苦悩そのものだった。この剣は何のために存在するのか、そう叫びたい顔つきだ。
俺にはもはや祈ることしかできないけれど、早くこの集落に平和が戻ってほしい。心からそう願う。
「クォントさん、俺に剣を教えてくれませんか」
咄嗟にそんな言葉が漏れた。
戦いが前提のこの世界において、俺はあまりにも無力だ。平和ボケした日本で、血生臭い経験どころか、大きな喧嘩もしたことがない、そんな平凡で柔な男だ。だが、ここではそんな情けないだけの男では生きていくことはできない。
この先もずっとクロエに守ってもらって生き残るなんて、俺のちっぽけな男のプライドが許さなかった。
「私にですか?」
クォントは驚いたような顔でそう言う。
天狗やクロエの方が適任ではないかと思ったのだろう。
「はい。貴方に剣を教えてもらいたい」
本音を言えば、見事にオーガを打ちのめした天狗に指導してもらえれば、本当に心強かったことだろう。だが、天狗は既にオーガ討伐に走ってしまった。無い物ねだりをしても仕方ない。
それに、この集落の無念を、自身の非力を嘆く彼にこそ、俺は剣を習うべきだと思ったのも確かだ。
いつか俺が強くなって、貴方の剣は無意味ではなかったのだと、そう示してあげることができたのなら、俺にとっても、彼にとっても、それは救いのなるのではないか。いや、俺が強くなれる自信なんてものは微塵も無いけれど……。
「恥ずかしい話、戦いについて、俺はズブの素人です。天狗みたいな強い人間に剣を教わるより、弱い人間のことを知っている貴方に教わった方が、きっとタメになる」
クォントはしばらく考え込んだ後に、静かに頷く。
「私なんかでよければ、ぜひ」
そして、承諾してくれた。
「私は魔物を狩ってくる」
「ああ。気をつけてな」
クロエはいつもの通りの感情の読めない表情でそう言う。
「あ、魔導書」
「え?」
その場を立ち去ろうとしていたクロエだったが、何かを思い直して振り返る。
「使い方、教えないとだった」
「魔導書って、あの宙に浮く本のことか?」
クロエは頷く。
「あれは多機能デバイスなの。スペルの管理、自動翻訳、通信ツール、魔物の名称解析、イベントリー……その全てを兼ね備えている」
出たり消えたり、そのうえ宙に浮いて所有者に追随する。加えて、その所有者はいつの間に所有者になっていたかも分からない。
何にせよ、元の世界では考えられない技術の賜物である魔法の本は、中身まで魔法みたいな機能性を秘めているらしい。
「スペルとか、イベントリーとかは、後で説明する。今は通信ツール」
クロエは今は必要の無い機能を省き、魔導書の通信機能を説明してくれた。
魔導書に備わる通信機能は、簡単に言うと電話だ。魔導書同士が一定の距離まで近付くと、一部の例外を除き、魔導書のリストに名前が記載される。
そして、リストに記載された所有者同士が互いに互いを許可することで、魔導書による通話が可能になる。ちなみに、
試しにクロエとの通話を試すと、魔導書から彼女の声を発し、口の形を真似するようにパタパタとページを開いたり閉じたりした。
彼女は魔導書が上手く機能していることを確認すると、彼女は満足げに頷いた。魔導書の通信機能のおかげで離れていても、お互いに危機が迫った時に連絡を取り合うことができる。
魔導書の操作説明を終えると、彼女は今度こそ集落を後にした。彼女の死ミットも余裕がない。魔物を倒し、少しでも期限を伸ばす。一分一秒が惜しいのは彼女も同様なのだ。
クロエを見送ると、待ってましたと言わんばかりのクォントが笑顔で俺に木刀を手渡した。
「甘くはないですよ。私の指導は」
クォントは鍛錬をしていた他の男達にわざわざ休憩を取るように促す。専任指導と言うことのようだ。
「願ったり叶ったりです」
「良い心構えです。私の剣は先々代から一子相伝で受け継がれてきた伝統ある剣術です。集落では、クォント流と呼ばれています」
クォントは木刀を顔の横に構える。
「クォント流は攻防の二つの型を基本に考案されています。考え方は非常にシンプルです」
「シンプルな考え方?」
「ええ。刺突こそを至上の殺傷能力を持ちうると考え、突きに特化した『攻』の型。そして、面で攻撃を受ける『防の型』。クォント流の型は全てこの二つのどちらかの考え方に基づいています」
クォントはそれから攻防それぞれの基本型を教えてくれた。
刺突を初撃とし、そこから薙ぎ払いや振り下ろしに派生するというのが、攻の型の大まかな流れのようだ。加えて、いずれの攻撃においても、防御にすぐに移れるような体の運び方が必要らしい。
クォントは一連の流れをやってみせる。見ている分には簡単そうだったが、実際にやってみると、身体は全く思い通りにはならなかった。
