第50話 信濃・川中島の仕置き
3月29日卯の刻。
佐渡を発ったふたりと1匹は、越後の直江津経由で信濃の川中島へと向かった。
旅慣れた一行にとって、越後と信濃の隣国同志は、ほんのひとまたぎの至近距離のはずだったが、鯨海の海路が大荒れに荒れて、思いのほか手間取ったので、その晩は海津城下の木賃宿に泊まり、翌10日の朝から川中島城下の探索を開始した。
すでに両手に余る役職を兼任していた大久保長安が新たに川中島12万石の松平忠輝附家老を命じられたのは、生涯で最も活発な活動期にあった慶長8年のこと。
ときに、家康は60歳。
大久保石見守は58歳。
松平忠輝は11歳。
「石見守さまはさぞ張りきられたことでしょうね、孫のように年少の若殿さまを、わが手で守ろうとして」
北信濃特有の広やかな青空の下を歩きながら、志乃は山吹大夫に語りかける。
「それはもう。たいそう世話好きな方だから、うるさいほどのイソイソぶりが目に見えるようじゃ。思い返せば、拙者が石見守さまのご高配で甲斐の猿楽師の師匠に就いた時期もほぼ同年代だったと記憶しておる」山吹大夫は遠い眼差しになった。
忠輝はまぎれもない家康の6男であるが、
――生母の茶阿局の身分が低い。
――持って生まれた容貌が醜い。
――織田信長の命令で自ら切腹に追い込んだ長男・信康によく似ている……。
子どもからすれば理不尽きわまりない理由をもって、実父から疎まれつづけた。
ちょうど小間物の卸問屋の紺暖簾を掛けている番頭がいたので、「おはようございます。朝からご精が出ますね。いかがですか? ご商売は」志乃はさっそく声をかけてみた。
「はい、おかげさまで商売繁盛でございますよ。なにぶんにもお殿さまのお仕置きがすこぶるよろしいんでね」番頭の如才なさに釣られ、志乃の口調もつい弾む。
「奥方の五郎八姫さまは、先のご城代でいらっした石見守さまのご仲介でお殿さまに御輿入りなさったんでしたよね?」さり気なく振ると、「お殿さまは、なにぶんにもお若くていらっしゃいますし、福島城をご本拠となさっておいでです。そこを下々の情にも通じたご家老さまが当地のお仕置きを上手にご補佐くださったのですが、まさか、あのようなことになられようとは……」番頭の声はにわかに潤んだ。
つぎに訪ねた旅籠でも、茶店でも、金物屋でも、畳職人も、行商人も、いちように大久保石見守を慕い、尊ぶ、真実味の籠もった証言を聞き出すことができた。
閑話休題。
一行の探索から3年後の元和2年(1616)。
松平忠輝は兄で2代将軍・秀忠から改易を命じられ、伊勢国朝熊に配流された。
裏の理由のひとつとして、家老で城代の大久保長安との親密な交流が囁かれた。
志乃の異母兄、上野沼田藩主・真田信之は、それからさらに6年後の元和8年、秀忠の「外様飛ばし」で父祖伝来の信濃上田を追われ、川中島に転封されている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます