チェシャ猫は笑う
次に訪れたのは、俺の死ではなく、赤いオーガの悲鳴だった。
ドシンと大きな音を立てて落ちたのは、ハンマーを握る右腕。二の腕から先が切断されていた。
「え」
何が起こっているのだろうか。
俺の腹部から生え出る大きな紫色の物体。根本の部分はフサフサの毛を纏い、先端は巨大な刃となっている。
突如として俺の腹部から飛び出したこの謎の刃が赤いオーガの腕を両断した。目の前で起こった事実を端的に説明すると、たったのそれだけだ。
『ギヒヒヒヒヒヒヒヒ』
そして、頭の中で響く不気味な笑い声。
頭に直接響くようなそれは悪魔としか例えようのないほどに邪悪で悍ましい。
死を目前にして、幻聴でも聴こえているのだろうか。目の前で起こった都合のいい事象の全ても、もしかしたら幻の類なのではないだろうか。
『安心しろよ、夢でも幻でもねェ』
悪魔の笑い声がはっきりとした言語を発する。頭に響くこの感覚は今まで味わったことがなく、声質そのものの不気味さと相まって気色が悪い。
『酷ェ言いようだなァ』
頭の中の声の主はそう言うとまた笑う。
「お前は、だ、誰だよ。これは……」
『おっと、オレ様の声はテメェにしか聴こえてねェよ。気でも狂ったかと思われるから気をつけろなァ、ギヒヒヒ』
声の主は続ける。
『それよりも今は、目の前のこっちだよなァ』
赤いオーガは切断面を押さえながら喚き声を上げる。切断面からドクドクと夥しい量の血がしばらくの間流れ続けていたが、オーガの全身に血管の筋が走ったかと思うと、筋肉が収縮してその大きな傷口を塞いでしまった。
『ギヒヒヒ、とんだ筋肉ダルマだなァ』
赤いオーガは雄叫びを上げ、血走った目で俺を見る。明確な殺意が俺に向けられる。
オーガが真正面から突っ込んでくる。
『脳味噌まで筋肉なのは助かるが』
俺の腹部から生える巨大な刃が縮小したかと思えば、今度はその形が尻尾のように変化する。
尻尾は不思議な色合いをしていた。
紫の色調の毛皮は水面が揺らぐのを投影したかのようにその色の濃淡が移り変わる。水面に微妙に色味が異なる紫色の絵の具を数滴垂らしたような不確かな色の移り変わりだ。
その変貌と奇妙な色の移り変わりに呆気に取られているうちに、その尻尾は螺旋状に渦巻く。
『歯ァ、食いしばれ』
「え、あ、は……っ!」
螺旋状の尻尾が地面に伸びる。直後、尻尾はバネのように縮こまると、一気に反発して俺の身体を上空へと押し上げた。
突進して来たオーガの頭上を飛び越すと、また尻尾がその形を変える。
「グガ……ッ」
オーガは軽やかに跳んだ俺を目で追いながらも、残った左腕の拳を突き上げた。
『ギヒッ、さっきテメェのその大事な腕が持ってかれたことを忘れたのかよ、脳筋野郎』
頭の中でギヒギヒと笑う主は、まるでゲームでもするかのように楽しそうだ。
そう、この悪魔のような声のーーおそらくは、男は、この戦いを明らかに楽しんでいる節がある。
再び、バネのような形をしていた尻尾が巨大な刃に変わる。
垂直に落ちる体。
当然、俺の体から生える刃も真下に向かって真っ直ぐに落ちていく。
されど、オーガはこの声の主が言うような単なる能無しではなかった。
突き上げた拳を即座に引っ込めると、体を反らしながら膝を曲げる。膝のバネを使って、瞬時に後ろへと下がる。
その所作は素早く、一切の無駄がない。
まるで、予め仕組まれた動作のように思えた。
攻撃の動作自体はフェイント。
こちらの行動を誘い出すための、ブラフ。
『チッ、前言撤回しねェとかァ? ちゃんと脳味噌は付いてるみてェだな 』
刃が地面に突き刺さる。
動きの硬直ーー奴が狙っていたのは、最初からこのタイミングだ。
オーガの足が地面を蹴る。
俺の体に向けて繰り出されるハイキック。
『ギャハッ、面白ェ!』
また、刃の形が変わった。
今度は盾。
それも俺の体を覆い隠すほどの大きさ。
瞬時に形を変えたそれは、大きく広がり、丸みを帯び、俺の体を覆い尽くす。
オーガのハイキックが形成された盾にのめり込む。衝撃が盾を伝播して、腹部に走る。それでも、痛みはない。この謎の盾がほとんどのダメージを吸収してくれているようだ。
キックの衝撃で宙の上で体が後方へ弾き出される。
視界がグルグルと回って、方向感覚が狂ったところで、全身を別の衝撃が襲った。
「う……っ」
近くの芋畑に蹴り飛ばされたようだ。
幸い、豊満な土がクッションになったようで、思ったよりも痛みはない。
『寝ている場合じゃねェぞ』
頭を上げると、オーガが再び突進を始めていた。
頭が追いつかない。
あの巨体のくせに、一々動きが速すぎる。
俺は慌てて起き上がり、三時の方向に走ろうとするが、すぐに畑のふかふかの土壌に足を取られてしまう。
まずい、まずい、まずい。逃げろ、という警報が頭を埋め尽くす。こっちに来てからというもの、パニックの連続だ。
「おい、どうにかならないのか、これ……!!」
俺は藁にも縋る思いで叫ぶ。
勿論、得体の知れない声の主に対してのエスオーエスだった。
『都合が良すぎやしねェかァ? 気味悪いとか言っといてよォ』
「悪かった、悪かったから!」