「まずは剣に触れ続けることです。剣を握る感覚を掴み、手足を扱うのと同等に剣を振ることができれば、そこからの上達は早いですよ。まあ、私も本当の意味でその境地には達していませんが……」
そこから一時間ほど、同じ動きの繰り返しだ。要は理屈よりも身体で覚えるのが一番ということらしい。
日頃の運動不足が祟って、身体はすぐに根を上げる。それでも、命のタイムリミットがある俺には、一秒足りとも無駄にできない。
「一旦休憩にしましょう。適切な休息が効率的な鍛錬に繋がりますから」
休憩中は集落で作った芋を振る舞ってくれた。日常的に魔物の襲撃を受けるこの集落では、農業に力を入れるだけの人手も土地も無く、育ちやすくて栄養素が豊富なこの芋が主食になっているとのことだった。
悲劇的な境遇に思える集落でも、地べたで一緒に芋を食らい、他愛もない会話を弾ませている時には笑顔があった。この集落の人々は自分にできることを、各々が考え、それぞれがベストを尽くしている。毎日を当たり前に生きるために、毎日が全力だった。元の世界では、到底及ばない価値観がそこには当たり前にあった。
「ユズハ、君は以前剣術をかじったことがあるのですか?」
「え?」
「いえ、何となく癖があるような気がしたので。気のせいであればよいのです」
心当たりはなかった。
剣道もフェンシングも、俺には経験が無い。
木刀を振るう男達の中には、クォントの家にいた孤児の男の子もいた。
「君、名前はなんて言うの?」
彼はしばらくの間、押し黙っていたが、静かに答えた。
「テオ」
「君も、剣を?」
テオは頷く。
「強くならないとだから。お父よりずっと強く。そうすれば、お母も喜んでくれる」
彼の瞳に宿る覚悟は、齢十歳ほどの子供が抱えるには重たく、大きすぎるものだった。彼が経験した悲惨を思えば、致し方ないことなのかもしれないが、こんなにも幼い彼にこんな目をさせるしかないこの世界が憎たらしかった。
「お前、強いのか」
テオの質問に俺は首を横に振る。
「俺もテオと一緒だ。これから強くならないといけない。正直、訳が分からないままで、これが現実かどうかもまだ疑っているんだけどな」
彼は首を傾げる。
この子にそんなことを言っても、理解できるはずはないか。
「でも、テオは強いと思うよ」
「俺が?」
俺は頷く。
きっと泣きたくて怒りたくて、叫びたくて仕方がないはずの彼は、今もこうして小さな体で剣を振るっている。元の世界にいる頃、俺は、俺達はただ当たり前に平和を享受して、何の目的すらも無く、毎日を垂れ流していた。
テオの心を燃やす炎は、そんな平和ボケしている俺の心をゆっくりと溶かす。
もしかしたら、この世界そのものが夢か何かかもしれない。だけど、それでも、これが現実だと思っているうちは、目の前のことに全力で挑まないといけないんだ。夢なら夢なりに、できることはあるだろう。
「ぎゃあああぁあああ!!!」
不意に遠方から悲鳴が聞こえた。ほぼ同時に、大きな音がした。
地べたに座り思い思いに休憩を取っていた男達の顔色が変わり、即座に立ち上がる。
「見ろ、見張り台だ!」
誰かが声を張り上げた。
集落の端に位置する見張り台が崩落していた。見張り役の男が立っていた台座には、大きな岩がめり込んでいる。さっきの大きな音はあれが原因のようだった。
「急げ、各員武器を取れ!」
クォントが叫ぶ。
男達が慌ただしく動き出す。
心拍数が上がっている。何もしていないのに呼吸が乱れて始める。何が起きているというのか。
「襲撃だ、魔物の襲撃だ!」
「北だ、北からだ!」
「何かが門を叩いている、急げ!」
男達が叫んでいる。
俺は茫然と立ち尽くすだけ。
集落の脅威であるオーガは天狗が早朝に討伐に向かったはずじゃないのか。本当なら今頃、オーガは討伐されて、このダンジョンのクリアが勝手に達成されるんじゃないのか。
目眩がする。
血みどろの光景がフラッシュバックする。
動け。動けよ、体。
何が全力で挑む、だ。
こんなことで……まだ敵の姿も視認していないのに、俺は何を恐れている。何が覚悟だ。何が、何が……。
「ユズハ、テオを頼む……っ!」
クォントが必死の形相で声を荒げた。
「は、は、はい」
心底情けない声が漏れた。
俺のすぐ脇には、肩を震わせるテオが木刀を持ち上げている。
しっかりしろ、ユズハ。
こんな小さな子でさえ、戦おうとしているのだ。
「テオ、行こう。今の俺達じゃ……」
「嫌だ、俺も戦う。俺も」
テオは震えた手で木刀を強く握り締める。
「ダメだ、テオ!」
彼は俺の手を伸ばした手を振り解いて北の門の方向へ走り出してしまう。
俺やテオが加勢したところで、大した囮にすらならない。足手まといになるだけなのは目に見えている。俺はテオの後を必死に追いかけた。
