雨の日は振り返るな

益田ふゆつぐ

「雨の日は振り返るな」



 雲一つない空を見ていると、この町に引っ越してきた日のことを思い出す。

「どうした?」

 空を見てぼうっとしていたヒロヤにクラスメイトが不思議そうに声かけた。

「なんでもない」

 ヒロヤが素っ気なく返答すると、クラスメイトは興味を失ったのか、また黙る。

 そのまま二人は特に喋るでもなく、淡々と歩いていった。そして、分岐に差し掛かったところで、お義理のように手を振って別れる。

 この町に引っ越してきて二カ月ほど経ったが、ヒロヤは同級生と親しくなれていない。彼が人付き合いの得意な方ではない、というも理由のひとつだろう。しかし、それを差し引いてもクラスメイトとヒロヤの間には、なにか決定的に相容れないものがあるのだ。

 その決定的な差をヒロヤは未だに理解できない。

 酷い差別を受けている、という感覚ではない。むしろ、あちら側もヒロヤをどう扱っていいのか戸惑っているような、そんな雰囲気なのだ。

 かといって、ヒロヤを除け者にするわけでもない。困っていれば手を貸してくれるし、今日も帰り道はクラスメイトと一緒に下校した。

 見張られているのだろうか。

 ヒロヤは、ぼんやりとそう思った。

 ランドセルを背負い直し、彼は静かな道を歩いていく。

 土曜日の昼下がりだというのに、誰も歩いていない。もしかしたら食卓を囲んでいるのかもしれない。だから世界中から人間が消えてしまったかのように、静かで物寂しいのだろう。

 家に着くまでのほんの少しの間、一人きりで歩く通学路。

 自分しかいない世界を空想しながら歩いていたヒロヤは、ふと足を止めた。

 ぱちぱちと目を瞬き、辺りを見回す。

 彼には微かな水の流れが聞こえていた。それなのにどこにも水源は見当たらない。気になって側溝を覗き込んだが、からからに乾いていた。そういえば最近は雨が降っていないとヒロヤは思い出す。

 耳を澄ましたまま慎重に家路を辿る。

 次第に水が流れる音は遠ざかり、家に着くころには聞こえなくなった。

 家では両親と祖母がヒロヤの帰ってくるのを待っていた。四人揃って食卓を囲み、他愛のない話をする。食事が終わると、ヒロヤはすぐに祖母の部屋へ行く。

 祖母の部屋は彼がこの家で一番気に入っている場所であった。

 ベッドと小さな鏡台、それにこれまた小さな本棚。何もかもが小作りな祖母の部屋は、縁側に面しており、奥庭に面した静かな場所だ。

 ヒロヤが引っ越しを嫌がらなかった理由は祖母との同居が大きい。環境が変わることへの不安はあったが、物静かな祖母と一緒に暮らせることの方が魅力的だった。

 普段は陽当たりの良い場所に陣取り、マンガを読むのだが、今日は違う。

「ねえ、おばあちゃん」

「どうしたの」

 ベッドに腰を下ろし、編み物をしようとしていた祖母は視線を彼に向けた。その隣に座りヒロヤは帰り道での出来事を説明する。

 すると、祖母は普段と変わらぬ穏やかな口ぶりで言った。

「あそこには川があるからねぇ」

「川なんてないよ」

「目には見えない場所に流れているから」

「なに、それ?」

「地面の下」

 祖母は静かな眼差しをヒロヤから裏庭へと移動させる。

 奥庭は祖母が整えているため、雑草の類は生えていない。少し物寂しい気もするが、余計なものがない裏庭は祖母らしいとヒロヤは思う。

「そこの塀の向こうにも、前は小さな川があったのよ」

「うそだぁ」

「本当」

 にこりと祖母が笑う。

 それから祖母は、この町にはあちこち人工の流れがあり、水道が当たり前に使える以前には生活の要だったことをヒロヤに話してくれた。それは掘割というもので、大きな流れには船が行き交っていたのだと。

