第八話 別の愛人。
東屋までたどり着くと、ダグラスは私を降ろした。
「あ、ありがとうございます」
「……怪我はないか?」
「は、はい」
見上げると水色の瞳が揺れている。助けてもらったというのに、どうしても怖いと感じてしまう。
馬のいななきや悲鳴は上がり続けていて、一向に収まる気配はない。東屋には次々と逃げてきた人々が押し寄せる。
「あ!」
人に押されて倒れそうになった体を夫が抱き止めると、心臓が嫌な音を立てた。危険から護ってくれているのに。そう思っても自分にはどうすることもできない。夫の腕の中、緊張で嫌な汗が背中に流れる。
「イヴェット! 怪我はありませんか!」
「マリー!」
人をかき分けて現れたマリーが、夫の腕から私を奪うようにして抱きしめると、ほっと安堵で体の力が抜けていく。
「フラムスティード侯、お連れの女性はよろしいのですか?」
私を抱きしめながらマリーが夫に問いかける。その鋭い口調は非難のように聞こえる。
視線を向けると、夫は冷ややかな目でマリーを見ていた。……怖くて体が震える。
「……妻を頼む」
一言をマリーに告げて、夫は東屋から出て行った。
「……あの女性の方は女優のタティアーナでしょうか」
「いいえ。タティアーナは銀髪です。一度劇場で舞台を見ました」
連れの女性は茶色の髪をしていたから、別の愛人ができたということか。諦めにも似た溜息しか出てこない。
「先程の青い……」
「それは後で説明します。とにかく、無事で良かった」
さらに強く抱きしめるマリーの温かさに包まれて、私は安堵の息を吐いた。
外の騒々しさが消え、公園を警備する兵士が騒ぎが収まったと知らせると東屋にいた貴族たちから歓喜と安堵の声が起きた。
「人が少なくなるまで待ちましょう」
狭い東屋から人々が消えて、マリーと私の二人だけになった。東屋の石椅子に並んで腰かける。
「何から説明をすればいいのか……」
「青い光の盾のことから」
あの不思議な盾は一体何なのか。正体が知りたい。
「あれは魔法による防御盾です。アルテュール王子の護符を私の魔力で発動させました」
「王子の護符?」
「ええ。こちらです」
左手の袖をめくると、婚姻の腕輪とは別に、七色の宝石が付いた細い金色の腕輪が現れた。何故か石の一つが黒くなっている。
「この石の一つ一つが護符です。防護結界、防御盾……王子の魔法を圧縮して宝石に閉じ込めているのです。魔法を解放して発動させると、こうして焼けてしまいます」
「……ごめんなさい。私の為に……」
せっかくの美しい意匠が、黒い石の為に台無しになってしまった。
「良いのです。護符は替わりがありますが、貴女に替わりはありません。……私には生まれつき強い魔力がありました。ご存知とは思いますが、この国や周辺国では、魔力や神力を持つ者がほぼいなくなっています」
「ええ。存じております」
この世界には、魔法や精霊を使役する魔力と、無から有を生じる奇跡を起こす神力が存在している。昔は誰でも持っていた力は失われ、魔法灯や下水道、魔法石で稼働する設備だけが残っている。
私自身の周囲にも特殊な力を持つ者はおらず、お伽話の不思議な力としか認識していない。
「私の魔力は、放置しておくと何が起きるかわからない危険なものでした。その力の制御を学ぶ為、フリーレル王国に留学という名目で預けられました。私は王子の妹、第二王女の友人であり護衛として王城で過ごしていました」
そこで大使として派遣されたローラット侯爵と出会ったとマリーが微笑む。
「フリーレルの王族は強い魔力を持っています。特に王子は誰よりも強大な魔力をお持ちです。王子は宝石で護符を作り、信頼する者すべてに与えてくれています」
「この腕輪は王子の信頼の証なのですね」
本当に不思議な不思議なお伽話。青い光の盾を掲げたマリーの姿はとても凛々しく、印象的だった。
東屋を出て馬車停めに着くと、公園警備の兵士たちの片づけは続いていた。倒れた馬車を起こし、替えの馬を繋ぐ作業が行われている。
「侯爵家の馬車は……無傷のようですね。不思議です」
マリーが指し示した方を見ると私用の馬車は無事。騒ぎの中ではぐれた侍女と従僕が直立して控えている。
「ちょっと待っていて下さい」
そう言ってマリーが兵士の一人に駆け寄って言葉を交わして戻って来た。
「侯爵の馬車も無傷で、お連れの女性と早々にお出になったそうです。フラムスティード侯爵家の馬と御者は、とても訓練されているようですね」
あの騒ぎの中でも、侯爵家の馬だけは怯えることも暴れることもなかったらしい。
私はマリーに見送られて、馬車に乗り込んだ。
◆
その夜、また夫は帰ってこなかった。新しい愛人の所にいるのだろう。そうは思っても、今日はゆっくりと眠れるという安堵の気持ちが強い。
夫とルイーズの情事が以前よりも気にならなくはなっていたものの、不快な気持ちの中で眠ることは負担になっていた。
愛人を置いて、私を助けてくれたことは感謝している。でも、どうして私を優先したのか、全く理解できない。周囲の貴族の目を気にして……だとすれば、愛人を連れて公園に散歩に来ることがまず間違っている。
何を考えているのか、考えることが無駄なのかもしれない。そう思い至った私は、思考を手放して眠りに落ちた。
◆
遠い夏の日差しの中、湖から吹く爽やかな風が草原を波立たせていた。金髪に青い瞳の少年は、糊の利いた白いシャツに焦げ茶色のズボンとブーツ。その色彩は平民と同じでも、上質な服だと子供でも理解していた。
『ロブはどうしていつも長いお袖なの?』
当時六歳の私に、遠慮は無かった。
『誰にも言わないと約束してくれるかい?』
『もちろんよ』
ロブがボタンを外しシャツの袖をまくり上げると、その腕は黒い鱗に包まれていた。
『これは何?』
『蛇の鱗だ。僕は生まれた時に魔女に呪いを掛けられた。腕と背中が鱗に覆われている』
そっと指で触れると、柔らかいのに硬い不思議な感触。手のひらを付けると冷やりとした温度。
魔女はロブの曾祖父に対して腹を立てていて、その血を引いたロブを呪ったらしい。
『この呪いはどうしたら解けるの?』
『月の光を紡いだ糸で織った〝時戻りの衣〟を魔女に贈らないといけない』
『月の光の糸?』
光を糸にすることができるのだろうか。
『それが何なのか、皆で探しているけどわからないんだ』
ロブの笑顔が悲しそうに見えた私は決意した。
『大丈夫! 私が月の光の糸を紡いで〝時戻りの衣〟を作るわ!』
何も知らない少女は、ロブを励ましたい一心で糸を紡ぎ、布を織ることを学び始めた。
幼い頃の約束は果たされないまま。
ロブの呪いは、もう解けているだろうか。
月の光をどうやって紡ぐのか。夢の中で、私は考え続けた。
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