「グノォォオオォオオオオ!!!」
集落を雄叫びが包んだ。
見えた。遥か前方を走っていた数名の男達が一斉に薙ぎ払われる。視線の先には、血に濡れたような真紅の肉体を持つ巨人が一体。
間違いない。
あれが、赤いオーガ。
「オーガだ、オーガだ!!」
天狗はどうした。
どうして、赤いオーガがここにいる。
頭の中はそんな疑問で大混乱だった。
赤いオーガを認めても、なおもテオは走った。むしろ、敵を視認したことで、そのスピードは速まっているようにも思える。
「テオ、テオ……っ!」
俺は追いかける。
早く追いつかないとなのに、思ったように足が進まない。
歩幅はずっと俺の方が大きいはずだし、それに比例して足の速さだって負けていないはずだ。なのに、テオとの距離は縮まらない。恐怖が、俺の足を引きずっている。
「待ってくれ、テオ……テオッ!」
必死だ。
情けない。
こんな自分が心の底から嫌になる。
どこにいたって、何をしたって、人間の本質と言うのはそう簡単に変わらない。この世界で俺の価値観は根底から覆されたと思っていた。この集落で戦う人々を見て、俺の覚悟にも火がついたと思っていた。ーーそんなはずがあるものか。
表面だけに僅かに触れた程度で、俺という人間が根本から変わるはずがなかった。短い人生の中で築いてきた「藍澤ユズハ」という人間は、されど二十年近くの歳月を経て、形作られてきたのだ。日本という平和の中で。
前方で血飛沫が飛んだのが見えた。
沢山の人が殺されている。地べたで芋を一緒に食べた男達が次々に、なす術もなく淘汰されている。
「やめろ、やめろ。やめてくれよッ!!!」
これ以上、殺すな。これ以上、彼らから何も奪わないでくれ。そう叫びたい。
クォントの背中が見えた。
彼は長身の剣を片手に赤いオーガに立ち向かっていく。
やめろ。
「何で」
やめろ。
彼は走る。
仲間達が次々に呆気なく屠られているのを目前にしながらも、走り続ける。
やめろ。
その先に待つものが何なのか。
きっと、それが分からない彼ではないはずなのに。
やめろ。
オーガの視線が静かに動く。
確実に、迫り来るクォントをその目で捉えた。
やめろ。
「待って、待てよ、クォントさん……っ!」
赤いオーガは右手に持つ巨大なハンマーを頭上に振り上げる。クォントが間合いに入る。そこで俺の手がテオの肩を掴んだ。
咄嗟に見せてはいけないと思った。
これから起こる光景は、この強い少年の心を粉々に打ち砕くであろうことを本能が悟った。
俺はテオの体を押し倒した。
同時にテオの頭を押さえつけたが、骨が砕かれるような嫌な音が鼓膜を伝い、視界の端ではクォントの体がひしゃげるのを捉えていた。
集落で一番の剣士は、家屋の壁を突き破り、とんでもない量の血を地面にばら撒き、瓦礫の下に瞬く間に埋もれた。
「あ、ああ……」
言葉が出なかった。
さっきまで確かに存在していたはずの人間が簡単にこの世から消えた。まるで、ハエを叩き潰すように、呆気なく。この瞬間から、俺に初めて剣を教えてくれたクォントという人間は存在しない。
目に涙が滲む。
逃げなくてはいけない。
勝てるはずがない。
天狗の生死も不明。クォントが近くことすらできなかった相手。
テオを連れて逃げるしかない。
それが弱者の俺に許された唯一にして最大の選択肢。
「え」
テオの体を起こし、立ち上がろうとした時、視界が微かに暗くなった。
気がついた時には、赤いオーガが目の前にいた。
この集落のいくつもの命を葬ってきた血みどろのハンマーを掲げ、赤いオーガは俺とテオを見下ろす。
茫然としていた訳ではない。さっきまでの数十メートルあった距離をものの数秒で詰めてきたのだ。
「テオ、逃げろ……」
ここまで、か。
死を悟る。
圧倒的な死の存在感を前にすると、あらゆる感覚が虚になることを知った。
さっきまで全身を硬直させていた恐怖も、多くを奪われた怒りも、心を埋め尽くしていた悲壮も、全てが諦観に飲み込まれていく。
こんな世界で、俺なんかが生きていけるはずがなかった。
最初から分かりきっていたはずのそんな簡単なことに、俺は現実を突きつけられるまで、全く気がつかなかった。
「ごめん」
誰に対する何の謝罪か、自分でも分からなかったが、最期に溢れた言葉はそれだけだった。
「ウボォオォオオオ!!!」
赤いオーガがハンマーを振り上げる。
痛いだろうか。怖いだろうか。悲しいだろうか。
全身の毛穴からさっき死んだはずの感覚がゆっくりと戻ってくる。
「ギャアアアァアアアアァアア!!!」
次の瞬間、悲鳴をあげたのは赤いオーガだった。
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