アイザック・ハミルトン

「何を持って、人は人を認識するのか」


一面を書棚に囲まれた小さなデスクの前に座るその男は、開口一番に何だか哲学じみた言葉を口にした。


この男の名は、アイザック・ハミルトン。


この楽園の防衛システムとやらを一身に担うという“潜者”の一人。シュウゾーが“先生”と呼んでいた人物だ。


俺はシュウゾーとの鍛錬を終えて、“先生”がいるこの書庫に訪れていた。この街に関わる“潜者”には漏れなく会っておいた方がいいというシュウゾーの提案だ。


「人間は考える葦であるーーそう提唱したのは、パスカルだ。それでは、思考する存在であれば、全ての存在は人となりうるのか?」


まるで、独り言の様に、というか、俺の存在などはほとんど無視して、彼は論述を続ける。元の世界での肩書きが「教授」だというのも頷ける。


まだ齢にしては三十代くらいの長身の彼は、西洋人だ。ウェーブを描く茶色の天然パーマと丸眼鏡が特徴的で、その整った顔立ちは常に無表情を貫く。


「えっと、言っている意味が俺には理解できません」


「この世界は我々の持つ常識の全てが覆ると言っても過言ではない」


それはこの僅かな時間だけでも嫌というほど痛感した。前の世界での常識を当たり前だと思っていれば、ここではあっという間に命を刈り取られる。


「だとすれば、先人達が築き上げてきた倫理、哲学、科学……ありとあらゆる学問の全ては無意味と化すことになる。地球は丸くないし、りんごは地面に落ちないかもしれない。我々はこの世界にある全ての事象を見つめ直さなければならない」


アイザックは淡々と述べる。

その様は教卓で講演をする教授そのものだ。


「その意味で、この世界は実に面白い。この世界の人間は生きるのに必死で、熱心にこの世界の事象を紐解こうとする探求者は皆無だ。ユズハと言ったか、君に問おう。君はどちら側の人間だ?」


彼は俺に問う。

己が探求者になりうるのか、と。


「俺には、まだわかりません」


「論外だな」


俺の回答に、アイザックは強い言葉で罵った。


「これだけの無知の領域を目の前にして、自ずと好奇心が動かない様であれば、君と僕とでは見ているものが全く違うと言って差し支えないのだろう。下がりたまえ。君との会話で、得られるものはもう何もない」


初対面の人間にここまで言われる筋合いはないと、口を開こうとしたが、既にアイザックの興味は手元の書物に向けられていた。最初から俺の存在などなかったかの様に。


この男に時間を費うだけ無駄だろう。これ以上のやりとりは、両者が不快な思いをするだけだ。俺は苛立ちを覚えたまま、書庫を後にする。


「あの人は変人だから気にしないほうがいいよ」


書庫を出ると、一茶が廊下の傍らに座っていた。俺を見て立ち上がったところを見ると、この展開を予想して、俺を待ってくれていたのかもしれない。


「ああ。そうみたいだな……」


「相手にするだけ無駄。お互いに」


二宮一茶は、“善王”の孫にあたり、まだ年齢は十六歳ーーつまり、本来ならまだ高校で青春を謳歌しているべき年齢だ。少なくとも、こんな血みどろな世界にいる様な少年ではない。


それに話によると、彼はこの街ーーつまり、Aちゃんねるで生まれた。生まれも育ちも、この世界。命の消費期限とありとあらゆる死の恐怖を生まれ落ちた瞬間から味わい続けてきたのだ。


俺の知る高校生よりずっと大人びて見えるのは、きっとそんな境遇からなのだろう。


「鍛錬はどう?」


一茶は基本的には物静かな印象だったが、二人きりになると意外と口数が増えるようだ。


「ヘトヘトだよ。でも、だいぶ掴んできた」


シュウゾーの手解きのおかげで、死ミットを燃焼させ、肉体の強化を図る技、色装は実戦で一応は使えるレベルまで到達していた。目標である一秒以内でのオン・オフの切り替えも高確率でできるようになってきた。


ただ、本当の戦いとなれば、きっとそう上手くはいかないのだろう。


今は、色装の発動に全ての神経を注いでいるが、本来ならその集中力のほぼ全ては目の前の敵に向けられるべきものだ。あくまで、あの技術は無意識下で発動できるレベルまで達しなければ、本当の意味での実用レベルとは言い難い。


