増田朋美

やっと、12月近くになって、冬の寒さらしい寒い気候になってきた。確かに風邪をひく人もいるが、これでやっと、いつも通りの寒さになれてきたと喜ぶ人も、少なくない。まあ確かに、一年中暑いというか、暖かい日が続くのも、おかしくなって体調を崩す人も少なくない。それでは、いよいよ、世界も終わってしまうのかとか、人間もおしまいだとか、そういう大予言をする人も出てきている。其れはいけないという人もいるが、この気候や、わけのわからない伝染病が流行するなど、今年はわけのわからないものに、振り回されているような気がした。

そんな中、いつもと変わらず、製鉄所には学校とか、仕事場とかで、居場所を失った人たちが、相変わらず、通い続けている。最近は、少なくなっているが、製鉄所の中で催し物が開催されることもある。今日は、その催し物が行われている日で、中庭で、竹村優紀さんが奏でる、クリスタルボウルの演奏会が行われていた。クリスタルボウルとは、七種類の大きさの、風呂桶のような形をした楽器の事で、それをサランラップの芯のようなマレットでたたいたりこすったりして音を出すものである。本来の目的は、また違うのであるが、その音色が、心と体のもやもやを消す作用があるとされていて、癒しの楽器として、近年注目されているのだ。

製鉄所の中には、そのクリスタルボウルが奏でるごーんという音が鳴り響いていた。其れを聞くと、一寸年配の方は、山のお寺の鐘を思い出してしまうのではないだろうか。みんな、良い音だと言いながら、座って聞いたり、中には寝てしまっている利用者も少なくない。水穂さんには天童先生が、ついていた。天童先生に体を支えてもらいながら、水穂さんは思わず、

「素敵な音ですね。」

とだけ言った。其れと同時に、最後の音がごーんとなって、

「以上で終了です。」

と、竹村さんは、マレットを庭の上に置き、頭を下げた。杉ちゃんを含めて利用者さんたちは、拍手をした。

「拍手なんてしなくていいんです。そんな、音楽の演奏とは違います。かしこまって聞く必要は毛頭ございません。」

と、竹村さんはそういうのであるが、

「いいじゃないですか。皆さん、癒されたんですから。」

と水穂さんが言うと、周りの利用者たちは、又拍手をした。

「ほら、アンコールだ。何かたたいてやってよ。」

杉ちゃんに言われて、竹村さんは困った顔をする。

「これは、本当に、曲を奏でて、それを聞かせるものではありません。ただ、心を癒してもらって、日常の邪念をとってもらうためのものです。まあ、一種の、心の治療だと思って下さい。」

「そうだけど、けがをして治療するのとか、胃が悪いから治療するとか、そういうこととは、えらい違いだよねえ。そういう意味の治療ではないでしょう?」

杉ちゃんがそう聞くと、

「まあ、そう言えるかもしれませんが、心が病んで方に、クリスタルボウルを聞かせて落ち着かせるという事例はいっぱいあります。」

と、竹村さんは言った。

「でも、私がやっている霊気ヒーリングとは違うと思うわよ。ヒーリングは、心をいやすためのものだけど、クリスタルボウルは、病んでいてもいなくても、聞くことが

できるでしょ。其れは素敵じゃない。病んでいる人も、そうでない人も、同じ場で共有できるんだから。」

と、天童先生が、治療者らしくそういうことを言うのであった。水穂さんが、一寸疲れた顔を見せたので、天童先生が、急いで布団に寝かせてやる。利用者たちは、竹村さんが、クリスタルボウルを片付けているのを、興味深そうに眺めていた。

「でも竹村先生も、やっぱり、クライエントさんのお話を聞いたりすることもあるんでしょ?」

杉ちゃんが聞くとまあそうですね、と竹村さんは答えた。

「確かに、うちへ相談を持ち掛けられることはたくさんあります。その人の中で何人かの方々は、クリスタルボウルで、心が落ち着いたということもあります。偶然かもしれないですけどね。」

「偶然じゃないわよ。ちゃんと、あたしたち、心が癒されたもの。あのゴーンという音で。」

利用者の一人がそういうことを言った。

「素敵な音ですね。竹村先生は、それを奏でられるんだから、素敵だわ。」

と、別の女性が、そういうことを言う。

「大したことありませんよ。それで本当に癒されてくれるというのは、ほんの一握りだけですからね。」

竹村さんは、クリスタルボウルを、ケースに入れながら、そういう事を言った。

「でも素敵、あたし、すごいと思う。」

と、女性の利用者はにこやかに笑った。水穂さんは、もう疲れてしまったのか、布団で眠ってしまっている。天童先生が布団をかけなおしてくれた。水穂さんが、何も起こさず、静かに眠ってくれたのは、何日ぶりだろうか。

