第五話 都合の良い愛人。
舞踏会の夜から二日後、私は公園でロイダール伯爵夫人に話し掛けられていた。
「イヴェット様、もう足の怪我はよろしいの?」
「はい。ご心配下さりありがとうございます」
会釈をして離れようとしても、伯爵夫人は私の腕に手を掛けて引き留める。侍女にも止めることはできない素早い動作だった。
「あ、あの……」
「もう貴族の間では、貴女の話題で持ち切りですのよ。仮面の王子に何故貴女が選ばれたのか。侯爵様は冷たいふりをしていただけで、貴女を溺愛して外に出さないようにしていたとか。舞台女優との熱愛は、貴女を嫉妬させるためだとか。ねぇ、真相はどうですの? わたくしにだけ、教えて下さらない?」
真っ赤な唇に食べられてしまいそうで、伯爵夫人の笑顔が怖い。
「申し訳ないのですが、何も知らないのです……」
本当に私は何も知らない。夫は舞踏会の夜から帰ってこないし連絡もない。誰にも相談できず、独りで不安な時間を過ごしているだけ。
私が後ろに一歩下がると、逃がさないとでもいうように伯爵夫人は私の腕を掴んだ。
「あらあら。侯爵様は貴女を大事に大事にされているのね。貴女、本当に身籠っていらっしゃらないの?」
ちくりと針が刺すように心が痛む。名前だけのお飾りの妻は、一度も閨を共にしていない。
「あ、あの……離して下さい」
どうにかして離れようと、腕を引きながら訴える。侍女や従僕は貴婦人に対して力をふるうことはできないから助けを求めることはできない。
「ねぇ、そんなことはおっしゃらず……」
伯爵夫人が腕を絡めようとした時、後ろから伸びてきた細い手が伯爵夫人の手を払い、私を抱き寄せた。
「失礼ですが、嫌がっていらっしゃいます」
振り返ると茶色の髪と瞳の同年代の女性。すっきりと髪を結い上げて小さな帽子を飾り、装飾のない簡素な意匠の紺色の詰襟ワンピースは、上質であることが一目で見て取れる。伯爵夫人の着ている服より遥かに品が良い。
「無礼ではありませんこと? わたくしは楽しくお話していただけですのに」
「そうは見えませんが」
年上の伯爵夫人に対して失礼なのではないかと心配してしまう。この方は一体、誰だろう。
「何て無礼な……!」
「これ以上の行為に及ばれるのであれば、宰相に書面で報告を上げますがよろしいですか?」
女性の言葉を聞いて顔を真っ赤にした伯爵夫人が、唇をかみしめながら歩き去っていく。
「あ、ありがとうございます。助かりました」
「いえ。ご迷惑でなくて良かったです」
微かな外国訛り。きびきびとした動作が、まるで兵士のような印象を与える。伯爵夫人は侍女を連れていたのに、女性は侍女も従僕も連れていない。
「マリー・ローラットです。お見知り置きを」
右手を差し出されて困惑してしまう。こんな挨拶は知らない。
「ああ、申し訳ありません。外国暮らしが長かったもので」
並んで歩くうち、マリーがローラット侯爵夫人だと知った。夫と共にフリーレル王国で駐在大使として三年を過ごし、任期切れと同時に仮面の王子と共に戻って来たらしい。
「イヴェット様、貴女は本当にアルテュール王子とお知り合いではないのですか?」
「……はい。全く存じ上げませんでした。夫に聞いて初めてお名前を知った次第です。何故、お声を掛けられたのかわからないのです」
「それは……不思議なことですね。……何の指示もありませんか?」
「はい。何も聞いておりません」
「それなら、私の心配は外れそうですね」
マリーが爽やかな笑顔を浮かべた。
「私はイヴェット様が王子の愛人に選ばれてしまったのかと心配しておりました。王子は顔のアザを理由にして、二十二歳になる今も結婚せずにおられます。せめて愛人を持たれてはどうかと、あちらの国では周囲が熱心に勧めておりました」
「愛人? 私は結婚しておりますのに」
「だから都合が良いのです。侯爵に半年愛されても子を成せなかったのなら、王子の子を身籠る可能性は少ない。もしも身籠ったとしても、侯爵の子として届けが出されますから王族が増えることもありません。我が国はフリーレル王国と非公式でも血の繋がりが出来る」
さっと血の気が引いて体が震える。考えたこともなかった。名ばかりとはいえ、侯爵の妻から仮面の王子の愛人へ。想像するだけでも怖ろしい。
「宰相の指示で私も候補とされましたが、王子のお好みではなかったようで免れました。貴女のような可憐な方……イヴェット様!?」
マリーの声が遠く聞こえる。意識が薄れ、崩れ落ちそうになる体をマリーが抱き止めた。
◆
都合の良い妻。都合の良い愛人。結局、私はそんな存在にしかなれないのだろうか。部屋の中で布を織りながら、心の中で繰り返す。
織機の足板を踏むと経糸が上下に開く。糸を巻いた
軽やかな音が部屋の中に響く。音が漏れてはいけないと、窓を閉めることにした。
「
唐突に掛けられた声で、飛び上がりそうな程驚いた。振り向くと外出用マントを着たままのダグラスが腕を組んで扉にもたれかかって立っていた。いつからそこにいたのだろう。扉が開いたことも全く気が付かなかった。
「あ、も、申し訳……」
椅子から立ち上がろうとすると、手で制された。
「な、何か御用ですか?」
いろいろ聞きたいことがあったはずなのに、すっかり忘れてしまった。思い出さなければと考えてみても、緊張で鼓動が跳ね上がってしまう。
「外国で流行っているチョコレートという菓子だそうだ。茶の時間に食べるといい」
夫は両手よりも大きく平らな箱をテーブルの上に投げ、扉へ手を掛けた。
「あ、あの……」
「何だ?」
背中を向けたまま、不機嫌な声が返って来た。
「あ、ありがとうございます」
どうしても感謝の言葉を伝えたいと、勇気を出して声を振り絞る。
「……礼は不要だ。もっと食べて、肉を付けろ」
「は、はい。あ、あの……」
「まだ何かあるのか?」
呆れるような溜息に体が震える。怒鳴られるかもしれないと身をすくめながら、問いを口にする。
「お、お帰りはいつになりますか?」
夫は答えることなく溜息を吐き、扉を開けて出て行く。
「……気が向いたら」
小さく呟くような言葉が、私の耳には聞こえた。
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