「うちにも船があったの?」

「うちにはなかったよ。○○の所らへんにはたぁくさんいたけどねぇ」

 市中心部の地名を挙げ、祖母は懐かしむように目を細める。

 ヒロヤはそんな祖母の郷愁よりも、テレビで見たベネツィアの如き姿を、かつてこの町がしていたのだと、そのことに興奮していた。

 でも、どうしてなくなってしまったのだろう。

 今のこの町には護岸工事を成された貧相な川があるばかりだ。祖母が言うようなロマンチックなものは見当たらない。

「どうしてなくなっちゃったの? すごいのに」

「そりゃあ、自動車の方が楽だからねぇ。水道もできたし、お台所で水が使えるのが当たり前になったから」

 祖母はからからと笑う。

 ヒロヤは素っ気ないアスファルトやコンクリートの下にある川の流れを想像する。地表からは見えないその流れは、どうしてか彼にクラスメイト達を想起させた。



 少し肌寒い。

 ヒロヤは傘の下で腕をさすった。

 雨が多い季節になり、湿度と共に気温も上がるはずだが、屋外で風に吹かれると冷たく感じる。

 大人達が今年は冷夏だと噂していた。

 プールの授業が始まる前に雨が少なくなってほしいものだ。ヒロヤは溜息つき、足元を見ながら歩きだした。

 長雨で通学路には幾筋も水の流れが生まれ、側溝へと吸い込まれていく。行きつく先は川だ。いつもは貧弱な水量の川が勢いを増していた。

 重なり合う水音が傘の下で奇妙に響く。

 ぱしゃん。

 水溜りを派手に鳴らす。ヒロヤの傘で区切られた狭い世界から、一瞬だけそれ以外の音が消えた。

 ――ぱしゃん。

 ぎくりとヒロヤは身を固くした。

 背後から、彼がしたように水たまりを踏みつけた音が飛び込んできたからだ。たったそれだけのことなのに、ヒロヤは怖くなって背後を振り返ることができない。

 続く足音がないのだ。水溜まりを踏みつけた誰かは次の一歩を踏み出すことなく、じっと彼の背中を見つめている。そう考えただけでヒロヤは動けなくなってしまった。

 さっさと立ち去ってしまいたいのに、歩き出したらあっという間に追いつかれて……。そんな想像で頭がいっぱいになってしまう。

 ぱちゃ……。

 けれど、ヒロヤを縫い留める想像も真後ろで水音がした時に弾けてしまった。

 一目散にヒロヤは駆け出す。傘を盾のように構え、足元の水を蹴立てて学校を目指してひた走る。

 もう自分の足音なのか、それとも追いかけてくる何者かの足音なのか、判別がつかなかった。耳の奥まで水音でいっぱいになり、ぴとぴと、ぱしゃぱしゃとそれしか聞こえない。

 そんなふうに脇目もふらず走り続けていたヒロヤの足がもつれた。一瞬体が宙に浮き、盛大に濡れた地面に倒れ込む。

「うわっ」

 声を上げたのはヒロヤではなかった。息を切らした彼が見たのはクラスメイトの顔だ。それも一人ではない。五人ほどが、わらわらとヒロヤを取り囲む。

「大丈夫か」

 その中の一人が神妙な顔つきで手を差し出す。他の一人がヒロヤの上に傘をさしかけてくれた。

 のろのろとずぶ濡れになったヒロヤは立ち上がる。

 全力で走って体が疲れていたが、それ以上に心が疲弊していた。そのせいか転んだところをクラスメイトに見られたのに、恥ずかしさはあまり感じない。

「ほら、傘」

 転んだ拍子に手放した傘を渡され、ヒロヤは億劫に思いながらも差す。

 乱れていた呼吸が落ち着くにつれ、濡れた服が体に張り付く感触が気になりだした。感触が気持ち悪い。なによりも冷たくて気分が悪くなりそうだ。

 朝から憂鬱な気持ちになったしまった。ヒロヤは鬱々とした溜息を吐き、歩き出す。

