第58話 初めて知る母の愛の真実
ひとしきり号泣した志乃は、半里ほど山奥の隣家を思い出した。
せめてなりと、母の行方を知る手がかりが欲しかった。
志乃の生家よりは増しながら、あまりの極貧ぶりに訪れたほうが狼狽えるような小屋の主は、志乃のおぼろな記憶にあるとおり、手長猿にそっくりの小男だった。
上から下まで呆れるほどの
「あんれまあ、志乃さでねえかい。まんず、お久しぶりだったじゃねえかい」
見苦しい無精髭から綿埃のかたまりをいくつもぶら下げた手長猿男は、皺ばんだ目を小狡げに見開いてみせた。
「ご無沙汰いたしました。小父さんもお変わりなくてなによりです」
志乃が挨拶すると、手長猿男は昆虫のような目に野卑な光を点らせ、志乃と山吹大夫を見た。猿の三吉は無視して、舌なめずりするように粘っこく言ってのけた。
「志乃さときたら、まんずはあ、ここいらじゃ見かけぬ別嬪になりおってからに。おっかさんにそっくりだわい。で、そっちは志乃さのこれかい? なかなかの色男じゃあねえかい」手長猿男は節くれだった親指を立てて、にやりと嗤ってみせる。
ぞくっと肌が粟立ったが、志乃はぐっと堪えて下手に出た。
「小父さん。うちのおっかさんのこと、ご存じありませんか?」
一瞬、押し黙った手長猿男は、小馬鹿にしきったような口調で、冷然と告げた。
「それがなえ、えらいことになってよう。あんときゃ、おらあも迷惑しただわえ」
礼金でも要求されそうな言辞には取り合わず、志乃はぐっと詰め寄っていった。
「いかような? 小父さん、おっかさんの身に、なにがあったのですか?!」
チロリと志乃に三白眼を放った手長猿男は、急にプイッとあらぬ方角を見た。
「あんたぁのおっかさんはこの世の人じゃあねえよ」
「ええっ! いったい、なにがあったのですか?!」
「あんな、殺されただよ、コレによう」
志乃の全身から血の気が退き、手足の指先が氷のように冷たくなっていく。
――殺された……男に……殺された……。
二度、三度と繰り返してみて、はじめて手長猿男の言う意味が理解できた。
ヘナヘナと地べたに座りこんだ志乃の頬を、おびただしい涙が流れ落ちた。
――おっかさん、おっかさん!
そんな目に遭っていたなんて。
ごめんね、おっかさん。
助けてやれずにごめんね。
薄情な娘を許して……。
猿楽の出し物でも愉しむかのようにニヤニヤしていた手長猿男は、さらに言わでもがなを付言して来る。
「そりゃあもう、凄まじいありさまだったなえ。どうにもこうにも酷過ぎて目も当てられねえ。いきなり現場を見せられたこっちも、生きた心地がしなかったわえ」
顔色を変えた山吹大夫よりも早く、「キーッ!」猿の三吉が飛びかかっていた。
「あいててっ。こいつ、なにをしやがる。すべての後始末は、いってえだれがしてやったと思っていやがる。生意気な真似をしやがると猿とて容赦しねえぞ。おい、そこの色男の旦那、しつけがなってねえぞ、小面憎いエテ公のしつけがよう!」
烏賊墨のような毒を吐き散らす口に「キキキーッ!」もう一発、猛烈な一撃を食らわしてやった三吉は、自分で自分に興奮し、やる気満々の挑発をつづけている。
猿の無礼を詫びもしない山吹大夫に業を煮やした手長猿男は、さらに憂さ晴らしをぶちまけた。
「ところで、志乃さ。あんた、承知しておるかえ? おっかさんが身をもって娘を庇った事実を」
――ビクン!
地べたに俯せていた志乃は、
「あんたぁの小屋へ通っておった男はな、じつは志乃さが目当てだったのさ。それと察したおっかさんは自分の身を投げ出して娘を守ろうとした。そこへ、たまたまやって来た諏訪巫の一座に、死に物狂いで志乃さを紛れこませたっちゅうわけさ」
ならば、わたくしが家を出て間なしに、おっかさんは男に殺されたのか!
――いやだあ、いやだよ、おっかさぁん!
乾いた雑木林に、志乃の絶叫が響き渡った。
羽を休めていた鳥がいっせいに飛び立ち、鉄色の梢が御弔いのように騒めいた。
三吉の威嚇に根負けした手長猿男は、渋々おっかさんの墓の場所を指し示した。
昼なお暗い湿地の片隅で小さく儚い土饅頭が半ば崩れかけていた。遠からず跡形もなく消えてしまいそうだ。幼児のいたずらのような土饅頭を志乃は掻き抱いた。
感謝するどころか恨んでさえいたわたくしは本当に愚かだった。
いまさらあやまっても遅いけど、おっかさん、本当にごめんね。
――おっかさん、おっかさん。愛しいおっかさん……。
野の花1輪さえ供えられていない土饅頭が、カサッと泣いたような気がした。
「松本へおっかさんを移せばいいよ」
山吹大夫がしみじみ志乃に告げた。
「志乃どのの母上の話を聞いておったら、なにやら、拙者も捨てられたのではないような気がしてまいった。ことごとくの退路を断たれ、死出の旅路に立つ景徳院殿(武田勝頼)さまに従うとき、せめて赤子だけは助けたいと、近くの草藪に隠したのではなかったろうか。捨てられたのではなく、じつは守られたのじゃ、拙者は」
西の空に飛騨山脈を浮かべる保福寺峠をひたひたと越えながら、志乃はこの無上に佳き人を得た幸せを、じっくりと噛み締めていた。
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