「クレイソード・サガ」

若林貢

「クレイソード・サガ」

 気分が悪くなって、足を止めた。眩暈を感じて座り込んだ。

 ――なあ、チキ。グラードには良い医者がいるそうだ。

 隣の爺さんが、申し訳なさ気に勧めた。爺さんと一緒に訪ねて来て横に並んでいた村長が、支度金をくれた。

 そうでなくても、身寄りのない、こんな不健康な自分をここまで面倒見てくれた人達に、これ以上の世話はかけたくないと思っていた。痩せて病気がちの孤児みなしごを、孫か子の様に可愛がってくれた村の者達は、決して豊かではないのだ。

 チキはどう考えてもお荷物だった。都近くのグラードの町は村から遠い。しかしチキは一人で、自分の足で歩いて行く他なかった。

 ――追い出すみたいで、悪いなあ。

 泣きそうな顔の爺さんに、チキは笑った。

 ――うわあ、嬉しいな。おいら、いっぺん都に行ってみたかったんだあ。

 金まで出してもらえることに、チキは礼を言った。せっかく精一杯笑ったのに、爺さん達は泣き出した。

 きっと道中倒れて死んでしまうと、知っていたからだ。

 ――兄神様のお慈悲を――

 村を出るチキに爺さんはそう言って、自分の両手の指先に接吻し、指を揃えたまま自分の額と胸にちょんちょん、と触れた。そうしてからその指をチキに、右を額、左を胸にちょん、と当てた。

 チキは村を出てからの日を数えた。

(ひい、ふう、……凄い、十日も歩けた)

 肩から袈裟掛けに提げた、向かいの小母さんがお古だけどね、と言って持たせてくれた繕い跡のある布の鞄は、座り込んだ勢いで地べたに落ちた。村長にもらった路銀も、爺さんがくれた気安めの薬も、その中だ。

 ずるりと引き摺って、鞄を手繰り寄せた。効かないのがわかっている薬を求めて、蓋の隙間から鞄の口に手を突っ込む。その薬も残り少ない。薬と金とチキの命と、どれが先に尽きるだろう、と思った。

 粗末な服の袖から伸びる腕は、痩せて骨と皮ばかりだ。親がいないことも、自分が健康でないことも、恨みに思ったことはない。貧しくても優しい人たちが、絶えずチキを囲んでいた。なのに、薬を掴み出した自分の手を見て。

 何で今更、泣けて来るのだろう。

 ぱたぱたと腕に落ちる涙ばかりが、嫌に熱い。薬を握った手で濡れた顔を擦った。手に頬骨が当たる。手も顔も肉がない。こつこつと当たる。

 大人になったら……

 チキは、理想的に肉の付いた、自分の成人した姿を考える。大人になったら。

 なれはしないのだ。自分はきっと、この旅の途中で、町にも着けずに果てて死ぬ。

 今でさえ、横たわってさえいれば、誰もが死人だと思うだろうに。

 沿道に人家も見えない草と石ばかりの道には、チキの死骸を見付ける旅人はいつ通るとも知れない。獣の餌になるとしても、チキの体は大して食べでがあるでもない。果てたチキを見付ける人にも獣にも、何だか申し訳ない気がした。ならば、今のうちに、自分で墓穴はかあなを掘って潜り込んだ方が良くはないか。

 ガチャリと、金属の音がした。

 寂れた道にはチキの他、歩く者も走る馬車もなかったはずだ。

 泣いた顔で見上げた。まさか、すぐ眼の前にその人が立っているとは思わなかったので。

 チキは驚いて、涙は止まったが、無遠慮な程にその人を眺めてしまった。

 その人……彼は背が高く、チキより頭一つ分以上は天に近かった。いや、チキが背が低いのだ。チキの村では皆一様に背が低かったが、チキは病弱な分、尚更小さかった。それでも、すらりと立っている彼は、チキの村の誰よりも長身で、見目良かった。濡れたように艶やかな黒い髪、軽く掻き上げられた前髪の向こうから、切れ長な深い緑色の静かな眼が、チキをじっと見下ろしている。

 彼が端正な整った顔をしていると気が付くと、チキは自分のカサカサの肌、バサバサの髪や落ち窪んだ眼を思い出して、何だか気恥ずかしい気分になった。村にいた時には一度も感じはしなかった、多分、生まれて初めての感情だ。

 彼は軽装の鎧にも見える丈の短い革のチョッキを着て、大小の袋を二つ背負しょっている。左肩の大きな袋には、剣が十本程無造作に突っ込まれている。幾本かにはつかが付いていない。全てがそうだったなら、チキには剣だとわからなかっただろう。多分、鳴ったのはこの剣だ。他に鳴りそうな金物は、見たところ彼は身に着けていない。右の袋は生活用品だろうか。やはり革の、黒いズボンの裾を飲み込んだ膝までの色の濃いブーツには、チョッキと同様、泥のような染みが付いている。

 チキは随分ぼんやりと、彼の足下に座り込んでいたのだ。

「……どうした?」

 だから、彼のその問は至極真っ当だった。それでチキは、慌てて瞬き、気分が悪いので薬を飲むところなのだと答えた。

 よく考えてみれば、彼もチキと同じ時間かそれ以上、チキのことを見詰めていたのだ。チキが泣いていたので、声をかけそびれていたのだろうと、チキはますます決まり悪く思ったものだ。

 す、と彼は手のひらを出した。

「見せろ」

 チキの握った薬のことを言っているらしい。その手に、素直にチキは薬を乗せた。彼は紙に包まれた粉薬を鼻に近付けるなり、これは駄目だ、と言ったのだ。

 効かないことはチキにもわかっているのだが、なけなしの金の中から爺さんが買ってくれた薬なのだ。以前に、チキの病気も知らない男が、薬の何が駄目だと言うのだろう。

 すると男は、「お前は腹が痛いのか?」と尋く。腹は痛くないので首を横に振った。

「だったら駄目だ。腹が痛くなるまでこれはとっておけ」

 腹痛の薬だったのか、とチキは納得した。チキが腹が痛いのではないことは、腹を押さえている訳でもないから見ればわかっただろう。男が薬に詳しいならば、簡単な判別くらい、匂いで出来るのかもしれない。

 チキの手に薬包を返して、男はズボンのベルト代わりに巻いている紐に括り付けた小さな袋の口を開いて、指の先程の黒い欠けらを取り出した。これを飲め、と言う。

 得体の知れない欠けらにチキは少し躊躇したが、今までだって腹痛の薬を正体知らずに飲んでいたのだし、墓穴を掘ろうとまで考えたのだから、何も躊躇う理由などないのだと思い直した。

「噛むと苦い。そのまま飲め」

 男の手から欠けらを取ったチキに、そう勧める。えい、と一口に飲み込んで、チキは眼を瞑った。

 ……すう、と、体の中のもやもやが、縮んで消えていくのを感じた。

 ずっと重かった頭が、冴えていくようだ。

 信じられないものを見る思いで、チキは男を見上げた。

「……あなたは、お医者?」

「剣売りだ」

 彼は答える。荷物を見れば、当然の答だった。ほんの少しがっかりしている自分にチキは驚いた。彼が医者なら、遠い町まで行かずとも自分の病気を治してもらえるかもしれない、と期待したのに気付いたからだ。

 墓穴まで掘ろうと考えたのに。

「……ええと、このお薬は高いんですか」

 彼は尋ねるように目を細めた。

「売り物でもないし高くもない」

「グラードのお医者のところにあるでしょうか」

「……どこにも売ってないだろうな。俺が作ったものだ」

 グラードへ行くのか、と彼は尋いた。

 はい、と答えながら、チキは薬がどこにもないことに、また少しがっかりとした。

 チキにはもう、墓穴を掘る気は失せている。同じ薬はなくとも、効く薬が他にもあるに違いないと思った。この人に、グラードまでの薬を分けてもらおう。そうすれば、きっとまた、あの優しい村に帰ることが出来る。

「……俺も都の方へ行く」

 俯いて考えていたチキに、彼は静かに誘いかけた。

「時々店番を頼まれてくれるなら、お前に薬をやるが……」

 一緒に来るか、と問う。

 願ったり叶ったりである。

「あ、お、お願いします、えっと、おいら、チキ……!」

 田舎のパルシャ村からグラード町へお医者を訪ねて行くところ、と立ち上がり叫んだ。

「俺はクレイ」

 剣売りだ、とクレイは笑った。笑うと、表情が随分優しくなった。




 チキは気分が高揚していた。赤ん坊の頃からずっと病気がちで、村の外にも出たことがなかった。だからグラードを目指して旅立った日には、強がりでなく、心弾む気がしたものだ。加えて今は、クレイの薬のお蔭で、十四年間の記憶がある中で一番、気分がいい。二人旅も勿論、初めての経験だ。

 一緒に歩いてみて気付いたが、クレイは口数が少なかった。チキが興奮気味に饒舌になっているのを差し引いても、けしてお喋りの類ではない。ガチャガチャと剣を鳴らしてチキの隣を歩きながら、チキの話にそうか、と相槌を打つだけで、自分の話はしない。そして、余り笑わない。

 小さな村は幾つか通ったが町はまだ遠い。宿屋がない時には、クレイはチキだけを民家に泊めてもらえるよう頼んで、自分は外で過ごした。野営も幾度かしたが、クレイはいつも火の番をしながら起きている。毛布を被って顔は見えなかったが、時折火を突いて様子を見るのだ。チキが目を覚ましていると気付くと、静かな声で「寝ろ」とだけ言う。チキが村の民家で眠っていた時も、寝ていなかったのではないかと思わせる。

 次第に町が近付くと、道で擦れ違う人も増える。一緒に歩くチキとクレイをちらり、ちらりと見る人もある。痩せて醜いチキと見目良いクレイが似合わないのだ。チキはそっと口にする。

「……あの、クレイ、おいらと一緒に歩くの嫌じゃない?」

「嫌じゃない」

 尋ねるチキに視線をくれるでもない。何故そんなことを、と尋くでも、そんなことはないぞと慰めるでもない。ごく当たり前に返事する。

 機嫌が悪い訳ではないのは、雰囲気でわかる。

 居心地がいい。それは良く効く薬のせいばかりではなかったろう。だからチキは、調子に乗って話してしまう。小さな村に籠りっ切りだったチキの話など、剣を売ってあちこち歩いているクレイには面白くもないに違いない、とわかっていても。

「村はずれに家を建てた、その、おいらと十違いの兄さんが、村一番の悪戯っ子だって……もう今年で二十五なんだから、いい大人なのに、やっぱり爺さんたちは悪戯っ子だって言うんだよ」

 そうか、とクレイは相槌を打つ。隣に見上げるクレイの横顔は、村の兄さんより随分綺麗で男前だけれど、年は同じ位のようだ。

「クレイは、悪戯っ子じゃなさそうだなあ」

「悪戯っ子という年でもないな」

 村の兄さんの立場はない。だから、あははと笑ってチキはそう言った。

「ああ……いや、……そうか。すまなかったな」

 クレイは詫びて、次の町では行くところがある、と剣売りの店番について切り出したので、年の話はそれで仕舞いになった。




 ウザは中位に大きな町で……チキには、とてもとても大きな町に思えたのだが……旅の物売りが店を構える場所が決まっていて、クレイはそこの市頭の男に、腰の袋から出した金を渡し、二、三話した後、案内された一畳ばかりの敷地に剣の袋と財布代わりの巾着袋とチキを置いて、では頼む、と出掛けて行った。

 行く時に、袋の中から柄も鞘も備えている剣を一本、腰紐に差して持って行った。随分古そうな剣で、柄と鞘の拵えも実用一点張りだったが、だからチキは、クレイはその剣を客に届けに行ったのだろうと思った。

 道すがら店番については教わっていたものの、チキには何もかもが初めてのことだ。袋から出した剣を空にした袋の上に並べて、その隣に腰を下ろす。客が来るまでは黙って座っていればいい、と言われていたが、チキは胸がドキドキして治まらなかった。けれど、けして嫌な感じじゃない。初めて見る大きな町の家並みや溢れんばかりの人波に胸が時めくのと同じだ。楽しい。チキは、楽しいのだ。

 チキが教わっていたのは、それぞれの剣の最低金額と金銭のやり取りについてだけで、客の呼び込みなどもしなくていいと言われていた。

 だから、最初にやって来た客に「いらっしゃいませ」と言ったのも、クレイにそう言えと言われていた訳ではないのだ。

 暑気避けの布を頭に被った小男は少し太り気味だったが、チキに比べると随分太って見えた。

「……ここはクレイの店だろ?」

 確かめるようにチキに問う。はい、とチキは頷いた。初老の小男は、面白そうに笑うのだ。

「きゃつの店に来てお愛想を言われたのは初めてだよ」

 店番の坊主を雇うとは、きゃつも少しは商売っ気が出て来たかな、とけらけらと笑う。

 本当に商売っ気があるのなら、チキではなく、もっと見目美しい、客慣れした女でも雇うだろう。小太りの小男は、そこのところには触れず、剣を一本買って行った。

 二人目の客は、いかつい女剣士だった。店番をしているチキをじろじろと見てから、並べてある剣をまじまじと見る。

「店主はどうした?」

 出掛けています、とチキは答えた。

「いつ戻る」

 わかりません、と答えた。そう言えば、そこのところは一切クレイは言及しなかった。女剣士は眉を顰めた。

「念の為に尋くが……これはクレイの剣だな?」

「はい、そうです」

 女剣士は、大仰に溜め息を吐く。仕方ない、買いそびれるよりは良いか、と呟いて、比較的細みの剣を一振り買って行った。

 有難うございました、と見送って、握り締めた代金を巾着袋に仕舞う。

 楽しい。剣が売れて嬉しい。

 どうやらクレイは、ここが初めてではないらしい。クレイを目当てにやって来る客も少なくないようなのだ。当然だろうな、と思う。クレイはとても綺麗な男だし、それに剣そのものも、客の様子を見る限りでは、なかなかに質の良いものだと思われた。剣の届け物をするくらいなのだから、評判も良いのだろう。

 チキは剣の相場など知らないが、クレイの言い置いて行った金額は、決して子供の小遣いで買える値段ではない。それでも既に二本売れた。しかも値切るでもなく、こちらの言い値ですんなりと。

 大した額の入った巾着袋を抱えて、これは確かに、店番は必要だったのだろうと思う。クレイの店が来たと聞けばやって来る固定客がいるのなら、チキのような何も知らない綺麗でもない……寧ろ痩せ過ぎで気味悪い子供が店番でも勤まるのだ。

 一人前に役に立っている気分になって、ふわふわと高揚している時に、三人目の客は訪れた。

「いらっしゃいませ」

 客は目付きの鋭い、痩せ気味の男だった。

「ふうん……」

 剣を見て、値踏みするように幾度か頷く。

「そんなに大騒ぎする程の剣にも見えないが……鞘どころか、柄のないのまであるじゃないか」

 あんた店番かい、とチキの顔を覗き込む。にやにやと、品のない笑いをした。

「成る程、これなら間違っても、店番以外出来そうにないや」

 チキは不愉快になった。自分の容姿について、多分悪し様に言われたことはどうでもよかった。事情は知らないけれど、この男がクレイの剣を貶める物言いをしているのが癪に障った。

「お客さんは皆、喜んで買ってってくれてますけど」

 チキの知っている客はたった二人だが、余りに悔しかったのでこう言った。すると男は、ますます下卑た笑いを漏らすのだ。

「さて、喜んで買ってるのは何かねえ」

 眼をしばたかせるチキに、おや、わからないのかい、と気の毒そうに男は笑う。

「聞くところによると、クレイという剣売りは大層美人だそうじゃないか。それでこうして店を構えても、大概留守でどこにいるかわからない。こりゃ、剣以外のものを売りに行っていると思われたって、仕方ないだろう」

 男がヒヒヒと厭な声を発するのを、チキは唖然として眺めた。何を言っているんだこの男は。

「こんなガラクタは二束三文だろう。はっきり言って商売の邪魔だ。ほら、俺が買い取ってやるからさっさと失せな」

 親切そうに男は言って、懐から小さな巾着を出し、チキの前に放ると、ガチャガチャとクレイの剣を拾い始めた。

「えっ……ちょ、待って」

 チキは慌てた。どう考えても、放られた小さな袋に残りの剣全部に見合う金が入っているとは思えない。

「何するんだ、困るよ」

「何が困る。俺が全部買ってやるんだ、店番はそれで終わりだろう」

 隣近所の物売り達が、何だ何だと騒動を見ていた。男は押し問答の末、チキを突き飛ばした。おい、とチキの隣で香炉を売っていた爺いが、無法を怒鳴った。男はフンと毒突いて、剣を拾い続ける。咳き込んで、チキはやめろよ、と言えなかった。

「――おい、坊主。そこの、一番でかい剣を買うから、こっちに寄越しな」

 頭の上から、不意に、朗々とした声が降って来た。チキはまだ胸が痛くて、まともに顔を上げられなかった。ぜいぜい言う胸を押さえて、ようよう声の主を振り仰ぎ……そう、振り仰いだ。でかい。見ると、周りの店の連中も無法を行っている男も、ぽかんとでかい男を見上げている。首から上がにょっきと野次馬達の上に突き出ている大男が、人を掻き分けチキの前に現れた。

 一見して剣士だ。背中には大きな剣と袋を背負って、筋骨隆々たる体でどんと立っている。太い首の上に乗っているのは逞しい顔、だがどこか悪戯小僧のように楽しげだ。明るく薄い金の長い髪も、やはり楽しそうにふわふわとうねっている。何より金茶の眼の光が、今悪戯を企んでいるのだと言っている。

「おい、その端っこの剣だ。ほれ、寄越せ」

 馬鹿のように口を開いて座っているチキに、右端の剣を指差して見せる。チキは黙って頷いて、差し出す男の頑丈そうな手に、一番大きな剣を渡してやった。

「おう、これだ、これ」

 男の手には、その剣も小さく見える。機嫌良く、男は剣を二度三度と軽く振る。

「うん、上物だ。最近のでかい剣はなかなかいいのがなくってなあ。竜の一匹も斬り倒せないときた」

 困ったもんだ、ほれ、と言って、背中の大剣をひょいっと抜いて地面に放った。土煙を上げて落ちた剣の身は、途中で折れて無くなっていた。

「でかいだけじゃ駄目だな、やっぱ。さて、試し斬りは……」

 大仰にがっくりとして見せた後、大男は一転浮き浮きと、ちらりとクレイの剣を拾い抱える男を見た。

「ひ……?」

 息飲む男に間髪与えず、ひゅん、と眼の前に剣の切っ先を突き付ける。

「物足りねえがなあ。ま、手近なところで手え打つかあ?」

 犬歯を見せた物騒な笑いに悲鳴を上げて、小狡い男は逃げ出した。すると、大きな体に似合わず、金髪の剣士は器用に剣先を操って、逃げる男の服を引っかけた。

「こら、置いてけ」

 転んだ男はガシャンと剣をばら蒔いて、ひーっと叫び、地べたを這いつくばるように消えて行く。それを見送って、わっはっはっ、と笑う金髪の男は、大きいはずの剣を軽々と肩に担いだ。

 わあっと場が沸いた。チキと大男の周りの人垣が歓声を上げる。大丈夫かい、とチキに声を掛けたのは、隣の香炉売りの爺いだった。

「うん、ありがとう」

 チキが礼を言うあちらで、物売り達や客達が剣士をわいわいと囲んでいる。

「すっとしたよ、あんた! よくやってくれた!」

「あいつは一昨日ここに来た剣売りさ。クレイの噂を聞いて、邪魔しに来たんだろう」

「はは、クレイに振られた口かもしれないよ」

「市頭に言って、締め出してもらうとしよう」

 チキが散らばる剣を拾い始めると、何人かが手伝ってくれた。ほんの五本程なので、拾うのはすぐに済んだ。チキは地面に、今の男が忘れて行った巾着袋を見付けた。

「……あ、これ」

「迷惑料だ、もらっとけもらっとけ」

 企みの成功した大男は、機嫌良く唆す。自身で袋を拾い上げ、中身を確認して、うわっは、馬鹿にしてらあと喚いた。

「こんなんじゃ鼻毛抜きも買えやしねえ。クレイからもふんだくれよ、店番の坊主」

 そう言ってチキに巾着を投げて寄越した。

「ふんだくれって……」

 どうせ奴はあんな小悪党についてなんか、考えもしなかったんだろうよ、っと、これはこの剣の代金だ、と金髪を揺らせて、男は上着の懐に手を入れて、これまた袋を放って寄越す。先に受け取った物とは段違いに、それはずっしりと重かった。

「しかし、奴が店番を雇うとは珍しい」

 そう言って男は、体を屈めて、悪戯な顔をチキに近付けまじまじと見た。四角い顎を手で摩り、首を傾げてチキを眺める。チキは身を引きながら、クレイと馴染みらしい男に尋ねてみた。

「あ、あの、いつも、クレイは店番も置かずに留守にするんですか?」

「ああ……」

 男は体を起こし、腰に手を当てる。

「奴には自分が商売人だって自覚がないんだろ。愛想はねえし店は空けるし」

 それでも客が来るのだから、剣は相当良いものなのだろう。チキがそう言うと、男は頷く。

「まあな。剣は一流だ。だから尚更、品だけ並べて留守にするのは馬鹿だろ、って言うのさ。こないだも留守中に剣がごっそり持って行かれたらしいが、奴はこうだ。『値札は書いて置いたんだがな……』」

 不意に無表情になって言った台詞は、クレイの真似だ。野次馬の中のクレイを知るらしい男が、似てる似てる、と手を打った。チキも思わず吹き出した。目聡く気付いた男は、気を良くしてにやりと笑う。

「似てるだろう。とにかく奴は、剣売りの癖に剣を売るのに熱心じゃない。何か副業で儲けてるからだろうってのは当たり前の推測だが、旅芸人が傍らで春を売るのとおんなじだと思ったら、大きな間違いだ。例え誘ったって、あのクレイが応じるかよ」

「……え」

 さっきの嫌な男が「何か他のものを売りに行っている」と言ったのは、そういうことを言っていたのかと、気付いたチキは真っ赤になった。

 金髪の男は、片眉を上げてチキを見る。

「……おい、わかってなかったのか?」

 呆れる口振りで確かめる。チキは俯いてしまって、子供をからかっちゃいけないよ、と香炉売りの爺いが庇ってくれた。

 大男は黙って頭をがしがしと掻いて、それからチキに、「この町の子か?」と尋いた。

 チキはまだ赤い顔を横に振って、逆に男に、クレイと会う約束をしていたのかと尋ねた。そうなら、黙って留守にしたクレイの代わりに謝らなければと思ったからだ。

「ああ……いや」

 男は手を軽く振った。

「魔が出るって噂を聞いたからな。会えるかと思ってよ」

「魔……?」

 ガチャリ、と鳴ったのは、腰に帯びた剣だろう。

 最初に振り向いたのは金髪の男だった。それにつられて、その場の全員が振り返る。

「賑やかだと思ったら……お前か、ヴァーン」

 クレイが帰って来たのだ。行った時と同じ姿で、腰紐に一本、剣を差して。いや、見間違いでなければ、革のチョッキに染みが少し増えている。

 大男は嬉しそうに、友人に呼びかけた。

「……よお、クレイ」

 クレイは友人を通り過ぎて、チキの方へと歩み寄る。

「ご苦労だったな、もういいぞ」

 再会の抱擁を予定していたらしいヴァーンは、広げた腕と笑顔を持て余して、自分を無視した友人に抗議した。

「こらこらこらこら! 本当にご苦労だったんだぞ! 俺が助けてやらなかったら、店番の坊主はお前に泣いて謝らなきゃならないところだったんだ! それもこれも、お前が不必要に別嬪べっぴんなのがいけないんだろうが!」

「なんのことだ?」

「久し振りに会ったってのに、冷たい奴だお前は!」

 ヴァーンの非難の内容は到底筋道立っているとは言えなかったので、クレイには先の出来事が伝わらなかったろう。クレイのせいではないのだが、ヴァーンは尚更に詰め寄り、吠える。

 この二人、並ぶと目立つ。

 一人ずつでも、とくにヴァーンなどは十分目立つ。

 例えば、ヴァーンは人混みに紛れてしまうことはないだろう。持ち前の体格と光を発しているような存在感は、周りにいる人間をその他にしてしまう。だがクレイは、簡単にその他に紛れてしまえる癖に、ヴァーンの隣に立っても、背景に落ち込んではしまわないのだ。

 クレイより頭半分ヴァーンはでかい。クレイも長身だが、腕の太さや肩の厚みがまるで違う。二人が目立つのは、無論体格のせいもあるのだろうが。

 チキの目には、二人が光を出しているように見える。眩しいばかりの明るい光と、酷く暗くはあるけれど、やはり光なのだと思えるもの。

(そうか)

 チキは思った。クレイの光は暗過ぎて、ヴァーン程に明るい光と並ばないと、唯の闇と紛れてしまうのだ。

 ヴァーンが、クン、と鼻を鳴らす。

「仕入れて来たんだろ。剣は?」

「……ああ。依頼主が買い手になった。臭うか?」

「いや、わからん程度だ。寧ろ石鹸がな」

 そう言って、ヴァーンは大仰に息を吐く。

「そんな風に帰って来るから、ナニを売ってると囁かれるんだっての」

 クレイは一つ瞬いて、そんな話をしていたのか、と気にした様子もない。ヴァーンは諦めたように首を振って、チキを向いた。

「おい坊主、店番は幾らで引き受けた? こいつは今儲けて来たんだ。賃上げ交渉をしてやるぞ」

 突然呼ばれて、チキは返事に躓いた。

「え……えと、そ、その、ただで」

「ただぁ?! 坊主、駄目だぞそんなんじゃ!」

「えっと、でも、おいら、その」

「坊主じゃない。チキだ」

 クレイの訂正に、ヴァーンは驚いたようだ。チキとクレイが考えた以上に親密だと思ったのだろう。素直に手を挙げて謝った。

「……そうか、そりゃ悪かった。名前を聞きそびれてたな」

 チキが首を振る間に、クレイの説明は続く。

「チキは病気だ。グラードまで俺の薬を飲んで行く」

「――お前の薬?」

「ああ」

 チキを見て「ふうん」と言った。表情豊かな男の顔には、その時特に読み取れるものはなく、却って正体不明な事情を思わせた。

「それで、留守の間に何があったんだ?」

「お前……それは俺がさっき言っただろうが!」

 ヴァーンの説明は甚だ不足であったので、チキはヴァーンに助けてもらった次第と、剣の売れ行きについて話すことになった。

 そうか、とクレイはヴァーンを向いた。

「礼を言う、ヴァーン。助かった」

「最初っからそう言えっての」

 不服そうに口を尖らせながら、ヴァーンの手付きはいいってことよと言っている。

 今日はもう仕舞いにしよう、とクレイは店に広げた剣を拾い上げ、袋に片付け始めた。

 明日も来るかと尋いたのは、隣の店の爺いで、そのつもりだと答えたクレイに、じゃあこの場所を押さえといてやるよと香炉売りは笑った。

 クレイは爺さんに礼を言って、手早く店を畳んだ。その際、腰に提げていた剣も一緒に袋に入れたので、チキは売れなかったの? と尋いてみた。クレイは気が付いたように、ああ、これは売り物じゃない、と答えて、ガシャンと重い袋を担いだ。

 手を振る爺さんが見えなくなる程歩いた頃に。

「……何故ついて来る」

「何故ってお前」

 チキとクレイ、その隣に当たり前のように並んでいるヴァーンが、思い切り冷たい友人をどんと突いた。クレイは体を傾げて二歩程斜めに歩いたが、叩かれたのがチキなら、すっ転んで暫くまともに息も出来なかったか、悪くすれば打ち所を誤って死んだかもしれない。

「おい、チキ、こんな奴と二人じゃさぞ気詰まりだったろう。こっからは俺も同行してやるからな」

 嬉しいだろ? とヴァーンは笑う。クレイは、来るのか、と言っただけで、特に感想は無いらしい。ヴァーンは自分の背中に新しく担いだクレイの剣を親指で差して、

「まあ、こいつで悪いこたあないが、出来ればもう少しでかい剣が欲しいしな」

 と同行の理由を付け足した。

「留まるってことは、ここでまだ仕入れるんだろ?」

 ああ、とクレイは答える。そっかそっか、とヴァーンは続ける。

「切れ味はやっぱ、お前の剣がピカ一だからな。もう他のは使えねえ」

「……クレイは、剣売りだろ?」

 クレイとヴァーンが、揃ってチキに視線をくれた。

「剣を自分で鍛えるの? 仕入れるって?」

 ヴァーンがちらとクレイを見る。クレイは、剣売りだからな、とチキに話す。

「切れる剣を仕入れて売るだけだ。俺は鍛冶屋じゃない」

 商売不熱心だがな、とヴァーンはからかった。

 やがて三人は宿屋に着いた。宿屋の主人は物珍しそうに、大男と美男子と痩せた子供の三人連れをしげしげと眺めた。

「お部屋は生憎、二つしか空いておりませんが、一つは二人部屋に出来ますので」

 それでいい、とクレイは答えて、部屋の鍵を持って先導する主人の後を三人揃ってついて行った。主人は多分、クレイとチキを同じ部屋に宛てようと思ったのだろう。「では、そちらの大きな方はこちらで」と一部屋の前で立ち止まった時、「いや」とクレイは訂正した。

「一人部屋はこの子が使う」

「おや……それでよろしいので?」

 三人の顔を代わる代わる眺めて、主人は確認を取る。ヴァーンは眼をしばたかせ、「ああ……お前がいいなら俺は別に」と了承してチキを見た。

「え……そりゃあ、おいらは有難いけど……いいの?」

 いいんだ、とクレイは肯定する。

 では、と宿屋の主人は部屋の鍵を開け、それをチキに渡して、後の二人を二つ向こうの部屋まで案内して行った。宛てがわれた部屋の前に立って、主人が鍵を開けるのを見ているチキを、クレイは振り返る。

「何かあったらいつでも来い」

 うん、とチキは頷いた。「では、もう一つのベッドはすぐに運び込みますので」と宿の主人は引き返して行く。開いたドアに入りながら「何だ、俺と同部屋になりたいならそう言やあいいのに」とヴァーンはクレイを小突いたが、クレイはそれには答えなかった。

 それはチキには、随分立派な部屋に見えた。ベッドと水差しが置いてある小さな台が一つ切りの狭い部屋だが、チキの暮らしていた部屋より、いや道中泊まったどの宿屋より、綺麗で立派だ。村にいた頃のチキがいきなりこの部屋に連れて来られたら、気後れしてベッドが使えなかったろう。チキはクレイやヴァーンに感謝しながら、鞄を台の上に下ろし、そっとベッドに寝転んだ。

(気持ちいい……)

 クレイにもらった薬を飲んでから、体は随分調子がいい。勿論、ぐっすり眠ることも出来ない頃と比べてだから、健康体とは程遠いのだが。それでも村の爺さん達は、チキがこれ程ゆったりとベッドに横たわっていることなど、想像しないに違いない。

 そうだ、村の皆に手紙を書こうか。旅の途中で親切な人に薬をもらって、今は随分調子がいいこと。旅に出してもらったお蔭様で、もしかしたら、すっかり元気になって、村に帰れるかもしれないこと。

 そうだ、そうしよう。思い立ってチキが体を起こした時、がたんがたんと、ベッドを運んで行く音が廊下から聞こえた。

 覗いてみると、宿屋の主人が、息子だろうか主人を少し細くした良く似た男と二人で、狭い廊下をえっちらえっちらと運んで来る。チキは二人部屋のドアを開けてやる為に、自分の部屋を飛び出した。意図がすぐに知れたのだろう、主人はこりゃあどうも、と礼を言う。

 クレイ、ヴァーン、ベッドが来たよ、と声をかけて、チキは二人部屋のドアを開けた。

「おう、ご苦労さん」

 肩越しに振り向いたヴァーンは、最初からあったベッドの前で体を屈めたまま、その辺に置いてくれ、と部屋の隅を指す。尤も、何とかもう一つベッドが入る、という程の広さしかないから、その辺も何もないのだが。広さの他には、チキの一人部屋と変わりない。

 運び込まれるベッドの為にチキはドアを押さえて、見た。クレイは眠っている。ヴァーンは、苦労して、クレイの革のチョッキを脱がせているのだ。

「……手伝おうか?」

 宿屋の二人がベッドを置いて出て行くと、チキはドアを離れて、クレイが転がされているベッドに寄った。

「いいさ、もう終わる」

 脱がせたチョッキをぽいと放ると、今度はブーツを脱がせにかかる。

 チキは床に落ちたチョッキを拾い上げて、クレイの荷袋の上に乗せた。

「あっという間に寝たんだね」

「まあな」

 やっぱり疲れていたのだろう。余り寝ていなかったのだ。そう言えばチキは、クレイが眠っているところを初めて見るのだ。子供のように靴を脱がせてもらっているのが、何となく可笑しい。

 両足とも脱がせたブーツをヴァーンは床に放り出す。それをチキが揃えるのを見て、「っと、こりゃすまねえ」と謝った。

 ふう、やれやれ、とヴァーンは自分も腰のベルトを外して上着を脱ぐ。自分の上着は、ベルトと一緒に今運び込まれたばかりのベッドの上に投げて……と言っても、ベッド二つの間はヴァーンの腕一本の長さしかなかったのだが……どすん、と上着の横に、ヴァーンは腰かけた。

「チキも座れ」

 勧められたが、こちらのベッドはクレイが寝ているし、と少し迷って、チキはヴァーンの隣に少し離れて腰を下ろす。

「年は幾つだ?」

 ヴァーンの笑顔は賑やかだ。

「十四。ヴァーンは?」

「俺は二十八だ。そうか、十四か。俺にもちっこい従妹がいてな。暫く会ってないが、確かそれっくらいになってるはずだ」

 自分の左腹の当たりをぽん、と叩いて、

「ここにな。その従妹が作ってくれたお守りがある」

 そりゃあちっこくて可愛かった、とヴァーンは笑う。嬉しそうだ。だから、チキはもう少しその従妹の話を聞こうと思った。

「お守り、見たいな」

「見たいか?」

 ヴァーンはシャツを捲り上げる。シャツの裏に、小さなポケットが付いていた。太い指をねじ込んで、ヴァーンが抓み出したのは、ヴァーンの指先程の小さな袋だ。元は綺麗な色をしていたのだろうが、もう随分色褪せていた。良く見ると、あちこち綻んでいる。

「まあ、あんまり上手な作りじゃないがな」

「何が入ってるの?」

「ハンナ……って名前なんだが、ハンナが大事にしてたガラス玉だ」

 そして、不意に真面目な顔になった。

「まさか、まだ、俺に黙って嫁に行く年じゃないよな」

 チキは瞬き、ぷっと吹く。

「ヴァーン、おと、お父さんみたいなこと言ってる」

 上体を折って笑いを堪えるチキに、いいだろ別に、と抗議して、ヴァーンはお守りを仕舞い込んだ。

「チキはどこから来たんだ」

「パルシャ村。すっごい辺鄙な村だよ。って言っても、村の中にいた時には、ちっともわからないことだったんだけど」

 パルシャ村か……聞かないなあ、とヴァーンは顎を手で擦る。

「一度も出たことがなかったのか?」

「うん。初めて村を出て……クレイに会ってびっくりした。村にいないもん、こういう人」

 あ、ヴァーンみたいな人もいないけど、と付け足すと、どう解釈したものか、そうだろそうだろ、と頷いた。

 ベッドの横に二人並んで腰掛けていると、自然、眼の前のクレイを眺める格好になる。

 ヴァーンはにやりと笑って、顎で寝ているクレイを指した。

「幾つに見える」

 呼吸も殆ど感じない程静かに眠っているクレイを見つめて、綺麗だなあ、と考えた。

「ううん……ヴァーンと同じ位かな。クレイの方が少し下?」

「正解は」

「正解は?」

 俺も知らない、とヴァーンは頷いた。

 チキは瞬く。ヴァーンとクレイは、随分仲が良さそうなのに。

「知らないの?」

「知らないなあ。ま、俺の方が若くてぴちぴちなのは間違いなさそうだが」

「……ふうん?」

 そうだな、後は、とヴァーンは壁に立て掛けられたクレイの剣の袋を指差す。

「あの中の一等古い一本が、奴の親父さんの忘れ形見だ、ってことかな。奴は違うが、親父さんは鍛冶屋だった」

 売り物ではない、と言った、あの一振りだろうか。

「それで、クレイと知り合ったの?」

「うん?」

「ヴァーンは剣士だから、やっぱりいい剣を鍛えてもらいに行ったんだろ?」

 ヴァーンはきょんとして、そしてにやにやと笑った。

「俺が剣士? そう言ったっけか?」

「え?」

「よし、いいもの見せてやろう」

 ヴァーンは人差し指を振り振り、小声で何やらぶつぶつと唱えた。すると、ヴァーンとチキの丁度真ん中に、突然指の長さ程の青い光球が現れた。

「えっ……?!」

 チキは驚いて身を引く。ヴァーンは寝ているクレイに遠慮した笑いをくっくっと漏らして、「綺麗だろ?」と指を振る。それにつれて、青い光はチキの方へと滑って来る。

「剣術は趣味だ」

 幾度も眼をしばたかせるチキを、ヴァーンは面白そうに眺めている。

「俺は魔法使いだよ」

「……魔法使い?」

「そ、こっちが本業」

 あんまり暇だったもんで、つい体も剣術も鍛えちまったって訳。陽気で逞しい大男の魔法使いは、そう言って、指振る手をぱっと開いた。すると光は、チキの鼻先で、ふっと消え失せた。