「本来、音楽ってのはこういうもんだよな。みんな、気持ちよくなって、笑顔になれるっていうのが、音楽だ。」

と、杉ちゃんがでかい声でそういうと、

「そうね。そうなってくれるといいわね。」

と、天童先生も、にこやかに言った。

その数日後。製鉄所に新たな利用者がやってきた。名前を伊藤美奈子というその彼女は、一寸、大変なところがあるというか、軽い精神疾患と言われていた。元々は、看護師を目指していたらしいが、看護実習などで周りの同級生とうまくいかず、やがてみんなが笑っているとか、誰かが私を見張っているなどと、口にするようになったという。精神疾患になると、見てもいないのに、見られている気がするという妄想を抱いてしまうこともある。つまり、認識したり、判断したり、そういうところが病んでしまうのが精神疾患ということだろう。もちろん、精神科医が出す薬も大事なのであるが、大事なことは、その間違ったおもいこみというものを、修正してやることであった。

伊藤美奈子は、製鉄所の日常生活でもほかの利用者たちに、誰か私の机をいじったでしょ、とか、そういうことを口にするのだった。そんなことはしていないと、利用者たちはそういうのであるが、彼女は、机をいじったとか、靴を踏んづけたとか、そういう話をするので、次第に彼女から遠ざかっていくようになった。

「伊藤美奈子さんは、一寸困ったわね。」

と、お茶を飲みながら利用者たちは言った。

「本当に、私の机をいじったとか、そういうことばっかり口にして。」

「そうだけど、それが彼女の症状だし、そういう風にしか彼女は見られないんだから

、其れは、しょうがないと思うしかないんじゃないかしら。まだ、はやりの発疹熱とか、そういうことを話題にしないだけましよ。」

と、別の利用者が、そういう事を言うと、食堂から、ギャーっという叫び声が聞こえてくるのである。ああまたはじまったと利用者二人は、食堂へ行った。

「一体どうしたの、美奈子さん。」

と、利用者の一人が聞くと、

「いや、怖い怖い!」

と美奈子は、テレビを指さして、そういうことを言っている。テレビはお笑い番組をやっていて、利用者たちも、楽しみにしていた番組の一つだった。其れが見られなくなるというのは、利用者たちも困ってしまうのであるが。とりあえずテレビは消して、美奈子には、いつも携帯している、薬を飲んでもらう。水穂さんのように、眠ってしまうことはないけれど、これで落ち着いてくれればまだいい方なのだが、そういうことさえできなくなることさえある。今日はちょうどそれだった。美奈子はギャーっと言って、自分の体を自分の手でたたき続ける。其れをふさぐためには、身体拘束でもしなければならないのではないかと思われるが、なぜか、そういう精神疾患をももった人は、自分の手で、自分を傷つける事もいとわないようである。

「美奈子さん。大丈夫よ。これはお笑い番組だから、何も怖いことなんかないわよ。」

と、ほかの利用者がか彼女を慰めるが、美奈子は、テレビが怖いと言った。もしかしたら、テレビがあるだけで怖いということかもしれないが。

「でも、テレビを撤去されたら困るわよね。」

力のある男性利用者たちが、彼女をとりあえず押さえている間、女性たちはそういうことを言っていた。やがて男性利用者に連れられて、美奈子は食堂を出て、彼女の居室に戻っていく。こういう重症な人は、住み込みの確立が高い。其れは家族も、患者というか、当事者と付き合いたくないという気持ちがあって、彼女を捨ててしまうという意味も含まれている。

「もしかしたら彼女、自分だけがつらい思いをしていると思っているからじゃないかしら。自分のいうことをわかってくれない。みんな、違う違うと否定してしまうから。」

と、利用者の一人がそういうことを言った。利用者の中でも、彼女は一番家庭的で、みんなのお母さんと言われている人物である。

「そうね。其れは、言えてるかもしれないわね。でもよ、あの楽しい番組を、怖いなんて言われちゃよ。誰だって、ムカッと来ちゃうんじゃない?どう?」

別の利用者がそういうことを言うと、

「ええ、そうなんだけどね。でも、美奈子さんにとっては、そう見えるんだから其れはしなきゃいけないんじゃない?彼女の視線は彼女の視線であるんだろうし。いくら精神が病んでいる人であってもよ。一応、見たり聞いたり何かしているんだから、それを否定するのは、いけないんじゃないかしら?」

