第2話 マザーツリー
翌朝、空が少し明るくなり始めた頃、アキはいつもより早く目を覚ました。
キッチンからまな板を叩く優しい音が聞こえ、幸せな気持ちでいっぱいになった。
「あら、早いわね、おはよう。」
アキが嬉しそうにキッチンを覗いていることに気づいたユリが笑顔で言った。
「へへ、目が覚めちゃった。」
ユリは丁寧に切った野菜を、焼きたてのようにふわふわで香ばしいパンで挟んだ。
「私も作る。」
そう言ってアキは腕まくりした。
そんなアキを見たユリは笑った。
「その前に顔を洗って、寝癖直していらっしゃい。」
バスケットいっぱいに作った色とりどりのサンドイッチを眺めて、アキはご満悦だった。
ユリは陶器のポットにアツアツの紅茶を入れていた。
こちらも芸術的な寝癖で起きてきたダン。
大きな袋にブランケットやタオルを詰め込んでいた。
「え?ダンさん、今日も湖に入るの?」
最後に起きてきたナギが、父親がいそいそとタオルと着替えを用意する様子を見てそう言った。
「え?なんで?ナギ泳がないの?せっかく行くのに~」
ナギ用のタオルと思われるものを手に持ったままそう言った。
「うん、起き抜けに湖ダイブはきつい。」
冷静にそう言ってナギは部屋を出ていったが、ダンがそっとナギのタオルも袋に入れたのをアキは見ていた。
「家族揃ってマザーツリーへ行くの久しぶりだね。」
4人はマザーツリーの湖を目指して朝日に照らされたなだらかな丘を登っていた。
「そうだな、春以来、半年ぶりだな。」
ダンは大きな袋を右手に、サンドイッチが入ったバスケットを左手に持っていた。
丘の頂上に立った時、朝の清々しい風が4人を包んだ。
目の前には静かで透明な湖が広がっていた。
アキは走り出した。
湖の近くまで来て、その美しさにため息をついた。
朝日を反射するその水面は、繊細に光が躍っていた。
そして、
その湖の真ん中に、樹齢何百年と思えるような大樹が、一人時を忘れたように佇んでいた。
「マザーツリー。」
アキはただそう呟いた。
この地域ではこのマザーツリーが昔から人々の心の拠り所だった。
何百年もの長い間変わらずそこに在り続け、呼吸し続けるマザーツリーに畏敬の念を抱き、その存在を前に時を忘れて祈るのだった。
春には葉を育て、夏には花が咲き、その後たくさんの実をつけるマザーツリーは、豊かな自然のサイクルの象徴だった。
マザーツリーは一年に一度、必ず牡羊座の満月の夜明けに一斉に弾ける。
その様を人々は愛着を込めてこう呼ぶ。
ポップコーンツリー
「あれ?アキちゃん?」
後ろから女の子らしい声がしてアキは振り返った。
「ミナミちゃん!」
アキと同じ背丈のその子は、長い髪を揺らして微笑んだ。
ミナミはアキと同い年だったが、色の白い肌に落ち着いた雰囲気で、アキより大人びて見えた。
そしてこの二人が、毎年12歳になる子供がやることになっているポップコーンの子をやることになった。
その役割は一カ月前の魚座の満月の前日に子供達の話合いで決められる。
が、みんながやりたがるので毎年最後はクジ引きになる。
「アキちゃんも家族で来たんだね。」
後からやってきたミナミの母親がそう言った。
「はい、来ちゃいました。」
アキはミナミの手を取りながらそう言った。
「ダンさんにユリちゃん、ナギくんも。」
背が高く眼鏡をかけたミナミの父親が穏やかに挨拶をした。
「アキちゃん、よかったね、ポップコーンツリーの子やりたいってずっと言ってたもんね。」
ミナミの母親はそう言って優しくアキのはねた髪にさわった。
「はい!気合いとクジ運だけは誰にも負けないんで。」
「ミナミちゃん、ちょっとだけ湖入ろうよ。」
アキは無邪気にそう言った。
「え?でも…」
ミナミは振り返って母親の顔を見た。
微笑んだミナミの母親より先に、ダンがタオルならいっぱいあるよと言った。
アキはミナミの手を引いて湖へ入った。
「気持ちいい~」
アキとミナミが楽しそうにはしゃぐ姿を見ながらユリがミナミの母親に話しかけた。
「は~ミナミちゃんはすっかり大人っぽくなって、ますますレイちゃんに似てきたわね。」
レイと呼ばれたミナミの母親は嬉しそうな顔をした。
「そう?」
「うんうん、アキが言ってたけど、ミナミちゃんはもうレイちゃんみたいに星を読めるんだってね。」
「そうね、興味あるみたいで家中の星の本を読み漁って、毎日夜空を見上げて私にいろいろ聞いてくるわ。」
ミナミの母親は占星術の専門家だった。
「僕の方にも少しは興味を持ってほしいんだけど、星とか宇宙が好きみたいでね。」
ミナミの父親は穏やかにそう言った。
「あ、そういえばカズさんが設計したアキラさんの新しいお店、この間お邪魔したの。とっても素敵だったわ~」
ミナミの父親は照れくさそうに笑ってありがとうと呟いた。
「アキラさん、嬉しすぎてずっとニヤニヤしてたわよ。」
その時、
バシャーン!