 チキは一人部屋のベッドに潜り込んで、初めて店番をしたことやら、初めて見た魔法のことやら、沢山思い出すことがあって、なかなか寝付けなかった。体がかっかと火照っているのは興奮しているからだ。そう言えば昼間、酷く疲れたら飲んでおけ、とクレイから薬を一欠けらもらっていたのを思い出した。明日の為にもちゃんと休まないと、と思い、チキは薬を水差しの水で飲んで、その後はすぐに眠りに就いた。




 僅かな音にヴァーンが眼を開けると、幽かな月明かりに、クレイが身支度している姿が浮かんでいた。

 脱がせてやったチョッキもブーツも、すっかり身に着けている。

 ベッドから身を起こしてヴァーンは尋ねる。

「相変わらず夜型か」

 クレイは父親の忘れ形見の剣を腰に差して、ヴァーンを見ずに応える。

「そうでもない。最近は昼に動くようにしている。人は昼活動するものだろう」

「そうしてくれ。昼でさえお前、あれだってのに」

「お前は大丈夫だろう」

「信用してくれて有難いがな」

(そのうち襲うぞこの野郎)

 返り討ちは目に見えている。

 クレイは、ちらりとヴァーンを見た。

「……なんだ。お前でも感知するのか?」

 押し寄せて来る、邪な波動。ヴァーンは、視線に酔いそうになる。

「当たり前だ。忘れてるかもしれないが、俺は魔法使いだぞ」

「知ってる。お前程の白い魔法使いなら、平気なものだと思ったが」

 平気な訳がない。常人よりも魔に対する感度が良いのだ。一度欲してしまえば、溺れる具合は凡人の比ではないだろう。破滅する。

 クレイは言わないが、実際この男に破滅させられた人間はいるのだろう。こいつが女だったら、きっと国の一つも傾いていたに違いない。正しく魔性の女、と言う奴だ。

 ヴァーンがクレイに出会ったのは夜だった。クレイはただ、月明かりも薄い闇の道に立っていただけだったのだが、寄越された視線にヴァーンは初めての金縛りを体験した。目を逸らすことも出来ず、魂を食われる恐怖と、それに身を委ねる甘美の狭間でヴァーンの中では恐ろしい程の葛藤があった。だがそれはほんの一瞬の、クレイが瞬きをする間の時間でしかなかったらしい。

 魔法使いか、とクレイは静かに口を開いた。それはまるで解呪の言葉で、ヴァーンは忘れていた呼吸いきをすることが出来た。

 十二年前、ヴァーンがまだ十六の少年で、背中に一本剣を差して旅に出た年であったが、クレイの姿は、少なくとも、その頃から変わらない。

 クレイは、魔に食われたのだ。

 魔物自体は、既にクレイの中から失せている。クレイの体にあるのは魔の残滓ざんしだ。本体を思うとゾッとする。

 魔の邪気は夜に強まる。それはクレイの望むところではないのだが。そして夜には、クレイはヴァーンより更に、魔に対して鼻が利く。

 近い、とクレイは呟いた。

「……いるのか?」

「ああ。大物ではないようだが」

 小物か、とヴァーンはがっかりとする。出番も、欲しい大振りの剣もなさそうだ。

 それにしても、とヴァーンはさりげなく視線を逸らす。チキが寝ているはずの方向を向く。

「お前と会うまで、良く無事に歩いて来たもんだ」

 押し寄せる気配が微妙に和む。ヴァーンは笑って目線をクレイに戻した。

「いい子だな。ヤバイくらいに冒されてるが、眼だけは綺麗だ。いい光を持ってる」

「……チキは薬を飲んだかもしれんな」

「ああ、さっきチキに、軽く臭い消しの魔法をかけておいたが」

 そうか、とクレイは安堵したようだ。クレイの薬は魔物から作る。特に夜には人の鼻に感じない臭いは強く、仲間を食らう類の同族を呼び易くなる。

「なら、放っておいていいだろう」

「お前も魔法を覚えろよ。難しくないぞ?」

「魔法に優秀過ぎて、魔法学校も名のある家も放り出して剣術修業の旅に出たような奴に言われてもな」

 朝には戻る、とクレイは部屋を出て行った。狩りに行くのだ。ヴァーンは一度ベッドに転がったが、再び起きると、脛までの丈のブーツに足を突っ込み、上着を身に着け、ベルトを巻いた。




 まだ夜のうちにチキが目を覚ましたのは、久し振りにベッドで寝たからだろう。却って眠りが浅かった。寝返りを打って、窓の方を見た。

(あれ……?)

 人影が一つ。はっきりとは見えなかったが、あれは昼間の嫌な剣売りではないか。人目を忍ぶ風をして、クレイ達が寝ている部屋の方へと歩いて行く。チキはベッドを抜け出して、そっと窓に顔を押し付けて見た。間違いない、痩せた男はチキを突き飛ばし、ヴァーンに懲らしめられたあの男だ。男はきょろきょろと辺りを伺い、二つ向こうの……多分クレイ達の部屋の中を覗き見ると、懐から何やら道具を取り出して、窓のガラスを切り始めた。

(泥棒――)

 チキが口を開いて、しかしそれを声にしなかったのは、泥棒を働く男の遥か向こうの空に、大きな鳥のような影を見たからだ。

 あれは、何。

 思う間に影は、ぐんと近付く。窓に穴を空け、鍵を跳ね上げようと腕を突っ込んでいる男は気付かない。羽毛はない。鳥と言うよりトカゲ。翼には腕が付いていて、太い尻尾はチキの体より長そうだ。巨大なトカゲにコウモリの翼が付いたバケモノ。そう判断出来る頃には、バケモノは男のすぐそこにいた。かっと、尖った歯が並んだ口を大きく開けて。

「――危ない!」

 盗みに夢中になっていた男は、チキの声でそれに気付いた。襲い来る獣に目を遣り、

「ひ――」

 しかし悲鳴は続かなかった。声を上げる間もなく、男は頭から食われた。血飛沫が、チキが顔を付ける窓までびしゃりと届く。

 窓に突っ込んだ片腕を残して、食い千切られた男の半身が、勢いに引き摺られてどさりと倒れる。信じられない程静かに地面に降り立って、バケモノは二度、三度と咀嚼する。

 男の邪心を飲み込んで、魔物はケエ、と一鳴きした。

 そう、――魔物だ。

 チキは動けない。体が痺れて、目も逸らせない。

 魔物はチキに気付いている。証拠に、魔物はじっと、チキを見ている。次の獲物を見定めている。

 肝が冷えると言う奴だろう。体の芯が凍えて、逃げた方がいいとわかっているのに、動けない。いや、逃げたくないのかもしれないとまで錯覚させる。

 ――自分は、食われたいのかもしれない。

「喝ッ!」

 びくんと声に振り向くのと、太い腕に抱えられてその場を飛びすさるのは同時だった。「ヴァーン……!」

 ヴァーンは右手に剣を持ち、左手にチキを抱えて、一足飛びに廊下まで下がった。ドアの鍵はいつの間にかヴァーンが斬り壊していたものらしい。チキがいた窓際は、部屋の半分以上と一緒に、魔物の突進でその一瞬に噛み千切られた。

「動けるな? よし」

 チキを降ろして押さえるように頭を撫でると、ヴァーンはその手をばっと前に出し、人差し指一本を立てて、早口で唱え始めた。

「天のガラシア地のアルシナ、神柄かむから、使徒に思う者共を守らせ給え」

 魔物は再び口を開いて、宿屋ごとチキを齧る勢いだった。だが、何かに弾き返されるように、魔物はそれ以上こちらへはやって来ない。ヴァーンが軽く指を振ると、魔物は外へと押し出されて行く。

 ケエ、と鳴いて、魔物は足を踏み鳴らした。入れないのだ。ヴァーンが作った見えない壁のこちら側に。

 ヴァーンは右手の剣をぐっと握り直し、今正に飛び出して行くかと思った時。ふっと、見通しの良くなった空を壊れた屋根越しに見上げて、来たか、と呟いた。

 ――空から、

 クレイが、降って来た。

 一閃。魔物の頭頂から真っ直に剣が振り下ろされる。降り立ったクレイは一振り剣の汚れを払って、腰の鞘に収めた。腰の紐には、もう一本、柄も鞘もない細身の剣が下がっている。

 クレイに遅れて、空から斬られた魔物目掛けて、同種の魔物が落ちて来た。クレイは僅か半歩下がる。ぶつかった魔物同士は、クレイを掠めて、地を揺らして横たわった。どちらも絶命しているようだ。

 かい、と唱えて、ヴァーンは魔法を解いた。危機は去った、ということだろう。

 クレイ、と駆け寄ろうとしたチキを、ヴァーンは「待て待て」と引き止めた。

「奴は今からお仕事だ」

 クレイは、今斬ったばかりの魔物に近付くと、左手を掲げ……見ると、クレイは左手に手袋をしている。肘までの黒い手袋だ。その左手で、徐に魔物の腹に触った。……様に見えた。手は、ずぶずぶと、倒れる魔物の腹に飲み込まれて行くのである。クレイの斬った傷から、魔物の黒い血は流れていた。だが、クレイの腕が入り込んで行くのに、血は一切流れない。腕の半分を魔物の腹に飲み込ませて、クレイはやがて腕を引き出した。黒手袋が外に現れ、クレイの拳が出ても尚……その先に。クレイは、剣を握っていた。

 クレイが腰に差しているのと良く似た、細身の剣。柄も鞘もない。

 剣が出て来た魔物の腹には、傷すらない。

 クレイは、取り出したばかりの剣を腰紐に差して、手袋を乱暴に剥ぎ取り、ズボンのポケットに突っ込んだ。

「小物だな」

 ヴァーンの声に、ようようこちらを振り向いた。

「宿全体に結界を張ったのか。助かった」

「どう致しましてだ。当てにしてた癖に」

 そうしてヴァーンは溜め息を吐く。

「邪心をぷんぷんさせた小悪党が、魔の良い餌になるのは承知だろうが」

 食われた男のことを言っているのだ。

「魔物ばっかり追いかけてるから、人に目が行かないんだろう」

「ああ……そうだな」

 男の邪心に引かれて、魔物が宿屋の方に来ると知っていてもいなくても、ヴァーンはクレイに落ち度があると言いた気だ。

 事実、それでチキは危険な目に遭った。でもそれは、男が盗みに来ようなどと考えたからなのだし、実際はヴァーンのお蔭で、他の客共々事なきを得た。

 これでまた、不必要に別嬪なのがいけない、等と言われても、クレイが気の毒と言うものだろう。

 チキは、魔物の死骸から庇うように立っているヴァーンの陰から、クレイに駆け寄る。

「クレイは、怪我は、ない?」

「……ああ」

 えた臭いがした。魔物の血の臭いか。これを洗い流す為に、クレイは仕入の後に石鹸を使うのだ。月の光では見えないけれど、きっと革のチョッキには、また汚れが増えている。

「お前は無事か?」

「うん。ヴァーンが助けてくれたし」

 振り向くと、ヴァーンの後ろには、宿の主人をはじめ、泊まり客達が恐る恐る、壊れた部屋の向こうから伺っていた。

「あんた、クレイかい」

 呼び掛けたのは、宿屋の主人の息子だった。




 チキの為に宿屋の息子は自分のベッドを一晩譲ってくれて、朝迄の数時間を、取り敢えずチキは他の宿泊客達と同様、まともな部屋とベッドで眠った。

 魔物の死骸をどう片付けたものかと悩んでいた宿屋の主人にヴァーンが言っていた通り、朝になって覗いてみると、外に転がっていた魔物は二体ともきれいに無くなっていた。死んだ魔物は体の形を保てなくて霧散するのだそうだ。その前に同類を食う類の魔物が掃除しに来ることもあるからと、ヴァーンは死骸に向けて何やら魔法を使っていた。だからクレイに倒された魔物は二匹とも、霧となって消えたのだろう。

 クレイは破壊された部屋の償いにと、仕入れたばかりの剣を一振り宿に置いて来た。

 とんでもない、頼み事まで聞いてもらうのに、と宿の主人は固辞したが、クレイの剣なら買いたい、と言う者が泊まり客の中にいたので、なら宿代代わりに置いていくから交渉はここの御主人とやってくれ、と半ば強引に押し付けたのだ。泊まり賃は先に支払ってあった。剣を抱えて主人があうあう言っている隙に、さっさと出立したのである。

 チキ達三人はウザを出て、チャルダという町に向かっている。

 グラードに向かう道からは少し外れるが、宿屋の息子に頼まれた用事は、チャルダにある。

 チャルダは大きな寺院がある町で、そこに住んでいる宿の主人の親戚も熱心な信者だそうだ。ところが、最近着任した大司祭が、どうにも妙な法を触れ出した。魔物も頻繁に出没するようになった。大司祭様は、魔物に憑かれてしまったのではないか、と専らの噂なのだそうだ。

 もし魔物の仕業だったとしたら、クレイに退治して欲しいと、こういう訳だ。そうでなくても、チャルダは今魔物が良く出るそうだから、仕入れにはいいだろうと。

「まあ……魔物が増えたのは、どこでも同じだがなあ」

 ヴァーンは四角い顎を擦ってついて来る。でかい剣を手に入れるまでは、同行するのだと主張している。

 それは、昨日のあの魔物よりも、もっと大きな恐ろしい魔物に出遭うのを待っている、とそういうことなのだろう。

 チキは、思い出すと、それはやはり恐ろしいのだ。でも、恐ろしさと一緒に、夜の闇に溶けるように舞うように剣を振るった、クレイの姿も思い出すのだ。

 あれは、とても綺麗だった。

 そして、クレイは何だか、痛そうだった。

 怪我をしていないのは本当らしい。今も普通に、チキの隣を歩いている。

 魔物を倒して仕入れる為に、剣売りの男は歩いている。

「……ねえ、どうしてクレイは剣売りになったの?」

 クレイは黙って、ちらとチキを見る。

「魔物から剣を取り出すなんて、普通出来ないよね」

 見上げるチキにクレイが何か言う前に、ヴァーンの低い声がした。

「……おい。香炉売りの爺さんに黙って来たな」

「あっ」

 チキも、クレイもはっとする。

「……そう言えばそうだな」

「まったく、今頃爺さんは空の場所を守っているぞ」

 ヴァーンは、やれやれとばかり、首を振るのだ。それをクレイは肩越しに振り返る。「お前も忘れていたんだろうに」というクレイの視線を、ヴァーンは無視する。

「がっかりしているだろうな。爺さん、チキを気に入ってたようだから」

「……おいら?」

 チキは驚いて、真後ろのヴァーンを振り仰ぐ。だってこんな、とチキは自分の面相のことを言おうとしたのだ。

「素直ないい子は、特に年寄りにはウケがいいのさ」

 ヴァーンは後ろからチキの頭をぽんぽんと叩いて、はっは、と笑う。手加減しているのだろうが、チキはつんのめって転びそうになる。ヴァーンはチキの鞄の紐を掴んで助け、「なある、それでか」と呟いた。

「え?」

「クレイがチキを気に入っている理由さ」

 まるでクレイが年寄りのような言い方をする。

 チキは少しドキッとして、今度はクレイを振り向いた。

「気、気に入って……?」

 クレイは何も言わずに歩いている。ヴァーンは構わず言葉を継ぐ。

「でなけりゃあ、こいつが一緒に旅出来るもんかよ。勿論、だから俺のことも気に入ってる訳だ!」

 わっはっは、と大きな声で笑いながら、ヴァーンはクレイをドンドンと叩いた。クレイは低く長い溜め息を吐く。

「お前は勝手について来ているんだろう」

「好きなら好きと素直に言え、でないと年寄りにウケないぞ!」

 ヴァーンは喚く。クレイはそれをまるで無視する。

 長身の二人は、会った最初からずっと、小さな自分に歩を合わせてくれている。チキは随分和んだ気分で、綻んだ口元で小さく小さく、ありがとう、と礼を言った。

 するとチキの考えが聞こえたように、

「なあに、俺達はゆっくり歩くのも好きなんだ」

 ヴァーンが独り言のように口にした。クレイも軽く返事する。

「ああ」

「ついでに俺のことも好きだろ?」

 これには何の返事もない。チキはとうとう、明るい声を上げて笑った。




 チャルダに入ると、ウザの宿屋の親戚の家はすぐに見付かった。大通りに面した、割りに大きな宿屋である。看板には太い朱書きで「マハル亭」。聞いていた通り、食堂も兼ねているようだ。町の外からも見ることが出来た大寺院の丸い屋根が、その宿屋からも良く見えた。

「ようこそ。亭主のマハルでございます。ウザからの報せは届いておりますので」

 ウザの宿の主人は、親戚に速報はやしらせを出していたらしい。金髪の大男と黒髪長身の美男子と小さな痩せた子供の三人連れが宿の扉を潜った途端、名乗る前に宿の亭主が進み出て挨拶をした。

 案内されたのは三人一緒に泊まれる広い部屋で、元は四人部屋らしい。部屋代は要りませんので、と亭主が言ったその時に、クレイはきっと、剣を置いて行くことを決めていただろう。

「お食事はすぐにご用意出来ますが」

 昼を少し回ったところだ。ウザを発つ時に宿の主人が用意してくれた弁当を道中食って来たことであるし、食事はすぐには必要なかった。

 話を聞かせて下さい、とクレイが言うと、亭主は女房にお茶を持って来させて、恐縮しながら話し始めた。

「御存知の通り、ここチャルダは、都のヘンダルを除けば国一番の大寺院がある町です。歴任の大司祭様は、その大層な魔法のお力で、町を守って下すってました。また多くの信者がそうであるように、チャルダの大寺院を訪ねる者は引きも切らず、町は賑っていたのです。それが、前任のライ大司祭様が御病気で退任なされて」

 次官の僧正が、去年大司祭に任官した。

 その頃から、チャルダに魔物が出没し始めたのだという。

 亭主は手のひらを擦り合わせて、親指以外の四本を揃えたまま、左右の手を九十度ずらしてぎゅっ、また反対にずらしてぎゅっと握った。

「他の町よりはましなのかもしれないと残る者も多いのですが、町を去っていく者も少なくはなく……」

 亭主はまた、手をぎゅっぎゅっと握る。天に坐すとされるガラシア神、地を治めるとされるアルシナ神を信仰する、ここバルダ国の多くの者がする仕草だ。

 因にガラシア神だけを信奉する者は左手を上に、アルシナ神のみの信者は右手を上にして、一度だけ手を握る。地方によって差はあるが、この国の者は大抵二度手を握る。それが隣国、そのまた隣と離れて行くと、左右どちらかしか握らない者、あるいはガラシア・アルシナ姉妹の父と言われているダラーシャを信奉し、両手を広げて頭上から足先まで腕を大きく動かすのが主流の国もある。

 昔はこの国にも、そうしたダラーシャ神の信者は多くいた。しかし宗教の統一を図ろうとした寺院の決定で、今ではダラーシャは引退し、娘達に座を譲ったのだと言われて、信仰の対象にはされていない。

 戦争から遠退いて久しい国では、戦と創造を司る父神よりも、共に平和と豊饒を司る姉妹神の方が、奉るに相応しいのだ。

「で?」

 ヴァーンは促す。

「今のその、ハンザン大司祭が魔物に憑かれていたとして、どうするんだ、俺達は大司祭を殺しちまっていいのか?」

「そ、それは」

 出来れば憑いている魔物の方だけを、とマハルは断る。司祭殺しは重罪だ。そんなことを依頼したとなれば、宿屋をやるどころではない、亭主の首も飛ぶだろう。女房も、ひいっとんでもない、と俯きながら手を握っている。ぎゅっぎゅっ。

「……とにかく様子を見て来よう。魔が憑いているかどうか確認しないと仕様がない」

 クレイの言葉に、宿屋の女房が顔を上げる。

「じゃ、じゃあ、大司祭様とこの町を、助けて下さるんで?」

「心配要らない。俺は魔にしか用がない」

 クレイは言った。宿屋の夫婦は顔を見合わせて、それから、お願いします、と頭を下げた。

 立ち上がったクレイとヴァーンと一緒にチキも立とうとすると、「お前は残れ」と声がした。クレイは荷袋から自分の剣を取り腰に差す。

「着いたばかりだ。少し休むといい」

 そうだな、とヴァーンも同意して、土産を買って来てやるよ、と手を振った。

 部屋を出るクレイとヴァーンを見送って、チキがふうと小さく息を吐くと、宿屋の女房が優しく話し掛けて来た。

「どっちかと御兄弟かい?」

「え、いいえ」

「そう。髪の色からしたら、大きい人がお兄さんかと思ったけれど」

 ヴァーンの髪は薄く明るい金。チキは金系とはいえ、酷くくすんで不健康な色だ。クレイの濡れたような黒と比べたら、確かに近いかも知れないけれど。

「おいら、病気で……グラードに行くまで、一緒についてかせてもらってるだけです」

 病気かい、と女房は瞬いた。一見して、ただの痩せ過ぎだとは思わなかったろうに。

「グラードはお医者が沢山いるからねえ」

 そうだお前、と亭主は女房を呼んだ。

「ほら、あいつの倅が確か……」

 ああ、そうだそうだ、と女房は手を打つ。

「知り合いにね、グラードで勉強して来たお医者がいるんだよ。そうだ、呼んであげようね」

 勿論、お代を取るなんて言わせないよ。女房はいそいそと部屋を出た。チキは慌てて手を伸ばす。

「えっあの、でも」

「うんうん、それがいい、グラードに行く途中こっちに寄り道したのは、きっと姉妹神様のお導きだ。心配ないよ、手前の友人の倅でね、若いが、腕はいい医者だから」

 ほら、座ってお茶を飲みなさい、と頷く亭主と二人、チキは断り損ねて、お茶を飲み飲み、待つことになった。






 「マハル亭」を後にして、クレイとヴァーンは各自の剣を腰と背中に、大寺院の黄色い屋根を目指して歩いている。剣を帯びて歩く者は少なくない。だがそれより多いのは、巡礼の旅姿をした者だ。

 目的がそれと一目でわかるように、長い黄色の布を頭に掛けている。首のところでくるりと巻く者、そのままだらりと垂らしている者、長い布を洒落た帽子のリボンよろしく結んでいる者、それは様々だったが、道行く者の凡そ三分の一の頭が黄色い。

 その者達は、一様に大通りを寺院への往復方向に歩いている。

「今のは知らんが、前任の大司祭は俺の魔法学校での先輩だ。覚えが悪くて随分長いこと在学してたが、いい人だった。後任の大司祭について尋いてみるのもいいな。会ってみるか?」

 必要ない、とクレイはヴァーンの案を却下する。

「ハンザン大司祭本人に会えばいい。魔物が憑いていればすぐにわかる」

 じゃあ、とヴァーンは擦れ違う巡礼の黄色い頭を見やる。

「俺達もその辺でチャータイを買うか?」

「ガラシアの零した水の跡やら、アルシナの爪先の跡やらが見たいならそうしろ」

 クレイに巡礼の振りをするつもりはないらしい。

「いや、俺はもう拝観したしな」

 寺院の周りをうろうろするだけならともかく、そういった「聖なる跡」を拝観するとなると、確かに手順が面倒臭い。ヴァーンが首を振ると、クレイは面白そうに、観て拝みたくなったか? と尋いた。

 珍しい顔をするなと思いながら、ヴァーンは片眉を上げて考えた。

「いや……古いものなんだろうしな。特に聖なる波動なんかは感じなかったが。クレイは見たことあるのか」

「あんなものは魔物が抉った跡だ」

 ヴァーンはぎょっとして、咄嗟に辺りに気を配った。

「おい、クレイ!」

「かなり前だが、俺が見た時には、魔の臭いがぷんぷんしてたがな」

 一国の宗教を引っ繰り返すようなことを、さらりと口にする。

「お前、そんなこと絶対寺院関係者には言うなよ! 下手すりゃ処刑だぞ!」

 憎らしいことに、クレイは笑っている。

「……騙したのか?」

「いいや、本当だ」

 ならもっと質が悪い。

 その辺を歩いている巡礼の誰かに聞かれるだけでも、大事になる内容なのだ。

 ヴァーンも官位はないとは言え、魔法を修めるものとして、立派に寺院関係者なのだ。国内十箇所にある魔法学校は、何れも寺院の管轄だ。

 ヴァーンは小さく咳払いして、僅かにクレイとの距離を詰めた。

「その……魔が憑いてたらどうする」

「狩る」

「すぐにか?」

「俺は仕入をするだけだ」

「まあ、そうだが」

 心配するな、とクレイは言った。

「宗教と喧嘩する気はない」

 それはそうなのだろう。この国で寺院に睨まれたら、何処へも行けはしない。否、それ以前に、クレイに魔物以外と事を構える気などないに違いないのだ。今こうして同じ道を歩いているその人この人など、クレイには空気と変わらないのではないか。

 自分も、空気の一粒と大差ないのだ。

 ヴァーンの歩みが、ぴたと止まった。

「――どうした?」

 数歩先に離れたクレイが振り返る。こちらを見る緑の瞳を暫時睨んで、仕方ない、とヴァーンは斜め下に吐き捨てた。

「すっごく気が進まないんだが……確かチャルダ大寺院には叔父貴が勤めてる。かなり高位の多分大司祭付きの僧官のはずだから、そいつを訪ねることにしよう」

 クレイは瞬く。

「そういう手があるなら早く言え」

 任官しろと煩いんだよ、とヴァーンは唇を突き出して不本意を主張した。




 寺院は決して豪奢な造りではないが天井が高い。上階に行くにつれ低くなるのだが、巡礼の者達が溢れ返る一階は、それは灯りが届かぬ程の高さだ。一応階段は設けられていたが、上階に用があるのは魔法の使えるものばかり。なので、行き来に時間が掛かるという不便はなく、魔法の使えぬ部外者の侵入を難くしているのであった。

「ヴァーン……ヴァーン・ハンプクトか……!」

 寺院を入ったところで一人の僧を捕まえ、面会の申し込みをしようとしたところ、それはヴァーンの魔法学校時代の同級生であった。

「おお、マンタ! 久し振りだな、おい!」

「ははっお前は、またでかくなって! いよいよ任官する気になったか?」

 やめてくれよ、とヴァーンが肩を落とすと、マンタは愉快そうに僧衣を揺すって笑った。

「まったく、お前程の魔法使いが、なんでそうふらふらとしているんだ、もったいない」

「俺の剣の才能を磨かない方が勿体無いさ。へえ、お前上三位じょうさんいになったのか。大した出世だ」

 ヴァーンがマンタの僧衣の色に気付いてそう言うと、俺でさえこうだ、お前なら今頃僧正様だ、と拝んで見せた。ヴァーンはぷるぷると首を振る。

「そんなもん、爺さん達にやらせとけ」

 それはそうと、とヴァーンとマンタは声を合わせた。マンタが譲る。

「……ああ、どうぞ」

「すまない。叔父貴はどこかな。会いたいんだが」

「ああ、大司祭様の事務室においでのはずだ。なんだ、本当に任官じゃないのか?」

 違う、とヴァーンは念を押す。マンタは少しがっかりとして、で、そちらは? とヴァーンの後ろに視線を遣った。

「ああ、こいつは……」

 ヴァーンは後ろに立っているクレイを振り返る。

 クレイは、

 どこか酔った人のように、あらぬ方を向いて立っていた。

「――……」

 周りにいる巡礼の信者も僧達も、マンタも、ヴァーンも、……寺院の建物でさえ、目に入っていないのではないかと思えたので。

「……おい、クレイ」

 ヴァーンは、なるべく刺激を与えないように、クレイを呼んだ。呼ばれてからクレイが反応するまで、僅かに時間差があった。気付いてヴァーンを振り向く様子には確かに、帰って来た、という印象を持った。

「……ああ。ヴァーン、例の跡はどこにあるんだ?」

「あ? 見たことあるんじゃないのか?」

「こんな建物はなかった」

「……なるほど?」

 ヴァーンは眉と口をひん曲げる。そっちの、と「聖なる跡」のある方向を指差すと、それはクレイがぼうっと眺めていた方向である。

「……クレイって、剣売りの?」

 マンタの問に、ああ、と頷いたのはヴァーン。クレイはまた、ヴァーンの指差した「跡」のある方角を向いている。

 クレイという名は珍しくない。マンタが違わず「クレイ」を言い当てたのは、やはりクレイの持つ常ならぬ暗い光を、マンタの聖性が見分けたのだろう。魔物から剣を採る、という噂を聞いていれば、感じることの出来る人間は、間違えたりしないはずだ。

 そして、そういう類の人間には、クレイはヤバイ。

(夜じゃなくて良かったぜ……)

 クレイを見詰めるマンタの眼を見て、ヴァーンはこっそりそう思う。

「ヴァーン、案内してくれ」

「ああ、じゃあ叔父貴に……」

 言い終えもせず、クレイはヴァーンに先んじてすたすたと行く。しかも方角が違う。

「おいおい、そっちは……手順が面倒だから、見ないんじゃなかったのか?」

 クレイが行こうとしているのは、明らかに「聖なる跡」だ。クレイは一言、「臭う」と言った。

「に……」

 臭う? と言うことは、

「魔物がいる、ということですか?」

 続きを言ったのはマンタだ。やはり、そういう噂は、寺院の中にも蔓延しているのだろう。小さな声で、喘ぎながら。

「やはり、やはり大司祭様は……」

 クレイが歩を止めた。ふいと左を見る。

 奥に続く廊下から、金と黄で作られた僧衣の高僧が、数人の僧官を従えて歩いて来る。

 バルダ国第二の大寺院、チャルダ大寺院のハンザン大司祭。

 ガラシア・アルシナを奉る天地神教、その事実上のナンバー二だ。

 ヴァーンはそっとクレイに寄って、どうだ、と耳打ちした。

 威圧的ではないが、それなりの威厳をもって、滑るように歩いて来る大司祭は、今年八十になる老人だ。見る限りでは、魔物が憑いた様子はない。

「憑いてるか?」

「……憑いてはいないようだが、臭うな」

 本体はあれじゃない、とクレイが言った時。

 大司祭の後ろに控えて従っていたヴァーンの叔父が、ヴァーンに気付いた。ヴァーン、と口が動くのを見て、やばい、と思うより先に、

「……お……おお……」

 立ち止まり、皺に埋もれた眼を見開いて、口を開いて愕然と呻き声を発したのは、大司祭だった。

「……ハンザン大司祭様? 如何為されましたか」

 僧官達の問を無視して、おお、おおう、と呻いた挙げ句、腕を持ち上げ前方を指し、ついに大司祭は叫んだ。

「捕らえよ! 逃がすでないぞ!」

「はっ……?!」

 一同は茫然とする。しながらも、大司祭が指差す方向を見る。そこにいるのは、ヴァーンとクレイだ。

「ヴァーン、お前何を仕出かした!」

「うわ、叔父貴、ひでえ!」

 叔父と甥のコミュニケーションの間にも、大司祭はうおう、と呻く。震えている。

「そこな男……黒髪の……」

 ばっとクレイを見た。クレイは呆気にとられている。どうやら身に覚えがない。

「捕らえよ……! 捕らえるのだ!」

「は……はっ!」

 わからぬまでも、僧官達は言葉の意味だけは理解した。クレイとヴァーン目掛けて、僧衣を翻して駆けて来る。

 僧達の足音に、変わらぬ、変わらぬ、と呟く大司祭の声が紛れた。

「くそ、何だか知らんが逃げるぞ!」

 クレイの腕を掴んで走り出す。

 クレイが寺院から追われる理由はないはずだ。クレイは寺院の敵の魔物を退治して、剣を仕入れている剣売りだ。例え感謝されることはあっても、クレイにその気がない限り、寺院に敵視される筋合いはない。

「ヴァーン!」

 叔父とマンタが呼んだ。「悪い、またな!」と双方に叫び、ヴァーンはクレイを掴まえたまま寺院を走り出た。

 驚く巡礼者達を擦り抜けるようにして大通りを目指す。僧官達は待て、と追いかけて来る。逃げるには不便な二人連れだ。どちらも目立つ。走りながら、クレイに尋いた。

「おい、クレイ、本当に身に覚えはないんだな?」

「ない。……と思うが」

「頼りない返事だな。宗教と喧嘩する気はないんだろ?」

 ない、とクレイは答える。ヴァーンはクレイの腕を放して、そういやあの爺さん、と思い付く。

「変わらぬ、とか言ってたぞ」

 クレイは瞬き、ああそう言えば、と言い出した。

「ここに寺院が出来てからも、五十年程昔に一度来ているな。俺の姿を覚えられていたか」

「お前ほんとのところ年は幾つだー?!」

 くわっと歯を剥き出し怒鳴るヴァーンに、クレイはさらりと答えた。

「百より先は数えていない」

 ヴァーンは口を噤んだ。クレイから眼を逸らし、前を見たまま毒突いた。

「……百越えた爺さんてのは、もっと可愛らしいもんだと思ったがな」

「俺もそうなりたいものだ」

 意見が合うな、とヴァーンは笑う。

 そうする間にも僧官達は追って来る。クレイもヴァーンも足が早いが、見失わない程度には頑張っている。ヴァーンはそれをちらりと見やって、

「若さの秘訣を聞きたいって訳じゃなさそうだな……おい、他にも理由があるんじゃないのか? 例えば、その昔お前が求婚を断ったとか」

 勿論、半分冗談だったのだ。

「……――ああそう言えば」

 このボケ爺い、ヴァーンは思い切り口をひん曲げて心中に毒突いた。

「あの司祭はその時の坊さんか。偉くなったもんだ」

「大司祭に求婚されたのかよ!」

 その時は一介の坊さんだ、とクレイは訂正する。だから、そういう問題じゃない。

 この男、本当に国を傾けかねない。

 振られた腹いせではないにしろ、このままでは埒があかない。僧官に追われるヴァーン達を、巡礼者達も訝しげに見ている。

「こうなるなら、チャータイの二枚ぐらい買っとくんだったな」

 布を被ったところで、隠せる体格ではあるまい。わかってはいるが、ないよりはましだ。

 大通りを脇道に入り、少し走った。店の一つにも入ってしまった方がいいだろうかと、ヴァーンがきょろきょろと目を走らせたところで、クレイが、ぐい、とヴァーンの腕を引いた。

「うわったっ」

 ヴァーンの大きな体がよろめく程の強い力で、裏道の建物の壁に背を付けて、クレイはヴァーンを引き寄せる。ドッとぶつかって、何だ、と尋くと、緑の瞳が、随分近くでヴァーンを見ていた。

「俺を消せ」

「……あ?」

「そういう魔法があるだろう」

 クレイはヴァーンの体を追手からの壁にするように、自分の体にぴたりと引き付けてヴァーンの腕を掴んでいる。大通りからこの場所は死角だが、確かに長く隠れていられる場所でもない。