お母さん的な利用者はそう言った。

「まあねえ、それが理想的なんだけどさあ、あたしたちは、専門の業者じゃないし、ただの素人でしょ。どうしたらいいかなんて、マニュアルがあるわけでもあるまいし。どうしたらいいかなんて、わかんないわよ。」

別の利用者がそういうと、

「そうね。でも、そうやって、どんどんどんどん突き放して行ったら、彼女も傷つくんじゃないかしら、やっぱり誰かが、私は違う、あなたを見捨てないって、態度で示してやることが、彼女を落ち着かせる一番の手段だと思うなあ。」

お母さん的な利用者は言った。

「そうだけど、それは、あたしたちにはねえ。」

また別の利用者が言う。

「だめだめ、そんなこと考えちゃ。私たちだって、もともとは、そういう身分だったんだから。もとは同じようなものよ。だから、彼女は私たちと違うなんて思いこんじゃだめよ。私たちだって、一度は精神疾患って、診断されているんだし。其れは、同じでしょ。」

「そうね。じゃあ、それを考えなければならないわ。あたしたちも、もとは同じということを考えれば、彼女を一人ぼっちにしてはいけないわよね。じゃあ、テレビでも、同じように読み取れなかったら、ほかのもので私たちは、皆同じだって、感じてもらうしかないわ。テレビは、そう認識の違いがあるんだから、何か一緒に共感してもらえる道具を探さなきゃ。」

「そうねえ。」

また別の利用者がそういうことを言った。

「あ、思いついた!」

先ほどのお母さんと呼ばれている利用者が、でかい声で言う。

「どうしたのよ。何を思いついたの?」

別の利用者が聞くと、

「テレビは映像があるんだから、ダメなのよ。そういうことなら、音で試してもらいましょう。」

と、先ほどの利用者は答える。

「つまり、水穂さんに、ピアノでも弾いてもらうの?でも、こないだ、直伝霊気の先生が、しばらく安静にさせてやってくれって、そう言ってたじゃないの。」

「いや、其れなら、ほかの楽器のひとに頼みましょう。きっと彼女はピアノとかバイオリンとか、形のあるものだったら、困ると思うの、そうじゃなくて、もっと、単純な形をした楽器の音を聞いてもらうのよ。」

「はあ、リコーダーとかそういうもの?」

と、利用者がそう聞くと、

「いやあ、リコーダーは学生生活を思い出される危険があるからダメよ。あたしたちもそうだったけど、学生生活は、楽しくなかったと口をそろえて言うじゃないの。それではだめよ。そうじゃなくて、あの、風呂桶みたいな形をした、ものすごくいい音のする楽器。あれ、なんていうんだっけ?」

お母さんと呼ばれている利用者がそう提案すると、利用者たちは、

「クリスタルボウル!」

と異口同音に言った。

「そうそう。それそれ。きっと知らない人は楽器だなんてぜったい思わないわよ。ただのガラスの器とか、風呂桶くらいしか思わないわ。其れがあんないい音を出すって

なったら、美奈子さんもびっくりすると思うわ。良い音が出るってのは、あたしたちが証明できるし、それに竹村先生も、治療に使うって言ってたじゃない。あたしたちで竹村先生にお願いしてさ、演奏してもらいましょう。」

「さすが、お母さんだわ。そういう風に、提案できるんだから。」

利用者たちは、腕組みをしてため息をついた。

「じゃあ、善は急げよ。すぐに竹村先生に連絡しましょ。あの先生は、竹村なんて言ったっけ。」

と、お母さんと呼ばれた利用者は、急いで、タブレットを取り出した。

「えーと、竹村優紀先生。優秀の優に、紀は糸へんに己。」

利用者は、急いで竹村優紀と検索欄に打ち込んだ。

「ほら、竹村先生のブログよ。これにメールアドレスでも公開しているんじゃないかな。」

と、利用者は、竹村さんのブログを開いた。ブログは医療の専門用語ばかりで、何の

事なのかよくわからない内容だったけれど、竹村さんの電話番号というか、携帯電話の番号が、掲載されているページがあった。

「よし、ここからかけてみよう。」

と、別の利用者が自分のスマートフォンを出して、竹村さんの番号をダイヤルした。施術でもしていたら、出てくださらないかなと思ったが、移動中だったらしい。電車のガタンゴトンという音に続き、はい、竹村ですが、という声が聞こえてくる。

