第31話 大久保長安不正蓄財事件の謎を探る旅
3月8日寅の刻。
旅支度を整えた志乃は、伊作と末夫婦の小屋を出立した。
まだ暗いなか、堤の上まで見送りに出てくれた老夫婦は、口ぐちに真実味の籠もった声を掛けてくれた。
「心して行って参れ。無事に探索を果たしたらきっとここへ帰って来るのじゃぞ」「くれぐれも気をつけて。そなたは丈夫そうに見えて案外、脆いところがあるゆえ、そなたの印籠に、
――あちゃあ、隠しておいた印籠を見つけられてしまったらしい。
志乃はカッと熱く頬を火照らせながらも、コクンと素直に頷いた。
「では、小父さん、小母さん、行って参ります」
丁寧にあいさつして歩き出し、しばらくしてから振り返って見ると、牡丹鼠色に明け初めた川霞のなかに、小柄な老夫婦が影のように寄り添って立っていた。
――老いるとは、なんと切ない現実だろうか。
志乃は鼻の奥がツーンと熱くなるのを感じたが、思わずもどりたくなる気持ちを押しとどめ、あえて足早に歩を進めて行く。
やがて、進路方向に対峙する東の空が、混じりけのない珊瑚色に明るんで来た。
――幸先や、よし!
両手の中指を人差し指に絡め、九字護身法(臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前)のひとつで、魔除け効果があるとされている
最初の目的地は、武蔵の八王子と決めている。
石見、大和、美濃、信濃、駿河、伊豆、武蔵、上野、越後など10指に余る地域で卓抜な仕置きの手腕を揮い、嫉妬混じりの揶揄を込めて「天下の総代官」と渾名された大久保長安の重要活動拠点のひとつだった。
早暁の中山道を一路南下し、塩尻の
諏訪湖の広さと青さに目を瞠りながら湖岸を上諏訪へと進み、金沢宿から
――なんと神々しい!
穏やかな春の日に燦然と輝く日ノ本一の霊峰に、志乃は先途の行慶を祈った。
峠を下り蔦木宿を超えると韮崎宿で、江戸日本橋を起点とする甲州街道に入る。
東海道、中山道、日光街道、奥州街道を含めた5街道の随所に設置されている、
――1里塚。
これもまた柔軟な発想に長けた大久保長安の発案であったと承知している。
江戸幕府を開いた家康から「戦乱の世に終止符を打ち、実質的な天下統一を急ぐには、従来の海や川を頼りの水運ではなく、人や物が迅速かつ手軽に移動できる、陸上の交通手段が不可欠である」として街道の整備を任された大久保長安が、旅人の便宜のために提案したのだという。
妬み嫉みの筋からは、「偉そうに武士を名乗っているが、もとはといえば、たかが猿楽師じゃないか」「おもしろおかしい猿踊りで、猿楽好きな大御所さまに巧みに取り入りおってからに」「申してはなんじゃが、踊る方も踊らされる方も、文字どおりの猿芝居じゃわ」「ほうよ、どっちもどっちよ」さんざんな陰口を叩かれたらしいが、なかなかどうして、人情味と賢明さを兼ね備えた立派な方だったのだ。
話し相手のいない一人旅の志乃は、
――さあ、また1里、八王子に近づきましたよ。
無言で励ましてくれる道標という存在のありがたさに、あらためて感じ入った。
とはいえ、いくら忍者走りを使っても松本から1日で八王子には到着できない。
「どうずら、ちっとは身体がぬくとくなったかね」
「そんねにうんめいかい? ほぉずらよぉ、当宿自慢の味だでね」
「遠慮せず、まっと食いなんし、若い衆はいくらでも入るずらい」
大久保長安不正蓄財事件の謎を探る旅1泊目の宿を取った甲府宿では、聞き慣れないお国言葉と味噌仕立ての
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