「俺は『跡』を見て来る」

 臭うと言った、「聖なる跡」。

「以前よりも臭う気がした。ずっと臭っているなら、あの場所で寺院が成り立ち続けたはずがない。魔物が増えたのは去年からだったな?」

「……ああ」

 ぬしが帰って来たのかもしれんな、とクレイは呟いた。

「主?」

「魔物にも縄張りはある。ヴァーン、お前は宿に戻ってくれ。俺の連れも追われるかもしれん」

 チキが心配だ、と言っている。

「……よし、わかった」

 ヴァーンは右腕を胸まで上げ、人差し指を立てた。

「……天のガラシア地のアルシナ、神柄、使徒にこの者をあらゆる目から匿わせ給え」

 唱え終わるや否や、クレイの姿はかき消えた。

「ちゃんと術を解いてもらいに戻って来いよ」

 ヴァーンの言葉に答はない。クレイの手が、ヴァーンの胸を押し退けて、そして離れる感触があった。

「……俺も消えといた方が良さそうだな」

 呟いて、ヴァーンは自分にも魔法をかける。それを見た巡礼が、人の消失に驚いて、捧げ物の果物を地面にばら蒔いた。




 姿を消したまま宿屋に戻ったヴァーンは、宛てがわれた部屋に入ってチキがいないことに気付いた。そこで魔法を解き、姿を現して宿の亭主に「チキはどこだ」と尋ねに行ったところ、「いつの間にお帰りで?」と亭主は仰天した。

「お連れの方でしたら、差し出がましいかとも存じましたが、腕のいい医者を紹介致しまして。今、その医者のところに」

 場所を尋くとそう遠くない。行ってみると、医者の家には「本日休診」と貼り紙があった。休みのところを無理に診察してもらっているのだろうか。ドアに手を掛けたが動かない。鍵が掛かっている。

(いや、待て、そいつは手際が良過ぎる)

 ぞろりと登って来た嫌な気分に首を振った時。

「見付けたぞ、ヴァーン」

(……あいたたた)

 ゆっくりと振り向くと、顔から汗を滴らせ、肩で息をしている叔父が、同じように肩を上下させている僧官二人と並んで、睨んでいた。ヴァーンが眼を合わせるなり、一喝する。

「この悪童がッ!」

「悪童って……叔父貴、二十八歳男前を捕まえてそりゃ」

「悪童だろうが! 何故逃げる!」

「いや……そりゃ叔父貴の顔を見たら、なんでかなあ」

「黒髪の連れはどうした」

「……さあ?」

 叔父はすっと腕を伸ばすと、自分よりうんと背の高い甥の耳を抓むなり、ぐいぐいと引っ張った。

「いででで……痛いって、叔父貴!」

「痛くしているのだ! 大人しく大司祭様の前に出い!」

「わかった、わかったから……!」

 呆れたり脅えたりしている道行く者の視線を浴びながら、ヴァーンは寺院へ戻った。クレイは「跡」を見ているはずだから、却って良かったかもしれない。ヴァーンが一声喚けば、クレイに届くだろう。チキの行方は、わからなくなってしまったのだけれど。

 巡礼者の列から外れて、ヴァーンは僧官達に囲まれて廊下を奥へと進んでいた。突き当たりの小部屋は、寺院内の各階にあり、魔法の力で移動する為の場となっている。

 僧官の一人が小部屋の中央に設置されている琥珀に光る玉に手を触れた。中にいる者は何も感じないが、これで移動は為されたのだ。小部屋を出ると、案の定、そこは大司祭の部屋がある最上階だった。

 促す叔父に従い、廊下を行く。ここはかなり天井が低い。ヴァーンが腕を伸ばして少し跳ねれば、届く程だ。昔、初めて寺院の最上階を訪れたヴァーンが、試したくなって偉い司祭の前でいきなり跳ねた時、同席していた叔父は、恥ずかしいやら腹が立つやら情けないやらで、顔を真っ赤にして既に自分よりでかかったヴァーンの頭を床に擦り付けたものである。

 ヴァーンは、大司祭が来賓を迎える時に使用する部屋へと通された。中には、大司祭が供も無しに待っていた。

「ヴァーンを連れて参りました」

 叔父が、頭を垂れて、ぎゅっぎゅっと二度手を握る。

「……おお、ハンプクト家の長子か」

 望めるのは空ばかりの広い窓を背にこちらを見やる大司祭は、老人とは思えぬ威風さえ漂い、先程の乱れた様子など微塵も見えぬ。

 ヴァーンも叔父に倣い、礼を取る。

 大司祭は、叔父と他の僧官達に、下がりなさい、と命じた。

「しかし、」

「魔法学校創設以来と噂の才児と話したいのだ」

 叔父はヴァーンを少し睨んで、ヴァーンに良く似た四角い顎をぐっと引き、「ははっ」と大司祭に頭を下げた。

 出て行く三人の僧官を見送っていると、大司祭はヴァーンに「楽にしなさい」と声を掛けた。ヴァーンが向き直ると、柔和な顔で手招きをする。手招きに従ってヴァーンが数歩歩いて行くと、大司祭はヴァーンに手のひらを向けた。止まれ、と言うことか。

「ヴァーン・ハンプクト君……君の噂は色々と耳に入る」

 表情はまるで好々爺だ。

「入学も在学も卒業も難しい魔法学校を常にトップの成績で僅か二年で修了し、在学中から興味のあった剣技を極めん為、数多の任官口を蹴って旅に出た。名門ハンプクト家の長子であるにも関わらず、政治にも宗教にも興味を寄せぬ武骨者……単に面倒臭がり屋なのだとも聞くが」

 孫自慢をする顔そのままに、大司祭は言葉を継いだ。

「君が、と知り合いとは知らなんだ」

「……あれ?」

 ヴァーンは片眉を上げる。

 額の皺を持ち上げ、大司祭の眼はヴァーンを射る。選択の余地はない、と告げる声はまだ優しい。

「言ったろう。君の噂は色々と耳に入る」

 立ち止まったヴァーンの右手に広い机が鎮座している。その上に、幾つかの手のひら大の玉が台座に乗って並んでいた。

「君は、従妹を大層大事に思っているそうじゃないか」

「……――」

 ハンナ。小さな、可愛いハンナ。

 ヴァーンが眼を見開くのを見て、大司祭は玉の一つに視線を遣った。ヴァーンに一番近い玉は光り、一人の少女を映し出す。

 少女は不安気に目を伏せている。数年振りに見る姿は、記憶と違っているけれど。

(……ハンナ)

 映し出されたのは、随分少女らしく育ったハンナの姿。

「ハンナ!」

 玉に向かって叫んだヴァーンの声に、映る少女は反応した。ぱっと顔を上げ、ヴァーン兄様、と口が動いて、玉は暗転した。

「君が会いたかろうと、お嬢さんもこの寺院に招待したのだよ。可哀想に、初めての場所に一人切りで淋しい思いをしているのだね」

 ヴァーンがクレイの懇意と知って、それからすぐにヴァーンの大事なハンナを連れて来たのだ。

 ハンナは、ここから都を挟んで丁度反対側に位置するグリンレイの屋敷にいたはずだ。攫って来るにしたところで、これだけの時間で連れて来られる距離ではない。例え優秀な魔法使いが移動の呪文を使ったとしても……ヴァーンでも、難しいだろう。

 ヴァーンの疑念を、睨む眼で大司祭は十分に察したろう。親切に、そして決定的に、大司祭は解答を示した。

「魔の足は疾い……」

 魔。

 ハンナを連れて来たのは魔か。

 ハンナ。ハンナ、どんなにか恐ろしかったことだろう。

 関わっているのだ。この大司祭は、魔物に。

「そして良く食べる」

「―――」

 優しかった声は凍り付いた。大司祭は、要求を告げる。

「クレイをここへ呼べ」

 ヴァーンは唇を噛み締める。足が床から離れぬことに気が付いた。大司祭は呪を掛けておいた一点にヴァーンを立ち止まらせたのだ。

「急ぐが良かろう。娘の番がやって来る」

 ぎり、とヴァーンは歯を噛んだ。そして小さく、解、と呟いた。




「ヴァーン兄様……!」

 チキを連れて来た僧がドアに手を掛ける前に、部屋の中から叫ぶ声が聞こえて来た。

 僧は構わずドアを開ける。入りなさい、と言われて中に入ると、ドアはチキの背中で固く閉じられた。

 中にいるのは一人の少女。町の宿屋などより余程上品で立派な部屋に、少女は椅子にも腰かけずに、顔を覆って床にペタリと座っている。薄桃色のドレスが、ふわりと黄緑の絨緞に広がって、花が咲いたようだ。

 しゃくり上げる度に飴色の髪を揺らし、ドレスと同じ色のリボンが頭の上で嫌々をしていたが、ドアを入って来たチキに気付いて、怯えたようにこちらを向いた。

「あなた、だあれ……?」

 長い睫毛の向こうにけぶる蜂蜜色の瞳に涙を溜めて、少女はチキを見詰める。色の薄いドレスが、白い肌に似合っている。まるで、昔一度だけ食べた綿菓子のようだ、とチキは思う。

「……ねえ、もしかして、ハンナ?」

 少女は大きな眼を見開き、ぱちぱちと瞬く。綺麗な涙が、玉になってぽろぽろと落ちた。

「ああ、やっぱり。おいら、チキ。ついさっきまで、ヴァーンと一緒にいたんだよ」

「……ヴァーン兄様と?」

 声に、僅かに喜びが混じる。

「うん。ヴァーンに、ハンナのお守り見せてもらった。とっても大事にしてたよ」

「……本当?」

 うん、とチキが頷くと、ハンナの顔に笑みが広がり、頬に紅を掃いたようになった。

 可憐だ。笑うと花のようだ。白い体は細くて小さいけれど、チキのように不吉に痩せている訳ではない。これはヴァーンが大事に思うのも無理がない。チキでさえ、守ってあげたいと思うのだから。

「あなたも、魔物に連れて来られたの?」

「え?」

 私、魔物に連れて来られたの、とハンナは震える。

「毛むくじゃらの手に掴まれて、空を飛んだの。とても怖かったわ」

 赤い蕾のような唇を震わせ、堪えるようにきゅっと噤んだ。

「……魔物が、寺院に?……おいらは、お医者が、寺院で診てもらいなさい、って」

 ええと、何とかの救済の法がどうとかって……医者の言った寺院へ連れて行く理由を思い出そうとするチキに、『心身に重い病のある者は寺院へ参って捧げよ』ね、とハンナは呟いた。

「ハンザン大司祭様がお触れになった、三つの救済の一つだわ。『自らの罪深きを悔いる者は寺院へ参って捧げよ』『育てられぬ命は寺院へ参って捧げよ』さらば報われん。っていうの」

「……魔法で治してもらえるとか」

 ハンナは細い眉を顰め、小さく首を横に振る。

「病の重い者や老人が消えて行くと聞いたの。魔物の餌にされているのかもしれないわ」

「……まさか」

「チャルダ大寺院には魔物を飼っているという噂があるもの。私達、魔物の餌にされるのよ。……ねえ、ヴァーン兄様はどこ?」

 ハンナは胸の前で手を揉み絞り、首を傾げてチキを見上げた。

「さっき兄様のお声が聞こえたの。ハンナって、それだけだったけれど」

 心細いのだ。慕わしい従兄の声が耳に蘇る程。ハンナの言う通り、魔物に掴まれてここまで来たのなら、生きた心地などしなかったことだろう。チキにも魔物に怯える気持ちはわかる。ウザの宿屋で、チキは九死に一生を得たのだ。救ってくれたのは、クレイとヴァーンだ。

 チキは、努めて明るい声を出した。

「……ああ、寺院にいるかもしれないなあ」

 クレイとヴァーンは、大寺院に、大司祭の魔物憑きを確かめに行ったのだ。

「本当に?」

「うん。それに、もし魔物がいたって、平気だよ。大丈夫、あの二人、強いんだ」

 二人、という言葉にハンナは怪訝そうにしたが、チキは笑って「おいらも、今年で十五になるよ」と言った。ハンナは瞬き、まあ、と微笑む。

「私、つい先月十五になったわ」

 クレイに会うまで、自分の生は十四で終わると思っていた。いつも、次の誕生日なんて来ないと思ってた。「今年で十五になる」と言えることがとても嬉しい。

 魔物の餌になんて、なってやるものか。

「ねえ、ハンナ、ここから出よう。ヴァーンに会いに行こうよ」

 ハンナが瞬く。でも、と躊躇う。

「出られるかしら。さっき試したけれど、ドアは開かないわ。それに、魔物がいるかもしれないし」

「何とかなるよ。うんと高いけど、窓だってあるし。だから、魔物より先に、ヴァーンとクレイに会うんだ」

 クレイ? とハンナは尋ねる。

「おいら、ヴァーンとクレイと三人でこの町に来たんだ。途中、魔物にも遭ったけど、二人のお蔭で無事だった。……ヴァーンも強くてかっこいいけど」

 チキは、自分の頬が熱くなるのを感じた。自慢する言葉で、胸がときめく。

「クレイも、強くて、綺麗で、かっこいいんだ」

 ハンナはじっとチキの顔を見詰めて、ふうわりと笑った。

「私達、お友達になれそうね」

 そうして、飴色の髪に両手をやって、柔らかな薄桃色の髪飾りを外すと、立ったままのチキに差し出した。

「これ、あげる。お友達の印よ」

「え……」

 チキは慌てて手を振った。

「い、いいよ!」

「あら、どうして? 私ならいいのよ、おうちに帰れば沢山あるもの」

「リ、リボンなんて付けたことないし、」

 おいら、似合わないし。チキの呟きを、そんなことないわ、とハンナは否定した。

「付けたことがないなら、似合わないなんて言っちゃ駄目。ほら、付けてあげるからここにお座りなさい」

 妹に言い聞かせるお姉さんのように、自分のスカートの先の絨緞をぽんぽんと叩く。チキは迷った。リボンもスカートも、チキは身に着けたことはない。貧しいのも理由だが、何より似合わないからだ。随分迷って、ハンナの手にある、綺麗で柔らかそうなリボンを付けた自分を想像してみて、やっぱり似合わない、と思った。

「……有難う。でもいいよ。ね、行こう、ハンナ。ここから出なきゃ」

「……そう?」

 チキの差し出す手を、白い小さな手が取った。互いの細い頼りない手をぐっと握って、ハンナが髪をふわりと揺らして立ち上がった時。

 部屋の一方の壁が黒変し、ぐにゃりと曲がった。

「―――」

 渦巻く壁から生臭い風が吹き付ける。ハンナの手からリボンが飛ぶ。チキはハンナを抱き締めた。

 黒い壁に、黒い生き物がいた。人か猿のように二本足で立っている。大きさも人程だ。ただ頭の形と大きさが異様だった。人ではない。猿でもない。あれは。

 キイ、と嫌な音がした。黒い生き物が笑ったのだ。多分、笑ったのだろう。震える声で、ヴァーン兄様、とハンナが呼んだ。

 ハンナとチキ目掛けて、にゅっと黒い腕が伸びる。毛むくじゃらの腕。どこか湿ったその手に腕を掴まれて、チキは汗が噴き出した。眼の前が暗くなる。

 ハンナの高い悲鳴が耳に残った。






 二人の僧官に連行されて来たクレイは、腰の剣を奪われ、両手首を呪縄で戒められていた。

 部屋へ入り、動けぬヴァーンを追い越す時に、ちら、とこちらに視線をくれた。眼で、すまん、とヴァーンは謝罪する。

 姿を消す魔法を急に解かれた為、クレイはいきなり姿を現す嵌めになり、目撃した巡礼達が騒いだ為、近くにいた僧官にこうして捕らえられてしまったのだ。

 大司祭に命じられて、僧官の一人がヴァーンの背から剣を取る。クレイとヴァーンの剣二本を抱えて、僧官達は退室した。

 大司祭はゆっくりと、部屋の中央に立つクレイに歩み寄る。

 クレイは静かに見返している。大司祭は歩みを止めて、クレイの髪の先から足先まで、やはりゆっくりと眺め回す。嘗めるような視線を幾度かクレイに這わせて、手首の呪縄で目を留めた。

 呪縄は魔法で戒める力を高められた拘束具で、術を施した魔法使いにしか解けない。戒められた者は、力が抜ける感覚に襲われ続ける。稀に、聖性の強い魔法使いが耐性を示すが、魔法も使えぬクレイが真っ直立っていられるのが、ヴァーンには不思議だ。

 大司祭は呪縄を見たまま口を開いた。

「……変わらぬな。わしは老いた」

「……羨ましいことだ」

「……皮肉か?」

 クレイの声には、皮肉も羨望も込められてはいない。顔を上げた大司祭を見詰める横顔にも、取り立てた色は見えない。

「変わらずお前は美しい……クレイよ、お前は一体何者なのだ?」

 俺は答を持たない、とクレイは言った。

「俺は人間だ。ただ老い方を忘れただけだ」

「ただの人間が何故老い方を忘れる。何故わしの呪縄を施されて立っていられる」

「倒れそうだ」

 嘘を吐け、と大司祭は吐き捨てる。

「お前に効かぬのは証明済だ。五十年の昔にも、お前はそうして平気な顔で立っていた。……そして」

 逃げた、と呟いた。

「お前は魔物だ。その眼でわしを誑かした。退治せねばと思ったのだ。だからお前を捕らえて……」

 大司祭は息を吐き、ゆっくりと首を横に振った。

 これは無意味だ、と呪縄に手を添え、解、と大司祭は唱えた。呪縄ははらりと解け、床に落ちる。

 クレイよ、と大司祭は問う。

「天地神には未だ祈らぬか? 魔物でも帰依出来ようぞ。わしの元で勤しむが良い。お前が老い方を忘れたと言うなら、きっと思い出すも叶う」

 クレイの呪縄の跡を、皺だらけの手で摩る。……ああ、とクレイは口を開く。

「その文句は昔も聞いたな」

 覚えておるとも、と大司祭は小さく頷く。

「『俺は天地神の加護から外れている。だから祈ったところで仕方がない』……お前はそう言ったのだ。一言一句覚えておるとも。そこでわしは」

 ――私は神に仕える身、その私の伴侶となれば、必ずや神のご加護はお前にも……!

「思い出すだに滑稽だ。わしは魔物に求婚したのだ」

 滑稽だと思っている顔には見えない。真剣な眼差しで口説き落とそうとした、図らずもクレイの魔性に搦め捕られてしまった若かりしハンザン僧官の、それは真実の言葉だったに違いないのだ。

「クレイよ、お前に寺院ここの一室を与えよう。わしの元で神の為に仕えぬか」

「断る」

 即答だった。

「俺は神などどうでもいい。神に縋らねば生きられない者にも興味はない。用があるのは……」

 クレイは僅かに眉を顰める。

「この臭いの元だ」

「……」

 動けぬヴァーンの額にうっすらと汗が浮かぶ。自分の内に、少しずつ少しずつ、法力を練り溜めていく。

「縄張りの印に土地を抉った魔物が時間の果てに戻って来たのだろう。来てみたら人間どもがその跡に寺院を建てて、有難がって拝んでいた訳だ。滑稽と言うなら、この事だ」

 大司祭は眼を見開く。魔物だ、やはり魔物なのだな、と声を震わす。

「ただの人が知り得るものか。クレイ、どうでもお前をここに留めようぞ。わし一人の知る秘事を、漏らすことはならぬ」

「俺はこの国にそんな義理はない」

 クレイは冷たく言い放つ。

「魔物をこの場所に留め、餌を与えて被害を抑えているつもりか。魔が真に子飼いになどなるものか」

 餌。餌になる順番を待っているはずのハンナ。

 おお、おお、と大司祭は喘いだ。

「しかし、わしにどんな手段が残されておるのだ。大司祭として守らねばならぬ大勢の民を背に、圧倒的な魔と対峙せねばならぬわしに、手段は最早ない」

 溜めた法力を気取られぬよう、ヴァーンは黙っているつもりだったのだ。

「っ……魔物は倒しゃあいいんだろ、違うのかよ、ええ?! ハンザン様よ!」

 だが、気付いたら、吠えていた。

 クレイは、笑っているのか。

(くっそう、爺いめ)

 腹で罵り、ヴァーンは斜め後ろから見えるクレイの横顔をめ付ける。

 大司祭は、一瞥でヴァーンの内に込めた力を見抜いたろう。だが、ヴァーンに寄越したのは、哀れむような愛しむような視線だ。

「ハンプクトの長子よ。わしはお前が妬ましい。若いとは良い事だ。だがお前も優秀な魔法使いであるなら、きゃつと実際に対峙した途端に、己の無力を悟るであろうよ」

 このままでは国は滅びる、大司祭は目を閉じ、深く刻まれた顔の皺に、苦渋の色を濃くした。

「クレイよ。魔物と言えど、お前は真に邪なる者とは違っておろう。わしを手伝え」

 手を挙げるなり、聞き取れぬ程の早口で、大司祭は呪文を唱えた。

(――魔封じ)

 大司祭がカッと目を開くと同時にヴァーンは手を伸ばした。だが呪文が間に合わない。部屋は白く光り、部屋に満ちたエネルギーは一点、クレイに収束した。

「クレイ……!」

 ヴァーンが叫ぶ。視界が利かない。いや目を開けていられない。クレイは。

 静かな声が聞こえた。

「成る程な……これで取り敢えず魔を従えたか」

 光が退いた。閉じた目を開く。

 クレイはまるで、何事もなかったかのように立っていた。

「俺は魔物じゃない。そんなもので調伏はされない」

 馬鹿な、と大司祭は口を開く。本当に、ただの人だと言うのか、と呟く。

 何故だ、何故だ、と譫言のように。クレイの顔に手を伸ばし、悲痛に囁く。

「……おお、わしに手段は、最早、ない」

 おそらく、大司祭はここで負け戦から降りたのだ。

 天井が、ぐるりと回った。

 黒い渦が現れ、大司祭の背に雪崩落ちる。

 酷い臭いだ。喉が灼ける。目に沁みる。肌が、ぴりぴりと痛みを訴えた。

 憑かれたな、とクレイが呟いた。

 咳き込むヴァーンにクレイは言う。「剣を」

 持って行かれた剣。ヴァーンは素早く右の人差し指を立て、二本の剣の行方を探る。押し寄せる気配はヴァーンの肌を泡立たせる。背筋に一本、太い氷の柱を突き刺されたようだ。

 クレイの頬にひたりと手を当てて、大司祭はニタリと笑った。

『成る程、上物だ』

 耳障りな音が大司祭の口から洩れた。

『こんな旨そうな餌をわしから隠そうとしおって、ハンザンめ』

 大司祭が、いや魔物が、舌なめずりをする。垂れる唾液を拭き取りもせず、大司祭に取り憑いた魔物はヴァーンを見た。

「―――」

 息が詰まる。汗が噴き出る。立っているのが辛い。

『おい魔法使い。大人しくしていれば食うのは後回しにしてやるぞ』

 キキキ、と笑った。それでヴァーンは、却って腹に力を込めることが出来た。敵の力量はわかる。確かに並み以上の化け物だ。だが己の非力に絶望する程ではない。素より、ヴァーンの胆力は無力感などに負けはせぬ。

 剣を捜しながら、魔封じの為の力も別に溜めていく。大司祭が言ったように、この魔物には生半な術では効き目がないだろう。準備無しの魔法では封じられないに違いない。

 皺だらけの顔を震わせて、魔物は鼻を鳴らす。クレイの臭いをくんと嗅ぐ。

『ほう……お前はハンザンなどより居心地が良さそうだ。前に魔物だれかが耕したな?』

 魔物はニタニタと唾液を流す。クレイは顔色を変えない。

『よし。わしの容物にしてやろう。なに、怯える事はない。今このハンザンも恍惚の淵にいる。齢八十にして、己の欲望に正直にな……』

 お前は随分惚れられている、と魔物は厭な音で嗤う。クレイの顔を撫で回す。

『交わってしまえば何という事もない。委ねてしまえば人間には凡そ求めようもない快楽が手に入るぞ……ああ、お前はもう知っているのだな』

 キッキッキッと魔物は喜ぶ。

『ならば尚更抗えまい。さあ、わしのものになれ』

「生憎だが……」

 クレイは呼吸に支障ないのか。魔物の顔を眼の前にして、話す声は普段と変わらぬ。

「確かに俺は食われたが、生の魔物と交わった訳じゃない。憶えているのは、吐き気だけだ」

『ほう……ならば、わしが最初に快楽を与えてやろう』

「断る」

 魔物はニタリと笑って、クレイを見たままヴァーンに言った。

『物覚えが悪いな。大人しくしておれと言ったぞ魔法使い。お前達の大事な娘達の順番を繰り上げたいか』

 今正に魔封じの魔法を唱えようとしていたヴァーンは、ぐっと呪文を飲み込んだ。

「……娘達?」

 ヴァーンは怪訝に呟く。一人はハンナ。他に大事な娘がいただろうか。

 続くクレイの声が、怒っていた。

「……チキをどうした」

「――は?」

 ヴァーンは、それは間抜けな声を出したものだ。

「……チキ?! 娘?! あいつ女か!! 知ってたのかお前!」

 それで一人部屋をあいつにやったり、坊主じゃないって、そういう……ヴァーンは呆気に取られて状況を忘れ、あんぐりと呟いた。その一瞬、不発に終わった法力が散じた。

『そうか、そうか、お前も愚かな人間か』

 魔物はクレイの顔に嬉しそうに嗤う。魔物の右手がクレイの胸に下りて来る。革のチョッキを破り取り、シャツを毟る。

『小腹を満たそうとしたところで、もっと旨そうな匂いがしたのでな。娘達は後回しだ。お前に取り憑いてから食らうとしよう。……うまく意識を保っておれば、お前にも食らうところがわかるぞ。それとも』

 魔物はニタリと口を開けて、自分の……大司祭の頭を指で、ずぶりと突いた。

『ハンザンが思うような食い方を、先にしてもいいぞ?』

 突いた傷から血を垂らし、キッキッキッと嗤う。ヴァーンは努めて気を静めた。これはヴァーンに向けての挑発だ。魔封じに溜めた力が殺がれたことで、却って剣の探索に向けた気が澄んだ。せっかく澄んだ気を、乱されたくない。

 無駄だ無駄だ魔法使い、魔物は歌うような調子で言う。

『魔物は魔法使いが怖いと思うたか? 可哀想にな、今まで屑しか相手にせなんだらしい』

 吐かせ、とヴァーンは呟く。魔物は小馬鹿にした嗤いを止めない。

『わし程に永らえた魔物に人間風情が何をする。恐ろしいのは天にも地にもただ一人。人は餌、神は蠅、五月蠅いだけよ』

「良く回る口だ」

 ぽつりとクレイが言った。魔物は歯を剥いてクレイを睨む。

『……魔物も蠅と言いた気だな。わしのお零れを頼りに寄り集まって来た小物共に、今すぐ娘達を食わせてもいいのだぞ。……だがお前は別だ。人間の体は長持ちしないが、お前は居心地も良さそうだしな』

 露なクレイの左胸に、魔物は指を当てる。

『有難く思え。契約してやるのだ。お前は他の魔物の餌にはせん……わしのものだ』

 ずぶりと、指がめり込んでいく。

 ヴァーンは目を閉じる。すると魔物は言葉で聞かせる。

『ぬるいぬるい。ぬるい血だ。おう、骨め、わしの伸びる指の邪魔を出来ると思うのか……さあ心臓はそこだ』

 この魔物は魔法が怖くないのだとしても、やっかいだとは思っているのだ。さっきから執拗にヴァーンの集中の邪魔をする。

 それとも捕らえた獲物に恐怖心を与えて、より甘美に食すつもりか。だとしても、ヴァーンにまだかと催促すらしないクレイに、効いているとは思えない。

 ヴァーンは意識的に耳も塞ぐ。それでも魔物の声は小さく聞こえる。

 滴る血が勿体無い。どれ……

 ぴちゃぴちゃと嘗める音がする。

 魔物は黙って嘗めている。余程クレイの血が旨いらしい。

 周囲の音がすうっと引いて消える。ヴァーンは眼をかっと見開いた。

「天のガラシア地のアルシナ」

 ヴァーンは早口に唱える。

 ヴァーンの脳裏に剣が映った。

 所在が見えた――呼べる!

「神柄使徒に思うものを呼び寄せさせ給えッ!」

 二本の剣が! パシンと空気を震わせて、それぞれヴァーンの両手に重量を伴って飛び込んだ!

「クレイ!」

 見もせず、重みで判断した右手の剣を、ヴァーンはクレイ目掛けて放り投げる。

 魔物は屈めていた体を起こし、唾液と血に塗れた顔を歪めて、チッ! と舌打ちした。クレイが、自分の胸に突き立った魔物の腕を左手で抑えている。真横に伸ばした右手に飛んで来る剣を違わず掴み、切っ先に円弧を描かせて、魔物の頭上から振り下ろす!

(――浅い!)

 ヴァーンは目を眇める。剣は、魔物の右肩にめり込んで血飛沫を上げさせたが、命に届く一撃ではない。

 魔物は血を噴き上げ、ニタリと嘲笑あざわらう。

『弱い弱い! この爺いを庇ったなあ! どの人間も同じ、弱い、そして心臓はここだッ!』

 剣を魔物の肩に食い込ませたまま、クレイは左手を魔物の肺にドッと突き立てる。中で、ぐっと拳を握った。

『――何?』

 魔物はぽかんと眼を見開く。

 クレイが剣を仕入れるのは、魔物が息絶えた直後。斬撃で弱らせたとは言え、生きた魔物から剣は引き抜けない。

 まさか、と魔物は呟く。

 くそ、とヴァーンは気を振り絞る。大司祭の仕掛けた足止めの魔法を、解、と無理矢理振り解く。

「クレイ!」

 ヴァーンは駆け寄り、クレイの体を抱えるように、クレイの左腕を右手で掴んで共に引っ張る。

『……何故掴める? まさか……おのれ、まさか』

 魔物は青ざめ、クレイの胸から血塗れの指を引き抜いた。

「ぐ……っ」

 クレイの顔が苦痛に歪む。

 剣を仕入れる時に手袋をする意味を以前聞いた。魔物の剣を掴んだ時に、この身は剣……魔の精髄と交わろうとするのだと。魔物に突っ込んだ腕は素手だ。魔物の思う壺のはずであった。

 しかし魔物は愕然と戦いている。顔に恐怖を貼り付けて、クレイから離れようと身を反らす。却ってぐい、と剣を引かれて、魔物は恐慌に陥った。

『キイイイイッ!』

 魔物には最早、クレイから離れる事こそが唯一助かる道だ。魔物は大司祭の体を捨てて逃げようとした。その一瞬をヴァーンは見切る。

「待ってたぜえ!」

 大司祭の後ろに浮かぶ影目掛けて、左手の剣を一閃する!

『まさかッ! ナーク――』

 ヴァーンの剣は違わず、魔物の頭を斬り裂いた!

 途端に抵抗を失って、ずるりとクレイの腕と剣が抜けた。

「うわっ……」

 クレイを抱えたまま、ヴァーンは、どうっと仰向けに倒れた。撥ねた魔物の部分が、ごとん、と絨緞に落ちる。ヴァーンは急いでクレイを退かし、体を起こす。

「やったか……?」

 転がる頭部と、立ったままの小さく不格好になった頭を付けた魔物は、ヴァーンが見る間に霧散する。黒い霧のこちらに、血だらけの大司祭が倒れていた。顔に手を翳すと呼吸を感じる。重傷だが死んでいない。ヴァーンは取り敢えずほっとして、止血の魔法をかけて、肩に食い込むクレイの剣を引き抜いた。

「……おい、クレイ、無事……な訳ねえか」

 大司祭は息があるぞ、と告げて、仰向けに横たわるクレイを覗き込む。

 返り血……大司祭の赤い血、魔物の黒い血が混ざって赤黒くなっている……で酷く汚れていたが、胸の傷口は見た限りでは小さい。だが、魔物の指が心臓に達するところだったのだ。治癒魔法を唱えながら、ヴァーンはクレイの左手を見る。

(……こりゃでかい)

 クレイの手には、魔物から取った剣が握られている。クレイよりも小さく見えたあの魔物の身体のどこに、こんな大きさの剣が入っていたのか。剣の幅はヴァーンの片手を広げた程。長さはヴァーンの背丈の半分以上はある。

 この剣は俺にくれるよな、と言おうとして、ヴァーンは眉を顰めた。治癒魔法は効いているはずなのに、クレイの表情は歪むばかりだ。

「クレイ?」

「……胸より、これをどうにかしてくれ」

 クレイの目線は左手の剣を指している。

「どうにか?」

「とってくれ。……離れない」

 クレイがしっかりと握っているように見える。無感動に、しかし力ない声で、クレイは訴える。

「とってくれ。交ざりたくない」

 鍛冶で言うなら、この剣はまだ熱いうちだったのだ。

「わかった」

 ヴァーンは、力でもぎ取れなければ、聖性を魔法で注ぎ込もうと思ったのだ。だが、クレイの手と剣を両手で持っただけだった。パシン、と何かが爆ぜて、クレイの指は開き、剣は自分の重みでクレイの手を離れ、ごとんと床に転がった。

 クレイは大きく息を吐く。きつく寄せられていた眉間が開いて、楽になったのがわかった。

「大丈夫か?」

「……風呂に入りたい」

 ヴァーンは小さく吹き出す。

「ああ、宿に戻ろう」

「……この剣はお前にやる。お前なら扱えるだろう。それから」

「ああ。チキとハンナは俺が捜す。大司祭の手当ても小魔物共の後始末も何とかする。お前は休め。まだ昼なのに疲れたろ?」

 仰向けに倒れたままヴァーンを見上げるクレイの顔には疲労の色が濃い。そうか、と呟き、クレイは目を閉じた。

 ヴァーンは、まず怪我人の手当てとチキとハンナだなと、嫌々ながら叔父を呼ぼうと立ち上がる。

 そうだ、叔父貴に話して、寺院の風呂を借りるか……そう提案してヴァーンがクレイの顔を再び見やると、クレイは寝息を立てていた。




 ヴァーンに呼ばれて貴賓室にやって来た叔父は、中の血塗れの有様と濃い魔の臭いに顔を顰めて、嫌でも説明してもらうぞ、とヴァーンに告げて、手早く怪我人の手当てに取り掛かった。寺院勤めの優秀な医者と治癒魔法の得意な僧官が、治療室に運ばれたハンザン大司祭とクレイに付けられた。

 チキとハンナは、捜す程のこともなく、同じ最上階の部屋で気を失って倒れていた。

 チキをその部屋に連れて来た僧官は、医者の連れて来た子供が余りに病が重そうだった為、大司祭の定めた部屋割りに従ったに過ぎなかった。部屋の中に連れて来た憶えのない娘もいたが、やはり他の僧官が部屋割りに従って案内した、病の重い子供なのだろうと思ったそうだ。その部屋は、ハンザン大司祭が用意した魔物の餌場だった訳だが、誰もその事を知らなかった。ハンザンが一々、臭いを消していたのだろう。今は強く臭いが残っているのが、その僧官にも感じられたようだ。

 客室にお移ししましょう、と僧官が言うので、ヴァーンはハンナを、僧官はチキを抱え上げた。

 するとハンナとチキは意識を取り戻した。チキは驚いて僧官から下りた。ハンナは目をしばたかせる。

「……ヴァーン兄様?」

 よう、ハンナ、とヴァーンが笑うと、ハンナはわっと泣き出してヴァーンにしがみ付いた。

「あーよしよし、もう大丈夫だ」

 まるで赤ん坊をあやすようにハンナを縦抱きにして、ハンナの小さな背中をとんとんと叩く。

「……ヴァーン、クレイは?」

 とチキが尋ねたので、ハンナは恥じらったように頬を染めてヴァーンの腕から下りた。健気に涙を拭うハンナの頭をぽんと撫でて、「心配ないぞ」とヴァーンは答える。

「疲れて、今は寝ちまってるけどな」

「会える?」

 ヴァーンは一寸躊躇った。クレイに会わせる為に治療室へ案内するのはチキが心配すると思ったし、クレイに貼り付いた血糊がきれいに拭われているかもわからない。それでヴァーンは話を変えた。