 学校についたら体操服に着替えよう。そうすれば多少はマシなはず。そんなことを考えていたヒロヤは、クラスメイト達が動こうとしないことに遅まきながら気づいた。

「なにしてるの?」

 クラスメイト達は顔を見合わせ、視線を交わし合うだけで何も言わない。

 明らかに彼らはヒロヤに対して、事情を説明するべきか迷っている。それはヒロヤが余所者であると物語る態度だった。

 ヒロヤとクラスメイト達はお互いに戸惑い、困惑している。

 どぎまぎした空気が流れだした。

 誰もが動けず、雨だけが視界の中で落ち続ける。

「なぁにやってんの」

 ぎょっとした顔で、その場にいた全員が声のした方を向いた。視線を一斉に向けられたのは学年が上の女子で、一瞬怯んだものの負けん気を覗かせ、ヒロヤ達を睥睨する。

「別に」

 そう言ってヒロヤに手を貸してくれたクラスメイトがそっぽを向いた。

 つかつかとその女子はそっぽを向いたクラスメイトの傍までやってくると、周囲を見回した。そして、なにやら納得した顔でクラスメイトの顔を指さす。

「ケンちゃんって、ほんと分かりやすいよね」

「なにがだよ」

 ケンちゃんは女子に噛みつきそうな顔で言う。

「あんたさ、なんか隠したとき絶対そっち見ないもん」

 ヒロヤはケンちゃんが顔を背けた方を見た。そこには門扉を隔て半壊した家屋と、ヒロヤの背丈の半分ほどもある草が伸び放題の前庭がある。大きな冷蔵庫がぽつんと前庭に捨てられていた。

「あんなとこ入ったら危ないわよ」

 女子はそれだけ言うと彼らに背を向けてしまう。

 ヒロヤ達もそれを皮切りにぞろぞろと学校へ向かって歩き出した。

 ひそひそと言葉が交わされる。

「どうする」

「知らないなら」

「女子も知らないし」

「雨だから」

「あいつも……」

「あんきょ」

 会話の切れ端がヒロヤの耳に入り込んでくる。

 そこにある不穏な気配が雨音のように体に染み込んできた。



 ヒロヤは街路に立っていた。四辻の真ん中に立っている彼からは、四方に伸びた道の先までよく見える。

 道の所々には掘割が並行して走っていた。そして掘割に沿うようにして家屋や田畑が存在している。

 まるで掘割に合わせて町が作られたように見えた。

 水がないと人は死ぬ。

 だから水に合わせて町を作ってきたのだと、ヒロヤはなんとなく思った。

 彼は自分が何か握っていることに気付き、掌を開く。そこには小ぶりの鍵がある。鈍色のそれをどうにかしなくては、と思い立ったヒロヤは歩き出した。

 足は自然と通学路へと向かう。

 確信も何もない。ただ、それが当然のことだと感じられる。

 掘割に沿って歩くうち、彼は小舟が幾艘か溜まっている場所を見つけた。これに乗っていこう。ヒロヤは当たり前のように決断し、掘割に切ってある石段を下る。

 小舟は船頭もいないのにするすると音もなく、ヒロヤを乗せて文字通り滑るように動き出した。

 景色が後方に流れていく。

 微かに頬に触れる風を心地良く受け止めていると、船が微かに軋んだ音を立てた。それは停止する合図だったのか、小舟は掘割に切られた石段の横に腹をつけている。

 ヒロヤは躊躇うことなく小舟を降りると、再び歩き始めた。

 通学路を多少遠回りする格好になったが、それでもヒロヤは自分が目的地に辿り着いたのだと理解していた。

 彼が足を止めたのは、一軒の邸の前である。

 立派な門扉には錠が降りていた。ヒロヤは手の中にあった鍵を使い、鍵を開ける。抵抗なく門扉が解放された。

 門扉の奥には整えられた前庭があり、季節の花が咲いている。飛び石の先にはしっかりとした玄関があった。もう手の中に鍵はない。屋敷の中に入る手立てはないだろう。仕方なくヒロヤは中に入ることを諦める。