「あの、竹村先生。私たち、大渕の製鉄所のものなんですが、もう一回、クリスタルボウルの演奏をしていただけないでしょうか。お金は、あたしたちで払いますから。」

と、利用者は急いで竹村さんに言うと、

「何か、わけがあるのですか?」

と竹村さんは言った。

「ええ、どうしても助けたい友達がいるんです。先日からこちらに住み込みで来ている利用者さんなんですが、どうしてもこちらの方へ関心を向けてくれなくて、テレビの映像も怖いと言っているんです。彼女を何とかするには、映像を共有することはできない。音を通して共有させてあげるのが、一番いいのではないかと思いましてね。」

利用者がそういうと竹村さんは、

「でも、クリスタルボウルの音で、その人が喜んでくれない可能性もありますよね。」

といった。すると別の利用者が、スマートフォンをむしり取って、

「あああの、竹村先生。あたしたちは、遊び半分で言っているんじゃありません。彼女を助けたいんです。彼女が、こっちのせかいにかえってくるには、クリスタルボウルみたいな、そういう不格好な形をした楽器が良いと思うんですよ。あたしたちもそうだったけど、ピアノやバイオリンのような楽器では、その形を見るだけで抵抗感がある人もいますよね。それに比べると、クリスタルボウルは、風呂桶にしか見えないし。」

と、ちょっと失礼なセリフを交えながら言った。この女性は、失礼な事を平気で言ってしまう癖がある。でも、彼女の態度に、今回はみんな注意をしなかった。

「そういうわけですから、やってください。演奏料はあたしたちで割り勘で払います。」

と、女性が言うと、竹村さんは、

「わかりました。明日そちらに伺います。あなたたちの要望の通りなら、早い方が良いでしょう。料金ですが、1500円でかまいません。」

と、親切にそういってくれた。電話をかけていた女性は、思わず、

「あ、ありがとうございます!」

とでかい声で言ってしまった。

「いいえ、大丈夫ですよ。誰か必要な人が居れば、行かなくちゃならないのが施術者なんです。明日の午前中に伺いますから、よろしくお願いします。」

と竹村さんがそういっている声が聞こえてくるが、もう電話をかけた彼女も興奮状態になり、半分涙を浮かべている。もしかしたら、美奈子さんみたいな人を助けてあげられるのは、こういう女性しかいないのかもしれない。

そして翌日。竹村さんが、クリスタルボウルのケースをもって、製鉄所に来てくれた。利用者たちは、彼を中庭へ案内しながら、もううれしくてしょうがないような目つきをしていたが、竹村さんは喜ばないほうが良いと彼女たちに言った。美奈子は、あのお母さんといわれいた女性が、すごく面白いことをやってくれる人が居ると言って、中庭に連れてきた。

竹村さんは、中庭に入って、素早くクリスタルボウルを設置する。美奈子は、一体何が始まるのと言っていたが、同時に竹村さんが、マレットでクリスタルボウルをたたいたので、その音に引き寄せられていくようになった。トランペットのような音でもないし、ピアノのようなメロディーを奏でるわけでもないけれど、ゴーン、ゴーンという音は、美奈子にも十分伝わってくれたらしい。彼女は、その場を動くことなく、その音に聞き入っている。

「よし、うまく、」

利用者の一人が、そう言いかけたが、お母さんと呼ばれている女性がそれをやめさせた。それがばれたら、大変なことになる。

「教会の鐘みたい。私が子供のころに、好きだった父が連れて行ってくれたの。」

美奈子はそういうことを言っている。利用者たちは、顔を見合わせた。確か、彼女は、幼いころ、両親が離婚して母親と二人暮らしだと紹介された覚えがある。

「そうなんだ。お父さんとの思い出なんだね。」

と、一人の利用者がそういうことを言うと、

「ええ、私が世界で一番好きだったのは、お父さん。」

と彼女は言うのであった。その顔が何とも言えないにこやかな顔で、理由を聞かなくても、良い気持ちに浸っているのだと思われることがわかる顔であった。

「そうか、じゃあ、あたしたちも、お父さんの思いでに近い音を味わってもいいかな。」

と、利用者がそう聞くと、

「いいわよ。」

と、彼女は言うのであった。やっと彼女と意思を通じ合うことができたかと、利用者たちは、一生懸命ため息をつきたいのを我慢して、クリスタルボウルの音を聞き入っていた。その間にも、竹村さんのクリスタルボウルは、ゴーン、ゴーンとなり続けた。

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増田朋美 @masubuchi4996

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