「あー……その、何だ、チキ、お前、女の子なんだってな?」

「え……うん」

「まあ、ヴァーン兄様ったら」

 チキは瞬き頷いて、ハンナは呆れた視線をくれた。ヴァーンは慌てて弁解する。

「いや、ほれお前、『おいら』なんて言ってるし、そりゃどんな一人称使おうが構やしないんだが」

 チキはあははと笑い飛ばす。

「仕方ないよ、だっておいらちっとも女らしくないし、一人で旅してる時は男だと思われた方が面倒がなかったし」

「あら、チキは女の子らしいわ。私はすぐにチキが女の子だってわかったもの」

「えっ」

 だって、とハンナは小さく含み笑いする。

「私と同じ、『恋する瞳』をしてるもの」

 チキは赤面し、ハハハ、ハンナ、とばたばたと手を動かした。ヴァーンは、何、と息を飲み、ハンナ! と声を張り上げた。

「お、お前、ハンナ、恋してるのか? まだ早いんじゃないか? もう嫁に行くのかッ!」

「……」

 チキは腹を抱えて大笑いする。ハンナはぷうっと頬を膨れさせ、知らない、と反っぽを向いた。

「知らないってハンナ、俺の知ってる男かっ?」

「チキったら、笑うのね? 悲しんでくれないの?」

「ごめん、だってヴァーンがあんまり……」

「そう、あんまりだわ」

 そりゃあハンナ、随分大きくきれいになったが、まだ十五だぞ、子供だぞ、とヴァーンはおろおろと言い募る。

 チキは笑いを堪え、ハンナは不機嫌な顔を作ってヴァーンを困らせていると、開いたドアからヴァーンを呼ぶ声がした。

「何だ、楽しそうだな」

「叔父貴……俺は今、打ちひしがれてる」

 どうした? と尋ねる叔父に、ハンナが可愛らしく挨拶した。

「ディーン叔父様! お久し振りです」

「おお、ハンナちゃん。大事ないか?」

 はい、と答えるハンナに頷き、久し振りと言っても、そこの放蕩者よりは頻繁に会っているがなあ、と叔父に睨まれ、ヴァーンはますます口をひん曲げた。

 叔父はヴァーンの父の弟で、ハンナはヴァーンの母の妹の子だ。だからディーン叔父とハンナに直接の血の繋がりはないのだが、今ハンプクトの本家にも分家にも女の子がいないので……そうでなくてもハンナは十分に愛らしかったのだが……ハンナは、妻以外の女性のいないハンプクト家のアイドルなのだ。

「ヴァーン、お前に言われた通り、寺院内部と周辺に、魔物への警戒を取らせた」

「……ああ」

 寄らば大樹で集まっていた小魔物や、空いた縄張りを狙って来る魔物に対する警戒だ。すぐにどうという事はないだろうが、用心するに越した事はない。

「大司祭様が伏せって居られる今、取り敢えずの指揮は私が取ることになった。ヴァーン、これから緊急に会議を開く。お前も来い」

 叔父はヴァーンを促して部屋を出る。

「お前達は、客室で休んでなさい」

 とハンナとチキに言い置いて、叔父は足早に行ってしまった。






 ヴァーンと別れて、チキとハンナは、僧官に連れられて客室へ移る事になった。先導する僧官の背に、チキはあの、と声を掛けた。

「ヴァーンと一緒にいた、黒髪の男の人は……」

 僧官は、ああ、と頷いて、怪我は大した事はないと聞いてます、と答えた。

「怪我……」

 チキは息を飲む。クレイは怪我をしたのだ。ヴァーンは眠っているとだけ言ったのに。

「会わせて下さい!」

 会いますか? と僧官は問う。チキが頷くと、ではこちらへ、と廊下を突き当たりまで案内された。小部屋に入って扉を閉じる。中の黄色い玉に僧官が触れると、間もなくその小部屋を出た。来た時にも不思議だったが、これで階を移動したのだ。

 廊下を幾度か曲がって、消毒薬の臭いのする場所に出た。こちらです、と僧官は扉を示す。患者は眠っているはずなので、お静かに願います、と言って、扉を開けた。

 中には僧官が一人、椅子に腰かけ、ベッドに向かって手を翳していた。ちら、と入って来たチキとハンナを一瞥したが、気に掛けた様子もなく、またベッドに向き直った。

 ベッドにはクレイが寝ている。

「……――」

 赤黒い血を、たっぷりと貼り付けて。

 チキは震え出した。叫びそうになり、口に手を持って行く。声を堪えると、途端に涙が溢れ出た。

「チキ……」

 ハンナが、そっとチキの腕に触れた。

「大丈夫よ、ヴァーン兄様だって何も言わなかったもの、あれはあの人の血じゃないわ」

 でもほんとに、と優しく言う。

「綺麗な人ね」

 何も出来ないチキがそこにいても邪魔だとわかっていたが、チキは暫くの間動けもせずにただ泣いて突っ立っていた。ハンナは柔らかい手で、その間ずっとチキを抱き締めていた。




 円卓を囲んでいるのは、上三位以上の二十名程の僧官だ。年寄りも若い者も、何れも無理矢理不味いものを食わされた顔をして、ディーンの話を聞いている。ヴァーンは叔父の隣の椅子に深く腰掛けて、腕組みして僧官達の様子を眺めていた。

 卓上には、クレイが魔物から取ったばかりの剣が、どんと置いてある。

「……こういった事情で、ハンザン様がご本復なさるか、正式に次の大司祭がヘンダル大寺院から指名されるまでは、前任のライ司祭様にご采配頂こうと思っています。ご病気で療養中ではあるが、致し方ないところを良くご説明して、お願いするつもりです」

 老いた僧正の一人が、枯れた手で卓上の剣を指した。

「……誠にそれが魔物の腹から取り出した剣だと言うのかな?」

 クレイの手から離した後、剣は急速に魔物の臭いを失っている。それでも臭いはかなり残っているのだ。寺院の長、司祭に成り損ね、僧正を長く勤め過ぎて感度の鈍くなった者はともかく、マンタなどは、先程から脂汗を浮かせて、じっと剣を睨んでいる。

 叔父はちらとヴァーンを見て、「相違ないな?」と念を押した。

 ああ、とヴァーンは頷く。

 古老の僧正達が、ううむ、と白い髭を震わせ思案する。

「だとするなら、我々の修める魔法とは系統を異にするものですな」

「その昔、生命の精髄から剣ややじりを取り出す事の出来る者がいたとか……」

「古い文献に見える著述ですな。すればそのクレイと言う者は、その鍛冶一族の末裔やもしれませぬぞ」

「しかし、一族が滅んだのは、記録によれば少なくとも既に百年以上の昔……」

「先祖返りですかな」

 もしクレイが本当にその一族の者ならば、先祖返りである必要はない。恐らく、クレイ自身が最後の生き残りなのだ。

「いや、著述が正しければ、一族は魔物の襲撃を受けて滅んだはず。今に至る血脈の残るはずが」

「記録は全て正しいとは限りませんでな」

 オホン、とディーンは咳払いをした。

「あの青年の出自はともかく、今は、この寺院が守って来た『聖なる跡』が魔物の縄張りを示すものであったという事実を、チャルダ寺院としてはいかに」

 信じられんなあ、と老僧官は目をしょぼしょぼとしばたいた。

「クレイとかいう青年が言っているだけなのであろ。確証もない」

 ヴァーンが報告したハンザン大司祭の告白は無視したか、忘れられている。

「何、けちのついた物を拝むのが拙いと言うなら、寺院を引っ越しでもしますかな。すると、チャルダ寺院ではなくなりますわなあ」

 別の老官が、ふぉ、ふぉ、と笑う。

 叔父はぐっと眉間に皺を寄せて、問題はそこではない、と訴えたいようだった。

「しかし、」

 と神妙な声を出したのは、古老より少しは若い僧官だ。襟の色は叔父と同じ上一位。

「真偽はともかく、その剣は嫌な波動を出しているようだ。封じてしまわずとも良いものなのかね、ヴァーン君?」

 叔父の他にもまともな話が出来る者がいたようだ、とヴァーンは僅かに安堵して、背凭れに預けた身を起こし腕を解いた。こんな古老のような連中ばかりが寺院内で幅を利かせていたのなら、ハンザンが大問題を背負い切れずに半ば自滅の道を選んだのは仕方なかったかも知れない、とほんの少し同情していたところだ。

「そうする場合もあるらしいが、これは別にいいんだろう。俺なら扱えるだろう、と言ってクレイは俺にくれたんだし、もっと邪気の薄い剣なら、普通に売り物にしているしな」

「……売り物?!」

 剣の邪気を少なからず感じている者は、ぎょっとしたようだ。それはクレイが剣売りだと知っていたマンタも同様で、魔物から取った剣が、物によっては是程邪を残すとは思っていなかったのだろう。

「……小物の魔物から取った剣なんて、その辺の人間の持つ邪気と何ら変わりゃしないぜ?」

 とヴァーンは言ったが、金を取って魔物の邪気をばら蒔くとは、とやはりヴァーンの言葉を聞かない古老達は囁き合った。

 そうか問題はないか、と言ったのは封じずとも良いかと尋ねた僧官。「さても」と今度は笑って続ける。

「火急の寺院と大司祭の危機を脱したのは、ヴァーン君の活躍あったればこそ、なら、これはやはりもう、任官して頂かねばなるまいなあ」

 げっ、とヴァーンは声に出して言ってしまった。

 この親父、さては叔父貴と懇意か。

 少しでも使える人材を寺院に入れようと言う腹積もりなのだ。

 ヴァーンはこそこそと席を立って逃げ出したかったのだが、そこはそれヴァーンの体躯でこっそりと行くはずがない。

「ヴァーン、話はまだ済んでいないぞ」

 と叔父に耳を掴まれた。

 ヴァーンが席を立つのを許されたのは日付けが変わった後で、まだ暫くは滞在しろと言う事なのだろう、必要な物は用意させたが足りないようなら遠慮なく言え、と叔父直々に客室の一つに案内された。

「ハンナちゃんとチキ……ちゃんか? 二人はもう眠ったそうだ。それと、ヴァーン」

 ドアに手を掛けたヴァーンに、叔父は声を落として告げる。

「申し訳ないが、多分お前以外の者では、彼は警戒するだろう。治療室からここに移って、今は眠っているはずだ」

 ヴァーンは目を見開く。

「見張れってのか」

「この際彼の人格の是非は関係ないのだ」

「クレイは寺院なんかにゃ興味ないぜ」

「問題は、彼と魔物の繋がりだ、ヴァーン」

「奴は魔物を嫌ってる」

「それも問題ではない」

「寝る」

 言い捨てて、ヴァーンはドアの中に逃げ込んだ。うっすらと、血の臭いがした。明かりを付けずに、廊下から洩れる光で部屋の中を眺めた。

 血の臭いがするのは、クレイだ。左右の壁側にある二つのベッドの内、布団が膨らんでいる方へ寄って行く。屈んで覗き込むと、クレイの顔にまだ血糊が残っているのが見えた。余り綺麗に拭いてもらえなかったものとみえる。軽く布団を捲ってみると、胸には包帯が巻かれている。

 ヴァーンは暫く思案した。残る血糊を拭いてやろうか、それともこのまま寝せておこうか。

 拭いてやれば良かったと、ヴァーンは暫くして後悔する。

 寝床に入って漸く緊張が解れてきた体に、眠りに落ちる前の心地良い痺れがやって来た頃。

 暗い部屋の中、クレイは突然叫んで飛び起きた。

「お父さん……!」

 声が泣いている。ヴァーンはさっと意識が冴えたが、ベッドの中で寝た振りをした。暗闇を透かし見て、クレイの様子をそっと伺う。

 はあはあと湿った荒い呼吸をして、顔や肩や腕やに触れ、じっと自分を抱いて息を整える。

 そしてちら、とヴァーンの方を見た。

 ヴァーンは壁の方を向いて、寝た振りを続ける。

 やがて落ち着いたクレイは、ベッドを下りて、ドアに向かった。部屋を出る時に小さく一言。

「洗って来る」

 ドアが閉まる。

(……俺の馬鹿め)

 ベッドの中で、ヴァーンは己を叱責した。




 まんじりともせぬまま翌朝になった。疲れていたが眠れなかった。クレイが部屋に戻って来ない。

 ヴァーンは早々に起き出して、クレイを捜しに出掛けた。体を洗って来る、と言って部屋を出たのであるから、風呂場か流しに行ったはずだ。

 まさか、とは思ったが、やはり既に風呂場に姿はない。部屋に荷物はあったのだから、さっさと出立した訳ではないだろう。

 そしてヴァーンは、チキとハンナの部屋の前でクレイを見付けた。なんとマンタが一緒だ。

「……なにやってんだ」

 尋ねたヴァーンに「ああ、おはようヴァーン」と挨拶したのはマンタで、クレイは一瞥しただけだ。見たところ、血糊は綺麗に落ちている。臭いもない。クレイは僧官の白い簡易服を着ている。いや、襟も白いから、任官前の学生が着る長衣だ。腰に縛ってある紐は母校のチャルダ魔法学校のものだ。そう言えばクレイは着替えは持って行かなかったはずだ。マンタが用意したのか。

「お連れの部屋の場所を尋かれたから、案内を」

 マンタは随分機嫌がいい。何故か手にタオルを持っている。

「で? 朝っぱらから、ドアの前で何を待ってるんだ?」

 マンタは答を知らないようだ。笑ったまま尋ねるようにクレイを見たが、それ以上何も言わないうちに、部屋の中からハンナの声が聞こえて来た。

「待っててね、すぐにお医者を」

 ドアが開く。外に三人も男が立っていた事に、ハンナは仰天したようだ。

「……まあ!」

 クレイは長衣のポケットから小さな袋を取り出した。「チキに」そう言って、袋を驚いているハンナの手に渡す。

 ヴァーンはおはようを言い損ね、呆けてやり取りを眺めた。成る程、チキの薬が切れる頃合いを、クレイは承知していたのだ。

 部屋の中から、「クレイ?」とチキの声がした。

「薬だ、飲ませてやってくれ」

 クレイに言われて、ハンナが部屋に取って返す。

「……いつから待ってた?」

「……夜中に苦しんで起きるかもしれないと思ったからな」

 クレイからマンタに視線を移す。

「……あ、はは。つい、一緒に。どうせ眠れなくて寺院内を巡察していたから」

 成る程。マンタの機嫌の良さは、寝不足の興奮も混ざっているのだ。

(って……おい? 夜中中こいつと一緒にいたのか?)

 同級生をじいっと見ると、どう思ったか、マンタは顔を赤らめて事情を話す。

「いや、だって夜中に水を使っておいでだったから、急いでお湯を用意して差し上げたんだが……その後廊下で立ちん坊じゃ、風邪を引かれやしないかと」

 そこから一緒だったのか。

「髪も濡れたまま行こうとされたから……」

 手のタオルを持ち上げて示す。それを持って追っかけた訳だ。

 こりゃ捕まったな。ヴァーンは内心に息を吐く。マンタの興奮気味の機嫌の良さは、恋を知り染めた乙女と変わらぬものだったらしい。

「クレイ!」

 部屋の中から、元気な声がして、チキが姿を現した。

「ありがとう」

 真っ直にクレイを見て、頬を染めて礼を言う。ヴァーンその他は目に入っていない。成る程、確かに恋する瞳だ。自分と同じだからすぐにわかったと、ハンナは言った。

(……うう)

 気にはなる。なるが、あんまり問い詰めてハンナに嫌われては本末転倒だ。

 クレイは薄く微笑んでいる。こう見えてこいつが実は人間をとても好いているのだと、付き合いの中でヴァーンは気が付いている。ただ、あまり笑って見せるサービスをしない奴だと言う事も承知している。

 もう動いているのか元気な連中だ、と廊下の向こうから声が飛んできた。

「ヴァーン、ライ司祭様がお話があるそうだ。来なさい」

 四角い顔に汗を浮かべて、叔父が走って来るところだった。




 数時間前にはむさ苦しい面相が揃っていた会議室に、ライ司祭は一人で円卓に手を付き、席にも着かずに立っていた。

 お久し振りです、と入室したヴァーンに、ああ、卒業以来だね、と青白い顔をくしゃっと笑みにしてライ司祭は手招きした。

 知っている頃より皺と白髪が増えた。小柄で迫力などない。健康だった頃からそれは変わらない。魔法の不得手な先輩だった。それでもヴァーンは、この先輩には敬語を使うのだ。

「お加減は如何です」

「うん、大分いい。まあ、激務にどれだけ耐えられるかは約束しかねるけどねえ」

 ま、次が決まるまでだ、と小さく頷く。復任を承知したのだ。チャルダ程の大寺院を任せられる人物がそういる訳ではない。果たして次がいつ決まるものか、ライもわかっているだろう。

「お話とは?」

「うん、それだ」

 夜中に連絡を受けてねえ、とライは話す。

「とにかく、急いで仕度して、チャルダに来たんだけどね」

「……いつです?」

「夜中の内だよ。それで寺院の様子を眺めて、ディーン・ハンプクトにはついさっき会ったな」

 ヴァーンは呆れる。そりゃあ叔父も汗が出る程走るはずだ。夜中から今まで、意図してでなくとも、ライ司祭をほったらかしにしていた訳だから。

「そこで、私は夜中に水音を聞いた」

「……」

 ライ司祭は、ほんの一寸、尋ねるようにヴァーンを睨んだ。

「水浴びをしていたが、クレイだね?」

 ヴァーンは黙って頷いた。ライの目を見て、そこに映ったクレイがどんなものだったのか、透かし見ようとするように。

「……こんな時間に、水音だ。一大事があったようだから、ついさっきまでは寺院の中も喧騒に満ちていたのかもしれないと思ったがね。私がうろついた頃には、人の声も殆どしなかった。誰かが水を止め忘れたのかとも思ったよ。それで、覗いた」

 クレイの水浴びを。

 ヴァーンにも想像がつく。水に濡れた、しかも夜中のクレイは、さぞ艶っぽいことだろう。……そして、怖い。

「……恥ずかしながら、私は逃げたよ。人がいると思った時には、丁寧に失礼を謝って去ろうと思った。だが、目が合った。……空いた縄張りを早速狙ってやって来た、次の魔物かと思った」

 ライの言葉は静かなものだ。だが、ヴァーンは額から汗が流れる。

「ハンザン殿にもお会いした。お気の毒にな……私に『頼む』と言い置かれて……毒を」

「なっ」

「あおられようとするので止めたがな」

 ヴァーンは思わず、大司祭まで昇った先輩に「おいっ」と突っ込みを入れそうになった。ハンザンの自殺が未然でほっとした拍子に、そう言えばこの人はこういう人だった、と魔法学校に入学したての頃のことを思い出した。

 親子程も年の違う新入生を捕まえては、手のひらに乗せた雛鳥を見せ、この鳥はこれ以上大きくならないんだよ、などと話し掛けるのだ。すぐ隣に、心配そうに親鳥がついて来ている。大人になれば大きくなるでしょう、と親鳥を新入生が指す度に、やっぱり誰も信じないかあ、と笑っていた。ライはヴァーンにも同じように話し掛けた。そこでヴァーンは、大きくならない魔法でも掛けたんですか、と尋ねた。するとライは目を見開いて、そんな可哀想な事をするものか、と言ったのだ。時が経てば大人になってやがて地面に還って行く、それが正しい生命の定めだよ、と諭した。ヴァーンが聞きたかったのは生命の定めではなく、大きくならない鳥の種明かしだった。だから本当はどうなのだと尋いたところ、ああ冗談だよ、とそれが答だった。ライはその後も笑いながら、新入生を捕まえていた。

「……姿が、変わらないそうだな」

 魔法が不得手な先輩は、昔から人の心理の洞察に優れていた。

「おそらく、彼は魔物だろう」

「人です」

 即座に訂正するヴァーンに、ライは微笑を寄越す。

「……そうだな、ヴァーン。お前にとっては人だ。だがハンザン殿や私には、彼は魔物に見える。私は逃げたが、ハンザン殿は彼の魔力にやられたのだよ。……実はね、ヴァーン」

 あの時、とライは宙を指す。

「大きくならない雛鳥と聞いて、異様な興味を示した子がいた」

 ヴァーンが新入生当時の事を思い出していたのを、やはり気付いている。

「その子の目はね、まるで、魔に取り憑かれたようだったよ」

「……」

 あの時は、そういう子を捜していたんだ。魔法を学んで行くうちに、必ず出て来る道を踏み外す者をね。そう言ってから笑う。

「ああ心配ないよ。その子はちゃんと正しい道に進んだから。今頃は魔法学校で教師をしているよ」

 ライに導かれたのだ。こんな風だから、魔法が不得手でも、司祭様、と慕われる。司祭様はぷぷっと吹く。

「お前も、面白い子だったねえ。私は、これは優秀な子が入ったと思ったよ」

 事実、たった二年でさっさと卒業して行った、と大仰に頷く。

「大抵の子が親鳥を指して嘘だと言うのに、お前は純粋にその方法を知りたがった。出来るはずもないと切り捨てもせず、老いぬ命に魅入られるでもなく……だからこそだヴァーン」

 覚悟があるのかね、と尋ねる。

 ライの人の善い顔の小さな目は、ひたとヴァーンを見据えている。

「お前にとっては彼は人だろう。だが時から見放された生命が、神の加護の内にあるとは思えない。お前には痛い言葉だろうが、聞きなさい。クレイは、ただの人ではない。縦しんば魔物でないとしてでも、身内に魔を宿している。その魔を御し通せるかね? 彼と共にあって、自分自身のみならず、周囲の誰もに友人を人として在り続けさせる自信はあるかね? なければ」

 ライは言葉を切る。続きがヴァーンにはわかる。

 ヴァーンは俯いた。

「ヴァーン」

「あいつは」

 声を絞り出す。

「ただの人間だ。気の毒なただの人間だ。……あいつは、普通に年を取りたがってる」

 ライは、そっと息を吐いた。そうか、と優しい声で労った。

「責任者なんてものは、こんな嫌な念押しもしなくちゃいけなくってなあ。許しを乞うよ」

 嫌な念押しだ。クレイがいよいよ人でなくなった時には。

 ヴァーンが、始末を着けねばならぬのだ。

 ……それより先に、ヴァーンの寿命が尽きた時には、どうしたらよいのだろうか。自分の命以上の責任など、取れるはずもないものを。……クレイは、何れ程の責任を負うと言うのか。負わねばならぬ責があるのか。

「さあ、彼が人でいられるように、友人の側にいてやりなさい。……ああところで」

 顔を上げたヴァーンに、ライは尋ねる。

「クレイは、そもそも年は幾つなんだね?」

「……さあ。百から先は数えてないって言ってましたがね」

「……そりゃあ大先輩だ」

 ライは大真面目な顔で、両手を二度握る。そうしてから、百年前の彼の町では、お祈りはこれで良かったのかねえ、と尋く。さあ、と一緒に首を傾げて、ヴァーンは「ああそうだ」と声を上げた。にやりと笑って指を立てる。

「覚悟の代わりっちゃなんですが、一つ、先輩にお願いがあるんですがね」

 ライはきょとんと目をしばたいた。




 すぐに立ち去ろうとしたクレイを強く引き止めたのはハンナで、「ヴァーン兄様のお話が聞きたいわ」とせがんだが、二人を外に待たせて急いでベッドを整えている時に、ハンナはチキに片目を瞑ってみせたから、半分はチキの為だったのだろう。

 宛てがわれた客室には椅子が二つだったので、マンタが用意してくれた湯でお茶を煎れて、小さい机を挟んで男二人が椅子に、チキとハンナがベッドに並んで腰掛けて、一寸した茶話会を楽しんだ。

「お二人とも、ヴァーン兄様とは随分仲良しみたい。私、兄様の従妹だけど随分お会いしてなかったわ」

 これにマンタはにこにこと応える。

「俺も何年振りかだなあ。魔法学校を卒業してから、一度会った切りだったから」

 ハンナはクレイを見て首を傾げる。催促を受けて、クレイは「……俺は」と言いかけて口を噤んだ。

「……クレイ?」

 クレイは考え込んでしまった。拳を口元に当て、何か思い出しながら数えている。

 ハンナは助け船のつもりで、初めて兄様とお会いになったのはいつ? と尋ねたが、クレイはああ、いや、とはっきりしない。

「……四度……会ったのはこれが四度目だとは思うが……いつ会ったかは憶えていないな」

 他の者ならともかく、あれほど強烈な印象を持つヴァーンに会った時を憶えていないとは。

何時いつと言うなら、夜だった。ヴァーンが言うからそうなんだろう」

 自分で憶えている訳ではないのだ。

 その後のハンナの問にも、クレイは殆ど満足に答えられない。近頃は物覚えが悪くなったんだ、とどこか喜んでいるように言うクレイに、まあ、物忘れはしない方がいいわ、とハンナは呆れていた。

「チキ、あなたも何かお話なさいな」

 顔を覗き込まれて、チキはお茶を喉に詰まらせ掛けた。

 正直なところ、チキはクレイに見蕩れていて、話す事を考えていなかった。

「……えっと」

 なので、つい今までぼんやりと思っていた事しか口から出て来なかった。

「……白い服、似合ってるね」

 まあ、チキったら、とハンナはチキの状態を了解したようだ。ええ、そうね、と我が事のように頬を染めてチキに微笑む。

 クレイは、そうか、とマンタを見た。

「なら、こちらの僧官に礼を言わねばな」

「えっ……いいえ、そんな、とんでも」

 マンタは慌てて手を振って、勢い余ってお茶を少し零してしまった。

「おっまだここにいたか」

 半開きだったドアを勢いよく押し開けたのはヴァーン。背中には荷物の袋と新しく手に入れた大剣。すっかり旅仕度が出来ている。

「ヴァーン?」

 尋ねたチキと振り返るクレイを交互に眺めて催促する。

「行くぞ、行くだろ?」

「行くって……」

 瞬くチキ。マンタは立ち上がって「おい、ヴァーン」と咎めた。

「お前、こんな急に、まだ出立の許可も出ていないだろうに」

「いいんだよ、ライ司祭と話をつけた」

 背中の剣をポン、と叩く。

「これ以上は、足止めもお咎めも没収もなしだ。無論お咎めなんざ、最初っからある訳ねえんだけどな」

 ついでに俺の任官もなしだ、と機嫌よく付け足す。

「な……ヴァーン!」

「いや、だから、咎で任官資格剥奪じゃないんだって。俺の希望が通ったんだよ!」

 青ざめて食ってかかった同級生に、手を挙げてヴァーンは宥める。

「……そうか」

 言ってクレイは立ち上がった。マンタはヴァーンとクレイを交互に見上げながら言い募る。

「もう少しゆっくりしても、クレイさんの傷だってまだ」

 治った、とクレイ。

「そんな」

「俺の服は」

 表情もなくクレイに尋かれ、どこか淋しげなマンタの肩をぽん、と叩いて、ヴァーンは小さな声で慰めた。

「そんな顔するなマンタ」

「え?」

「初恋は実らないもんさ」

 マンタの顔がさっと赤らむ。

「なっなななん」

 ヴァーンはにやにやと、更に小声で囁いた。

「クレイに惚れてもいい事ねえぞ?」

「ヴァーン!」

 当のクレイは涼しい顔で二人の会話を聞いているのだ。マンタはいたたまれまい。

 ヴァーンは、はっは! と笑い飛ばして、マンタの肩を抱いたまま「クレイ」と呼んだ。

「握手くらいしてやれ。こいつはお前と友達になりたいんだ」

 クレイは暫く考えてから「……ああ」と右手を差し出した。「ほれマンタ」ヴァーンに促され、緊張した面持ちで、マンタはクレイの右手を取った。黙ったままの二人にヴァーンが再び促す。

「よろしく、くらい言えよ」

「……よろしく」

「よ、よろしくお願いします」

 クレイは特に思うところもなさそうに見えたし、マンタの方はクレイの顔も見られずに緊張して汗までかいている。

 ヴァーンは片眉を上げた。徐にクレイに尋ねる。

「……おい。俺たちは握手なんてしたか?」

「……さあ」

 ヴァーンは口をひん曲げて、クレイの左手を取った。

「悔しいから握るぞ」

 そしてぐっと敵でも睨むようにクレイを見据え、「よろしく」と腹の底から声を出す。

 クレイの両手を、男二人がしっかと握っている図は、なかなかに間抜けだった。そこにハンナはチキを押しやろうとする。

「チキ、負けちゃ駄目よ!」

「えっええ?」

 ぐいとヴァーンとマンタの間に背中を押されて入ったが、もうクレイの握る手もない。

「ええと……」

 困って、目の前にあった、クレイの着ている服の腰紐をきゅっと握った。

「よ、よろしく……」

 全員の視線を感じてチキが俯いていると、フッとクレイが吹き出すのが聞こえた。

 はっとして顔を上げると、クレイは笑ってチキに言った。

「こちらこそ」

 突然恵まれた綺麗な笑顔に、チキは体温が上がっていくようだった。ヴァーンはどこか満足気に笑って、右手でクレイの肩を叩き、握手を外した手でチキの背を叩いた。

「……その服はお持ち下さい」

 マンタがクレイの手を離したその手で、ぎゅっぎゅっと天地神への祈りを捧げる。

「クレイさんの服は、破れてしまったり、酷く汚れたりしていたので……」

「……ああ」

 有難う、とクレイは礼を言った。マンタは左右に首を振る。そして、ふと思い付いたようにチキを見た。

「……しかし、医者なら、ここにも腕の良いのがいますが」

「来るよな、チキ?」

 ヴァーンが誘う。

「グラードまで行くんだもんな」

 ヴァーンの明るい笑顔が、一瞬迷ったチキにうんと言わせる。「私も」と叫んだのはハンナだ。ヴァーンはしかつめらしい顔をしてこれを却下する。

「ハンナは迎えが来るまで待ってなさい」

 ハンナは可愛らしい顔を小鳥のように傾げて訴えるのだ。

「一緒に行きたいわ、途中まででも」

 ヴァーンはぐらりときたようだ。だが、駄目だ、と翻さない。

「俺たちはグリンレイの方へは行かないし、お前の家族はそりゃあもう気を揉んでるところなんだぞ。送って行ければ一番なんだが、今は叔父貴を始めとして寺院はとっても忙しい」

「だから兄様が送って下さればいいんだわ」

「……だから、お前は大人しくここで迎えを待ってるんだ」

 ハンナは細い眉を心細く顰めて、しおしおと俯いた。ヴァーンは居心地が悪そうに、慰める言葉を捜しているようだった。

「……私」

 俯いたまま、ハンナがぽつりと呟いた。

「それはとても恐ろしかったけれど、魔物に連れて来られて、少しは良かったと思ってるの」

「……ハンナ?」

 ハンナは顔を上げる。健気に、にこっと笑って見せる。

「だって、ヴァーン兄様に会えたんだもの。道中のご無事をお祈りしますわ」

 そうして、天地神への祈りを捧げた。

 ヴァーンは多分、ハンナを抱き締めたくて仕方なかったのだ。我慢しているのが、ありありとわかる。顔に出ている。

「……ハンナ。あのな。その」

 口を思い切りねじ曲げて、ヴァーンはその問を口にした。

「……お前が恋している男ってのは、誰だ?」

 ハンナもチキも、目を見開いて、口を開けた。この期に及んで。

 チキはハンナに目をやって、笑っていい? と尋いた。ええ、笑って頂戴、とハンナは答えて、深呼吸した。

「いいわ。特別に教えてあげます、ヴァーン兄様。その殿方というのはね」

 ヴァーンは、まるで娘の口から罪状を聞く父親のような顔をして、じっとハンナを見ている。ハンナはすたすたとヴァーンに歩み寄ると、耳打ちをするような手付きをして、屈んで下さる? と言った。ヴァーンは頷き、その場に屈む。ハンナはヴァーンの耳に口を寄せ、

 頬に、キスした。

 ヴァーンの驚いた顔と言ったら。

 ハンナはさっと身を引いて、朱に染めた頬を隠しもせずにヴァーンに叫んだ。

「これでもまだわからないなんて仰るなら、私、従妹の縁を切るわ!」

「お……」

 ヴァーンは眼も口も大きく開けて。

 クレイは薄く笑っている。ドアを出て「荷物を取って来よう」と言い残した。

「……俺か?!」

「ヴァーン、手伝ってくれるだろう」

 廊下からクレイの声が呼ぶ。

 ハンナはとうとう耐え切れずに、顔を覆ってチキの後ろに隠れてしまった。

「ハンナ、」

「いや、兄様、あっちへ行って!」

 ヴァーンはマンタに連れられて、振り返りながら部屋を出た。

 ハンナはそうっとチキの背から顔を出して、ヴァーンが去ったのを確認すると、その場にぺたりと座り込んだ。

「……すごいよ、ハンナ」

 チキも一緒に床に座る。

「どうしようチキ、私心臓が破裂しそう」

「うん。おいらも一緒にどきどきしちゃったよ」

 ハンナはチキを見て、いい人ね、と笑う。そして、いいこと、と興奮した顔でチキの鼻を指差す。

「あなたもこれくらいしなくちゃ駄目よ」

「……ええ?」

「だって何だか、ヴァーン兄様と同じくらいぼんやりした人のようだもの」

 ぼんやりと評するのが何だか可笑しくて、チキは吹き出して言い訳した。

「でも、おいらじゃ駄目だろうな。ハンナくらいに可愛いのじゃないと」

 あら、とハンナは眼をしばたく。

「あなたとても綺麗なをしてるのよ。知らないの?」

「……?」

 そうよ、と微笑むハンナはとても愛らしい。ハンナの目なら、それは綺麗だけれど、とチキは思った。

 ハンナが、そっとチキの手を握る。

「私達も、握手」

 そう言って、ぷっと吹いた。

「面白かったわ、さっきの」

「……うん。そうだね」

 くすくすと笑い合う。

「また会えるわね? 私達。チキは病気を治して」

「うん。ハンナも、元気で」

 村を出てから初めての同年代の友達は、とても愛らしい女の子。これも、きっと隣の爺さん宛の手紙に書こう。何だかチキは、手紙がとても長い大作になりそうな気がする。






「さてっと」

 マンタ以外の見送りもなく、昨日の寺院内での騒ぎを思えば嘘臭い程の何変わりない外へと三人は出た。

 大通りには相変わらず巡礼が流れを作っている。黄色い布を頭に巻いた年寄りが、通りすがりにクレイをちらりちらりと見た。

「……その格好に剣を背負ってるってのは、似合わないな」

 クレイの姿をヴァーンが評す。それから自分の背中の大剣を親指で差した。

「町を出る前に、俺はこいつに柄と鞘を誂えに行くが、お前らはどうする? クレイは服が欲しいだろう」

「……ああ」

「マハル亭には? 済んだって連絡しなくていいの?」

「そうだなあ……」

 チキの問にヴァーンは四角い顎を擦った。

 じゃあこうしよう、とヴァーンが仕切った通りに、チキはマハル亭に向かって歩いている。クレイが無造作に背中の袋から抜き出した剣を一本、腕に抱えて。

 ヴァーンは造剣屋に、クレイは服屋に、用が済んだら町の南の橋で落ち合おう、と約束した。

 チキがマハル亭を訪ねると、亭主と女房は、おやまあ、と驚き歓迎してくれた。

 悪さをしていた魔物は退治されて、大司祭は一寸怪我をしたけれど大事ないのだと報せると、それは良かった、と二人とも手を打って喜び、二度三度と天地神へのお祈りをした。

「それで、これ」

 宿代の代わりに、とチキが剣を差し出すと、宿代は要らないと言ったんだと、やはり亭主は受け取ろうとしない。なので、

「持って帰ったら、おいらが叱られるんです」

 チキはしょぼんとして見せた。それで亭主は剣を受け取ってくれたのだから、これくらいの方便は許されるだろう。

「……それで、これからどこへ?」

 聞いたのは女房だ。

「おいらやっぱり、グラードのお医者に診てもらうことにしたんです」

 紹介してもらったお医者が駄目だと言う訳じゃないけれど、と付け足すと、女房は頷いて「寺院に連れて行ったと聞いてたけど、そうかい」と、駄目だったのだと思ったらしい。

「グラードかい……」

 亭主が考え込んだので、チキは「何か?」と尋いてみた。亭主と女房は、互いの顔を目をしばたかせて見詰めた。




 チキが橋に辿り着くと、緩く山なりになっている橋の上に、クレイを見付けた。服屋の用事は既に済ませたらしい。白い長衣ではなく、枯れ草色のシャツにポケットの沢山付いたズボン、そして丈の短い革のチョッキと膝迄の革のブーツ。欄干寄りに、ただ立っているだけである。だが少しの間、チキは黙って見蕩れていた。

(かっこいいなあ)

 不意にハンナの台詞を思い出す。

(あなたもこれくらいしなくちゃ駄目よ)

