第六話 夫からの贈り物。
昨日も夫は帰ってこなかった。……平穏な時間に安堵するだけで、寂しいという感情が沸いてこない。名前だけとはいえ、妻なのに。
新しい愛人と夜を過ごしていると思っても、嫉妬の感情も何もない。心配するのは、王子の愛人にされるかもしれないということだけ。
ルイーズが外出したいと言うので許可を出した。今夜も夫は帰りそうにないし、何の用事もないので問題はない。ルイーズもずっと屋敷から出ていなかったのだから気分転換も必要だろう。今まで気が付かなかった私は、本当に自分勝手な女主人だった。
お茶の時間に夫からの贈り物の箱を開けると、見たこともないお菓子が小さく仕切られた中に並んでいた。艶やかな丸や四角の茶色の粒が二十四個。色は黒に近い物から薄茶まで様々。これは箱から直接食べていい物なのだろうか。
中央にあった丸い一粒を指でつまんで眺めていると、茶色がとろりと溶けてきた。慌てて口に入れると、初めての味と香りが広がっていく。滑らかな甘さの中に苦味を感じても決して不快ではない。
汚れてしまった指を布で拭き、舌の上で溶けていく甘さを楽しむ。菓子が溶けて消えた後、味がいつまでも口の中に残る。花茶を飲むとすっきりとした。
不思議な味だと思う。甘くて苦くて香しい。もう一つと口に入れると、今度は違う味がして、滑らかなクリームの味がする。
菓子の色によって味が違うと気が付いたのは、三つ目の粒を口にした時。黒に近くなると苦味が増し、白に近くなると甘さが重い。
夫からの贈り物が初めて嬉しいと思える。私が食べやすい物を選んでくれたのだろうか。従僕に買わせたにしても、どんな顔をして指示を出したのか。想像すると笑みが零れる。
名ばかりとはいえ、夫として妻を気遣ってくれている。それなら私も妻として返さなければ。屋敷を心地よく整えるのが妻の仕事の一つ。子を産むことが許されないのなら、その他のことに目を向けよう。
様々な味を確認するうちに、私は六粒のチョコレートを食べてしまった。
◆
ロイダール伯爵夫人と会いたくなくて、朝の早い時間に散歩をすることにした。清々しい朝の空気の中、散歩をする貴族は少なく、馬に乗っている貴族が多い。
「おはようございます」
後ろから声を掛けてきたのはマリーだった。今日は深緑色の散歩着で、小さな帽子を飾っている。
「おはようございます。先日はご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした」
マリーは倒れた私を抱えて馬車まで運んでくれたと侍女に聞いた。
「いいえ。私が悪かったのです。変な話をしてしまい、申し訳ありませんでした。あれから夫に叱られました」
マリーが眉を下げ苦笑すると、整った顔立ちがとても可愛らしくなる。
「私が王子の愛人候補から外れたのは、夫が宰相に猛抗議したのが理由だったそうです。フラムスティード侯爵も貴女に知られないように抗議をしたのでしょう。本当に申し訳ない」
神妙な顔になったマリーが深く頭を下げる。ダグラスが抗議した……それなら、私に一切話が伝わってこないことも納得できる。ほっと安堵の息を吐いて、頭を下げ続けるマリーの手を取る。
「どうか気になさらないで」
名ばかりとは言え、妻の名誉は護るということだろう。愛人にならなくていいという安堵で、肩の力が抜けていく。ここ数日の重苦しい気持ちが嘘のように霧散した。
並んで歩きながら他愛のない話を交わす。マリーは外国から戻ってきたばかりで身の回りの物をまだ揃えていないと愚痴を零し、一緒に買い物に行く約束が出来た。
「アルテュール王子は、いつまで王城に滞在されるのですか?」
「一月の予定と聞いています。王子に興味がありますか?」
「いいえ。……また舞踏会があるのかどうかが気になります」
「王子と踊りたい?」
「いいえ。次があるなら、欠席の理由を考えなければと思っています」
「どうしてです?」
「愛人になりたいとは思えないのです。国の為と割り切る勇気が私にはありません」
「侯爵を愛していらっしゃるのですね」
「……」
マリーの笑顔に返す言葉は出なかった。ダグラスを愛している訳ではない。ただ、これ以上都合の良い存在になりたくないだけで。……狡いと思われてしまっただろうか。
「ここだけの話、王子は愛人を求めてはいらっしゃらないと私は感じています。周囲が熱心に勧めているだけで、ご本人は何かと理由を付けて断ってこられました。……だから貴女に声を掛けた時に驚いたのですが」
何と答えればいいのかわからない。愛人を求めていないのなら、何故私に声を掛けたのか。疑問だけが深まっていく。
「王子の愛人の話は忘れましょう。この後、お時間があるならお茶を飲みませんか? 雰囲気の良い店を知っています」
さっと話題を切り替えたマリーに連れられて、私は初めての茶店へと向かった。
◆
舞踏会から十日が経った夜、ダグラスが帰って来た。
「お、お帰りなさいませ」
侯爵の妻として迎えなければと玄関ホールで家令と上級使用人たちと出迎える。近づいただけで何か不快な臭いがした。
「……ああ」
夫の水色の瞳が私を見て、不自然に揺れる。しっかりとした足取りで歩いていても、酔っているとわかった。この臭いはお酒のものか。
「夕食は……」
「不要だ」
私に一言だけを告げ、家令に指示を出しながら帽子やマントを手渡し、足早に執務室へと向かっていく。
夕食が不要なら寝室を整えなければならない。酔った夫の相手を務めなければならないのかと、体が強張る。閨を共にする覚悟は出来ていない。
「奥様、旦那様のお世話は私が致します」
そっと囁かれたルイーズの言葉に、ほっと安堵の息を吐く。
「……そう。お願いするわね」
妻の私が世話をしなければならないのは理解していても、どうしても体が動かなかった。ルイーズの献身には感謝するしかない。
そうしてまた、夫とルイーズの情事の夜が始まった。
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