第七話 土埃の中で。

 毎夜の情事も以前に比べれば気にならなくなった。散歩に出れば何故か必ずマリーに会える。夫のことは相談できなくても、同年代の女性と話ができるだけで気が晴れる。


 屋敷に戻れば一心不乱に布を織り、夫の為の手巾を作る。王子の愛人にされることもなく、こうして平穏に暮らしていられるのも夫のお陰なのだからと感謝を込めた。


 糸車が回る音も良いけれど、機織りの音も心地いい。考え事も止めて集中すると、まるで音楽を奏でているような気分になれる。


 糸が踊り、布を織りあげていく。水を含みやすくする為、糸が密にならないように打ち込む力を加減する。一気に手巾一枚分を織り上げて、手を止めた。


「休憩したらどうだ?」

 唐突な声に驚いて振り向くと、扉にもたれて立つダグラスが立っていた。外出着のまま、手には白い箱を持っている。


「も、申し訳……」

「……流行りの菓子だ。痛みやすいから早く食え」

 テーブルに箱が置かれる。これまでとは全く違う静かな動作が、気づかなかったことを焦る私の心を鎮めて言うべきことを思い出させた。


「あ、ありがとうございます。あ、あの、先日のチョコレート、とても美味しかったです」

 私の言葉を聞いて、夫は水色の瞳を揺らす。


「…………出掛ける」

 目を逸らし、夫は扉を開けて足早に出て行ってしまった。


 閉じられた扉を見ながら、安堵してしまう自分の心を感じてしまう。名ばかりとはいえ、妻だというのに夫と何を話したらいいのかわからない。


 何が好きなのか、何が趣味なのか。……いつも外で何をしているのか。聞くべきことはたくさんあるように感じても、興味を持つことができない。


「……妻として失格……かしらね」

 ダグラスの姿を見るだけで、何故か緊張してしまう。声を聞くと心臓が嫌な音を立ててしまう。溜息を吐いて立ち上がり、テーブルに置かれた箱を開けてみた。


「あ、これは……」

 紙で出来た美しい箱からは、クリームと果物で飾られたケーキが二つ現れた。同じ物を昨日、茶店でマリーと一緒に食べたばかりでも、その美味しさを知っているから嬉しい。


 玄関ホールからこの部屋まで、クリームが崩れないよう運ぶことに苦労したのではないだろうか。ケーキを気遣うダグラスを想像すると少し可笑しい。


「……お茶に誘った方がよかったのかしら」

 ケーキは二つ。一緒に食べようと思ったのかもしれない。小さな笑みが、自然と零れた。


      ◆


 朝、公園に出掛けるとマリーと出会った。よく眠れるようにと歩き回って、茶店へと向かう。公園の近くにある、こぢんまりとした茶店の個室は大きな窓から庭の花々が見える素敵な場所。侍女たちは外で待機させてマリーと二人、何の遠慮もなく話ができる。


 今日は焼き色が美しいリンゴのパイと最近外国から入って来た紅茶。濃い赤色は、これまで飲んでいた花茶とは全く違う。強い芳香と渋み。マリーの勧めでミルクや砂糖を入れると、飲みやすくなった。


「このパイはリンゴが美味しいですね。そういえば、アルテュール王子は果物がお好きな方です」

 果物が好きと聞いて、どきりとした。ロブも果物が好きで、持っていた籠には必ず果物が入っていた。ナイフで器用に皮を剥き、二人で分け合ったことを思い出す。


「マリーは王子のお話ばかりですね。お聞きしていると王子が身近に感じられます」

 何かあるとマリーは仮面の王子の話ばかり。夫のダグラスのことより王子のことの方が知識として増えていく。魚を油で揚げた料理が好きで、湖の近くに釣り専用の館を持っていて。王子なのに、護衛騎士よりも剣術が巧み。愛馬で岩山を登ってしまうくらいに技術を持つ。


「私の夫の話をしても、真面目過ぎてつまらないだけですから」

 そう言って笑うマリーの顔はとても可愛らしい。


「そういえば、王子はそろそろお戻りになるのでは?」

 あと数日で舞踏会から一月が経つ。

「滞在が伸びるようです。私はお聞きしていませんが、何か目的がおありのようです」


「……それは……また舞踏会が行われるのでしょうか」

「いえ。ないようです」

「それは安心しました」

 心の底からほっとした。仮病を理由にするにしても、王命に逆らうことになるのではと気になっていた。


「近日晩餐会が予定されていますが、今回は侯爵家以上の当主のみと聞いています」

 それは全く知らなかった。私が参加しないから、夫は何も言わないのだろう。



 茶店を出て、公園の馬車停めまで戻った時、見慣れた馬車が停まったのが見えた。侯爵家当主専用の馬車。豪華な装飾が施されているのに真っ黒に塗られた車体は、他の貴族の馬車とは異なっている。


 馬車から降りてきたのはダグラス。夫の手を借り、美しい茶色の髪の女性が現れた。

「……あれは……侯爵……お連れの方は……」

 マリーの困惑の声に、目を伏せることしかできなかった。まだ日が高いというのに、胸元が大きく開いた意匠の派手なワイン色のドレス。貴婦人ではないと一目でわかる。まさか、王立劇場の女優だろうか。


「……ごめんなさい。今日は帰ります」

「貴女が落ち着くまで一緒にいます。茶店に戻って温かい飲み物でもいかがですか?」

 マリーが震える私の手を握る。その温かさが嬉しい。


 お礼を言おうとした時、馬のいななきが響き渡り一台の馬車が轟音を上げて倒れた。

「何?」

 倒れた馬車から離れた馬が前足を上げて立ち上がる。それを合図にするように、一斉に周囲にいた十数頭の馬が暴れ出した。男女の悲鳴と馬が暴れ回る音と鳴き声、沸き上がった土埃が視界を遮る。


「ここは危ない。東屋まで逃げましょう」

 腕を掴んだマリーに導かれて走り出す。何かが壊れる音、ひきずられる音、布が裂ける音、恐ろしい悲鳴があちこちで上がっている。


 恐怖で悲鳴を上げることもできない。煙る視界の先に、東屋が見えた。数名の人がすでに避難している。あと少しと言う所で、マリーの手が離れて背中を押された。


『我を護る盾となれ!』

 叫び声に振り向くと、マリーが両手で青い光の盾を掲げていた。大きな盾が押さえているのは一頭の暴れ馬。正気を失った馬は盾に阻まれていても、なおも走ろうとしてもがいている。


「早く逃げて! 長くは持たない!」

「で、でも……」

 何もできないとわかっていても、マリーを一人にはできない。


「私一人なら逃げられる!」

 マリーが押さえている間に逃げなければと理解できても、足が動かなかった。土埃の中、立ちすくむ私を誰かの腕が抱き上げて走り出す。


「あ……」

「黙れ。舌を噛む」

 私を横抱きにして走るのは、ダグラスだった。

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