 頬が熱くなって、クレイから目を離して俯いた。

 一緒に旅出来るだけでいいんだ。いつも姿を近くで見ていられる。

 例え本当に、が綺麗だったとしたって。

 ……そんなことくらいで、釣り合うとは思えないから。

「チキ」

 クレイが呼んだ。橋の袂のチキに気付いたのだ。顔を上げると、こちらを見ている。チキは大きく息を吸って、笑って橋を駆け登った。

「早かったね、クレイ。ヴァーンはまだ?」

「ああ」

「剣、ちゃんと渡して来たよ」

「そうか」

 クレイは相槌を打つばかりだ。それでも二人で話しているのが嬉しくて、チキは色々と話し掛ける。ヴァーンを待ちながら、二人欄干の方を向いて、川と互いの顔を交互に見て話した。そう言えば、ヴァーンが旅に加わってから、チキは漫才……ヴァーンもクレイも不本意だろう……を聞くばかりだったな、と思った。

「ヴァーン、ハンナの事何か言ってた?」

 クレイは軽く瞬いて、ああ、と答えた。

「なんて?」

「……自分のような放蕩者にハンナをもらえるもんかと」

 チキはぱあっと笑う。

「もらうつもりなんだ?」

「俺もそう言った。……他の男にくれてやるよりは、だがハンナはまだ十五だぞ……と……困っていたな」

 チキはくすくすと気の毒がる。

「ハンナには悪いけど、やっぱりヴァーンったらお父さんみたいだなあ」

 あっそうだ、とチキはクレイを振り仰ぐ。

「ヴァーンはおいらのこと男の子だと思ってたんだって。それでハンナに叱られてた。……クレイは、すぐにわかった?」

「……知ってた」

「……ふうん?」

 何だか嬉しい気分がする。自分の村では、チキは女の子にしか付けない名前だけれど。クレイはあちこちを旅してるだろうから、知っていたのかもしれない。

「えっと、チキっていうのは、おいらの村じゃ、女の子が愛されますように、って付ける名前らしいんだ。クレイは、名前に何か意味がある?」

 そういう意味じゃないかもしれんが、とクレイは話す。

「俺が生まれたのは造剣が盛んな村だったからな。ナークだのクレイだのは大勢いた」

「……? なんで?」

「……ああ。そうか」

 クレイは気が付いた、という顔をして、体をチキの方に向けた。

「最近では見なくなったが……ナークレイに祈る時はこう」

 言って、自分の両手の指先を唇に当てて、そのまま両手を額と胸に動かした。

(あっ……)

 ――兄神様のお慈悲を――

 村を出る日の風景を思い出す。

「それおいらが村を出る時、隣の爺さんがやってくれた!」

 叫んだチキに、そうか、ならこうだろう、と、もう一度唇に触れた指を、チキの額と胸に、ちょん、と当てた。

「武器と慈愛を司る兄神の名は、残ってないに等しいからな……隣の爺さんとやらは物知りだ」

 クレイも、物知りじゃないか。そう思ったのだが、チキはどきどきして、口が利けなかった。

「あー……おほん」

 後ろから聞こえた低い咳払いは、ヴァーンだ。

 チキは振り返って、遅かったね、と言おうとしたが、先にクレイが「早かったな」と言った。

 ヴァーンは「混ざるぞ」とクレイの横に並び、ぐいぐいと肩で押してくっついた。クレイの体が傾くので、横のチキまで押される。……クレイとくっついた。

「ああ、早かったさ。急がせたからな。にしちゃあ、良い出来に仕上がってるぜ。見るか?」

「こんなところで抜くな。邪魔だ」

「お前はまた、代わり映えのしねえ格好にしやがって」

 たまにはこう、ひらひらーっとした裾やら袖やら襟やら着てみたいとか思ってみろよ、とクレイの目の前で手を振るヴァーンをクレイは無視する。また漫才に戻ってしまった。

(……楽しいから、いいや)

「それでな。造剣屋で聞いた話なんだが」

 ヴァーンは、ダットンという町で魔物が暴れている、という話を聞いて来たらしい。

「グラードとはまた少し方角が違うんだが、どうする?」

 チキはクレイと目を見交わして、ヴァーンに答えた。

「それ、おいらも宿屋で聞いた。行こうよ、ヴァーン」

 うん? とヴァーンはチキとクレイを見比べる。

「……なんだ、既決事項か」

「うん。宿のおばさんの友達が、ダットンで怖がってるんだって」

 今度は友達か、とヴァーンは呟く。

 剣も減ったしな、とクレイ。背中の袋に売り物の剣は三本。それはお前が要らん宿代代わりに配るからだろ、とヴァーンは言い当てて、んじゃ行くか、と欄干を離れた。

「因に俺の名前は、偉かった曽爺さんの名前だそうだ」

 ……そこから聞いていたのだ。じゃあ、クレイに兄神のお祈りをされて照れていたのも見ていたんだ、とチキは自分も歩き出しながら、「ヴァーンはナークレイ様って知ってるの?」と尋いた。

 橋を越えながら、うん? とヴァーンは振り返る。

「文献でな。名前は知らなかったが……父神ダラーシャ、姉妹神ガラシア・アルシナはチキも知ってるだろ? ナークレイってのは、その家族の兄ちゃんだ」

「ふうん……でも有名じゃないんだね」

「父神が子供達に世界を分け与えた時に、兄神は神を辞めて人間じんかんに混じってしまった。だから、神じゃなくなった兄神は、奉られなくなったのさ。兄神の血が混じった一族は長く造剣を良くしたと言われ、今でも武器を扱う連中の中には、たまーに兄神を信奉してる者がいるな」

 俺も物知りだろ? とヴァーンはにかっと笑う。

 そうか、とヴァーンは立ち止まり、一番後ろからついて来るクレイを見やった。

「お前の神は兄神か。それで天地神の加護から外れてるって言うんだな?」

 チキもつられて立ち止まったが、クレイは答えず先へ行く。クレイに並んで歩きながら、ヴァーンは声を落として尋ねた。

「じゃあ奴が言った『ナーク』ってのは」

 チキは二人の後ろをついて行く。橋を下って、クレイは小さく答えた。

「多分な」

「魔物が怖がる神様かよ……おい、次の魔物退治に、お前呼び出せ」

「俺は魔法使いじゃない」

「俺の神様は姉妹神なんだよ。お前の神様だろ?」

「……信じていない」

 ヴァーンは口を噤んだ。手で顎を擦り、一度視線を外して、またクレイに目を戻した。

「……滅んだのは何年前だ?」

「百より先は知らん」

「……ああ。そうか。そうだな」

 ヴァーンはぽりぽりと頭を掻く。

「……クレイの国はここじゃないの?」

 チキの問に、クレイはちら、と目線をくれた。

「どの辺にあるの? なんて国?」

 クレイはふいっと前を向く。「どこにもない。とうに滅んだ」何の感銘も無い声で言う。

「神の加護など受けなかった」

 ヴァーンの手が、チキの頭にポン、と乗る。

「昔のこった。お前が謝る事じゃねえ」

 チキが罪悪感を覚えた事を、どうして気付いたのだろう。

「この爺いは俺が成敗しておく」

 そう言って、ヴァーンはクレイの頭に、とう、と手刀をくれていた。

 やがて橋を渡り切り、チキ達は三つに別れた街道を一番右へと進んだ。橋が随分後ろになった頃、クレイは突然口を開いた。

「もう少し、南にあったと思うがな」

「……え?」

「俺の生まれた国だ。名はスガルダといった」

 ヴァーンはチキを振り向いて、にやにやと笑った。

「反省したらしいぜ」

 ダットンの町まで、この道を真っ直、徒歩三日。

 途中、村を三つ通る。一日目の夜は最初の村で過ごした。宿屋は一杯だったが、親切な老夫婦が、三人共を泊めてくれた。お礼に、ヴァーンが鳥小屋の周りの柵を直した。いつの間にか姿を消していたクレイが、小刀を手に戻って来て、ヴァーンに何やら魔法を掛けさせ、果物ナイフにでもしてくれと、その小刀をお婆さんに渡した。後で聞くと、家の裏に小物が出たので始末したとの事。少ない邪気でも耐性の落ちた老人にはきついかと思って、ヴァーンに浄めの魔法を頼んだのだそうだ。

「こんなとこに魔物か?」

「チャルダの空いた縄張りに引かれるんだろう」

 二日目は急に雨に降られたので、街道を少し外れ、林の木陰で雨宿りした。雨足も強くなり、日も暮れて来たので、その日はそのまま野宿した。「いるな」「ああ」眠りに落ちる直前にそんな声を聞いたが、チキはヴァーンの貸してくれた上着に包まって、そのまま朝まで起きなかった。

 翌朝、昨日は何を言っていたの、と聞こうと思ったが、クレイの荷袋に剣が二本増えているのを見て、チキは「有難う」と礼を言った。クレイは何も答えず、ヴァーンは「良く眠れたか?」と笑った。ヴァーンもクレイも、特に血に汚れた様子は無い。チキの視線に気付いたか、「いい具合に雨だったからな」とクレイは言った。




「……おいら、何の役にも立たないね」

 先を歩く二人が、同時に立ち止まって振り向いた。

「あ? 何言ってんだ、チキ」

「だって……ヴァーンみたいに力も無いし魔法も使えないし、クレイみたいに……かっこよくないし」

 待て、とヴァーンは低く突っ込む。クレイは笑った。

「チキ、お前はそれが言いたくてか? おい」

「ち、違うけど」

 クレイが笑ったのが嬉しくて、チキもつい笑いながら手を振るので否定に見えない。

 ヴァーンはぬっと腕を伸ばして、チキの頭をはっしと掴み、ぐりぐりと掻き回した。

「俺もかっこいいだろうが、こら。前の村で、お前、ずっと婆さんの話し相手してただろ? 爺さんの肩揉んでやってただろうが。クレイじゃ話し相手にゃならないし、俺じゃ爺さんの肩を壊しちまうんだよ。わかるだろ」

 適材適所ってやつさ、とヴァーンはチキの頭をぽふぽふ叩く。

「……うん」

 クレイはもう歩き出している。

「ほれ、先生なんか、話す程の事でもねえってさ。先を急ぐぞ」

 ヴァーンはクレイを追っかけて、おい、俺を通訳に雇わんか? と尋ねる。要らん、とクレイは即答した。

 正面から、急に強い風が吹いた。

「わっ……」

 よろめきそうになり、チキは顔の前に腕を上げて息を詰める。……温い臭いがした気がした。

 クレイが、僅か遅れてヴァーンも足を止める。

「こりゃ……」

 ヴァーンは顔を歪めて呟いた。クレイは眉を顰め、背の袋を降ろすと確認するように中の剣を眺めた。そして、じっとチキを見る。

「……なに?」

 どぎまぎとチキは尋ねる。

「……いや」

 剣に目を戻して、クレイは袋を背負い直す。行くぞ、と再び歩み始めた。

 二つ目の村に着いたのは三日目の昼過ぎ。三つ目の村は近いから、素通りしようという事になった。

「剣を売って下さい!」

 村の真ん中の道を行く三人を、脇から飛び出して来て止めたのは、チキよりも小さい男の子だ。

「お兄さんは、剣売りでしょう? 売って下さい!」

 クレイの前に走り出て、背中の袋を指差し訴える。クレイは子供を見下ろして、手を背にやり、無造作に一本を掴んだ。

「……柄も鞘もないが、よければ」

「そっちの、柄のあるのが」

「これは売り物じゃない」

「そんな……じゃあ、なくてもいいです。だから」

 おい坊主、とヴァーンは声を掛けて、坊主だよな? と確認した。

「え? うん」

 子供はきょとんとして、隣の大男を振り仰いだ。

「誰が使うんだ? まさか、お前じゃないだろ」

「俺だよ!」

「お前にゃこの剣は一寸でかいぜ。それに、こいつの剣は目茶苦茶高価たかいぞ」

 子供はぐっと口を噛む。

「……一生かかっても、払うから」

 ヴァーンは目を眇めて言い放つ。

「死んだら払えねえだろ」

「……!」

 男の子はぽろぽろと泣き出した。「坊主」ヴァーンは子供の前に屈み込む。

「男が泣くだけの理由があるんだろうな。おい。話せ」

 暫くはしゃくり上げる声だけがして、子供は涙と鼻水を垂れ流して突っ立っていた。待つうち、子供は袖で顔を拭い、鼻水を啜り上げて口を開いた。

「姉ちゃんが……」

 ぎゅっと目を瞑る。再び涙が溢れた。

「俺の姉ちゃんが、殺される……」




 チキとクレイとヴァーンは、シデ少年の家に招かれた。「きっと父ちゃんも剣が欲しいって言うから」と子供に腕を引かれて、広くもない家の居間に、家族三人と一緒に向かい合っている。

「……ダットンから、魔物が来るんです」

 父親は酷く窶れて、諦め切っていた。その隣で、母親はずっと涙ぐんでいる。

「作物の実りが悪くなるのはまだ我慢出来た。やつらが来ると、空気が腐ったみたいになって、運の悪い鳥は落ちるし、逃げた獣は戻って来ない。でも何とかやってた。あの、でかい奴が来て、村の人間を順番に駄目にしてしまうまでは」

「駄目に……?」

 ヴァーンが尋ねる。

「食うんじゃないのか」

 食うさ、父親は吐き捨てる。

「搾り取って、搾り取って、吸い尽くして、それから食う。……だから、被害が一遍に出る訳じゃねえ。誰か一人が吸われている間は、他の人間は無事なんだ」

 うっうう、と母親が泣き伏した。

 かたん、と戸が開く音がして、奥の部屋から女が出て来た。

「姉ちゃん!」

 母親の横で堪えるように座っていたシデが立ち上がる。

「駄目じゃねえか、ちゃんと寝てろよ」

 デラ、と呼んで母親も寄って行く。ふらふらとする女は乱れた栗色の髪を揺らし、誰かを捜すように天井と床を眺めた。二人掛かりでデラを支えて、戸の中へと連れて行く。戸の向こうから、ンゲアーアーと、奇妙な声がする。うん、うん姉ちゃん、とシデが泣き声で返事をした。

 狂っているのだ。

「……こんなざまで」

 父親は俯いた。

「どんなに家の奥に隠しといても、いやあーな臭いがしたと思ったら、娘は外に出てる。外に出て、嬉しそうに、魔物に抱き付いてやがるんですよ。……何でこんな事に」

 チキは唇を噛み締めた。娘も、後一、二回吸われたら動けなくなって、食われて御仕舞いだ。皆そうだった。呟く父親は、自分もその順番に組み込まれているのを承知しているようだ。

「……どう思う」

 ヴァーンはクレイに尋ねる。クレイは軽く眉間に皺を寄せて、「主だな」と言った。

「ダットンで暴れているという主だろう」

「ここまで出張って来てるのか」

 小声でヴァーンは続ける。「縄張りが空いたからか?」

「いや……予定の行動だろうな。おそらく、チャルダの奴より数段厄介だ。徐々に縄張りを広げている途中に過ぎん」

 ヴァーンは目を見開く。

「……あれよりか?」

「お前も臭いを嗅いだだろう」

「……ああ」

「魔物が来るのは夜ですか」

 急に尋ねられて、父親は顔を上げ、「あ、ああ」と頷く。そして「そうだ、まだ日は高え」と頭を下げた。

「足止めしちまって、今夜もきっと魔物が来るから早いとこ次の村に行った方がいい。といっても、この辺の村はきっと、どこも同じようなもんだろうが」

 父ちゃん、とシデが戸から駆け出て来た。

「剣は! 買わねえのか?! 姉ちゃんを守ってやんねえのかよ!」

 父親は返事をしない。シデは必死に言い募る。

「俺が買う! 支払いは、ええと……俺のもんなんて、服と、草履と、本が一寸ある、畑はまだ分けてもらってねえけど……」

 きょろきょろしながら、自分の持ち物を探す。クレイはすっと立ち上がった。シデの顔は絶望する。

 クレイは、チキはここで待たせてもらえ、と荷物を置いたまま居間を出た。出しなに、シデにこう言った。

「……剣は売れないが、宿代代わりに譲らないでもない」

 ヴァーンは、やれやれと頭を掻いて立ち上がる。

「魔物は何とかするから、一晩泊めてくれってよ」

 何で俺を通訳に雇わないかねえ、とクレイを追って外に出た。

 シデも父親も、ぽかんとそれを見送った。

「……やっつけて、くれるのか?」

 誰にともなく、シデは尋ねた。

「……大丈夫だよ、あの二人、強いから」

 小さく言ったチキを見るシデの顔には、先程まではまるでなかった希望の色が、ほんの微かに混じっていた。






 話を済ませて戻って来たクレイは、自分の剣の袋を引っ掴んだ。ヴァーンは居間で待っていた父親に、支度があるから手伝ってくれと頼んで、クレイと共に姉のいる奥の部屋へ同行してもらった。暫くして出て来たヴァーンは父親と一緒に姉を連れており、お前も来い、とシデを誘った。

「一寸出て来る。もしかしたら後でお前にも手伝ってもらうかもしれないからな」

 とチキに言い置き、ああそうだ、と振り返る。

「奥の部屋は覗くなよ。強い結界が張ってあるからな」

 と言い足した。

 チキは居間で一人待った。奥の部屋からはクレイも母親も出て来ない。日が傾く頃にヴァーンは戻って来たが、父親もシデもデラも伴っていなかった。

「泊めてくれる余所の家に預けて来たんだ。おばちゃんも後で行くが、お前は残れよ。俺も一緒だ、怖くないだろ?」

 うん、とチキは頷く。怖くないというのは嘘だが、足手纏いになるのでなければ、二人の側にいたい。チャルダでのように、自分の知らぬ間に、傷だらけになっていると思うのは嫌だった。

 やがて母親が奥の部屋から出て来た。布に包んだ荷物を抱えて、宜しくお願いします、とヴァーンに頭を下げて、本当に連れて行かなくて良いんですか、とチキを見た。

「ああ。くれぐれも、娘の縄は解くなよ。ま、解けないだろうが」

 はい、ともう一度頭を下げて、母親はチキを振り返り振り返り、家族の所へと出て行った。

「……さて」

 ヴァーンは何やらブツブツと呟いて、その場にごろんと転がった。

「寝るか。寝とけよチキ。夜中に起こされるかもしれないぞ」

「……うん。ねえ、」

「ん? 腹減ったか?」

「クレイは?」

「奥で寝てるさ。……開けるなよ」

 ほれ、とヴァーンは部屋の隅に畳んであった洗濯済の衣類をチキに放ると、多分父親の着物を自分も布団代わりに腹に掛けて、あっと言う間に寝息を立てた。

 チキは開けるなと言われた戸の前まで這って行くと、そうっと耳を戸に当ててみた。すると微かに、ほんの微かに寝息が聞こえるようだったので、チキは戸を離れて、自分もヴァーンのように床に転がり、こちらは多分母親の着物を掛け布団にした。




 今吸っている娘は旨い。

 最初に襲った時の恐怖も操を奪った時の絶望も美味だったが、一度快楽を許してしまった後の精神の崩壊ぶりがまた旨い。

 後一吸い二吸いしか出来ないのが惜しい。だが、生命尽きる寸前の邪ばかりに満ちた肉を齧るのもそれは楽しみなのだ。

 今の娘を食ってしまったら、次はどの生き物を餌食にしようか。もうこの村には、今の娘ほど吸い甲斐のある餌はなかったように思う。後は、もう食い散らかして御仕舞いにしても良いかもしれない。小物どもも随分我慢している。もう譲ってやっても良いかもしれん。

 偶には旨い汁を吸わせてやるのも、縄張りの主の役目だ。――

 魔物は、変だ、と思った。家の前に降り立つ頃には、娘はいつも自分の臭いを嗅ぎ付けて、外に出て待っているのに。

 くん、と臭いを嗅いで、理由を知った。なるほど。娘の為に、魔法使いを雇ったのだ。娘の寝ている部屋の回りに、きつい魔法の臭いがする。結界でも張ってあるのだろう。だから娘は出られないのだ。

 愚かな事だ、と魔物は嗤った。この自分をそこら辺の小物と同じだと思ったらしい。結界の中の娘を見失うか、魔法を恐れて引き返すとでも考えたのか。ニタリと口を吊り上げて、魔物は自分の体を縮めた。少し大きな人程だ。身の丈を変えるのは上等な魔物にしか出来ない。大きさを誇示するだけの馬鹿者とは違う。真に力を有する者は、身のでかさなどに頓着しない。

 魔物は堂々と家の中に入った。この村は自分の物なのだから、当然と言えば当然だ。部屋には娘の家族が寝ている。大人と子供だ。もう一人、母親がいたはずだ。いつも通り、娘に寄り添って寝ているのだろう。魔法使いの結界程度で安心しているのが、愚かしくて笑えた。後で纏めてお仕置きしてやる。まずは娘だ。

 戸に触れると、僅かに反発を感じた。だが魔物は構わず戸を開ける。自分にこんなものは効かないのだと、悪戯ふざけた気分で紳士的に壊さず開けた。

 中は、

 ――いい匂いが立ち込めていた。

 さて、あの娘は美味だったが、これ程良い匂いがしたろうか。

 娘は黒い着物を体に掛けて、静かに寝入っている。傍らに母親の姿はない。

 変だ。これ程側にいて、自分の臭いで目覚めぬとは。近付いた。花嫁は、着物の上に左腕を乗せている。着物と揃いの黒い手袋を嵌めていて、その左腕を細い縄で戒められていた。なるほど。これで目覚めぬのだ。縄に魔法が掛けてある。そして気付いた。

 別人だ。

 魔物は愉しみが増えた事を知り、またニタリと笑った。家族は自分の娘を守る為に、余所の娘を縛り付けてまで差し出したのだ。部屋に張られた結界は、罪悪感の現れだ。

 魔物にこの娘を断る理由はない。これを食ってから、この家の娘も食えば良い。勿論、謀ろうとした家族にも思い知らせてやるのだ。替え玉の娘と、自分らの娘と、どちらも餌食になったのだと知った、絶望に冷え切った肝を十分に味わった後でだ。

 ……それにしても上玉だ。

 魔物は垂涎をぺろりと嘗めた。これが自分に怯えるところを早く見たい。眠ったまま吸うのは、余りに面白くないではないか。

 怯えた肝をまず一吸いして、それから肉を汚す。力で操を奪われた女の絶望は、どんな醜女でも酔う程美味だ。いや、人間の女の美醜などよくわからぬが、それでもこの黒衣の花嫁は美しいと、魔物は思った。

 本当に、花嫁にしても良いかもしれぬ。

 自分の中に取り込んで、永劫に生かすのだ。されば、花嫁の恐怖も絶望も崩壊した精神も、その後にやって来る淫らに爛れた邪な満足も、主である魔物を喜ばせ続ける。

 まずは、縄を解いて起こさねばなるまい。

 魔物は娘の黒手袋に巻かれた縄に手を伸ばした――触れた途端。

「天のガラシア地のアルシナ」

 恐ろしく早口な声が聞こえ、魔物は開いた戸を見やった。

 魔物を向いて呪文を唱えるのは寝ていた男だ。だが娘の家族ではない。寝ていたと思った娘の家族はどこにも見えない。

 魔物は悟った。結界がきつく臭っていたのは、他の魔法をごまかす為だったのだ。

 縄が娘の腕から飛んで離れ、魔物の体をぎゅっと戒める。

 魔法使いに、騙された。

 ざんっと鋭い空気が魔物の肩に当たった。痛みより先に、魔物は跳ね飛ぶ自分の腕を見た。

『――グエエッ?!』

 寝ていた娘は、着ていた黒衣ごと剣を振り抜いた。舞い上がる着物も、宙に回る腕も、噴き出す魔物の血も、起き上がる娘の髪も、黒い。

 いや、娘ではない。

 使

 暗闇に剣は閃き、魔物の頭を二つに割った。




 頭を割られた魔物は雄叫んで、片手で呪縄を引き千切った。

「ち、やっぱ駄目か」

 ヴァーンは舌打ちし、続けて魔物に足止めの魔法を掛ける。奥の部屋に予め仕込んでおいた魔法を発動させた。これでクレイが止めを刺しやすくなる。腕と頭を半分無くしたとは言え、油断を許さぬ気配をヴァーンは魔物から感じている。ちら、と横目でチキを見た。きちんと着物を布団にして眠っている。出来れば起こさぬまま済ませたい。

「決めろよ、クレイ!」

 ヴァーンの声より早く、クレイの斬撃は魔物の残る腕を落とす。剣を魔物の胴体に貫き通し、横に斬り裂いた。

『オノレ……オノレ』

 魔物は唸る。血を繁吹しぶき、ぐらぐらと身を捩る。足止めは効いている。

『……このわしがあ……花嫁にしてやろうとまで思ったものをお……』

 ヴァーンはあんぐりと口を開いた。

「……おいクレイ。『結界目立って頂戴ね作戦』は、お前が魔物に求婚される程に成功したらしいぞ」

 相変わらずもてもてだな爺さん。クレイは返事もしない。魔物の胴を斬り離す一撃を、無言で打ち込んだ。

『――ゲアーッガッガッガアッ!』

 魔物は嗤った。哄笑を上げた。離れた胴が落ちる、その一瞬に、魔物の体が、斬られた腕が、頭が、繁吹しぶいた血が、ブワアッと膨れ上がった!

「……ッ」

 奥の部屋一杯に魔物の体が満ちたと思った瞬間には、壁が、屋根が吹き飛ぶ。

「ぐっ……」

 ヴァーンは飛びすさりざまチキを見た。チキには破片は当たっていない。結界が効いている。爆煙の向こうに目を凝らしたが、クレイの姿はすぐには見えない。

 欠けた腕や頭やを血の霧共々回収して、魔物は屋根の上に肩が出る大きな黒犬の姿になった。まともなのは手足の数だけで、目は四、尾は三、尖った歯は節操がない程生えている。だらんと垂れた舌は一つだが、長い。数は合っている手足も、先は四本とも人の手をしていた。

『わしがせっかく紳士に振る舞ってやったものをお……許さんぞ剣使い、魔法使いい』

 砕けた壁の向こうから、瓦礫を駆け登ってクレイが姿を現した。宙にたんっと蹴上がり、手にした剣で魔物の手を斬り落とす。繁吹しぶいた血は落ちた手を取り込んで、魔物の傷はすぐに修復した。乱杭歯をぎらりと見せて、ガッガッと魔物は嗤う。

『斬撃は効かぬわあ。わしの血を浴びたなあ剣使いい』

 ガッと開いた魔物の口にクレイの体は引っ張られる。クレイに付いた魔物の血が、クレイ共々魔物の中に取り込まれようとする。クレイは横一文字に剣を構えた。何か言った。魔物の口に構えた剣を咬ませ、また何か言った。剣は砕けて、魔物に傷は付かなかった。剣の破片は悉く消えたが、クレイの手を離れた握りには、柄が付いてないようだった。

『ガッガッガアア! 何かしたか剣使いいい!』

 形は人そっくりの大きな手で、クレイの体を鷲掴む。ひくひくと黒い鼻を鳴らして、長い舌をうねらせた。

『……そうか、匂いは騙してなかったかあ』

 四つの目がすっと細まり、歯茎を見せて笑う口が嫌な臭いを吐く。

『娘でないのは残念だが、確かにお前は旨そうだあ』

「――フンッ!」

 ヴァーンはチキの隣で大剣を振り下ろす。剣圧が、クレイを嘗めようとしてうねった長い舌を千切り飛ばした。すかさず指を一本立てる。

「天のガラシア地のアルシナ神柄使徒に」

『魔法使いいい』

「思う者を取り戻させ給えッ!」

 睨む魔物の手から、クレイの姿が消え失せる。ヴァーンの後ろで、どさっと人が転がる音がした。

「っと悪い、着地失敗か?」

 軽く振り返ると、クレイは受け身を取った後のような姿勢で床に肘を付いている。

「……ヴァーン」

「悪いって」

「頼む」

「―――」

 ち、とヴァーンは舌打ちする。斬撃が効かない以上、魔物を倒すには魔法しかない。だがこの魔物を倒せる魔法となると、村の被害も尋常では済まない。

『村毎破砕してくれるッ!』

 魔物は目をぎらつかせ、両腕を振り上げる。千切れた舌はとうに戻っている。

「ヴァーン!」

「わかったよっ!」

 クレイは左手の手袋をぎゅっと引き絞る。

 ヴァーンは眠るチキを向いて、左右の人差し指をばっと立てた!

「天のガラシア地のアルシナ!」




 目が覚めると、ヴァーンがこちらを向いて何か呪文を唱えていた。魔物の臭いがする。戦いの最中だ。クレイの姿も側にある。また黒い血を浴びている。これは魔物の血だ。クレイは、大丈夫、ヴァーンも怪我はしていない。こんな状況でも眠っていたのは、きっとヴァーンが眠る前に何か唱えていた魔法のせいだろう。

 チキは体を起こして魔物を見た。大きい。黒犬の化け物だ。化け物はチキにもわかる程の怒りをばら蒔いて、振り上げた腕に力を込めている。あれが振り下ろされたら、きっとここら一帯は潰れてしまう。逃げないと。二人の邪魔をしてしまう。チキは立ち上がろうとして、足が萎えていることに気が付いた。それで、うんと体に気持ちを入れて、いざってでも下がろうとしたところ、クレイが右手でチキの肩を掴んだ。

「え……」

 何、と尋こうとした言葉を飲んだ。クレイは左手の手刀をす、と引く。

 ヴァーンは長い呪文を唱え終わって、右手の指を振る。「はつ!」

 激痛に、心臓を掴まれたと思った。いや、誰もチキの心臓には触れていない。ただ、

 鼓動が止まった。

 クレイの左手がチキの胸に突き立つ。何が起きたかわからぬままに、チキは目に映る光景を見ている。

 心臓が止まったのに、意識はあるのだ。胸に飲み込んだクレイの手が握られるさまも、ありありと感じる。

 クレイがチキの中で拳を握った途端、チキは体の中に冷たい塊を感じた。拳は塊を掴んでいる。いや拳の中に固まりは生まれた。まるで体の中の夜が凝って形を成すように、体中からその一点に血が引かれていく。体の隅々に混ざっている何かを引き剥がされる。ぐっとクレイは拳を引き抜く。ずるりとチキの体から禍々しいものが現れる――黒光りする太い剣。

 チキの体よりも大きな緩く湾曲した剣を、クレイは一瞬に抜き切った。

 ヴァーンが発、と左手の指を振る。チキの体は床に倒れる。

 ……ああ、自分は死んだのだ。クレイは死んだ魔物から、剣を取るのだから。

 それでもまだ意識はあって、ぼんやりと感覚が薄れる体の中で、心臓の痛みはわかる。目はクレイの姿を追っている。……最期に見るのはクレイの姿がいい。きっとそんな事を考えた。

 魔物は腕を振り下ろす。クレイはチキの体から取った剣を左手に握り、右手を刃に添え目の前で横に掲げる。

れい

 一言呟き、剣を引く。襲い来る魔物の手のひらを迎えるように、下から真っ直に突き上げる!

れい!」

 凜と響く声に呼応して、剣はするりと魔物の手に入り、融けるように消え失せた。魔物の動きが、ぴたりと止まる。風圧で瓦礫や埃が舞い上がった。

『何を……』

 歯茎を見せて、魔物は睨む。

『――したあ?』

 クレイは静かな顔で魔物を見ていた。剣を飲み込んだ魔物の腕に、ぽこ、と気泡が生じた。

『誰だ……お前は』

 気泡は魔物の腹や足や肩や……そこら中に発生する。ぽこ、ぽこり。止まらない。

『誰……だれだ、だれ、ダレダレダ……』

 ぶわっと膨れ上がった魔物だか気泡だかわからないものは、破裂と同時に黒い霧となって失せた。クレイに付いた黒い血も、吹く風に霧散する。

 クレイが、こちらを振り向いた気がした。

 ヴァーンの手に起こされたと思ったが、チキはもう、目を開けていられなかった。




――困ったのう。

 隣の爺さんが、泣く赤ん坊をあやしている。

――この子の親も、魔物にやられてしもうた……

――この村は、もうおしまいかのう。

――戦に追われて、流れ着いて一から始めた村じゃ。捨てるくらいなら、いっそ……

 長老の家で、村の者達ががっくりと座り込んでいる。

――噂を聞いた。魔物を退治してくれる剣士がいるそうじゃ。

 呼ばれてやって来たのは、美しい剣売りだった。村に入るなり剣売りは、犠牲にする子供を一人決めろと言った。穢れの少ない子供を一人残して村を離れろと。しかし剣売りの言葉に得心した村の者はいなかった。夜中、やがて魔物はやって来た。運悪くその日の餌と決められた者と魔物との間に立ち、剣売りは恐ろしい魔物に話し掛けた。――おい。

――俺を食いたいと思わんか。

 魔法のように、魔物の興味は剣売り以外から消え失せた。村の者は逃げおおせた。剣売りを残して、子供も皆村外れの林に逃げた。魔物が呪う恐ろしい声は、夜中中響いた。一夜が明け、村の者が林から出て見ると、村は半壊していた。魔物は崩れた家の上に倒れ、断末魔の呪詛を吐いていた。

 剣売りは赤黒い血を体中に貼り付けて、魔物の腹から、大きな黒い曲がった剣を取り出した。魔物の姿は霧散した。

 剣売りは手の剣を掲げた。

――この魔は強い。放って置けばこれがまた魔物になる。封じるか、また襲われるのを待つか。

 村の者は、大いに迷った。

 爺さんが名乗り出た。だが駄目だと言われた。長く生きて邪を溜め込んだ人間は餌になり易い。封じた途端に食われて魔物が甦ることもある。穢れが少なければ少ない程、長く生き延びられると剣売りは言った。つまり、魔物を封じられた子供は、真っ当な寿命を生きる事は出来ないのだ。

 村の者の視線は、爺さんの抱く、親を亡くした赤ん坊の上に集まった。

――許しておくれ、チキ。

 魔物を封じる子供は、選ばれた。




――困ったのう。

 村の長老が、隣の爺さんを前にして首を振っている。

――どうやら、あの剣売りの言った通りになりそうじゃ。

――それにしても、あんな良い子を……

 不憫じゃ、と爺さんは泣く。

――穢れがあれば、却って体を食われて痩せ細る事もなかったろうに。

――しかし、邪心を食わせて魔物を太らせ、仕舞いには宿主を食らい尽くして復活するよりは。

――……チキがもたずに死ぬのは変わらんわい。

 爺さんは泣き続ける。長老は困ったのう、と首を振る。

――本当に、チキを昼間に死なさねばならんのだろうか。

 もう長くはなかろ、と長老は問う。

――まだ、十四じゃ。

 爺さんは泣く。復活するなら復活せい、と自棄やけに喚く。昼に死のうが夜に死のうが、それっくらいはチキの自由じゃ……

 長老は首を振る。

――それでは十四年前にチキを犠牲にした意味がない。

――わしらはチキを犠牲にしたんじゃ。チキが夜に死んで、それで魔物が復活するなら、わしらは食われてやればええことじゃ……

 首を振り振り長老は悩む。それを爺さんは睨む。

――まさか、昼にチキを手に掛ける気かっ。

――そこまでの不憫をなんで出来る。……そうじゃ、ならいっその事……




「――よう、起きたか」

 目を覚ましたチキは、自分が泣いている事に気が付いた。布団の中のチキを覗き込んでいるのは、ヴァーンの微笑だ。

「夢を見たか? まあ、ちょいと魔法でな……」

 クレイに聞いた話だ、とヴァーンは言う。

「どんな風に夢に見たかは知らないが……まあ、そういうこった」

 チキは目を擦って身を起こす。知らない部屋だった。ヴァーンに尋くと、シデの家族が厄介になっている家の隣の家だと言う。シデの家は、魔物が壊したのだ。

 部屋の戸は開いていて、外からの明るい光が床に長く伸びている。どこからかトントントン、と木を槌で打つ音が聞こえる。

「気分はどうだ?」

「……うん」

 夢の余韻は胸に切なく残っているけれど、体は随分と、生まれ変わったように軽かった。チキの中に封じられていた魔物は、クレイが抜き取ってしまったのだ。

「……そっか。おいら、赤ん坊の時にクレイと逢ってたんだ」

 だからクレイは「知ってる」と言ったのだ。自分が魔物を封じた赤ん坊が女の子だと知っていた。

 布団の傍らであぐらをかくヴァーンはチキを眺めて、良さそうだな、と頷いた。

「剣を引き抜く為に、仮死と蘇生の魔法を一遍にかけたからな。お前の体がもたないんじゃないかって冷や冷やだったんだぜ? まあ体力を食う魔物ももういなくなったし、三日間寝て、かなり回復したな」

 え、とチキは目を見開く。

「三日?!」

 おう、その間俺はシデの姉ちゃんの治療を頼まれたり家の修繕を手伝ったり、忙しい忙しい……ヴァーンは肩の凝りを解す真似をして、チキの視線に気付かない振りをした。

「……クレイは?」

「……」

 ヴァーンは息を吐く。頭をぽりぽりと掻いて、ったよ、と答えた。

「魔物に飽和限界……強い魔物の剣の力を注いで魔物に自滅させる技だが……起こして消滅させたから、剣の仕入れは出来なかったしな。クレイはもうここに用はない。お前に薬をやる必要もなくなった……今だから言うが、ありゃ、魔物の生きた欠けらだ。魔を持たない者には毒になる。体内に封じた魔が食う餌になって、多少宿主が食われるのを防ぐが、却って魔の臭いは増す……外の魔物にも狙われ易くなるって物だ」

 だからクレイはチキを側に置いた。

 チキを守る為? 魔物を呼ぶ為?

