第57話 志乃の生まれ故郷・信濃上田へ
4月16日(陽暦5月24日)午の刻。
一行は、信濃は上田の郊外を歩いていた。
10年ぶりに訪ねる故郷は、呆れるほど変わっていなかった。
――こんな田舎に生まれ育ったのか、わたくしは……。
各地を経巡り、珍しい事物を見てきた目に、故郷の凡庸さはむしろ新鮮に映る。
――わたくしは母に捨てられたのか。
――わたくしが母を捨てたのか……。
先刻から志乃は同じ問答を繰り返していた。
信濃巫の一座に入って母子の小屋をあとにしたときは、前者の思いしかなかったが、この10年で相当に老けこんだであろう母の面影を想像すると、こんな山中に冷酷に打ち捨て置いた子としてのうしろめたさに、キリキリと責め苛まれて来る。
山吹大夫はなにも言わずに歩を進めていく。
時折り顔を見せる仲間に怯えた猿の三吉は、山吹大夫の背にしがみついていた。
「こやつ、自分を猿だと認識していないのだよ」
可笑しそうに告げた山吹大夫は、
「よしよし。いい子じゃな」
人間の赤子のように揺すぶりながら、やさしく三吉をおんぶしてやった。
馬糞が転がる山道を、息せききって駆けのぼった志乃は、思わず叫んだ。
「あっ! ここです」
記憶にある小道は丈高い草に埋もれていたが、志乃は一気に駆け降りた。
なつかしいがうえにもなつかしい山小屋が、ひっそりとたたずんでいた。
だが、人の気配がまったく感じられぬ。
藁葺き屋根は崩れ、軒は傾き、戸障子は破れ、野卑な風の棲み処になっている。
――おっかさん!
静まり返った森に、近くを流れる沢の音が、むかしにつづく現在を謳っている。
――ただいま、おっかさん!
巣穴の奥の母親を求める獣の仔のように、一心に母の名を呼ばわりながら、志乃は足早に小屋に踏み入って行った。
だれも答えぬ。
だれもおらぬ。
風雨に曝された粗末な調度が、無人の歳月の長さを如実に物語っていた。
ワラワラと膝から
弱々しく抱き起こされながら、志乃は子どものようにワッと声を放って泣いた。
――申し訳ありません、おっかさん。
こんな事態になっているとは露知らず、おのれだけ好き勝手に暮らしていた薄情な娘を、どうかどうかお許しください。ああ、おっかさん、どうかどうか……。
志乃の彷徨を乗せた渓流は、どこか遠くの川下へと勢いよく流れ下って行く。
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