第32話 大月宿山中の祠の木乃伊






 翌朝、志乃は、暗いうちに宿を発った。

 若い肉体は快復が速い。

 昨夜は床に入ってから、ふくらはぎの張りが少し気になったが、ひと晩の熟睡で初日の疲労はきれいに抜け、鍛え上げた全身に面白いほどの精気が漲っている。


 ――本日もまた、行けるところまで行こう。


 昼食の握り飯は宿で調達してあるし、どこといって気になるところはない。

 まさに怖いものなしの心境だった。

 石和、栗原、勝沼と過ぎると、甲州街道の12関所のひとつ「鶴瀬の口留番所」に差しかかった。


 見るからに厳めしげな役人たちが、地方から江戸に持ちこまれる鉄砲類、逆に、江戸からこっそり地方へ抜け出ようとする大名関連の女たち「入鉄砲と出女」を取り締まっているが、右近から通行手形を渡されていた志乃は、難なく通過できた。


 鶴瀬、駒飼、黒野田、阿弥陀海道、白野、中初狩、下初狩、花咲と通過し、間もなく大月宿という山中にかかったところで、とつぜんの夕立になった。見まわすと木立のなかに崩れかけた小祠があったので、雨宿りに軒先を借りることにする。


 ザーッとばかりに降りしきった雷雨が通り過ぎ、ムッとした暑気が払われると、暑い甲斐といえど、さすがは標高の高い山中、意外なほど涼しい気が満ちてきた。


 ――まあ、なんて気持ちがいい。


 胸いっぱいに深呼吸をすると、


 ――はて、妙な……。


 犬並みに発達した志乃の嗅覚は、土の匂いとは異なる、生臭い獣臭をとらえた。

 鼻孔をひくつかせると、異臭はどうやら、朽ちかけた祠から漏れてくるらしい。

 一瞬間、ためらったのち、風雨に晒された観音開きに、思いきって手をかけた。


 ――ギーッ。


 軋んだ音を立てて、錆びついた扉が左右に開く。

 とたん、志乃は思いっきり目ん玉をひん剥いた。


 ――ウワァッー!!!!


 閉じたくても閉じられない目の向こうに、土気色に干からびた1体の木乃伊みいらがあった。折れた膝のなかに頭を突き入れ、自分の脚を自分で抱え、団子虫のように丸まっている。窮屈な場所に人為的に押しこめられ、そのままの格好で、悶絶しながら息絶えたとしか思えない光景だった。


 ジリジリ後退りした志乃は、狐に追われた兎のように、横っ飛びにすっ飛んだ。


 ――あな恐ろしや、恐ろしや。


 頭髪から手足の産毛にいたるまで、全身の毛という毛が逆立っている。

 一刻も早く、1寸でも遠くへ逃げようと、大月、駒橋、猿橋、鳥沢と、飛ばしに飛ばして駆け抜け、つぎの犬目宿に着いたときはさすがにヘトヘトになっていた。


 宿を選ぶ余裕もなく、一番手前の旅籠に飛び込んだ。

 どうとばかりに上がり框に倒れこんだ志乃に、年増の女中が悲鳴を挙げた。


 翌朝、旅も3日目に入ると、いっそう気が急いて来る。

 昨日の木乃伊はともかく、旅につきものの山賊や追い剥ぎのたぐいに一度も遭遇しないのは幸運だった。くノ一の九字護身や霊験あらたかな富士山のご加護によるものかどうか、とにかく、目的のある旅路に邪魔が入らないのはありがたかった。


 駒橋宿に連なる宿場を俊足で駆け抜けると、上野原宿からいよいよ武蔵である。

 甲武国境をまたぐ小仏峠は、かつて、武田信玄の麾下きかの小山田信茂が、滝山城の北条氏照を討伐した、


 ――廿里とどりの戦い。


 の舞台となった場所で、頂上に設置された小仏関では、役人というよりも、百姓風の出で立ちの男たちが、両国を行き来する通行人を穏やかに取り締まっていた。それもそのはずで、あとから思い返せば「八王子千人同心」だったのだが……。


 勢いに乗って20近い宿場を駆け抜けると、いよいよ目指す八王子宿だった。

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