 チキは俯く。ヴァーンが見せてくれた夢を思う。

「……おいら、爺さん達に殺されてたかもしれないんだね」

 ヴァーンは瞬き、だからそりゃあ、と解釈を試みる。

「殺したくなかったから、一縷の望みをかけて旅に出したんだろ。当時クレイが村の人間に出した条件と今お前が村を出てるってことを考え合わせりゃあ」

 うん、とチキは頷く。あぐらの片膝を立てて、ヴァーンは「だろ? だから」と続ける。

「村を出たのは良かったのさ。お前はクレイと再会った」

「……うん」

 街道で、どうした、と声を掛けられた。その時既に、クレイはチキがかつての赤ん坊だと見分けたかもしれない。

 夢の中のクレイは、今の姿と変わりなかった。チキが今のクレイしか憶えがないせいなのか、それとも本当にクレイの姿は変わりないのか。

「……クレイ、変わってなかった」

 ヴァーンは夢で、チキに何を見せたかったのだろう。ヴァーンに話したクレイは、チキに何を伝えたかったのだろう。

 チキを蝕んでいた魔物は失せた。十四年前にチキを容物とした責任をクレイは果たしたのかもしれない。なら、確かにもう、クレイはチキと旅する理由は無くなったのだ。

 もうついて来るなと、

 そういう事なのだろうか。

 体は回復している。なのに、何でこんなに心臓が痛い。

 俯いたまま、チキは膝の上で布団を掴み、唇を噛む。

「……どこに行ったの?」

 声が震えた。

 ヴァーンは立てた足を倒して、あぐらの膝に手を乗せる。魔物のところさ、と断じた。

「あいつは魔物に用がある」

 知っている。魔物を倒して剣を取るのだ。クレイは剣売りなのだから。

「……あいつはな」

 クレイは、とヴァーンは言った。

「チキと同じなのさ。五歳の時に、馬鹿強い魔物を封じられた。魔が抜けたのは二十五の時だそうだ」

 チキは目を見開く。「……え」顔を上げた。

「クレイの親父さんが鍛冶屋だって話はしたな」

 とヴァーン。チキは頷く。

「クレイに魔物を封じたのは、親父さんだそうだ。封じた魔物は宿主の邪心を餌にする。親父さんはクレイに邪心を持たせないように育てはしたんだろうが、五歳ならある程度は事情もわかる。クレイは魔が憎かった。お蔭でってのも何だが、ひょろひょろと育ったが死ぬ程体力を食われはしなかった。魔が抜けてからは、体も回復したそうだ」

 だからチキも、これから女らしく太るぞ、とヴァーンは笑う。

「……魔を抜いたのは、クレイのお父さん?」

「……」

 ああ、そう聞いてる、ヴァーンは頭をがしがしと掻く。

「クレイはその時から年を取らなくなったそうだ。いや、チキはどうだかわからねえぞ?……なにせクレイから抜かれた魔物は、クレイの親父さんを殺して、逃げたんだ。生きてるんだよ、まだ、どこかで」

 クレイは魔物に用がある。……ああ、そういう事なんだ。チキは心臓が痛い。さっきとは違う風に、胸が痛い。

「クレイは魔物に、人の心の部分を食われたと思っている。だから自分はあんまり人に興味を持てねえし、上手く笑えないんだと考えてる。食われた人の部分を捜して奴は旅をしてるんだ。人としての寿命は尽きちまってるだろうから、取り戻した時にどうなるかはわからんが……とにかく、あいつは魔物に用がある」

 どうする? とチキに尋く。

「もうグラードに行く必要はなくなっただろ。クレイの薬も要らねえ」

 外から、シデの声がヴァーンを呼んだ。おう、と答えてヴァーンは立ち上がる。

「でかい剣は手に入れたが、ま、俺はクレイを追っかける。けど、お前が帰るならパルシャ村まで送ってやってもいい」

 開いた戸からシデが顔を覗かせる。

「夕ご飯にしようって。あっ、起きてる!」

「飯の前に、デラの治療を済ますか」

 チキを見てぱっと笑ったシデは、ヴァーンの言葉にうんと頷いて、もう一度チキに良かった、と笑いかけて、ご飯増やしてもらっとく、と忙しく駆け出て行った。

「どこに行ったかわかってるの?」

「あ? だから、簡単な事だ」

 ヴァーンはにかっと笑う。

「魔物が出るって話を追っかければいいんだよ。俺は過去三回、そうしてクレイを捉えたんだからな」

 指を三本立てて、自慢気に胸を張る。

「……三回置いてかれたの?」

 ヴァーンは口をへの字に曲げる。

「あのな。俺はクレイとばっかり連んでる訳じゃねえの。それじゃまるで俺が捨てられた女みたいじゃねえか」

 チキは吹き出す。目覚めて最初のチキの笑顔に、ヴァーンも微笑む。チキの答を、承知したのだろう。

 役に立たなくてもいい。足手纏いにならないように頑張るから、クレイを追い掛ける。

 そうだな、とふと思い付いたように、ヴァーンは四角い顎を摩った。

「お前、魔法を勉強してみるか。魔物が抜けてみてよっくわかったが、向いてるぞ。体力を食い尽くされるところだったし、かなり穢れが薄い」

 思わぬ見立てに、チキは目をしばたかせる。半信半疑に尋ねる。

「……おいら、役に立つ?」

 ヴァーンはチキの頭をぽふぽふと叩いた。

「ま、その前に飯を食え。今のお前には栄養が必要だ」

 出発は明日の朝だ、うんと食って、うんと寝とけ。ニッと笑い、ヴァーンは言い渡した。






 ――それは、ガルダという名の王が、代々国を治めていた頃の昔。

 何代目のガルダ王の治世だったか。国は一匹の魔物によって、滅ぼされようとしていた。

 魔物は色々な物に姿を変え、人心を惑わす。戦は途絶えず、国は荒れた。国王の軍隊も、在野の猛者も、悉く魔物に敗れた。王は国中に触れを出した。魔物を倒す武器を献上せよ。万の武器が集まった。剣、弓、槍。しかし、いっかな魔物を倒す武器は現れなかった。資材も人材も消えていく。国はもうお仕舞いかと誰もが思った。

 国の端の州のそのまた端にある村に、兄神の血脈と信じる一族がある、と王に仕える臣下が言った。兄神は武器と慈愛を司る神、言い伝えの是非はともかく、の一族の造る武器ならば恐らくは、と進言した。

 広い国の端っこの村に、国王の遣いがやって来た。勅命である。魔物を倒す武器を造れ。村は造剣が盛んだった。その中でも一番の鍛冶の腕を持つのが、カナークという名の男だった。魔物を倒す剣を造れるとしたなら、その男しかいないだろう、何故なら兄神の力を受け継ぐ最後の男が彼だからだ、と村の者全員が言った。

 遣いはカナークの家を訪ねて、剣造りを命じた。もとより断れるものではない。カナークは不吉な顔をして、造剣を承諾した。国王の触れが出された時に剣を献上しなかったからには、おそらくカナークには、魔物の強さも、己の運命も、国の行く末も知れていたのに違いない。カナークには息子が一人いた。勅命で剣を造る傍ら、五歳の息子に禊の行を行わせた。やがて剣が鍛え上がると、カナークは息子を連れて王宮に参じた。――この剣を扱える者は、我ら親子をおいてございませぬ。そう聞いた国王は、鍛冶屋が官位を望んだのだと思い怒りを露にしたが、それは間違いだったと直に理解した。献上の剣を渡せとカナークに迫った側近を、カナークは剣を抜くなり斬り払った。側近は正体を現わした。魔物が化けていたのだ。

 戦いは半日を過ぎても終わる気配を見せなかった。王宮詰めの魔法使いや戦士達が助太刀したが、カナークの一太刀程には役に立たなかった。魔物は人心を操り、人々は味方同士で討ち合った。死人は増え、王宮は崩れた。魔物は疲れ知らずに見えた。傷を負ったカナークは、魔物に契約を持ち出した。

――二十年後に、俺の息子の魂をやろう。

 魔物はカナークの息子を気に入った。代わりにカナークの望みを叶えた。この場は一旦人の世の国から手を引く。

 やがて魔物は自ら息絶えた。カナークは手袋を嵌めた腕を魔物の腹に埋め、そこから細く長い、長い剣を引き摺り出した。そうして息子を側へ呼んだ。五歳の息子は、自分の体の何倍もある剣を体に埋められた。

 国王はカナークの為に最高官位を用意したが、カナークは断った。ぐったりと倒れてしまった息子を抱いて、村へ帰って行った。

 その後の二十年は、スガルダ国は、カナーク親子以外にとっては、実に平和な国となった。王は度々カナーク親子の様子を遣いをやって調べさせた。医者も幾度か送ったが、カナークの息子は癒される事はなかった。

 カナークは息子が内から体と精神を蝕まれて行くのを、二十年間見守らねばならなかった。二十年という年月を設定したのは、息子の中で魔物を弱らせる為だった。自分の息子が稀なる聖性を備えていることを、カナークはわかっていた。だが息子は日に日に弱っていく。眩いばかりの聖性が、魔物によって歪められて行く。カナークは幾度か、王の遣いに二十年の約束を縮めたいと申し出た。しかし魔物との約束を違えて今の世を揺らがす事は、遣いも、王も、良しとしなかった。

 やがて約束の二十年がやって来た。王はカナーク親子を王宮に召した。カナークの息子は長じて二十五の青年となっていたが、痩せ細り、その相は死に神のようだったという。復活する魔物は弱っているはずだった。二十年の間に用意された魔物退治の兵共がカナークと息子を取り囲んだ。カナークは息子に仮死の魔法を掛けるよう要求し、それ以上の手出しを拒否した。そして手袋をした手を息子の腹に突き立てた。掴み出された剣は、封じられた二十年前よりは幾分細くなっているようだった。カナークは叫んだ。

――魔物よ、俺で代わりとせよ!

 カナークは魔物の剣で自身の首を掻き切った。仮死魔法を掛けられたはずの息子は大声で叫び、カナークの手から剣を奪った。そして自分も自刃しようとしたが、剣は魔物の姿へと変化し、契約は成った、と言い残して去った。

 その日以来、国のあちこちで魔物の姿が現れ、スガルダ国は一月ひとつきを待たずして滅びた。

 兄神の血脈と言われた一族も、国と共に滅んだものである。




「おい、チキ、行くぞ」

 あ、うん、と答えて、チキは書棚に本を戻そうと席を立った。ヴァーンが寺院で用事を済ませる間、寺院付属の魔法学校の図書館で待っていたチキである。重い本ばかりを五、六冊も抱えて高い踏み台に乗ると、隣の机で本を読んでいた男子学生が急いでチキの隣に別の踏み台を持って来て、手伝ってくれた。

「ありがとう」

 最後の本を棚に戻してチキが礼を言うと、男子学生は俯いて、さっさと自分の踏み台を片付けて行ってしまった。見ていたヴァーンはにやにやと寄って来て、チキが踏み台から降りるのに手を貸した。

「よっと。大分ふっくらしてきたな」

 腰を掴むヴァーンに、チキは尋く。

「……そんなに重くなった?」

「いい事だ」

 今まで痩せ過ぎだったんだからな、とヴァーンは笑う。

「これなら男の子に間違えやしねえな。今の学生も、お前に照れたんだぜ」

「……ええ? それはないよ」

 二月ふたつき経って、チキの体には大分柔らかい肉が付いていた。ぱさぱさだった髪も幾分伸びて、艶やかとはいかないが、くすみが抜けて明るい金色になってきている。胸にも少女らしい小さな膨らみが現れて、チキの姿は本来の愛らしい少女に戻りつつあった。

 ダットンを過ぎ、ヘンダルの都を掠めて南へ向かう途中だった。ヴァーンに魔法を教わりながらの旅は、やはりチキには新鮮で面白い。何より、体が健康になっていくものだから、何をしていても愉しいのだ。

「読書は捗ったか?」

「うん」

 ヴァーンが寺院や魔法学校に寄る度に、チキは付属の図書館で本を読んだ。一般の閲覧は出来ないのだが、ヴァーンの名前はとても有名らしくて、皆チキをヴァーンの親類だと思っているようなのだ。騙してるようで気が引ける、と言ったチキに、思わせとけ、尋かれたら弟子だと言え、とヴァーンは軽く片付けた。

 ともかくチキはこんなに沢山の本を見るのも読むのも初めてなので、ヴァーンが寺院に寄るのは歓迎だった。ダットンの魔法学校で初めて図書館に入った時は、「図書館が本のある所だって事は知ってたけど、こんなに本だらけだなんて思わなかった。だって壁も仕切りも全部本なんだよ」と言ってヴァーンを笑わせた。

「ねえ、ヴァーン」

 図書館を出て並んで歩くヴァーンを見上げて、チキは本を読んで思った事を尋ねた。

「思ったんだけど、魔法使いって、神様に帰依してないとなれないの?」

「うーん……少なくとも、この国の仕組みじゃあそうだな。天地神に頼んで力を借りるって形式を取ってる」

「じゃあ、神様に祈らなくても魔法は使える?」

「邪法、って分類されちまうけどな」

「あ、魔物の力を取り込もうって方法のだよね」

「他にも、神様の下位に存在する精霊を使役する、とか、まあいろいろあるが、やっぱり基本は世界に満ちる生命から力を得る訳だから、生命を全部いい様に出来る神様に祈るのが、筋だろうな」

 ふうん、とチキは考える。

「やっぱり呪文は必要なんだ」

「必要だな。……例えば、魔法使いは常に神様とパイプが繋がってる訳じゃない。呪文を唱える事で力が通るパイプを作るんだ。だから」

 ヴァーンはチキの前に両手を挙げて、両方の人差し指を立てて見せた。

「二つ以上の魔法を同時に使う事は、実はかなり難しい。呪文の数だけパイプを作る。それを維持して魔法の発動まで暴発させることなく抑え、ここぞと言う時に使う。魔法が三つ四つと増えれば、勿論それだけ難度は上がる」

 ヴァーンは指を三本、四本と立てていく。

「ほれ、お前に仮死と蘇生の魔法を掛けた時があったろ? あれも、仮死の魔法を右に、蘇生の魔法を左に溜めて、『発』って合図で時間差をなるべく作らない様に連発させる方法だ。クレイの奴はそんな知識はなかったようだが、同時に死なせて生き返らせろ、なんて注文をしてくれたんだ。俺なら何でも出来ると思いやがって」

「……それだけど」

 うん? とヴァーンは眉を上げる。

「クレイが……おいら、あんなだったから、見間違ってるかもしれないんだけど、呪文無しで、魔法を使わなかった?」

「……ああ」

 あれか、とヴァーンは口を曲げる。ちょっと考えて、あれなあ、と頭を掻いた。

「……どう考えても、魔法じゃないな。俺達が定義する魔法、って意味だが」

「魔法じゃないの?」

 だから呪文がない、とヴァーンは言う。

「さっきも言った通り、魔法は呪文で神様とのパイプを作って、神様の力を貸してもらう作業がいるんだ。奴が言ったのは『令』、『隷』。俺の『発』と似てるようだが、根本的に違う。万一魔法だとしても、天地神に随するものじゃない……まあ、奴の神様は兄神らしいが」

 信じてないって言ってたけどな、とヴァーンは四角い顎を摩る。

「『令(命ずる)』で『隷(従え)』だもんな。ありゃ神様の言葉だぜ」

 ナークレイってのは、太っ腹な神様なのかもな。茶化したのか本気なのか。ヴァーンは天地神への祈りを捧げた後に、兄神への祈りのポーズを取って見せた。

 チキは、クレイがしてくれた祈りを思い出して、そっと自分の胸に手を触れた。

「もう失われちまってるが、昔は兄神に随する魔法使いも、いたかもしれないな」

「……じゃあ、クレイも魔法使いかも」

 チキは本で呼んだ知識を組み立ててみる。

「北方の国には父神に随する魔法使いがまだ多いって書いてあったし、神降ろしをする魔法使いも多いって。もしかしたら兄神も」

 いや、とヴァーンは腕を組む。

「それにしたって、神を降ろす道がいる。自分の意識をすっ飛ばすくらいの、通常の魔法よりもかなり太いパイプがな。第一、魔法は知識無しには使えない。クレイは魔法の知識は殆どゼロだ」

 成る程神降ろしか、とヴァーンは腕を組んだまま、チキの顔をまじまじと見た。

「お前、神降ろしに向いてるかもな。そのうち修業してみるか」

「え?」

 チキはぽかんとして、それから慌てて瞬いた。

「か、神様を降ろすの? おいらに?」

「そのうちだ、そのうち」

 ヴァーンは軽く請け合って歩いて行く。チキはそれを追い掛けて、二人並んで寺院の敷地を出た。

「ヴァーンの用事はどうだった?」

「ああ。魔物情報は変化無しだ。行き先はこのまま、国境のメミザに行くぞ」

 南の隣国スイレーンとの国境に魔物が出るという噂がある。クレイもその話を聞いたなら、向かっているはずだ。

 ここに来るまでも、チキとヴァーンは魔物の噂を辿って来た。黒髪の剣売りを見たという話は、少なからず聞けたのだ。

 尤も、それが最近の事でなく、何十年も前の話だったりするのもあったのだが。

「ハンナは、何て?」

 チキはにこにこと尋ねる。ヴァーンは口をひん曲げたが、それは照れ隠しだ。ヴァーンがクレイを追い掛けるのは、どうやら寺院の要請もあるようで、それでこうして行く先々で寺院と連絡を取っているのだけれど、それを知ったハンナが、ヴァーンとの伝言板代わりにディーン叔父を通して使っているのだ。困ったもんだ、などと言っているが、ヴァーンも嬉しいに違いないのだ。

「……あーチキも元気か、って」

「それはいつもだろ」

 チキは笑う。「兄様大好き、もいつもだし」

「……弟子が師匠をからかうと、こうだ!」

 ヴァーンは怒鳴り、チキに歩を合わせるのを止めて、ざかざかと先に歩いて行った。チキは走って追いながら、「返事はなんて出したのー?」と尋ねた。




 国境の町メミザは、広い河の大きな大きな中州の上に出来た水の豊かな町である。隣国スイレーンとの国境でもある河幅はとても広いので、メミザはスイレーンとの国交の拠点にもなっている。

 メミザへ渡る船を待ちながら、チキは心地良く湿った風を肺一杯に吸い込んだ。

「おいらのいた村より随分あったかい。季節もあるんだろうけど」

「大分南に来たからな。国の最南じゃねえが、メミザの先はスイレーンだ」

 ヴァーンは今朝から上着を脱いでいる。チキも服の長袖を捲っている。メミザに着いたら服を買ってやるよ、とヴァーンは言ってくれたが、そこまでは甘えられないと、チキは断わった。村を出る時に爺さん達が持たせてくれた旅費はとうに底をついた。宿代や食費はヴァーンが持ってくれているのである。気にするこたあねえのにとヴァーンは言うが、幾らヴァーンの家が裕福でも、魔法も無償で教えてもらっているのに、これ以上はさすがに気が引ける。

 まあ、チキが着ている服は、村の兄さんからお下がりでもらった、丈夫で動き易いのが取り柄の男物なのだから、体に丸みも出て来た事だし、ここらで女物を着ろよ、とヴァーンは言っているのかもしれなかった。それはチキも、女物の服を着てみたくない訳ではなかったのだけれど。

 桟橋で順番を待つ乗客の列を眺めて、チキは呟く。

「南かあ……」

「ん?」

「クレイの生まれた国に近付いてるのかな、って。……もう、滅んでるんだろうけど」

 ああ、とヴァーンは自分の荷物の上に腰かける。

「スガルダ国か。正確な場所を記した物は残ってないみたいだからな。……どうやら唯一の生き証人の記憶もあやふやだしな」

 惚けが始まってるぞ、あの爺いは、とヴァーンは口の悪い事を言う。ひどいなあ、と文句を言うと、そうじゃねえか、とヴァーンは言い募った。

「自分の年も憶えてねえから、国が滅んだ年もわからねえ。それがわかれば、文献に一行書き足す事が出来るってのによ。お前の村にいた爺さんは、自分の年を忘れていたか?」

「そりゃ……そうだけど」

 じゃあやっぱりあの本にあった五歳の息子が。

 チキは南の方を見やる。ゆったりと流れる河の水が、きらきらと光っている。

 こんなにのんびりと気持ちのいい南の国で、昔、恐ろしい出来事があったのだ。

「……ほんとに魔物が出るのかな?」

 チキは口に出して、寺院の魔物情報を疑ってみる。出るのだろう。寺院の真ん中にも魔物は出るのだ。

「……? 様子がおかしいな」

 ヴァーンは呟いて、荷物から腰を上げた。順番待ちの桟橋の客達が、騒々とし始める。ヴァーンは桟橋の方へ、並んでいる人々を追い抜いて駆けていく。チキはヴァーンが尻に敷いていた荷物を抱えて、追い掛けた。

 桟橋の突端で、船は出るばかりになっていたが、船頭は乗ろうとする客を制している。

「先の便で河に落ちた客が上がって来ない。少し待っててくれ」

 成る程、人命救助に船を出そうというのだ。目を凝らすと、向こう岸からも客を乗せない船が一艘、こちらにやって来る所だ。

 その向こうから来た船が、ぐらりと横に大きく揺れた。ざわっと待たされた客達がどよめく。

 危ない、とチキが息を飲んだ時、ヴァーンは目を眇めて呟いた。

「いたぞ、惚け爺いが」

 船が揺れたのは、人が船縁を掴んだからだ。揺れる船を船頭が抑える間に、その人は水の中から船上へと姿を現した。遠目にもわかる黒い髪。彼は手に長い物を二本持っている。きっとあれは剣。そのうちの一本には柄がない。

 桟橋の客達が喜びの声を上げる。船便は再開され、ずぶ濡れの客を一人乗せた船は、向こう岸へと戻って行った。

 ヴァーンはブツブツと呟いて、小さく人差し指を振った。

「……何したの?」

「伝言を送ったのさ。待ってろ、ってな」

 ヴァーンとチキは乗船待ちの列に並び直したが、この間にまた少し列は伸びていて、向こう岸に渡れたのは、その後こちら岸で船が三回出航の合図を鳴らしてからだった。

 船を下りて船着き場を一巡する間に、船が揺れて子供が落ちそうになったのだと話を聞いた。子供を庇って剣売りは落ちたのだと。船を揺らしたのは、おそらく魔物だ。誰もそれに気付いてないのだろう。だから船便は何事もなかったように再開されている。

 人の流れから外れた隅に、クレイはいた。

 子供連れの男が頻りにクレイに頭を下げながら、タオルを押し付けようとしている。クレイはずぶ濡れのまま男に断わり続けて、こちらに気付いた。

「……連れだ」

 一言呟き、それ切り引き止める男もありがとうと叫ぶ子供も無視して、ヴァーンとチキの前にやって来た。

「……待っていろと言うから逃げられなかった」

 そして最初にヴァーンに文句を言った。

「水も滴るいい男だな。タオルぐらい受け取りゃあいいだろ」

「タオルの中に金が入っている」

「はーん」

 はい、とチキは船の中から準備していたタオルをクレイに差し出した。クレイは、ああ、と受け取って顔を拭く。

「で? 仕入れた剣は?」

「迷惑料代わりに船頭に渡した」

「……そーすか」

 相変わらず商売っ気のねえ奴だ、とヴァーンは呆れる。魔物から子供を守ってもらった男からの礼も受け取らず、仕入れた剣もただで手放して、自分は荷ごと濡れ鼠になっている。

「まずは宿屋か服屋だな」

 ヴァーンは仕切って、さっさと先頭を歩き出した。クレイは黙ってそれに続く。チキは濡れた姿のクレイを暫く見詰めて、やはり黙ってついて行った。

 ふと、クレイが立ち止まった。チキを振り返り、口を開く。

「……済まなかった」

 チキは目を見開く。何かが急に込み上げて来て、堪えながら首を横に振った。

「……ううん、ううん」

 チキは笑って、腕を広げた。

「どうかな、おいら随分健康になっただろ、その……ありがとうクレイ。クレイに会わなかったら、おいらきっと死んでた」

「……俺に会わなかったら魔物を封じられる事もなかったんだぞ」

「そしたらおいら、村の皆と赤ん坊の時に魔物に殺されてた、だから、」

 ありがと、と言った。クレイは瞬いて、静かに応えた。

「……そうか」

 チキが泣きそうになったのを、ヴァーンもクレイも気付いたろうか。

 振り向いて見ていたヴァーンが、促した。

「ほれ、いくらあったかいからって、ぐずぐずしてちゃ風邪引くぜ」

 船着き場から町へ出る人の流れに乗る。前を行くクレイの濡れた袋には、別れた時より剣の数が増えていた。

 魔物を、追い掛けているのだ。もう、何年も、何年も。

 メミザは暖かかった。布の厚い服ではうっすらと汗をかくくらい。それでチキは、クレイが風邪を引くかもという心配をしなくて済んだのだが、さすがに濡れた姿で町を歩いている人間は他になかったので、いつも以上に人目を引いた。こちらを向いて囁き合っている人達は笑顔で「ほら、きっと子供を助けた剣売りだよ」と、こちらの袖も引きかねない勢いだ。なのでチキ達は、是も非もなく、一番最初に見付けた服屋の扉を潜った。

 ヴァーンはチキとクレイの肩を押して、この二人に合う物を出してやってくれ、と注文した。いらっしゃませ、とこちらを向いた女店員達は目を輝かせて、チキとクレイを取り囲んだ。

「まあ、可愛らしいお嬢さん、こんな男物なんか着てちゃいけませんわ」

「ずぶ濡れですのね、タオルを、ああ、何をお出ししましょう、何でも似合いそう」

 クレイとチキの服を今にも剥ぎ取りそうな勢いで、二人別々に連れて行かれる。

 ヴァーンは面白そうに眺めていて、助けてくれない。チキは店員三人に押され引かれて小部屋に連れ込まれ、とうとう着ている物を剥がれてしまった。

「薄手の物にしましょうね。色は何がいいかしら」

「アクセサリも付けましょうね」

「ええ? おいら、そんな……」

 あら、と店員三人が声を揃える。

「きっとお似合いですよ、そんなにお可愛らしいのに」

 嘘だ、と言われた事のない言葉に戸惑っているうちに、綺麗な色の服が幾枚も持ち込まれ、あれやこれやと着せ替えられて、髪や耳やも飾られた。

 ハンナが身に着けたら、さぞかし似合うだろう、と思う柔らかい黄色のドレス。それより少し濃いオレンジの耳飾りと、同じ色の髪飾りは高い位置で髪を束ねるリボン。足元はドレスと同じ色の華奢な靴。

 チキは胸がどきどきして、何か叫び出してしまいそうだった。

「さ、とてもお似合いですよ」

 満足そうに笑う店員が、チキを小部屋から出そうとする。しかしチキにはそこを出る勇気がなかった。

「……あの、やっぱり、もっと、その、」

「……お気に召しませんか?」

 そんなことないけど、とチキは俯く。

「お連れの方に見て頂きましょう」

 店員はチキの手を引いて、小部屋を出た。何だか、上手く歩けない。こんな小さな靴は履いた事がない。こんなに裾がひらひらする服も初めて身に着けた。何だか頼りなくて、似合わないと思うのに、見てもらいたくて、恥ずかしくていつもの服に着替えたいのに、とても興奮している。

 ヴァーンが、まずチキを見付けて「おお」と声を上げた。

 隣にはクレイが、濡れた髪も乾かされて、薄い水色のシャツと若草色のズボンを着けて立っている。いつもの服が乾くまでのつもりなのだろう。シャツのボタンが洒落ているのが、店員の努力の跡かもしれない。

 ヴァーンは腰に手を当てて、うんうんと頷いた。

「いいじゃねえか。似合うぜ、チキ!」

 クレイはチキを見ても何も言わない。チキはそれ以上そうしていられなくなって、「やっぱりやめます」と傍らの店員に告げて、小部屋へ引き返した。




 ヴァーンはクレイをじろりと睨む。

「……ったく爺いは枯れてやがるな。何か言ってやれよ」

「……ああ、そうか」

「そうかじゃねえだろ」

 ヴァーンは額に手を当てる。全くですわ、と傍らにやって来た店員が同意した。「幾ら美男子でも大減点です」と手にした袋をクレイに差し出した。

「……何だ、お前そんなに買ったのか」

 濡れた物の袋は別にある。ヴァーンは、もしや、と思いクレイの手から引ったくった袋を覗き込んだ。だがそれは男物で、チキへの贈り物でないのは明らかだ。

「……なんだこりゃ」

 怪訝にヴァーンは問う。俺のだ、とクレイは答えるだけだ。

 そうするうちに、チキが橙色のワンピースを着て現れた。

「……すっきりしちまったな」

 ヴァーンの感想に、うん、とチキは頷く。

「やっぱりおいら、あんまり、ああいうのは似合わないから。……でも、スカートなんて初めてなんだよ、照れちゃうね」

 チキは指で頬を掻く。ヴァーンはこっそり、クレイの横腹を肘で突く。

 クレイはじっとチキを眺めて、「さっきの」と口を開いた。

「リボンを着ければいい。その服に合う」

 チキは瞬く。頬を染める。

「……そう、かな」

 ああ、とクレイは頷いた。ヴァーンは笑って、頼むわ店員さん、とリボンを注文した。






 クレイはメミザを素通りすると言った。すぐにスイレーンに入るつもりらしい。河の魔物はどうする、とヴァーンは尋いた。

「河には魔物がうじゃうじゃいる。住処になってるんじゃねえのか?」

「小物ばかりだ。ぬしはスイレーンにいる」

 ヴァーンは目を見開く。ほんとか? と疑っている。

「お前が言うならそうなんだろうが……スイレーンのどこだ、それらしいのはちっとも臭わねえぞ」

 主なら、相当の臭いがするはずだ、とヴァーンは主張する。クレイはそれには答えず、「チャルダの『跡』はどうなった」と違う事を尋いた。

「……ああ、拝観を昼間に限って、後は変わらずやってるそうだ」

「……そうか。縄張りは『空き』か」

 ヴァーンは目を眇める。

「……おい。そりゃ、スイレーンの主が、今は不在だってことか?」

 さてな、とクレイは荷を下ろす。

「だが気配は感じる。……俺にはわかる」

 待っているからさっさと行って来い、とクレイはヴァーンを追い払った。メミザ寺院前の大通り、街路樹の下に点々と並ぶ切り株の一つにクレイは腰を下ろす。昔メミザが洪水でやられた時に、ここの街路樹は町の復興の為に、一度切り出されたのである。この土地を捨てる訳には行かなかった人々が植え直した街路樹が、今は青々と茂っている。

「チキは来るか?」

 ヴァーンに尋ねられ、チキは迷った。寺院の図書館で本を読むのも魅力だが、クレイと二人、木の下で時間を過ごすのも替え難い。するとクレイは、行って来い、と木に寄り掛かって目を閉じた。少し寝る、とそれ切り黙る。

 チキ、とヴァーンは促す。チキは瞬いて、うん、じゃあ、とヴァーンを追い掛けた。




 寺院の門を潜り、手近な僧官を捕まえて来院の理由を述べると、伺っております、とヴァーンは客室の一つに案内された。部屋に入って、ヴァーンは目を見開いた。中に、チャルダにいるはずのマンタがいたからだ。

「やあヴァーン、今朝着いたところなんだ」

 マンタはにこにこと立ち上がり、ヴァーンに寄って来る。そう言えばこいつは移動魔法が得意だったな、とヴァーンは戸の側で腕を組む。僧官を首になったら、速報せ屋をやれば儲かるに違いない。

「一つ尋いていいか?」

「うん?」

「寺院の用事で来たのか? クレイに会いに来たのか?」

 マンタは怒ろうとして、そうかクレイさんと合流出来たのか、と笑った。ヴァーンに座るよう促して、自分も元の椅子に腰かける。

「勿論用事だ。ついでにお前への伝言も預かってるけどな。メミザに行くって、お前、チガチガから連絡寄越しただろう?」

「ああ、まあ」

「このまま、スイレーンに入るのか?」

「そのつもりだ」

 そうか、とマンタは小声で呪文を唱え、右手の指を向かいの椅子に座ったヴァーンの額に当てた。

「ハンプクト上一位から預かったものだ。スイレーンの情報も多少入っている。……見えてるか?」

 鮮明だ、とヴァーンは答える。

 聞いたり見たりした文言や映像を、呪文でくるんで受け渡しする魔法である。眠っている相手に使用すると夢の形になって伝わるが、その場合、受け取り手による情報の物語化が起き易い。純粋な情報に余計な脚色が付いてしまうという弊害があるのだが、送る情報の量が多い時などは、受け取り手が眠っている時の方が成功率は上がるという魔法だ。

「スイレーンに入ったら、これまでのようには支援できない。スイレーンにも天地神教の寺院はあるが、どうもこのところ連絡が滞りがちなんだ」

「……ふーん」

 ヴァーンは僅かに口を曲げる。

 スイレーン国の中枢で顔触れが変わった訳でもなさそうだ。どんな指針の変化が起きたのか。

 頭の中に見える文書やスイレーン国王の顔などを眺めて、少なくともこの段階の情報では魔物に怯える影はない、とヴァーンは思う。

 魔物は負界の生き物だ。神世の時代から定められた住処を越境してくる魔物はいたのだろうが、現代に住むヴァーン達には、近年特に縄張りを広げようとやって来る魔物が頻繁に現れているように思われるのだ。人間の数が増えたように、魔物も増えたのかも知れない。バルダ国の寺院は、人間の縄張りを魔物から守ろうという共通の見解の上に立ち、天地神の名の下に国を越えて手を携えようと他国の寺院にも呼びかけている。スイレーン国の寺院は、大勢たいせいが天地神教で、ガルダ国の寺院の呼びかけにも、良く応じていたと記憶している。

(宗教紛争でも起きたか?)