その点では、まだ鍛錬が必要になるだろう。


「ふーん。まあ、シュウゾーが教えてるなら間違いないか。あの人、ああ見えても戦闘だと一番頼りになるから」


「へぇ……」


どの場面の戦闘にあっても、シュウゾーは前線にいた。最前線で敵を討ち、焼き尽くしていた。


だらしない見た目だけに、最初は驚くこともあったが、何だなんだで親身になって教えてくれている。


本棚に囲まれた回廊を歩いていくと、本棚の向こう側に奇妙な部屋を見つけた。


「あれは?」


思わず問いかける。


その部屋には、無数の時計が壁一面に掛けられていた。時計の下には、何語か分からない文字が刻まれた看板がそれぞれ添えられている。


その時計を睨み付けるように何人かの亜人が向かいに座っている。その傍らには、二頭身で身体中に眼球を備える奇怪な生物が黙って鎮座している。亜人と多眼が二人で一組のようだ。


「時の間って呼んでる。ダンジョンの観測室だよ」


「ダンジョンの観測室?」


「ダンジョンは一度クリアすると、規定の時間封鎖される。次に開放されるのは、その決められた時間ぴったり。ここはいつダンジョンが開放されるのかを把握するためにある」


一茶は「あの目が沢山ある子」と視線だけで多眼を示す。


「多眼族と言って、ああやって頭に触れると迷宮街セントラルの様子を見せてくれるんだ」


一茶はそう言って部屋の中に迷いなく入っていく。それに俺も続く。


観測室の中には、多種多様な亜人が全部で十人。その傍らにさらに十人の多眼族が控える。


彼らは正面の壁に備え付けられた時計と手元のノートに真剣な眼差しを交互に移す。


「特に異常はありませんよ」


並べられた机と椅子の一番手前に座る青い肌の女性がこちらを一瞥する。


「ちょっと見学、いい?」


「勿論。その方は」


女性はそれからはこちらに全く目を向けることなく、真剣にノートに何かを書き入れている。覗き込んでみるが、やはり字は読めない。


「ユズハだ。ほら、この前の」


「ああ。“潜者”ですか。曰く付きの」


「一言余分だよ」


“曰く付き”というレッテルを貼られてしまっていることに戸惑いを覚える俺に、一茶は「気にしないで。“潜者”は皆そんなものだから」と空かさずフォローを入れた。


一茶は多眼族の丸っとした頭に触れる。


不思議な生き物だ。饅頭を二つ重ねたような丸みを帯びた身体は人間の構造とは根本的に異なっている。


血色の悪い肌色の全身には、ぎょろぎょろとした眼球が無数に張り巡らされていて、身体のバランスにそぐわない小さな足と腕がボテッとした体から申し訳程度に生えている。


彼らには口や鼻が無く、言葉も発しない。銅像のようにそこに立ち、パートナーとなる亜人にその丸い頭を委ねる。


「触れてみなよ」


一茶に促され、俺もその丸々の頭に恐る恐る触れる。


「ーー!!」


その瞬間、頭に映像が流れ込んでくる。


迷宮街セントラルだ。テレビ中継のように、あの街の映像が頭の中に鮮明に映し出されている。今まで味わったことのない経験に戸惑いつつも、俺は迷宮街セントラルの光景を食い入るように見る。


「すごいな」


「これが彼らの能力だ。触れている人間の意思に反応して、画角も変えてくれる」


迷宮街セントラルは、この世界に入った直後とダンジョンから脱出した後ーーそれぞれ二回経験しているが、どちらも生き延びることに必死で、こうまじまじと観察することは叶わなかった。


「こうして見ると、綺麗な街なんだな、あそこは」


美しいという言葉がここまで板につく街並みを俺は知らない。ヨーロッパを彷彿とさせる煉瓦仕立ての家々と綺麗に舗装された道。


人の気配が全く無い不気味さを除けば、これほどまでに完成された街並みは元の世界でも存在しないのでは無いだろうか。


「年がら年中、戦争しているわけでも無いんだな」


一茶は少しの沈黙の後に答える。


「他の国もうちと一緒でダンジョンの開放状況を観測し続けている。ダンジョンが開放されるタイミングは一つの扉を巡って自ずと戦闘になるし、誰かが迷宮街セントラルに踏み込むようなことになれば、それもまた、戦闘になる」


この世界の原理は、この腕に刻まれた死ミットにある。

そして、命の消費期限である死ミットがもたらすのは、血に塗れたダンジョンの争奪戦。


「年がら年中、戦争しているようなものですよ。ダンジョンの開放時間なんて、すぐにやってくる」


やり取りを横で聞いていた青い肌の女性が「ほら」と口を挟んだ。


迷宮街セントラルに人影があった。二人。赤いマフラーをした若い男と、タンクトップとポニーテールが特徴的な筋肉質な男。


「狙いは?」


「おそらく、ダンジョン名【オズの国】。仮面の教団がマークしていたはずです」


「三王の領土だって知っているとしたら、正気の沙汰じゃ無い……」


二人は一直線に街路を進む。

その行く手を阻むように、大きな扉が現れた。


見たことのある扉だ。


「また、始まるのか……」


殺し合いがーー。








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