突然大きな音がして3人は湖の方を見た。
「え!?ナギ!?」
ナギが湖に飛び込んだかと思ったユリはそう叫んだ。
「ん?何?」
しかしナギは近くに居て、ユリの呼びかけに振り返った。
「え?ナギじゃないの?」
という言葉はアキとミナミの弾けるような笑い声でかき消された。
どうやら音の主はダンだった。
「ダンさん!」
勢いよく湖にダイブしたダン。
さすがのユリも呆れ顔になった。
「ユリさん諦めな。」
ナギはははっと笑いながら言った。
そして丁寧に家族分のブランケットを敷いて、靴を脱いで湖へ駆けていった。
やっと笑いのツボから出てこられたレイがおもむろに言った。
「ダンさんは変わらないわね、そして言っていいかわからないけどアキちゃんはダンさんにそっくりね。」
あははとユリが笑った。
「やっぱりそうよね、でもアキは少し気にしてるみたいだから、本人にはシーッで。」
「ふふっ、はい。」
レイも唇に指を立ててシーッと言った。
「ミナミはいつもアキちゃんの話しをするんだけど、その様子がダンさんそっくりで、聞くだけで我が家では笑いが絶えないわ。」
レイが優しい目をして続けた。
「アキちゃん毎日のように何かを握りしめて図書館へ来るんだって、ミナミが言ってたわ。
何かの実だったりお花だったり。来る途中で摘んだり拾ったりしてるのね。
もうその話しダンさんそのままじゃない。」
カズが家族分のござとブランケットを柔らかい草の上に敷きながら笑った。
「思い出すな~ダンさんも毎日のように何か持ってきては、いつからかユリちゃんにばっかりあげるようになって。」
ユリが少し恥ずかしそうにした。
「そうそう、本当に毎日バラエティ豊かなものをくれたわよ~
きれいだからって石ころくれたり、
僕の一番大事なものって言いながら謎の棒切れをくれたり。」
レイとカズが大笑いした。
両親の珍しい笑い声にミナミが振り返った。
それに気づいたレイとカズが手を振った。
そしてびしょびしょになったダンが湖から上がってきた。
その手に何かを握りしめていた。
「ユリちゃん、見て、水中花がまだきれいに咲いてたよ。
マザーツリーにお祈りして、少しもらってきた。」
そう言って満面の笑顔でユリに白い水中花を差し出した。
その様子に3人はまた噴き出した。
それにつられてアキとミナミも笑った。
「え?何?なんかおかしい?」
とダンはキュロキョロしていたが、ユリが幸せそうにしているのを見て、アキは満足だった。
そこへ、
「これってなんだっけ?」
ナギが手に何かを持ってみんなのところへ戻ってきた。
透明な袋と何かの容器だった。
それを見てダンが急に真面目な顔になった。
「それはビニールとプラスチックだよ。」
「それってなんだっけ?どっかで聞いた気がするけど。」
アキが不思議そうな顔をして聞いた。
「北の地域で使っている袋と箱だよ。」
ダンはナギからそれらを受け取りながら言った。
「ふーん、なんでそんなものが湖にあるの?
ナギ、どこにあったの?」
「そっちの透明な袋は浮かんでた。箱みたいなのは岸辺に転がってた。」
「最近、北の地域の人達がたまにここに来るらしい。
パワースポットって言われているらしいんだ。」
カズは変わらず穏やかな口調だった。
「ふーん、でもこれは忘れ物?なんで置いていったんだろう。」
アキは何の気なしに言ったが、大人達はふっと微笑んだ。
自然に囲まれ、温かく自律した人々に囲まれて育ったアキは、粗雑さや悪意というものにあまり触れたことがなかった。
「まぁ、なんであるかは置いといて、こういうのは自然には還らないものだから、見つけたら拾っておかないとね。」
ダンは明るくそう言った。
アキ達が住むこの国は、北と南で大きく文化が違っていた。
北の地域では産業化、都市化が進み、それに伴う環境問題や様々な弊害が表れていた。
さらに資本主義に伴う働き方、生き方のひずみで人々は疲弊していた。
一方アキ達が住む南の地域では人々は小規模のコミュニティを形成し、自然の中で暮らしていた。
その調和に満ちた生活は世界が注目する形だったが、生まれてからずっとここで暮らすアキにとってはそれが普通だった。
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