 しかしそんな話は聞こえて来ない。

 ああ、後は、とマンタは新たに呪文を唱える。

「ハンナお嬢さんからの伝言だ」

 急に頭の中に広がったハンナの可愛らしい笑顔に、ヴァーンはげふんげふんと咳き込んだ。

「返事はどうする?」

 マンタは面白そうに笑って催促をする。




 いつものようにヴァーンの口利きで図書館に入ったチキは、なるべく古い文献を見せて下さいと頼んだのだが、生憎メミザは一度洪水で流されたので、余り古い物は残っていないのだと係の僧官は言った。メミザには魔法学校もないので、学生が勉強するような本は殆ど置いていないのだという。

 チキが少しがっかりしていると、熱心だね、学生さんかな、と話し掛けて来る禿頭の男がいた。

「修業中のいい匂いがするね。ここから一番近いのは……カラーサの魔法学校から?」

 チキがいいえと首を振る前に、僧官が「ヴァーン・ハンプクトのお弟子だそうですよ」と答えた。禿頭の男は、ほう! と声を上げた。チキの師匠は、実際魔法関係者の間では有名人だ。

「ヴァーン・ハンプクトが来てるのか! ではクレイと言う剣売りも?」

 僧官はクレイが誰だかわからない顔をして首を傾げた。チキには、尋ねた男の顔こそが熱心に見えたので、「外で、昼寝を」と教えたが、男はそれを聞くなり図書館を出て行った。

 チキはその後本を一冊手に取ったが、気も漫ろで、クレイとは? という僧官の問にも、剣売りです、としか答えなかった。

 やはりクレイの所に戻ろう、とチキが席を立った時に、図書館にヴァーンとマンタは入って来た。

「ヴァーン……あれっ」

 今日は、とマンタは笑顔で挨拶する。チキもマンタに頭を下げて、早かったね、とヴァーンを見上げた。

「おう。マンタのお蔭でさっさと済んだ。文書や感度の悪い玉でちまちまやり取りしなくていいからな」

 移動と送受像が上手い奴は便利だ、とマンタを叩く。

「あのね、ヴァーン、さっき……」

 禿頭の男の話をすると、ヴァーンは片眉を上げて、ふうん? と四角い顎を摩った。

「心当たりはないが……まあ、俺は有名だからな。クレイも知ってる風か……」

 とにかくクレイの所へ戻ろう、と三人で大通りに出ると、クレイは影の長くなった街路樹の下で、別れた時のまま、木に凭れて寝ている。見回したが、チキに話し掛けた禿頭の男は見えなかった。

「おい、クレイ」

 ヴァーンは歩み寄って声を掛ける。するとクレイは、ばっと目を開けて一方を見る。その方角にいたマンタは「え?」と瞬き慌てたが、どうやらクレイが見ているのはマンタではない。それに気付いて、マンタも自分の後ろを振り向いた。

「……なんだ?」

 ヴァーンもクレイの見る方を眺める。

「……いや」

 クレイは立ち上がって荷を背負った。

「何でもない。済んだなら、行こう」

 待て待て、とヴァーン。マンタの肩を掴んで、ずい、とクレイの前に押し出した。

「何か月か振りの友人に一言ないか」

「……」

「ヴァ、ヴァーン、いいんだ」

「よかあない。お前もこいつの友達なら、こいつのリハビリに付き合え」

 マンタは赤くなって、付き合えって、とおろおろしている。クレイは瞬き、無表情にヴァーンを見た。ヴァーンは口をへの字に曲げる。

「困ったなら困ったって顔しろ。やあ、とか久し振り、でいいんだよ。お前、俺にもチキにも挨拶なしだろ」

 こちらも挨拶らしい挨拶はしなかったように思うが、この際ヴァーンは、そんなことはとっくに棚の上なのだろう。

 知り合いに会ったら挨拶するんだ、とヴァーンに決め付けられ、クレイはマンタに向き直り口を開く。

「……やあ、久し振り」

 言われたマンタは恐縮して、こちらこそお久し振りです、と頭を下げる。ヴァーンは厳格な教師よろしく生真面目な顔を作ってチキを見た。

「チキ。今のは何点だ?」

「……うーん、七十点」

「おい、そりゃ随分甘かねえか?」

「だって」

 チキは緩む口元に手を当てる。

「……面白かったからいいか」

 ヴァーンも頭に手をやって、その後お元気でしたか、ああ、などという子供の教科書に載りそうなマンタとクレイの会話を眺めていた。

「そうだよ知り合いといやあ、禿げ男がな」

 ヴァーンはチキの図書館での話をクレイに伝える。

 クレイは目を眇め、先程起きしなに眺めた方向を見た。

「……成る程、知り合いに会ったら挨拶するんだな」

「あ?」

 心当たりがあるのか、とヴァーンは尋ねる。

「ある。多分、俺の旧知だ」

「旧知? お前の寝顔を見るだけで帰った奴は昔から禿だったのか」

「知らん」

「知らんて、知り合いなんだろ」

「ああ」

 人間じゃないがな、とクレイは付け足す。

「―――」

 ヴァーンは、ぐっと眉を寄せた。

「おい、そりゃあ……」

 マンタは息を飲み、天地神への祈りを捧げる。

 チキ、とヴァーンはチキの顔を覗き込む。

「お前、何もされなかっただろうな? 気配はなかったのか」

「……うん、なにも」

 変調は感じない。ヴァーンもチキに異常は見付けられないようだ。

 見に来ただけだ、とクレイは言った。

「向こうが何かするまで気付かない……そういう魔物もいる」

 臭わない奴もいるんだ、とクレイは船着き場に向けて歩き出した。ヴァーンはその背中に問い掛ける。

「そいつはまさか、スイレーンの主か?」

 クレイは答えない。代わりに、もうすぐ逢える、と呟いた。先を歩くクレイの背中が、ぶるりと震えた。




 マンタは、メミザからスイレーンに向かう船にいつまでも手を振っていた。今日中にチャルダに帰るのでなければ、一緒に船に乗り込んだに違いない。

 船は国境をあっさりと越えて、スイレーンの入口、セイフロに着いた。

 船着き場に出入りする時に寺院発行の旅券を見せる。それだけで二国の間を行き来出来るのは、天地神教寺院の働きの成果だ。

「どうだ? 国外旅行も楽になっただろ?」

 船着き場から出ながら、ヴァーンはクレイに笑い掛けた。

「……一時期よりはそうだな。もっと昔は、ここに国境はなかった」

 ヴァーンは口の端を思い切り下げて、くそ爺い、と罵った。チキはくすくすと笑いを殺す。

 スイレーンは西から南に大きな山脈が連なっている。なので、町は殆ど北……バルダ国側に固まっていた。バルダ以外の隣国とは山脈を挟んでいるせいもあって、バルダとの国交は昔から盛んだった。寺院同士のパイプも強くなる道理である。

 セイフロの町に入ると、夕闇の迫る視界の右端に寺院の丸屋根、左寄り中央に王宮の尖塔が見えた。セイフロを挟んで、どちらも隣町に建っている。均一な町並みに、にょっきと突き出ているのはその二つ切りだ。

 手近な宿屋に部屋を取って……此の度は三人とも一人部屋に泊まる事が出来た……荷物を置いたら食事にしよう、ということになった。

 宿屋の中に構えられた食堂は酒場も兼ねていて、後は寝るだけと決めた泊まり客達が、早速朱に顔を染めている。夕飯には少し早い時間か、テーブルにはまだ空きがあった。

「そういやお前は酒を飲まんな」

 席に着いたヴァーンは酔漢達をちらりと見て、目の前の椅子に座ったクレイに尋いた。

「下戸か?」

「いや……」

 丸テーブルのヴァーンとクレイの間の椅子に収まったチキに、女給が品書きを持って来た。

「酒は飲まないようにしている。絡んでくる人間が激増するんでな」

 クレイの返事に、ヴァーンは口の端を下げた。

「……そりゃ賢明だ」

 酒は止そう、とヴァーンは品書きを手に取った。

「飲む気だったの? 寺院へは?」

「明日だ明日。今からじゃ夜中になる」

 ヴァーンは面倒臭そうに手を振って、二つの肉料理のどちらを選ぶかに真剣だ。

「……そうだな、夜中になるな」

 言うとクレイは立ち上がった。

「おい、飯は?」

「出掛けて来る……ヴァーン、チキを一人にするな」

 クレイの言葉の後半は、聞き取れない程小声だった。ヴァーンは片眉を上げる。

「……狩りか?」

 釣りだ、とクレイは答える。

「おい、待て俺も」

「奴はお前もチキも憶えたぞ」

「……」

 わかった、行って来い、とヴァーンは言った。先に寝ていろ、とクレイは食堂を出て行く。

「……どこに行ったの?」

 チキの尋ねる声は不安な響きを含んでいた。ヴァーンは笑って、よしお前はこっちの肉料理にしろ、俺はこっちだ、と勝手に決めて、おーい姐さん、と女給を呼んだ。




 公務はとうに終わった時間だった。しかし雑務はまだまだ残っている。大臣職は楽ではない。国をぐるりと囲む峻険な山脈と広い河のお蔭で、建国以来侵略を受けた事のない国の王は鷹揚だった。隣国バルダの王は鋭敏だと聞く。いやそれでも、大臣職が多忙である事に変わりはなかっただろうが。

 王宮から私邸に帰っても仕事は続く。続けなければ、明日熟す雑務がまた増える。

 ナムカンは大きく溜め息を吐いた。今日も家の扉を開けるのは夜中だ。朝出掛けに家を振り返って見る余裕などないナムカンは、もう随分自分の家の外観を見ていない。屋根の色など、思い出せなくなって久しい。

 せめて今日は、月明かりが美しいのが慰めだ。

 このような月の晩には、思い出す。ナムカンは懐に仕舞ってある物に着物の上から手を当てた。

 がさりと、門の脇の植え込みから草を踏む音がした。ぎくりと振り向き、誰だと問うた。この頃魔物が出ると聞く。ナムカンは冷たい汗をかいた。

 現れたのは、

 美しい想い出だった。

「斯様な夜中に失礼仕ります」

 夢か。でなければ月の見せた魔法だ。そこに立っているのは、想い出の中の美しい剣売りだ。いや想い出と違うのは、簡素ながらもスイレーンの訪問着を着ている。また何とその美しい事。

 ナムカンは茫然と呟く。

「……これは夢か?」

「スイレーンを通る際は必ず立ち寄れとの仰せでしたので」

 言った。確かに。だがあれは二十年も昔……剣売りは変わらず美しい。

「失礼に当たらぬようにとこの国の衣装で参りましたが、こう暗くては余り意味もありませんでしたか。ご不在のようでしたので外でお待ちしておりました……こちらの剣を」

 どうぞ、と剣売りは剣を一振り差し出した。豪奢な飾りなどない簡素な剣。それをこの剣売りが持つとどうしてこうも美しいのだろう。

 ナムカンは早口で、家に入るようにとまくし立てた。幻が消えて仕舞わぬ内に、自分の縄張りに招き入れようと思った。

 剣売りは後をついて来た。主人の帰りを待っていた使用人に人払いを命じて、自室へと招いた。自ら部屋に灯りを点けて、お前から買った短剣はいつもここに持っている、と懐から出して見せた。長剣はさあ、あそこにある、と部屋の壁を示した。剣売りは表情も変えず、ただ軽く頭を下げた。

「――魔物が化けているとは、思われませんでしたか」

 剣売りは尋ねた。ナムカンはどきりとした。魔物なのか? と問うと、人ですよ、と剣売りは言った。緊張の反動でナムカンは笑った。近頃、王宮内でも人に化ける魔物の話を聞く。先日も一人の大臣が一時に二箇所で目撃されて、騒ぎになったのだ、と話す。

 剣売りはそうですか、と相槌を打つ。

 大臣の中にも、魔物を敬えば、神の代わりに我々を守ってくれるのだ、そうすれば恐ろしいと思う騒ぎも消える、という輩もいる始末だ、と……目の前の剣売りの瞳を覗き込んだ。

 魔物か、そうか魔物かもしれないな、とナムカンは思った。魔物でもいい、と願った。月が消えてこの剣売りが消えるなら、夜など明けぬがいい。美しい魔物の為に、永遠の夜を。ナムカンは知らず、懐の短剣を掴んでいた。多忙に疲弊するばかりの年月を守り神のように救い続けて来てくれたのは懐の剣だ。幻のように美しい想い出だ。また再び、こうして目の前に立ち現れるとはもう信じていなかった。剣売りに、ここに留まれ、と懇願した。その為なら、魂などいくらでもくれてやると。

 口にせぬがいいですよ、と剣売りは言った。

 魅入られてしまいます。

 魅入られるというなら、とうに魅入られているのだ。この剣を買った、あの時に。

 何故引き止めもせず帰してしまったのか、ずっと悔やまれた。せめて一晩なりと飲み明かしてでもいれば、こうまで拘泥しなかったものを。

 拘泥していない振りをし続けたのだ。大臣職はそれは忙しく、ふとした暇に剣に触れる事くらいしか出来ない。

 ――剣に触れる時、この剣売りに触れるつもりではいなかったか。

 悔いていたのは酒を飲まなかった事か。

 今またこのまま帰すくらいなら。

 いっそ、この剣売りと溶け合って仕舞えたら、どんなにか心地良い事だろう。――

「……帰さぬ」

 ナムカンは自分の口から洩れる声を聞いた。

「……帰さぬ。良い度胸だ、良くやって来た剣売りめ」

 手に持つ短剣を剣売りの胸に突き付けた。ニタリと笑う。

「望み通りに食ってやろう……息を止めるのは最期が良いか?」

 はて、どこまでが自分の望みで自分の声だろう。ナムカンは、しかし疑問をいつまでも持ち続けはしなかった。得も言われぬ悦楽に頭が蕩けて、何もわからなくなってしまったからだ。最後に目と耳に届いたのは、短剣を振り回す自分の腕と、キャーッと甲高い使用人の声だった。




 隣の部屋の主が帰って来たのを音で知ったヴァーンは、さっとベッドから起き上がった。真夜中だ。なるべく音を立てぬように廊下に出て、隣の戸を開けた。そっと声を掛ける。

「……クレイ」

 部屋の中は暗い。窓の外の木立が月明かりを邪魔している。クレイはベッドの上にまだ魔の臭いがする短い剣を放り、左手の手袋を外す所だった。

「……ああ。起こしたか」

 すまない、とクレイは謝る。入るぞ、とヴァーンは中に入る。クレイの格好に気が付いた。メミザの服屋で買った小綺麗な衣装だ。

「何が釣れたんだ?」

 小物だ、とクレイは答える。服を脱いでベッドに放る。良く見ると服は汚れている。

「チキは?」

「寝てる。異常はない」

 そうか、とクレイはいつもの枯れ草色のシャツを着る。

「どこに行ってた?」

「大臣の家だ。王宮の情報を取るつもりだった」

 革のチョッキは着けずに、ベッドに腰掛ける。ぶるっと震えた。

「夜風で冷えたか?」

「逢えると思うと体が震える」

 ヴァーンは瞬き、眉を寄せる。

 王宮なかにいる、とクレイは言う。

 クレイを食った魔物。それがスイレーンの主と同じという事か。クレイが捜し続けた、憎いかたき

「奴なら俺に反応すると思った。案の定だったが、来たのは使い魔……子飼いの魔物だ。奴の体の一部ですらない」

 クレイは自分の肩を抱く。首を傾げ、ゆっくりと頭を振って、独り言のように呟いた。

「そうだ、俺は逢いたいんだ。やっと逢える……間違いでなければいい」

 そしてまた、ぶるっと震える。

 ヴァーンはそっと部屋を出て、自分の部屋に戻った。荷をごそごそと漁って、小さな瓶を取り出す。再びクレイの部屋に戻ると、ベッドに座るクレイの前まで進み出た。

「酒でも?」

 手の瓶を振る。クレイは見上げて、頷いた。

「……もらおう」

 瓶から直接酒を飲む。ヴァーンはクレイの横に腰を下ろしてクレイが瓶をあおる様を見ていたが、そのまま全部行くんじゃないだろうな、と心配になる勢いだった。ちゃぽん、とヴァーンの手に返された瓶には、まだ半分程取り分が残っていた。

「……イケる口だな」

「そうか? 人と飲み比べた事はないが」

 飲まれる前に飲むぜ、とヴァーンは残りの酒を一息にあおった。空の酒瓶を下ろすと、クレイが興味深そうにヴァーンを見ていた。

「……なんだ?」

「いや、人が飲む所をじっくり見るのは初めてだ」

 そうかい、と言うとそうだ、とクレイは頷く。もう酔いが回って来たのか、目元がほんのりと赤くなり、こちらを見る目付きも酔っ払い独特の絡み付くような視線である。

(……いかんいかんいかん)

 つい見詰め返して、ヴァーンは空の酒瓶を確かめる振りをした。

「空だろう」

「……空だな」

「……何十年振りに飲んだからな」

 自分に言い訳するように、クレイはベッドに手を着いた。ふらつくのだろう。酔いの回りが早い。かと思うと、急にくっくっと笑い出した。ヴァーンは驚いてまた見詰める。

「ふ……ふふっ……」

 込み上げる笑いに体を揺すっている。

「おっ何だ、笑い上戸か?」

 ヴァーンも釣られて声が笑った。

 さあ、どうだったか、とクレイは笑う。

「どうだったかって、笑ってるじゃねえか」

「ああ、もうじき終わる」

 そう思うと、とクレイは笑う。

「……」

 ヴァーンはクレイの肩を掴み、笑いに揺れる体を起こした。

「おい。クレイ」

 クレイは笑ったまま、顔をヴァーンに向ける。こいつの笑っている顔をこんなに長く見るのは初めてだ。

 なのに、畜生。嬉しくない。

「忘れるなよ。俺がいる。チキもいる。少なくとも、お前のすぐ近くで人が二人泣く」

 死ぬなよ。と、囁いた。

 クレイは薄く笑って、何も言わずに、ヴァーンの肩に頭をとん、と乗せた。

「クレイ?」

 あっと言う間に寝息を立てる。

「寝たのか……」

 せめて朝までの安眠を守りたかった。チキの部屋に施したと同じ結界を、この部屋にも張る。ヴァーンにとって寝酒にもならない量だったが、クレイをベッドに横たえて、自分も部屋のベッドに潜って、眠る努力をした。




 朝になってみると、クレイはお尋ね者になっていた。

「……どういうことだ」

 クレイを叩き起こしたヴァーンに、クレイはいつもの顔で、さあ、と述べる。

「屋敷の使用人に見られたのは、大臣が取り憑かれて短剣を振り回している所だったと思ったが」

 俺が物取りで大臣が立ち向かっている、と思ったかもしれんな。クレイの推測をヴァーンは打ち消す。

「じゃあなんで容疑が『大臣の殺害』なんだ?」

 死んだのか、とクレイ。知らなかったようだ。

「俺あ用足しに起きた所を宿の女将に尋かれてびっくりしたぜ。『背の高い黒髪の男が大臣を殺したそうだ。あんたの連れにもそういうのがいるね』俺は一緒に酒飲んでました、つったよ」

 言葉は足りないが、嘘じゃない。

「そうか……殺されたのでなければ、自殺だろう」

「自殺?」

「突然の自分の堕落に、通常の人間は耐えられない」

「……ああ」

 魔物が落ちて、正気に戻った後の事だ。チャルダ寺院の大司祭も自殺を企んだ。魔物を落とさないでいてやる方が親切かといえば、そうも行かないのだから仕方がない。

「……殺されたってのは?」

「魔物が俺に化けたんだろう」

 俺の動きを封じるつもりだ。クレイは淡々と分析する。夕べの酔っ払いの影はどこにもない。

 トントン、とノックの後にチキの顔が戸から覗いた。

「入っていい?」

 おう、入れ、とクレイの部屋なのに許可はヴァーンが出す。「怖い話を聞いたから……」とチキはおずおずと戸を開ける。ヴァーンはきっぱり「クレイじゃねえ」と断言した。チキは「そうだね……そうだよね」と笑った。

「……さて、となるとのんびりもしてられねえな」

 ヴァーンは首を左右に曲げる。ああ、とクレイは立ち上がる。

「移動した方がいい」

「王都……サレーンに行くか!」

「寺院は?」

 チキに問われて、ヴァーンは口の片端を捩じる。

「そうだな……もしかしたら連絡があるかも……」

 考えて、いや、と首を振った。

「主の魔物は手強そうだ。寺院に手が回ってたら目も当てられねえ」

 そっか、とチキも得心した。とにかく手が回る前に町を出るぞ、とヴァーンの号令で、荷物を取りに各部屋に散った。




 セイフロとサレーンの境界にはヴァーンの背丈程の壁があって、検問により王宮を構える都への犯罪者の流入を防いでいた。

「こんなもんがあっても、魔物にゃ関係ねえのになあ」

 などとヴァーンが言うので、ないよりましだろ、とチキは縁もゆかりもないスイレーンを庇った。けれどそのお蔭で今は自分達が検問に引っ掛かっても面白くない訳で、ヴァーンの魔法で姿を消して、見咎められることなくサレーン入りを果たした。

 さてまだ昼前だが、王宮近くの宿屋に入るか、それとも野営か突撃か……にしたところでチキは連れて行けないのでどこで寝たいチキ、と相談していると、聞こえるどよめきの中に魔物だ、と叫ぶ声がした。

 さっと目を見交わし三人が駆けて行くと、町中まちなかに昼間から暴れているのは確かに魔物だ。泣き叫ぶ子供が、逃げる人波に押されて転んだ。猿に似た魔物は悪戯けたように飛び跳ねて、逃げ遅れた子供に躍りかかる。先んじたのはヴァーンだった。背中の大剣を抜き、走り抜けざま猿の魔物に叩き付ける。魔物の体は真っ二つになった。チキは泣く子供を助け起こす。しかし落ちた魔物の体は、二つになっても跳ねていた。三つ、四つに斬られても変わらない。それでクレイが、左腕に手袋を嵌めた。四つの内の一つを見極めて、黒手袋をずっと埋める。鎌のような形の刃物が抜き取られた。途端、四つに別れた魔物の体は、悉く霧散した。

 わあっと人々が沸いたのは一瞬。足音高く現れた警備隊によってヴァーン、クレイ、チキが囲まれると、歓声は水を打ったようにしんと静まり、次には人々が固唾を呑む様子が感じられた。

「……おいおいおい」

 罠かよ、とヴァーンが眉を顰める。やられたな、とクレイは呟いた。三人を誘き出す為に、魔物はわざと放たれたのだ。チキは込み上げる怒りに震えて、大声で怒鳴った。

「怪我人が出たらどうするつもりだよっ!」

 全くだ、とヴァーンは頷く。隣国スイレーンのこの現状を、バルダ国で把握していたとは思えない。国に魔物が食い込んでいる。このままではスイレーンは滅ぶ。隣国の火事は人事ではない。いや、事は二国間だけの問題ではない。

 警備隊の一人が、チキから子供を取り上げた。子供はお姉ちゃん、とチキを呼んだが、三人は警備隊に囲まれて、王宮方面へ連行されて行った。






 チキは途中でクレイ、ヴァーンと離され、目隠しをされて、多分、王宮の奥へと連れて行かれた。ずっと掴まれていた腕を離され、目隠しを取られた時、チキは眩しさに目を細めた。

「やあ、お嬢さん」

 そこにいるのは、メミザの図書館でチキに話し掛けた禿頭の男。

「またお会いしたね」

 にこにこと、チキに一つ切りの椅子を勧める。部屋は狭く、床に奇妙な紋様があるだけで、他に家具はない。部屋の壁は、ぐるりと丸い。

「私は、この国の宰相だ」

 ダルダーレと言います、と名乗った。

 チキは瞬き、拳を握って尋ねた。

「……どうするつもりなんですか?」

 ダルダーレはチキに歩み寄った。チキは下がったが、すぐ後ろが閉じた扉で行き止まった。

「……うん。やはりいい匂いだ。容物としてはもってこいだね」

 ニイ、とダルダーレは笑った。チキは背中に、冷たい氷を当てられたような気がして、大きく息を吸った。




 チキと離された後、クレイとヴァーンは腕を後ろ手に戒められ目隠しをされて、下へ、下へと階段を下りた。いきなり止まったと思ったら、腕を放され、背後でガシャンと音がする。遠ざかる足音にヴァーンは怒鳴った。

「こらっ目隠し取って行きやがれっ!」

 足音以上に声は反響し、その内吸い込まれるように消えて行った。

「くそ、クレイ、いるか?」

 ああ、と声がする。少し遠い。ヴァーンは魔法を試みる。腕の縄が解けた。急いで目隠しを外し、辺りを眺めた。

 一見してわかった。石造りの地下牢だ。

「……くそっ」

 鉄格子の中には自分一人だ。クレイは別の牢の中にいるのだろう。

「おい、クレイ返事しろ。場所がわかれば何とかなる」

 ああ、とクレイは応え、次には多分靴を鳴らした。そしてもう一度、ここだと言う。

 大まかな位置はわかった。その方角に意識を凝らすと、クレイの姿が見える。距離は殆どない。牢屋が二つ三つといったところだ。

「……動くなよ!」

 呪文を唱え、次の瞬間、ヴァーンの体は移動した。

「……うわ!」

 着地したのはクレイの上だ。

「すまん! 悪い!」

 移動魔法の着地だけは、他の魔法に比べるとどうにも精度が低い。元々難しい魔法なのだが、ヴァーンは魔法全体のレベルが高いだけに、そこだけ練度が凹んでいる印象を受ける。尤も、移動魔法自体が使えない魔法使いも多いのだから、そんな凹みはヴァーンのプライドが感じるだけの話なのだが。

 重い、とクレイは文句を言った。お前に敷かれる恋人は気の毒だな、とまで言うのだから、余程重かったのだ。

「悪かったって」

 クレイを起こし、腕の縄を解いて目隠しを取った。さっと牢内に目を走らせて、剣はどこだ、とクレイは尋いた。ああ、今捜す、とヴァーンはぐるりに気を巡らせる。

「チキはわかるか?」

「……ああ、一遍に言うな」

 チキはな、と剣を捜しながらヴァーンは言う。

「やっぱり目隠しされてたんだろうな。昇ってる感じしか掴めなかった。一応追尾の呪文をかけといたんだが……駄目だな。向こうにも術使いがいる」

 そうか、とクレイ。

「……王宮内に邪法を王に唆す臣下がいる。くそ、こっちじゃねえか。……今頃はきっと、天地神教の者が企んで我が国の大臣を殺した、とか喧伝してるぞきっと。悪くすりゃ国家間、宗教間で戦争だ」

 ヴァーンはちら、とクレイを見て、ったく冷静な顔しやがって、と評した。こういう顔だ、とクレイは返す。

「そりゃ悪かった……あったッ!」

 ヴァーンは指を立てて剣を呼ぶ。ヴァーンの大剣もクレイの剣も売り物の剣も、纏めてどさりと降って来た。

「……」

「悪かった悪かった!」

 重いと言われる前に、ヴァーンは謝った。少しは役に立ってるだろうが! と主張もして。

 牢の鍵を魔法で外して……もう一度移動魔法で牢の外へ出る事も出来たのだが……鉄格子を潜って、でかい体をうん、と伸ばした。

「さて、どうする。やっぱりチキを助けるのが先決か?」

 この間のように人質に捕られたままでは遣り難い事この上ない。チキには、内緒なのだが。

「チキは任せる」

「うん?」

「あの魔物は臭いがしない。正確には、魔法使いの鼻をごまかせる位に化けることが出来る。正体を現し、襲ってくるまで魔物だと気付かない」

 正体を現さないと、襲われても魔物の仕業だと気が付かない、と言う訳だ。

「俺ならわかる」

「……」

 まあ、待て、作戦を立てよう、とヴァーンはその場に尻を下ろした。クレイは一寸眉を寄せ、ヴァーンの隣に腰を下ろす。

「いいか、問題はだ、チキの居場所が明確じゃない事、魔物の居場所が明確じゃない事。向こうにも術者がいる限り、ばらばらに動くのは賢い方法じゃない」

 クレイは俯いた。ヴァーンはだからだな、と言葉を続ける。クレイは顔を背ける。

「……おい、クレイ?」

 呼ばれて、クレイはこちらを向いた。じっとヴァーンの顔を見たかと思うと、ヴァーンの首に片腕を回し、ぐいと頭を引き寄せ、頬に手を添えて口付けた。

(なっ……)

 ヴァーンは仰天して目を見開く。

 ぬるりと口の中を嘗められた。苦味が走る。途端、ヴァーンの体は痺れた。心臓が早鐘のように打ち、目が霞む。

 これは。

 ヴァーンにはすぐに正体が知れた。クレイの薬は、体内に魔を持たない者にとっては毒になる。

 クレイはヴァーンを放して立ち上がった。ヴァーンはどさりと床に倒れる。

「ク……クレイ……」

 返事はない。剣の袋を背負って遠ざかる気配と足音がどんどん小さくなるばかりだ。

(俺を置いて行くつもりか……!)

 痺れは体の細部にまで広がって、魔法を唱える事も出来ない。唇が、舌が動かない。

(くそ! 動け!……動け!)

 必死に解毒の魔法を唱えるが、正しい呪文は紡がれない。

 畜生。

 クレイ一人で魔物退治に行ってしまう。

 ちくしょう。

 毒は致死量では有り得ない。足止め程度に調整してある。

 チクショウ!

 ――手間増やしやがって!

 ヴァーンは苦労して口の中を噛み、痛みに感覚を引き戻させようとした。

「て……んのガ……ラシア……ちの……アル……シナ……!」

 見てろよ、と震える指を一本立てる!

「……神柄、使徒に、思う者の元へ馳せ参じさせ給え……!」




 ドサッとヴァーンの体が落ちたのは大仰な広間。――倒れた頭の先には王の玉座。立派な玉座に鎮座する王は目を見開いて突如降って来たヴァーンを見ている。どよどよと闖入者を取り沙汰すのは左右に並ぶ臣下達。ヴァーンが倒れ込む広い深紅の絨緞は、真っ直玉座まで伸びている。――謁見の間だ。

 ヴァーンは震える腕に力を込めて、何とか上半身を起こした。居場所が掴めなかった目標の人物は、ヴァーンの隣に突っ立っている。チキだ。

 移動目標と自分が一緒にいるイメージを無理矢理現実にする、ある意味高等魔法、ある意味無駄の多い力技である。ヴァーン並みに魔法力量が豊富でないと使えない。だから普通の魔法使いは、通常の移動魔法で一杯一杯で、こんな術まで憶えようとはしないのだ。

 ざまあみろ、とクレイに思う。お前がチキは任せると言ったんだからな。頼れる魔法使いをこんなへろへろにしやがって。守り切れなくても知らねえぞ。

「よー無事か、チキ……?」

 チキはヴァーンに気付かぬ素振りで立っている。チキの向こうには、少し離れて禿頭の男が立っていた。ヴァーンは、あっと声を上げる。

「さてはチキの言ってた禿げ頭の親父はてめえだな!」

 と叫んだつもりだが、あまり鮮明に言葉は出なかった。この顔には憶えがある。確かスイレーン国の宰相だ。居並ぶ他の大臣達と比べては兎も角、国王よりも威厳のあるやり手だったと記憶している。心当たりにないはずだ。幾ら俺が有名でも、隣国の宰相に知り合い扱いされているとはさすがのヴァーン様も思わないだろ、と自分で納得する。

 痺れと疲れで立ち上がる事も出来ないヴァーンを眺めて、宰相は瞬き、やがて大声で喜んだ。

「ははは! 勝手に役立たずになっているじゃないか、ヴァーン・ハンプクト!」

「……ああ?」

「魔法使いが呂律が回らないとは! はははは!」

 きしょう、クレイめ、と今は腹で罵るだけにする。殴るのは後だ。後。

「魔法の早打ち、数打ち、大技、小技、魔法力持久力、総合力! 当代一の魔法使いが、ははは、これは可笑しい!」

「……俺あお宅さんに何かしましたっけかね?」

 ヴァーンは不快を表して尋ねた。当代一と評してくれるのも、こうなれば皮肉にしか聞こえない。

 したとも、と禿頭の男は決め付ける。

「せっかくの才能を天地神なんぞに捧げおって、愚か者めが」

「はあ? んなこた知るか!」

 怒鳴ると息が切れる。今は呼吸も一仕事だ。

「……そうか。となると、あんたが邪教を勧める奸臣て奴だな?」

「邪教? ふふふ……呼び方なぞどうでもいいが、魔王物教とでも呼ぶがいい。我らは皆、最高神に換わる魔王の持ち物だ」

 一昨日ほざけ、とヴァーンは吐く。

「あんたもどうせ魔物に操られてるんだろ、いい加減な所で目え覚ましとかないと、後できついぞ。面倒見ねえぜ?」

 禿頭の男は空を向いて笑う。

「わっはっは、私は操られてなどいないよ」

 操り人形は得てして、自分が操られている認識など持たないものだ。

 男はにこにこと笑って両腕を広げ、広い袖の着物をばさっと鳴らした。「さあ、方々」居並ぶ臣下達に向けて朗々と言い渡す。

「ここに参ったは天地神教、当代屈指の魔法使いと名高いハンプクト。この者申す所の邪教がより優秀で信奉すべきものであると示す良い機会が生じますれば」

 ふわりと玉座を向いて、男は禿頭を垂れた。

「王よ、どうぞご覧じろ」

 ――途端に、チキが物凄い声で怒鳴った。

『この俺を見せ物にするつもりかッ!』

 びりびりと空気が歪む。目に見えぬ圧力が謁見の間を押し潰しかけた。

「……?!」

『――控えよ』

 この威厳は何だ。禿頭の男は、チキに恭しく礼を取る。居並ぶ大臣達はあんぐりと口を開く。尻餅を付いている者もいた。王はぽかんと玉座の中で腰を抜かしているようだ。

「チキ……?」

 何かが入っている。しかし魔物の臭いはしなかった……断じて!

 腰の引けた大臣が一人、震える手でチキを指差した。

「……ダ、ダルダーレ宰相、そ、その娘は……」

 宰相はにこりと笑って顔を上げる。

「先程この娘に、我らが信奉すべき魔王をお降ろし致しました。力の一端などお披露目を……」

 そうしてチキを向き、頭を垂れる。チキは憂鬱そうに目を眇め、ゆっくりと尋ねた。

『何が望みだ?』

 宰相は王を促した。だが王は玉座でぽかんとしたまま。口が利けない。見て取った宰相は代わりにチキに向かって奏上した。

「この国を手始めに、世を魔王閣下のお力で快楽溢れる桃源郷と成したいと存じますれば、まずは天地神に誑かされております民草の頭にも分かり易く、閣下のお力を示して頂きたく」

『……下らぬ』

 チキは玉座の王を指す。

『そこで男が呆けておるのは、俺の力を知ったからではないのか。それとも王とはただの口を閉じぬ置き物か』

 そこまで言われても、王はまだ口を開いている。何卒、と宰相は禿頭を下げる。

『ふん』

 天窓に何かが当たる音がした。見上げると、窓の上で魚が跳ねている。びたん。びたんびたん、びたん。二匹、四匹、魚が降って来る。天窓は魚で埋まり、重みに耐えられず割れた窓から、どっと魚が落ちて来た。窓ガラスの破片と魚が床で跳ねる。

「こ、これは……」

 大臣達がどよめく。赤い絨緞が堆く積もる魚に覆われる。

『魔物一匹につき魚を一匹、河から運ばせた』

 何という数の魚。同じだけ魔物が、今王宮の上にいたというのか。しかし確かに、この魚達からは薄く魔の臭いがする。

『まだ何か見たいか』

 宰相は恭しく礼を述べ、大臣達を眺め、王を促した。

「如何です。斯様な奇跡を天地神は示してくれましょうか」

 おい! とヴァーンは叫んだ。大分痺れが抜けて来た。

「黙って聞いてりゃ、要するに国を魔物に明け渡そうって話だろうが! 魔物は人を食うんだぞ! 餌にされるに決まってるだろうが!」

 大臣達に動揺が走る。何を今頃動揺してやがる、とヴァーンは腹が立った。忍び込んだ魔物に思考を緩やかにされていたのかもしれない。

「何で魔物と人間の住処が分けられてると思ってる! わざわざ呼んで奉る気か! 偶に越境してくる魔物にさえ、人間は太刀打ちするのが難しいんだぞ!」

「それは天地神教の考え方だ」

 宰相はにたりと笑う。

「人は増えると余所の国を侵略するだろう。それと何が違う」

 ヴァーンは息を飲む。この宰相は食われている。桃源郷を成したいと言いながら、それは魔物にとっての極楽だ。魔物を利用して人間の世界で伸し上がろうとしている輩かと思ったが、違う。この男は、魔物の世界を作ろうとしている。

 魚の他に臭いはしない。本当にここに魔物はいるのか?

 ガチャリ、と金属が擦れる音がした。

「……負界に還れとは言わん。俺が消してやる」

 全員が大扉を振り返る。謁見の間に入って来たのはクレイ。売り物の剣は肩の袋。ヴァーンの大剣も混じっている。腰には父親の形見の剣を帯びている。

 何だ、誰だ、と大臣達は問い質す。宰相はばっと腕を上げて、クレイを指した。

「罪人です! 我が国の勤勉な罪もないナムカン大臣を殺した男ですぞ、そこな天地神教の魔法使いハンプクトが、脱獄を手伝ったのです、方々!」

 はっと息を飲んだ何人かが、クレイに腕を伸ばした。捕らえようと近寄る人々に、クレイは一言告げる。

「人を斬るつもりはない。どいてろ」

 剣を振り回した訳ではない。大臣達は立ち止まり、歩を進めるクレイにされるように下がり、行く手を空けた。

 未だ立てないヴァーンの横までやって来て、クレイは呟く。

つくづく頑丈だな」

 屈んだままクレイを見上げて、ヴァーンは軽い調子で呼び掛けた。

「よう先生。後で殴らせろよ」

「……わかった」

「いつもあんな手を使ってたのか」

「飲めと言って素直に飲むか? 食い物に混ぜてもお前は気付くだろう」

 それは確かに、とヴァーンは思う。あの状況でいきなり食え、と出されても……いや、もしかしたら、戦う前に腹拵えを、と食っていたかもしれない。それも有り得る。以前に臭いで気付くだろうが。

 よっこらしょ、とヴァーンは立ち上がる。まだふらついたが、座っているのが癪だった。目線より下になったクレイを睨み付ける。

「ったく……薬無しでも痺れるかどうか試してみたいとこだが」

 クレイはちらりと視線をくれた。

「……今はまだ口の中に残ってるぞ」

「ばっ……!」

 真っ赤になってヴァーンは怒鳴る。

「本当にやる訳ねえだろ! 冗談だ冗談!」

「そうか」

 軽く流してクレイはヴァーンを追い越して行く。ヴァーンは口をひん曲げた。

「まさかここに来るまで、邪魔な王宮の人間を全部あの手で」

「……その手もあったか」

 おい、と突っ込むヴァーンに、心配するな、とクレイは言った。

「あれを健常者に使うと体に魔が残ったり、魔が憑き易くなったりすることがある。そんな非道な真似はせん」

「俺は?! いいのかよ!」

「お前は平気だろう」

「……そーですかい」

 普通人と同等に扱え、という気は毛頭ないが、やはりこいつは俺を乱暴に扱っても壊れない丈夫で便利な多機能道具ぐらいに思っているぞ、とヴァーンはクレイの背中を見て考えた。

 クレイはチキにもちらと視線をやって、宰相の方へと進んで行く。『ほう……』とチキは目を眇めた。チキの状態に気付いたはずだが、クレイはこれといった興味も示さず、見返すチキから目を外し、宰相の前で立ち止まる。

「スガルダ国から遥々お前に会いに来た……」

「――スガルダ国?」

 それはどこだね、と宰相は尋ねる。

『そこの男はまた随分と良い容物だな』

 チキの中のものは、クレイに興味を持ったようだ。

「見てわかるだろうが、チキに何か入ってるぞ。主かもしれねえ」

 ヴァーンの言葉を聞いていたか。それぞれが好きに喋る。

「罪人がうろついて良い場所ではない。牢へ戻れ。裁きを受けるがいい」

『気に入った。最初の捧げ物はその男にするがいい。奉られてやってもよいぞ』

「――黙っていろ」

 クレイは腰から剣を鞘ごと引き抜く。と、振り向くなりチキの腹に鋭い一撃を叩き込んだ。みしっ、と鳴ったのは鞘か、チキの骨か。チキはその場にくずおれた。

「中身はお前の尻尾だな」

 クレイは鞘から剣を抜く。鞘を捨てて宰相に向き直った。

「……お、おいクレイ、そいつは操られてるだけじゃ……?」

 言う間にクレイは剣を振り上げる。宰相は一歩下がったが、斬撃を避けられはしなかった。

 繁吹しぶくは赤い血。謁見の間に悲鳴が満ちた。宰相はよろけ尻餅を付く。王が初めて口を開いた。

「何をしておる! 賊を捕らえよ、狼藉を許すな!」

 そう言えば衛兵の類はいないのか。大臣の一人が慌てふためいて大扉を出て行く。

「誰ぞおらんか! 誰ぞ!」

「脱獄した罪人を捕らえに行った連中なら、そこかしこで寝ていると思うが」

 宰相を見たままクレイは告げる。

 地下牢からここまで、クレイを止めようとした兵達は、悉く鞘の一撃を食らったのだろう。扉の外を覗いた大臣が、皆倒れ伏している、と青い顔で戻って来た。

「さすがに良く化ける。血が赤いとは思わなかった。……だが、どんな魔法使いを騙せても、俺をごまかせはしない」

「な、何を、このような事をして……」

 宰相は脂汗を浮かべ、血が流れ出すにつれ青ざめて行く。

「この程度の斬撃がお前に効くとは思っていない。俺相手に芝居は必要ない。それとも俺から逃げおおせた後の事を考えているのか? そんな余裕がお前にあるか?」

 知っているぞ、とクレイは言う。

「俺に残ったお前の欠けらが教える。……父を追って自刃しようとした時、素手で持った俺の手に、剣のお前が混じった。お前が俺をわかるように俺はお前がわかる。知っているぞ、封を解かれたお前が回復を図りながら俺から逃げていた事を。俺を内から堕落させる事は簡単だと高を括っていたお前は、封じられてから失敗に気が付いた。俺の中に封じられて、俺も消耗していたが、お前こそが魔としての消耗が激しかった。俺が動けぬ内に国を滅ぼし、しかし再び封じられる事を恐れて姿を晦ました。お前に気付くのは俺だけだ。どんな優秀な魔法使いも姿さえごまかせばお前を魔物とは思わない。人の寿命は短い。お前は逃げおおせるはずだった」

 誰ぞ、誰ぞこの男を、と宰相は助けを求める。

「人に化ける魔物は他にもいるが、それとて臭いまではごまかせない。お前は人の臭いがする。……本物の宰相は丸呑みしたな?」

 この男は狂人だ! と宰相はクレイを指差す。クレイは剣を宰相に突き付ける。

「俺が生きているのを承知で再び動き出したのは、力の回復に自信があるという事だ。遁走するか俺を殺すか……他にないのは承知だろう」

 ズン! と空気が重くなった。ヴァーンはよろけて膝を付く。床の魚がみるみる腐って行く。悪臭が立つ。チキがゆっくりと立ち上がる。宰相は高笑いをした。

「わっはっは! 我が信奉する魔王がお怒りだ! せめて好きな神に祈るがいい!」

「生憎」

 クレイは背の袋に手を伸ばす。

「神は信じていない」

『許さぬぞ小僧。容物にするのも止めだ。覚悟するがいい』

 人に小僧呼ばわりされるよりは真実味が有る、とクレイは柄のない剣を一本抜いた。

「令」

 呟くなりチキの体に剣を埋める。

「隷」

 響いたのは魔物の悲鳴か、一瞬チキの体が膨らんだ。黒い霧は、現れたかと思うとすぐに消えた。チキはぐたりと仰向けに倒れた。

「……尻尾を失ったな」

 クレイは宰相に向かって微笑む。

「覚悟は出来たようだ」

 謁見の間に伸し掛かる圧力は減じていない。血を流す宰相はクレイを睨み、口を開く。

「……憎らしい奴だ」

 伸し掛かる空気には魔物の悪意が溶けているようだ。じわじわと押し潰される人間の中に染み込んで来る。

 この気配には憶えがある。夜に増す、クレイの中の残滓。酷似している。いや、桁が違う。体が皮膚から腐食していく熱さ、同時に芯が抜き取られるような凍えが襲う。

 チキの中のものが失せてはっきりとした。悪意の出所は、宰相だ。

 では、こいつが。本当に。

 スイレーンの主で、その昔クレイの国を滅ぼした――クレイを食った魔物なのだ!

 大臣達は次々に膝を付き、吐き気を訴え、床に伏した。

 ヴァーンも床に手を付き、悪寒と戦っている。魔の気配が侵入して来る。

「飲め」

 見ると、ヴァーンの顔の前に、クレイが例の薬を差し出している。

「なっ毒だろ!」

「迎え酒のようなもんだ。後で反動がでかいが今は楽になる」

 ヴァーンは汗をかいて震える体を支えている。腕を上げるのも大儀なのに、クレイは呼吸も乱れていない。

「……っくそ!」

 ヴァーンはクレイの手の薬を口で迎えに行って、ぱくっと銜え、ごくんと飲んだ。成る程、染みて来た魔物の悪意が、中和されて行く気がする。

 しかし粘り着く気配は濃くなっている。奇声を発していた大臣達も意識を無くし、血を吐き、痙攣している者もいる。宰相の流した血は赤い霧となって浮かんでいた。それを呼吸で吸い込む度、皮膚に触れる度、体が邪に侵される。

「クレイ、長引かせる訳にはいかねえぞ」

「どちらにしろすぐに済む」

 クレイの静かないらえは、ヴァーンに嫌な予感を思い出させる。クレイ、と呼ぶ前に、クレイは宰相に向き直った。

「全く、憎らしい奴よ……ナークレイの末裔め!」

「憎いのは御互い様だ」

 霧の赤が濃厚になる。守りを頼む、とクレイは促す。ヴァーンは横目で倒れる大臣の数を確認し、両手を開いて腕を伸ばした。

「誰かさんのお蔭で無駄遣いしちまったからな、大技は使えそうにねえ。小技の連発で行く、呪文の間は責任持てよ!」

 わかった、の代わりに、俺にはかけるな、とクレイは言った。袋から柄の無い剣を抜くなり「令」と命ずる。

 ヴァーンは腕の各所に細かく点を設定し、魔法力を溜めていく。

「天のガラシア地のアルシナ、今この地に臥す者達を邪なる一切から守らせ給え。神柄、使徒に道を開かせ給わん、ひ、ふ、み、よ、……」

 血の霧は凝って、幾体もの臓物に似た赤黒い魔物を生んだ。「隷」の声と共にクレイの手の剣は黒い魚の群れに似た魔物に還り、霧に浮かぶ赤黒い物へとそれぞれが向かって行く。ぶつかった瞬間、黒い魚は赤黒い臓物に飲み込まれそうになったが、再び「隷!」とびいんと響くクレイの命令を受けて、臓物共々気化して消えた。クレイはまた柄の無い剣を一振り取る。「令」

「発!」

 ヴァーンは左手の小指を折る。薬指、中指と順に折る。倒れる大臣各個に強固な結界を張っていく。右の指も全て折った。左手首。

「隷」

 剣は黒い猿となって跳ねて行く。赤黒い魔物は次々生まれ、人に取り憑こうと襲い来る。ヴァーンの結界に弾かれ跳ね返るところを、クレイに従わされた猿の魔物に切り裂かれた。

「発!」

 左肘を曲げる。これで結界の外にいるのはクレイとヴァーンと魔物だけだ。最後に自分に毒消しをと右肘を曲げようとした。

「―――」

 急に下半身が萎えて、ヴァーンは膝を付いた。

『……やれやれ、魔法使いめは漸く落ちたか』

 ニタリと笑う宰相の顔は、血の気が失せて青黒くなっている。

『白い者は読み易い。屑を守って己を疎かにする。さりとて俺の血に塗れて良くもったものよ。どれ、褒美に堕としてやろうかの……』

 ざっと音がして、赤い濃霧は流れとなってヴァーン目掛けて雪崩込む。瞬間、視界が赤くなった。吐き気と悪寒。皮膚が寒気立つ。

(さあ、望み通りにするがいい)

「……ああ?」

 聞こえた声に顰めた顔を上げた。ヴァーンの視界一杯に、膨張した宰相の顔があった。

 虚を突かれた。

(それ、そこの剣売りだ)

 宰相の顔が消えると、血塗れのクレイの死骸が見えた。

「……っ」

 動揺した。

 ぞろりと異物が髄に侵入する気配があった。

(しまっ――)

 

 重い熱病に罹ったのに似ている。寒いのに熱い。ヴァーンに入った異物はぞろぞろと動く。不快だ。死ぬ程不快だ。

「て……んのガラシア……地の……」

(無駄だ無駄だ。魔物おれが憑いたのだ。神とのパイプなど塞がったわ。さあ、望んで楽になれ。お前はあれが欲しいのだろう)

 霞む視界にクレイの死骸だけが見える。

(あれが死なぬのが気に入らんのだ。己が先に死ぬるのが嫌なのだ。共にありたいのであろう。手に入れたいのだろう。死ぬれば、あれはお前のものだ。心のままに望め……さあ、欲せ)

 血塗れのクレイがむくりと起きた。ヴァーンに向けて手を述べる。

一度ひとたび欲せば楽になる。さあ――)

 死人のクレイは乞うている。共に永劫のしとねに、と訴える。

 幻だ。

「ふざ……けん……な」

 身内がざわざわと騒ぐ。ぎりぎりと力を込めた。心に。体に。

「んなこと望むか! 死んで共になんざ、真っ平ごめんだッ!」

 ガシャン! と足元から響く金属音、「ヴァーン!」と呼ぶ声。

 幻はかき消え、霧の晴れた謁見の間に、一人立って大剣を構えるクレイの姿があった。

「ヴァーン、でかいぞ、耐えろ」

 剣の荷袋と大剣の鞘が床にうち捨てられてある。己の剣は腰に下げ、ヴァーンにくれたチャルダの主を従えた大剣を、クレイは両手で確と握る。

 ヴァーンは吐き気を飲むように、ぐっと口を噛む。

「よし……来い!」

「令」

 内で魔物が騒ぐ気配があった。

「隷!」

 クレイは剣を真っ直に突き刺す。剣で突かれる痛みは殆どなかった。ただ内側で突如暴れ出したのは間違いなくあの時のチャルダの魔物だ。

「ぐっ……」

 壊れる、と思った。体が、精神が膨らんで弾ける。実際、ヴァーンの体はめりっと音を立てて膨張した。ぶちっと血管や筋肉が切れる音がする。千切れ飛ばずに済んだのは、消滅せぬにしろ、激しい損失を怖れた魔物が、ヴァーンから逃げ出したからだ。瞬間、クレイは何も無いヴァーンの頭の横を左手でくっと握った。ヴァーンは床に倒れ伏す。ずるりとチャルダの主の剣がヴァーンから抜けた。クレイの右手に残ったそれは、元の大剣どころか、普通の剣より随分細身になっていた。

「逢いたかったぞ……」

 殆ど幸せそうな、と言っていい声の響きに、ヴァーンは千切れそうな体の痛みを押して床から顔を上げた。

 クレイの左手は、不定型の何やら禍々しい黒い靄を掴んでいる。靄は淫らにうねりながら、徐々に小さくなっている。

 ――クレイは、素手だ。

「……さあ、来い!」

「クレ――」

 待て、とヴァーンは言いたかったのだ。

 靄はするするとクレイの左手から吸い込まれて行く。……そこから先は、瞬きする間の出来事だった。

 クレイは右手の剣を捨て、腰の剣を逆手に握った。靄を吸い切るや否や、左手は自分の胴の中に突っ込まれ、床に赤い血を撒いた。体の中で、手は、魔物を掴んでいるのだろう。逃げられぬ魔物が力を振り絞るのがわかった。ヴァーンは指を一本立てる。クレイが形見の剣で自分の腹を貫く姿が、ぐにゃりと歪んだ。クレイと自分に結界を張るのが精一杯だった。果たしてクレイには届いたか。魔物の力が空気を押し歪めた。そして、

 音も無く、王宮は崩壊した。






(……気が付いたんだ。ヴァーン)

 声に顔を上げると、クレイは荷も持たぬ身軽な姿で、少し離れた所に立っている。

 怪我も血糊もない。魔物と戦っていたと思ったのは、夢か。

(あ?)

(俺が年を取らないのは、向こうで父に会った時に、すぐに気付いてもらえるようにさ)

(はあ? 何言って……こら、笑ってんじゃねえぞ。待て、どこ行く、――)




 伸ばした腕は、空を掴んだ。体がずきずき痛む。気を失っていたのは、ほんの短い間らしい。

 崩壊したのは王宮では済まなかったのだと、ヴァーンは仰向けに寝ころんだまま首を巡らせて知った。

 景色の果てに河が見える。山側には少し家が残っているようだ。少なくとも王宮を含む町は丸潰れだ。王宮のあった場所には瓦礫すら無い。

 凄まじい圧力が掛かったのだ。それでも見える所に大臣達がまともな人の姿で倒れているのは、ヴァーンの結界が効いたのだろう。彼らの生死は確認出来ないが、側に倒れているチキには、呼吸も脈も感じられた。

「チキ……おい」

 返事は無い。ヴァーンよりうんと規模が小さいとは言え、チキも体内で魔物の尻尾と剣とが飽和限界を起こして暴れたのだ。ヴァーンより頑丈で無い分、チキには随分堪えたはずだ。治療魔法を、と思ったが、力がすっからかんになっているのが自分でわかった。剣を持つ力も無い。というか剣も無い。今魔物が現れたら、さすがにどうしようもない。

 ……クレイの姿が無い。

 魔物と一緒に、消し飛んだのだろうか。

 いや、この姿勢では見えないだけだ。ヴァーンは苦労して寝返りを打った。

「ク……」

 クレイだ。自分の頭の方向に、クレイは倒れている。少なくとも、潰れていない。周囲に流れ出る血が、夥しくとも。

 痛む体を引き摺って、ヴァーンは這い出した。クレイ、と呼んだ。じりじりと這い、近付く程に、嫌な確信も近付いて来る。

「……クレイ、おい、……くそ爺い!」

 生命の気配が、ない。

 ヴァーンは這うのを止め、指を立てた。

「天のガラシア地の……アルシナ……」

 言葉が詰まる。消えた命を呼び戻す魔法など。

「天地神……」

 ふるふると震えた。

「っ、聞こえるかっ! そりゃあ、こいつはあんたらの使徒じゃないかもしれないが……!」

 ヴァーンは俯く。地に伏して途方に暮れる。

 クレイの望んだようになったのだ。良かったじゃないか。

 悪戯けるな。俺は望んじゃいなかった。

 ……きっと今囁かれたら、ヴァーンは伸べられた手を取っていただろう。魔物の手を握るのは、何時だって非力な人間だ。

 ひた、ひた、と足音が、ヴァーンを追い越して行った。

 顔を上げる。チキが、真っ直に頭を上げて、クレイの方へと歩いて行く所だった。

 チキはクレイの傍らに跪き、クレイの頭を持ち上げ自分の膝に乗せた。その表情は、普段のチキではない。

「チキ……?」

 問い掛けた途端、チキは座ったまま意識を無くした。

 さあっと――

 チキの体とクレイの上に、光が降った……いや、立ち昇った。空から、地面から、白い、明るく浄い光が現れたのだ。

 ヴァーンは目を見開く。

 光の中に、乙女がいる。

 天から降りて来たのは金の髪豊かな、透き通る肌の、風のような薄絹を纏った乙女。

 地から現れたのは漆黒の髪艶やかな、やはり白い肌の、綿の花の如く軽やかで温もりあり気な布に包まれた乙女。

 天の乙女は愛しそうにクレイの頭を抱き、額に口付けた。

 地の乙女はクレイの右手を両手で捧げ持ち、恭しく接吻した。

 美しい、二人の乙女。

 ――天のガラシア、地のアルシナ。

(天地神降臨――)

『あなたの声は殊の外良く聞こえますよ、ヴァーン』

 微笑んだのは、ガラシア。

『良く兄の為に力を注いでくれました。感謝します』

 泣きそうな笑顔で瞬いたのは、アルシナ。

 どんな宗教画も裸足で逃げ出す神々しさで、姉妹神はヴァーンの目の前に在った。ヴァーンは礼を取るのも忘れ、腹這いに倒れたまま、ぽかんと眺めている。世の画家はこの希代の一幅の絵を見損ねた事を嘆くだろう。二人の女神とかんなぎの少女、そして……

 ……待て。

 ――兄?

 ガラシアがにこりと笑む。

『私ガラシア、妹アルシナの敬愛なるお兄様……父、最高神ダラーシャの息子ですよ』

 クレイが、

「――ナークレイ……」

 あ、いや、一寸待って下さいよ、とヴァーンは手のひらを向ける。

「俺の知ってる話じゃ、そいつは確かに人間で……人に交じった兄神の末裔ではあるらしいが……らしいんですが」

『その通りです』

 アルシナは目を閉じる。

『父神から世界を分け与えられた時に、天と地の狭間で兄は人の身を選択したのです。人となり、人に交じり、時は流れました。しかし兄は再び私達家族に会う為に、神に戻る約束をしていたのです……』

『血脈が途切れる時、それが約束でした』

「……」

 ガラシアは透き通る手で、クレイの髪に触れる。

『覚醒する前にその身に魔を宿してしまい、神世の記憶を失くしていらっしゃるけれど、かつて自ら選ばれたその使命は違えることがなかった……お兄様。人の世のナークレイお兄様をただ見守るのが、どんなにか辛かった事でしょう』

 ガラシアの目に、真珠のような涙が光る。

『……泣くものではなくてよ、ガラシア』

 アルシナの方が泣きそうな顔立ちをしていたが、涙脆いのはガラシアの方らしい。

 ヴァーンは口をひん曲げた。神様相手に文句を付ける。何だか酷く怒りが沸いた。

「本当にクレイが兄神なら、なんで今まで放っといた? 見守ってたってんなら知ってるだろう。そいつは何百年もずっと一人で苦しんでたんだぞ。忘れてるってんなら、さっさと思い出させて連れて行けば良かったんじゃねえのか」

 アルシナは瞬き、ガラシアは涙を拭く。そして二人で微笑んだ。

『兄はとても頑固なのです』

「……はあ?」

『頑固なのはお父様譲りね』

『ええ本当に』

 姉妹神は頷き合う。

『だから見守るしか出来なかったのですわ』

 ヴァーンには説明が足りない。承知しているように、ガラシアは続けた。

『美しくて優しくて頑固なお兄様は、天と地の生命がきちんと巡るようにする以上の手助けは好みませんでしたもの。例え人の身の自分がどうなろうと、決して神の手を加えてはいけないと……』

 ヴァーンには納得が行かない。

「――だから死んでから迎えに来たのか」

 声に険が出た。

『……そうです』

 肯定するアルシナの声は穏やかだ。理屈はわかった。だが解りたくない。解りたくないのがどの部分なのかを考えるのも嫌だ。ヴァーンは俯き、唇を噛んだ。

『……まあアルシナ、悋気りんきなど起こすものではなくてよ』

 窘めるガラシアは微笑んでいる。

『けれどガラシア、ほんの少しくらい意地悪したくなるというものだわ』

『ええ、それはそうだけれど』

『そうでしょう』

 くすくすと笑い合う姉妹神を、ヴァーンはきょとんと見守る。

『お聞きなさい、ヴァーン、白き魔法使い』

 女神は揃って笑いかける。

『……神界と負界の間に在って、常に不安定な虚界に人の世は在ります。住み分けた世界を飛び越えて人の世を荒らす魔物に、人だけで立ち向かうのは難しい……とは言え神の手を簡単に差し延べるのは、人の為になりません。だから兄神ナークレイは、人となったのです。それは頑固な方でしたから』

『……だから、人の身であるお兄様を、私達はお助け出来ないのですわ。ヴァーン、どうか頼まれて下さいね』

 ヴァーンは瞬き、二人の女神を交互に見る。

「……言ってる事が、良く……」

『念じ続けられた仕事を終えられて、今この時に思い出して下さっているなら、このままお連れするつもりだったのだけれど』

 ガラシアはアルシナに微笑む。

『時は幾らでもありますもの、私達はお兄様がご自分で思い出して会いに来て下さるように祈っていますわ』

 アルシナは泣きそうな笑顔で頷く。

『ほんの少し、淋しいのだけれど』

『泣いては駄目よ、アルシナ』

 目元を拭ったのはガラシアだ。アルシナはそれを微笑んで見詰める。

『ええ、ガラシア。さあ、戻りましょう。お兄様を迎えに来たのがお父様に知れたら、叱られてしまうわ』

『御存知だと思うわよ。最高神ですもの』

『頑固ですものね』

『ええ本当に』

 姉妹神は揃ってヴァーンを向いて、

『頑固な兄ですけれど、よろしくお願いします』

 深々と、頭を垂れた。

「いっえっ……あ、いや、……どうも」

 さすがのヴァーンも、地面に額をぶつける勢いで頭を下げる。そもそもが腹這いの姿勢だったので、実際にぶつけた。

『ああそう』

 顔を上げると、姉妹神の姿がうっすらと消えて行く所だ。女神の微笑みがチキを向いている。

『なかなかに清浄きれいな子ですね。呼ばれれば、この子に降りて参ります』

 では、と白い光の中に女神は溶けて、やがて光も消え失せた。

(……神降ろしの修業、要らねえかも……)

 チキは変わらず座った姿勢で動かない。ヴァーンは這って、チキの膝に乗るクレイの頭に、顔を近付けた。

「……おい……生きてるのかよ……?」

 顔を寄せると、幽かな呼吸を感じた。首に触れると、ごく弱いが脈もある。

 口元が綻ぶ。悪態が口を突いた。

「……長生きしろよ、くそ爺い――」

 少し離れた所に突然現れた一団は、見慣れた天地神教の僧服を着ていた。

 町が吹っ飛ぶ爆煙の様子を遠くに、または玉で見て、査察にやって来たのだろう。驚いた顔で辺りをきょろきょろと見回している連中の中に、マンタと叔父の姿を見付けて、おーいここだ、とヴァーンは手を振った。




 スイレーン王都の消滅が、バルダ国がスイレーン国に仕掛けた悪意ではないかという疑念が立った。消滅した町に残ったのも一番に駆け付けたのもバルダの者で、生き残ったスイレーン大臣達の意見も、バルダ側が宗教干渉の末、宰相や大臣、果ては王も亡き者にしようと企んだのだと言う者と、あれは強大な魔物が仕組んだ事だったに違いない、とせめて戦争は避けようとする者の二つに分かれて紛糾したのだから仕方がない。一命を取り留めたスイレーンの王は、あれは魔物だ、全部魔物だ、と怯えてクレイの事も魔物扱いしていたが、お蔭で魔物を遣ったバルダの侵略、という疑惑は残ったものの、二国間で開戦という結果は避けられそうだった。

 そういう次第で、ごたごたが鎮まる間、ヴァーンとクレイとチキは治療と養生も兼ねて寺院に身を寄せろと命じられた。

 ヴァーンのお目付役にはディーン叔父が当てられた。他の仕事を疎かにする訳にも行かないので、ヴァーン達がチャルダ寺院に連れて行かれる事になる。

 ライ大司祭の前でヴァーンが顛末を説明させられた時には、ディーンは何度血管を切りそうになったか知れたものではない。止めが天地神降臨の下りだ。

「天地神に悪態をついたーっ?!」

 クレイが兄神で姉妹神が降臨した、と聞いた時には忙しなく手を握っていた叔父が、真っ赤になり、ぶるぶると震えて怒鳴った。

「こっこの罰当たりめがー! お前という奴は、お前は……ヴァーンっ!」

 ヴァーンは小指で耳の穴を掘りながら、腹が立ったんだからしょうがねえ、と小声で主張した。ライ大司祭は、黙って両手をぎゅっぎゅっと握っていた。

 やれやれ、と怒鳴られ引っ張られしてじんじんする耳を摩り摩り、ヴァーンは廊下を歩く。宛てがわれている部屋へ戻る前に、クレイの部屋を訪ねた。ドアは開いている。

「よー……っと、楽しそうだな?」

 腹に包帯を巻き白い着物を着せられたクレイはベッドに身を起こしていて、入って来たヴァーンに視線をくれた。ベッドの横の椅子にはチキが座っていて、くすくすと身を折って笑っているのだ。

「……凄い声で叱られてたね」

「……」

 叔父の怒鳴るのが聞こえたらしい。

 どっかとヴァーンはクレイのベッドの足元の端に腰掛けて、不公平だ、とぶうたれた。

「そりゃあ事の最中も済んでからも、俺が一番ぴんぴんしてたんだから、俺だけが質問攻めにあうのは筋なんだろうぜ」

 ご苦労様です、とチキは笑いながら労う。

「まあ、どの道お前ら、天地神を降ろした覡と兄神様だ。じき下にも置かない扱いに変わると思うぜ」

「……それだが」

 クレイが口を開く。うん? とヴァーンは片眉を上げた。

「チキは神降ろしの間の事は、何となく憶えているそうだ」

「……ああ、お前は憶えてる口か」

 覡の中でも、神が降りている間の事を憶えている者とそうでない者がいる。チキはヴァーンに見られて、赤らんで俯いた。

「……?」

「え、あっと、ほら、神様のした事が自分のした事みたいで……」

 ああ。姉妹神がクレイに口付けたことを言っているのだ。成る程。きっとそれはクレイには内緒なのだ。

「わかったわかった。で?」

 ヴァーンはクレイを促す。

「俺が兄神なのだと言われても、実感がない」

 こちらを見る綺麗な顔を眺めながら、ヴァーンは一寸した疑問を解決していた。

 呪文でパイプを作る必要はないはずだ。中に神様が坐すんだから。

 目が覚めて、最初にクレイは、死に損ねたか、と呟いた。ベッドの側に付いていたヴァーンは、生憎だったな、と応えたのだが、それにクレイは全くだ、と返しただけだった。ヴァーンは密かにクレイの自殺を警戒していたのだが、どうやらその気配はない。年の割りには柔軟な爺さんだ、とヴァーンは思う。

 それとも、少なくとも二人泣くぞ、と脅したのが効いたのだろうか。だとしたら、それはそれで少し嬉しい。

「……そっか」

 ヴァーンはにっと笑う。

「ま、それは取り敢えずいいか」

「いいの?」

 瞬いたのはチキである。

「本人憶えがねえってんだから、いいだろ」

「兄神様で、生き神様だよ?」

「そうなんだろうが、こんなんじゃ拝み甲斐だってねえだろ。有難いお言葉を頂戴しようにもなあ。叔父貴達が気の毒だ」

「うん……確かに、クレイが何か変わったって感じはしないけど」

 クレイは他人事のような顔で聞いている。チキとヴァーンに見られて、「俺の事か?」と尋ねる。

「……いいみたいだね」

 チキは呆れて苦笑する。

 ヴァーンにとっては、魔でも神でも同じ事だ。チキにとっても同じだろう。ヴァーンが叱られる声を聞いて、兄神の前で笑い転げる少女なのだ。

「で? これからどうする? まあもう暫くは大人しくしといてやるとして」

 ヴァーンは二人を交互に見る。

「クレイはもう少し養生したいだろうが、奉られたくもねえだろ」

 瞬き、そうだな、とクレイは同意した。

「……生き神様扱いされても困る。他に出来る事はないからな。今まで通り、魔物を捕まえて剣売りをしよう」

 きっとその選択は、ナークレイの望む所なのだろう。人に交じって、魔物を従え、人を守ろうとした兄神。

 姉妹神が挙って、頑固だと評した。

 控え目に戸を叩く音がした。振り返ると、マンタが腰低く立っている。

「おう……何だ?」

 マンタはヴァーンを手招きする。うん? と立って近付くと、明後日ハンナがやって来る旨の速報せを教えてくれた。

「チキ、明後日ハンナが来るそうだ。会いたいだろ? 行くのはそれからにしようぜ」

 振り返って伝えるヴァーンに、チキは瞬いて尋ねた。

「……おいらも? いいの?」

「あ?」

「……一緒に行っても」

 ヴァーンは笑い飛ばした。

「当たり前だ。お前は俺の一の弟子だしな。つっても一人しかいねえが」

 村に帰る時はついてってやるよ、と請け合うヴァーンに、チキははにかんで頷き、マンタはおい、と聞き咎めた。

「行くって、まさかヴァーン」

「おっと」

 ヴァーンは手で自分の口を塞ぐ。

「そうそう大人しくしてはいないだろうとは思ってたが、お前、昨日の今日で」

「落ち着け、何も今出てくって訳じゃ」

 クレイ、とヴァーンは助けを求めた。

「お前が頼め。一番効果的だ」

「そうなのか?」

「そうだよ」

 『聖なる跡』の替わりに祀られたくねえだろ? と言うと、半信半疑ながらといった顔で、クレイは「マンタ」と呼び掛けた。

「頼みがあるんだが」

 ヴァーンに詰め寄っていたマンタはさーっと体に緊張を走らせて、その場に膝を付くなりクレイを向いて兄神への礼を捧げた。

「なんなりと……!」

 額ずくマンタは、耳まで真っ赤になっている。クレイもチキも、ヴァーンもぽかんとそれを眺めた。

「……マンタ、兄神は覚醒してねえから、改宗しても魔法はきっと使えねえぞ」

 そういうことじゃないだろう! と叱られた。

「そっか……これが普通なんだね」

 チキは、目から鱗が落ちたという顔をしている。

「おいら、天地神が入ったせいか、すごくクレイを近くに感じて……拝む気持ちにならなかったけど」

「それでいいんだろ? クレイこいつクレイこいつなんだし」

 ヴァーンが頭をぽりぽりと掻きながら言うと、マンタは眩しそうに僅かに顔を上げ、お前が羨ましいよ、と呟いた。

「……弱ったな」

 クレイが口を開いた。

「実は酷く困ってるんだが、普通にしてくれないか?」

 クレイに悩まし気に言われて困ったのはマンタの方だ。顔を上げたり下げたり、は、とか、いえ、だの散々逡巡した挙げ句、苦笑したヴァーンに腕を捕まえられて、漸くクレイの前に立った。

 そうしてマンタは、泣く泣く、三日後にヴァーン達がこっそり寺院から逃げ出す手伝いを承諾させられたのである。




「何故一緒に来るんだ」

 クレイが問うたのは、寺院を出て、チャルダから街道に入った辺り。

「俺は姉妹神に頼まれてんだよ」

 ヴァーンはチキに歩調を合わせながら……勿論クレイもゆっくりと歩いている……でかい剣も欲しいしな、と付け足す。

「おいらはヴァーンの弟子だもん」

 そういうこった、とヴァーンはチキの頭とクレイの背中をぱんと叩いた。

 頭は止めてよ、とチキは訴えた。

 歩く度、チキの頭で昨日ハンナにもらった黄色い花の髪飾りが揺れる。健康になったチキを喜んで、ハンナは綺麗に編むにはまだ少し短いチキの髪を何とか編んで、沢山持って来たプレゼントの内の一番似合う髪飾りで止めてくれた。チキはまだ自分で髪を編めないから、なるべく長く解けないで欲しいな、と思っている。

 ああ悪い、と謝るヴァーンに、クレイはぽつりと尋ねた。

「……死ぬまで来る気か?」

 クレイの視線に、ヴァーンは口の端で笑って見せる。

「さあて、どっちが先におっ死ぬか」

 クレイはこの先、年を取るのかどうかもわからない。どちらにせよ何が起こるかわからない旅の中では、寿命など余り意味がない。

「ま、爺さんの死に水は取ってやるつもりだけどな」

 実際どちらがどちらを見送るか、なんてのは、まーまたその時の問題だろ、とヴァーンは軽く言ってのける。

「寺院にいる間に、村の爺さんに手紙を書いたんだ」

 まだ途中なんだけど、もう少し書いたら送るよ、とチキは鞄の蓋を捲って、結構な紙の束を出して見せた。

「ほー。随分な大作だな。……おい、俺の事はいい男って書いたろうな?」

 チキは瞬いて、首を傾げた。

「……うーん」

 何だそれは! とヴァーンは手を伸べる。

「貸せ! 『ヴァーン』の名前の前に全部『凄くとってもいい男の』って書き足してやる!」

「え、駄目だよ!」

「なんで駄目だっ!」

 紙の束を抱えて駆け出すチキを追ってヴァーンも走る。捕まった拍子に、紙が一枚はらりと飛んだ。クレイは、足元に落ちた紙を拾い上げ眺めた。読んでいるのか、やがて拳を口元に当て、くっと吹いた。

「あ、笑った」

 つい読むクレイを見守っていたヴァーンとチキは、それぞれに手を伸ばす。

「何て書いてあるんだ、貸せ!」

「駄目ー! 手紙だってばー!」

 悪かった、とクレイは笑ってチキに紙を返す。チキは真っ赤になって手紙を鞄にしまった。

 俺にも見せろ、と訴えるヴァーンに、見せたら『凄くとってもいい男の』って書き足すだろ、とチキは却下した。


     *


「爺さん、村のみんなも、お元気ですか。おいらはとても元気になりました。まずは、おいらを旅に出してくれた事にお礼を言います。ありがとう。お蔭で、とっても素敵でいい人達に出会えて、そうそう、神様にも会ったんだけど、これはまた後で書くね。とにかくおいらは健康になって、もう誰が見ても女の子だよ。今だってスカートを着ているんだよ、凄いだろ? もう、うんと凄い事が一杯で、今も、とっても綺麗な神様と、世界一の魔法使いと一緒にいます。きっとこの手紙は、うんと長くなると思うから、一回目の手紙は途中まで書く事にします。じゃあ、爺さんがおいらに兄神様の祝福を与えてくれて、おいらが村を出た所から――……」





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「クレイソード・サガ」 若林貢 @wakabayashi-m

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