『まァ、言われなくても、だけどなァ!』
盾になっていた紫色の尻尾が再び刃に変わる。
腹部から生える巨大な刃を携えるというのは、格好としては随分と奇抜というか、不格好であることには違いなかった。
迫りくるオーガに真っ直ぐに構えられる刃。
「また避けられるんじゃ……」
『避けて、防いで、斬って、殴ってーーどうやって自らの身を守り、敵を死に至らしめるか、戦いってのは、殺し合いってのはそういうもんだろ。そりゃ、相手だって必死だ。避けるし、逃げるし、防ぐ。当たり前のことだろ、相棒ォ』
悪魔のような声は半分くらいしか頭に入ってこなかったが、相手だって本気だってことは分かった。そう、当たり前の話だが……。
刃が動く。
オーガが間合いに入った。
歪な色の移り変わりをしながら、刃が太陽を受けて光る。
俺と俺の腹部から生える刃とで重心は前傾になっているはずだが、不思議とバランスが崩れるようなことはなかった。
刹那、俺の体が刃に引っ張られた。
迫っていたオーガがバランスを大きく崩した。地面に崩れ落ちるオーガの足には、尻尾が巻きついていた。そして、その尻尾も俺の腹部から生えていた。
一体全体、俺の体はどうなっているんだ。
『ギヒヒ、不意打ちで最初に利き腕を塞げたのはデカかったなァ』
もう一本の尻尾ーー巨大な刃がオーガに向かって伸びる。俺もその刃に引っ張られる形で前へ走る。いや、走らされている、という表現が適切か。
『これで終いだ、デカブツ』
刃が振り下ろされる。
オーガのその野太い首に向かって、真っ直ぐに。
「グガアァアアアアァアア!!!」
オーガが絶叫する。
「ーーーッ」
そして、その絶叫を遮るように首が飛んだ。
血飛沫を上げて、芋畑の上に転がるオーガの首。
バケツをひっくり返したような血が俺の体に降りかかる。
『ギヒヒ、まッ、朝飯前ってとこだなァ』
血溜まりに伏せるオーガの首無し死体を見下ろし、沢山の感情がこみ上げる。どちらかというと、生きていることを実感して、感性が戻ってきたようだ。
この世の不条理に対する怒りと無念と憎しみ。そして、クォント達を失った絶望と悲しみ。あらゆる感情が蓋を外したみたいに俺の心を満たしていく。感情の洪水だ。
この悪魔のような声の主に救われたことは確かだったが、どうにも感謝する気分にはならなかった。
沢山の人達が死んでいるこの戦場で響く無神経な笑い声は、ひどく気分を害する。そして、何よりどうしてもっと早く出てきてくれなかったのか。
『悪いな、オレ様にも事情があるんでな』
この声が何のなのか、全く心当たりはなかった。強いて言うならば、クロエや天狗が言っていた異世界からのやってきた人間ーー“潜者”に備わる特殊な力の一つなのだろうか。
「お前は、何なんだ」
『オレ様の名はチェシャ猫。今はオメェの体の中に居候させてもらってる身だ。これから末長くよろしく頼むぜ、相棒』
その相棒とか言う呼び方も気に入らない。
俺はそもそもこんな声の主とは会ったことがないし、その会ったことのない人間に相棒呼ばわりされる覚えもなかった。
相棒とは背中を合わせられる信頼感があって初めて成り立つ関係性ではなかったのか。この声の主に合わせるような背中があるのかも分かったものではないが……。
『ギヒヒ、辛辣だなァ? まあいい、オレ様はオレ様で勝手に呼ばせてもらうだけだ。とりあえずは、“起きた”からよォ。こっからはオレ様が責任を持ってオメェを守ってやる』
「起きた?」
『ギヒヒ、それがオレ様の使命だからな。おっと、そろそろ時間のようだなァ』
チェシャ猫がそこまで言ったところで、視界が白けてくる。
「今度は何だよ、これ」
『管理人を殺したからなァ。このダンジョンは用無しだ』
オーガの死体も、芋の畑も、無残な光景も、全てが白く霞んでいく。
「ユズハ、ユズハ!!」
テオが叫んでいるのが聞こえる。後ろへ振り返ると、霞んだ景色の中で泣き喚くテオの姿があった。閉ざされていく世界の中で、俺は叫ぶ。
「テオ、生きろよ!」
声が遠くなる。俺を呼ぶテオの声も、俺自身の声も。
「必ず生きろ! また、必ず戻ってくる! その時にもっとすごい集落を見せてくれ! 絶対に立ち直ってくれ!」
この集落の人間のどれほどが失われたのかーーきっと、この集落を復興させるには、とんでもない時間と労力が必要になる。
物理的な話だけではない。精神的な面では、それ以上の時間を費やさなくてはならない。
この集落はこれまでも多くを失ってきたはずなのに、今日また一瞬にして、より多くを失ってしまった。
俺が不甲斐ないばかりに、俺が無力なばかりに。
テオのぐしゃぐしゃに崩れた泣き顔が白に閉ざされていく。俺にはもう何もすることはできない。ただ信じることしかできない。
「俺も強くなって戻るから! テオも、もっと強くなって生きててくれ!」
約束だ、そう言い切る前に視界が完全に純白に包まれた。
ほんの僅かな時間だけでもクォントから教わった剣術で、この世界を生き残って、もっと強くなって、この集落に戻るんだ。
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