第51話 碓氷峠の殺陣





 同日酉の刻。

 ふたりと1匹の一行は碓氷峠を急いでいた。


 山吹大夫の肩に九官鳥のように止まった猿の三吉はもの珍しげに周囲を見回し、降り注ぐ木漏れ日に目を細めたり、鳥の飛び立つ音に大仰に驚いたりしている。


 白煙を吐く浅間山の陽気な気配を感じながら、常磐色や花緑青はなろくしょう、若竹などの新緑に染まり郭公の声を背にヒタヒタと歩を進めて行くと、妙な感覚に駆られて来る。


「ねえ、おまえさん。なんだかさ、異界への逃避行めいてはいないかえ?」

 山中で人目がないのを幸い、山吹大夫に寄り添った志乃が甘え声で囁くと、

「だよな。いっそふたりですたこらさっさ、現世からおさらばと行こうか」

 お道化て答える山吹大夫に、微妙に堅い芯のようなものがひそんでいる。


 志乃がハッと見上げると、緑陰に染まった端整な顔はこの世の人のものならず。


「いやだよ、おまえさん。妖怪でも出そうなところで、へんに現実味のある冗談はやめておくれ」こちらも冗談めかし、志乃は本気で山吹大夫の袖にしがみついた。


 ――異界になんぞ行かせてなるものか。


 やがて、信濃・上野両国境に位置する峠の守り神、熊野皇大御所神社に至った。

 見るからに古めかしい鳥居。

 峠の頂上の地底深くに、頑丈に絡み合った根を張る、樹齢も定かでない大古木。

 それらがわざわざ参拝に訪れる、もの好きな旅人を神代の時代へと誘っている。


 ここから山道は下りになる。

 濡れ縁に腰を下ろし、ホッとひと息ついたときだった。

 社のかげから、パラパラと降ってきたものがあった。


 柿色の忍者装束の一団。

 全員、影絵のように押し黙ったまま、ふたりを目がけて鋭く斬りかかって来る。


 山吹大夫が懐剣で薙ぎ払う。

 猿の三吉が5間も飛び退く。

 志乃も苦無くないで応戦したが、賊は雨だれのように間断なくおそいかかってくる。


 その一瞬の隙に、志乃の勘は近間の樹陰から発信される、鋭い殺気を察知した。

 つぎの瞬間、かねて用意の毒仕込みの手裏剣を、かなたの樹陰に向けて打った。


 ――ギャオーッ!


 凄まじい絶叫が殷々いんいんと新緑に吸い込まれてゆく。


 朋輩の断末魔にうろたえる敵の動揺を機に、勝負の優劣は反転した。

 山吹大夫も志乃もだれとも知れぬ賊を、斬って斬って斬りまくった。


 ――退けい!


 棟梁らしい男が放った低い合図が、志乃には聴きおぼえがある。

 松本城の内紛を煽っておいて逃走した上野弥兵衛にちがいない。


 ともあれ、賊の一団は穴に逃げこむ鼠のように緑陰に吸いこまれた。


 ――ふうぅっ。


 したたるほど汗ばんだ身体から、なかなか動悸が去ってくれぬ。


 ――かように軟弱なことでは、天下の諏訪巫の名が泣こうぞ。


 おのれの狭量に恥じ入った志乃は、

「よくぞ吹き矢に気づいてくれたな」

 山吹大夫に褒められて頬を熱くした。


「思わぬ邪魔が入りましたが、伊豆守さまの沼田まで、もう少しでございますよ」気を取り直した志乃が励ますと、山吹大夫も緊張気味の思案顔を少しゆるめて、

「いずこの手のものか知らぬが、われらの探索がよほど気に入らぬものと見える」


 修羅場からいち早く遁走した三吉は、いつの間にかちゃっかりもどっていて、


 ――で、それがなにか?


 と言わんばかりに、山吹大夫の肩の上から志乃を睥睨へいげいしている。

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