第34話 ご禁制の大久保家の家紋
ふいに半白髪の中年男があらわれた。
身なりは百姓風だが、目つきの鋭さが尋常ではない。
先刻から志乃を観察していたのだろう。
男は咎めるような口調で訊ねてくる。
「娘さん、どこから来なすった? ここでなにをしていなさる?」
「わたくしはこちらのお屋敷にお仕えしていた女中の身内でございます」
とっさに志乃が言い訳を述べると、男は疑わしげに突っこんできた。
「で、そのお女中はどうされたのじゃ」
「こちらのお殿さまがこういうことになられましてから行方知れずとなりまして。いつまで待っても帰らないので、思いきって甲斐から探しに出て参りました」
嘘も方便はくノ一の一芸である。
「ふむ、わざわざ甲斐からのう。……なかなかに難儀なことじゃのう」
男は半信半疑の口調で、志乃の言辞に曖昧にうなずいた。
――「甲斐」の地名に引っかかりおった。
どうやら図星のようじゃ。
志乃はとっさの思いつきを、目の前の男にぶつけてみることにした。
「あの、まことにぶしつけで申し訳ありませんが、『八王子千人同心』と呼ばれる方々をご存知でいらっしゃいますか?」
男はにわかに警戒し、弛め始めていた口もとをふたたび引き結んだ。
「いや、知らん。さようなことを訊ねて、いかがいたすつもりじゃ?」
「こちらのお殿さまが、武田のご遺臣をたいそう大切になさっていたとうかがっていたものですから。みなさん、現在はいかがなさっていらっしゃるかしらと……」
尖っていた男の目からスウッと険が消えた。男は、つと近寄ると、「これもなにかのご縁じゃ。こちらへ参られよ」ささやくような小声で志乃の耳もとに告げた。
男は、筋肉質の広い背中をほとんど上下させない、無駄な動きのない速足で前を歩いて行く。ひと言も口をきかず半里ほど歩いた男は、鋭い目つきであたりを素早く見まわすと、志乃に顎をしゃくって、どこにもありそうな杜に分け入って行く。
鬱蒼たる雑木林に、よく見なければわからないほど小さな祠が置かれていた。
祠の前にしゃがみこんだ男は、居ずまいを正し、静かに手を合わせている。
おごそかに合掌を終えた男は志乃に向き直り、簡潔に説明した。
「われら同朋がひそかにお祀りしている『石見鎮護社』でござる」
――石見守さまの鎮護社……。
志乃は口中でなぞった。
小さな観音開きの奥に1尺四方の楕円形の石が鎮座している。男が石を恭しく持ち上げ裏をかざすと、丸に桐、鷹の羽、下がり藤の真ん中に「大」の字が見える。
志乃は思わず叫びそうになった。
――ご禁制の大久保家の家紋を、こんなところに隠し彫っているとは!
日焼けした頬をかすかに上気させた男は由来を語り始めた。
「これは浅川の河原石でござる。このあたりの住民は、はるかむかしから暴れ川の満水(洪水)に苦しめられてきた。とりわけ、梅雨や秋の長雨の時節には、流されては直し、流されては直すという無為な作業を、延々と繰り返して来たのじゃ」
――川の近くに住むということは、そういうことなのか。
志乃の脳裡を、梓川と奈良井川が合流して犀川に綯われる地点に位置する、元忍の老夫婦の小屋がよぎっていく。
「母なる浅川は、わしらの飲み水や水田に引く水、魚介類などの恵みをもたらせてくれるが、ひとたび暴れるとなると、手がつけられぬほど大暴れする。それがこの地域の宿命と、みんな諦めておったのじゃが、さような
男の真摯な口調は、志乃を心から得心させ、感動させた。治水とは単に川の流れを治めるだけでなく、沿岸に住む人々の心も不安から解き放つ、偉大な地方仕置きだったのだ。
太古の大むかしからの滔々たる流れに磨かれ、滑らかに角の取れた楕円形の石を見詰めているうちに、志乃はおのれの目頭が潤んでいることに気づいた。
――いかなる場合もやわな感情に流されることなく、いつも冷静沈着、あるいは冷徹、ときには冷酷ですらあらねばならない諏訪巫が、かような物語にもらい泣きしていてどうする。
忍を生業とする者として不甲斐ない自分を叱咤激励してみても、奔流に呑まれた漂流物のように目茶目茶に揺り動かされた胸の奥から殷々と込みあげてくるものをどうしても止めることができない。
千都姫さまの権化と思われる白い金蛇の願いを適えようと、遠く信濃から訪ねて来て、いまこの瞬間、さっき会ったばかりの中年男とふたり、秘密の祠の前にたたずんでいる。そんな自分の身の上が、志乃には不可思議に思われてならなかった。
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