第35話 八王子千人同心の里にて
志乃の嗚咽がやむと、男がボソッと告げた。
「では、ご案内しよう」
――いずこへ?
泣き濡れた目で志乃が問うと、
「そなたがすこぶる興味を抱いておられるらしい、強者どもの村へ」
男は茶目っぽく答え、白い歯を見せた。
よく見れば、なかなかの男前である。
志乃は思わずドギマギした。
――いけない、いけない。
またしても、わたくしのわるい癖が……。
いい男と見れば、すぐにこれだから。
右近さま、ごめんなさい。
志乃はふところの印籠に、こっそり詫びた。
以心伝心というのであろうか、男もまた志乃に関心をもったようすで、
「よく見れば、娘御、なかなかの別嬪ではないか。気の強そうな眼差し、利かん気の鼻、意思の強そうな、それでいて愛らしい口もと……拙者の好みに、ズバリ的中でござる」至極あけっぴろげに告白して来る。
「んまぁ、無礼な。よく見ればは、余計でございますよ。それに、いかにも生意気な女子と言わんばかりのお申し越し。おからかいになってはいやでございます」
ツンとすねて答える口調に媚びを含ませたのが、われながら面映ゆい。
――薄暗い杜で、好ましい殿方とふたりっきり。
ひそかな期待に胸を弾ませたが、男はさすがに甘くはなかった。
「さてと、冗談はこのくらいにしておいて、こちらへお出でなされ」
そう言うなり、もう先に立ってズンズン歩き出す。
――やだ、いまのは冗談だったの?
恨み言を呑みこんで、志乃も仕方なくあとに従う。
男が案内してくれたのは「石見鎮護社」にほど近い、鄙びた渓谷の村だった。
大久保長安の懇願により、当初500人ほどの武田の遺臣を受け入れた家康は、
「できますれば、さらにもう500名ほど……」
虫のいい願いもあっさり聞き入れた。
ここに、同じ不遇を味わっただけに強固な団結心に結ばれた、半農半兵の、
――八王子千人同心。
が組織された。
敵方の敗残兵の面倒を見る。
一見、美談だが、むろん、家康にとっては慈善事業であろうはずはなかった。
――路頭に迷った者どもに、ここで恩義を売っておけば、有事の際、下手な外様大名どもよりずっと役に立つはず。
それが本音であったろう。
家康の目論見は的中した。
ふつうなら残党狩りで
あるいは濡れ雑巾のように打ち捨てられ、野獣の餌になるのが関の山。
なのに、命を救ってくれたばかりか、雨露を凌ぐ家や食べ物まで恵んでくれた。
篤い恩義を感じた元武田氏配下の「八王子千人同心」は、そっくりそのまま徳川家康の忠実な家臣になった。
かくて、すべてが万々歳。
四方八方が丸くおさまった。
だが、昨春、状況が一変した。
棟梁・大久保長安への不正蓄財疑惑や天下乗っ取り疑惑などにより、その配下の「八王子千人同心」の存在も危機に瀕する事態となった。
だが、さすがは賢明な家康。
信頼を逆手にとって増長した大久保長安はいくら憎んでも憎みきれぬほど憎い。
だが、だからといって、いざというときのために、日頃から給餌して来た優秀な武士集団まで根絶やしにするような愚かさは、持ち合わせていなかったらしい。
かくて、去年の桜につづく今年の桜が、何事もなく咲いたのであった。
志乃のために集まってくれた10人ほどの屈強な男たちは、村の中央の欅の木の下に車座になり、口々に亡き大久保長安への思慕を語り始めた。
「身どもの娘が重い病に取り憑かれたとき、御自ら祈祷の猿楽を舞ってくださったのは、石見守さまご本人でござった。あの折りの恩義、拙者、終生、忘れはせぬ」
人の好さそうな丸顔の初老が熱をこめて語る。
「皆の衆も知ってのとおり、うちの息子夫婦はどういうものか仲がわるうて困っておったのじゃが、派手な夫婦げんかの最中に通りかかった石見守さまが、即興で滑稽な猿楽を見せてくださり、それ以降は、打って変わって仲睦まじくなりおった。いかなる奇術をつかわれたやら不思議でならぬが、とにかく偉いお方でござった」
枯れ枝のように痩せた老人も、負けじとばかりに黄色い唾を飛ばした。
ふたりの話にさかんに首肯していた若い同心も、控え目に力説する。
「徳のおありになる石見守さまが救ってくださったのは、人間ばかりではないぞ。宿無し犬が谷底にはまっておったときも、通りすがりの石見守さまは、自ら袴の裾をたくしあげて崖を駆け降り、川に入って助けてくださった。当の犬もワンワンとしきりに御礼を申しておった。いや、笑ってくださるな。これ、嘘偽りのない本当の話じゃ」
当然ながら、だれもが問題の根幹への言及は避けている。
けれども、いまだに偉大な棟梁として慕い仰ぐ大久保長安にまつわる逸話が披露されればされるほど、昨春の一件の理不尽さが念押しされる結果になった。
話が途切れると、どこからともなくピュウッと一陣の風が巻き起こった。
百姓の身なりをした元武士として、ひそかな野心を捨てきれていない男たちの生々しい体臭を、志乃の鼻先にムワッと運んで来る。
汗臭さに辟易しつつも、志乃はだれにともなく訊いてみた。
「ところで、
「なに、信松庵とな? さようなところに、なに用じゃ?」
鋭く聞き咎めたのは、いかつい身体つきの若い同心だった。
――われこそは武田の姫君のお守り役の第一人者なり。
何人たりとも、自分の許可なく指一本触れさせはせぬ。
身体中で恫喝せんばかりに力んだ若者は、鼻息も荒く気色ばんでみせた。
――あれあれ。まるで自分ひとりで尼さまを守っているような言いっぷり。
こういう素朴な人物が、著名人の周囲には必ずひとりふたりいるものだが……。独り相撲の若者を、やんわりとなだめてくれたのは、例の案内人の中年男だった。
「まあ、よいではないか。先刻からの話で、この娘御の心意気は十分に得心できたはず。おお、そうだ。成りゆきついでに、信松庵へも拙者が案内して進ぜよう」
告げるなり、もう身軽に立ち上がっている。
――なんともまあ、気の早いお方だこと。
志乃は可笑しくなりながら、ふたたびふたりで歩ける道中の楽しさを期待した。
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