 前庭をぶらぶらと散策していると、庭の片隅に掘割を引き込んだ流れがあることにヒロヤは気づいた。水路の傍には水芭蕉が数株咲いている。

 水面がどうなっているのか。ヒロヤは興味を抱き、歩み寄る。

 ささやかなその流れを覗いていると、水底にちらちらと蠢いているものがあると気づいた。ヒロヤは、それに触れようと流れに手を伸ばす。

 おや、とヒロヤは疑問を抱いた。ちらちらと蠢いた何かが、鏡写しのようにヒロヤに向かって手を伸ばしてくる。

 ――ああ、あれは。

 そう思って目を瞬いたとき、文字通りの一瞬で目に映る景色が切り替わった・

 鼻の奥に水の臭いが残っていた。

 けれど目に映るのは見慣れた天井だ。

 掛け布団を体の上から剥がし、ヒロヤは立ち上がる。

 夢だ。しかも飛び切り奇妙な。

 眠っていたのに、寝た気があまりしない。

 ぼんやりとしたままヒロヤは学校に行く準備を終え、家を出た。

 空模様は相変わらず悪い。

 けれど傘は学校に忘れてきてしまった。降らないといいな、と思いながらヒロヤはいつもと同じ通学路を歩く。

「あっ」

 昨日と同じ場所にクラスメイト達が溜まっている。

 どうしたのだろうと疑問に思ったが、ヒロヤはそのまま通り過ぎることにした。雨がいつ降るかもわからない。

 それでもヒロヤは横目でクラスメイト達を見る。別に興味がないわけではないのだ。

 ちらりと見たクラスメイト達は廃屋を前に、なにやら話し込んでいる様子である。彼らの奥には微かに傾いだ門扉があった。

 ぼんやりしていたヒロヤは、頭から水を掛けられたような心地になる。

 あれは――、自分が明けたのだと奇妙な確信があった。

 ごくりと唾を飲み、知らず知らずのうちにヒロヤは足を止めてしまう。早く立ち去りたいのに、体は動かなくなっていた。

 そんな彼に気付いたクラスメイト達が一斉に振り向く。

 しばらく双方が無言で視線だけが行き交う。

 ぽつっとヒロヤの鼻の頭に雨粒が落ちてきた。

 それが機会になったのか、クラスメイトが一人前に出る。昨日ケンちゃんと呼ばれていたクラスメイトだ。

「お前」

 また、ごくりとヒロヤは唾を飲んだ。何を言われるのか分かったのだ。

「これ、開けたろ?」

 言葉自体は疑問形だ。だが、声音には確認の意志がはっきりと感じられる。

 どうして。夢の中の出来事のはずなのに。ヒロヤは頭の中がぐらぐらと揺れている感じがした。

 ばちゃん。

 廃屋の奥から、水の跳ねる音がした。

 雨脚がじわじわと強くなる。

 ケンちゃんはぐいとヒロヤと肩を組む。有無を言わさない強さだった。

 そのまま他のクラスメイト達が彼らを取り囲むようにして歩き出す。

 事態についていけないヒロヤは混乱して、口を開こうとした。しかし、ケンちゃんは自分の口の前で人差し指を立て、ヒロヤを制した。

「お前は喋んな」

 ちらちらと視線を走らせればケンちゃんだけでなく、他のクラスメイト達も真剣な顔をしている。その様子があまりに怖く、ヒロヤは黙って頷くことしかできない。

 ぱたぱたと雨があちこちを叩く音がさらに強くなっていた。

 けれど、それ以外の音もはっきりしている。

 昨日の雨でできた水溜まりを踏む音が、遠く、近く、彼らの周りにある。

 それはついてくるのだとヒロヤは咄嗟に理解した。だが、何がついてくるのか一向に分からない。無性にヒロヤはケンちゃんの手から逃れて背後を確認したい衝動に駆られた。

 ヒロヤが首を動かす。

 するとケンちゃんが肩を組む力が一層強くなる。

 ぱちゃん。

 ぴたん。

 したん。

 水が跳ねる音が、水の滴る音が、水の打つ音が、背後からヒロヤ達についてくる。

「なあ、いいか」

 ケンちゃんが耳元で囁いた。

「雨の日は振り返るな」

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雨の日は振り返るな 益田ふゆつぐ @masukawa

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