第30話 上田紬の印籠のお守り





 

 

 翌3月6日辰の刻。

 老夫婦の小屋を出た志乃は、待ち合わせの岡宮神社を目指した。


 松島橋を渡って真っ直ぐに東上すると、つい半年前まで暮らしていた松本城だ。

 石川父子入魂の天守閣は、勿忘草色の春空に孤高の雄姿を黙然と浮かべている。


 石川康長が去った松本城には、すでに飯田5万石から小笠原秀政が入封して来ていたが、いまだに胸に強い拘泥を抱いている志乃には、5分咲きの桜花をチリッと揺らせて吹き過ぎる春風までが、どことなく冷たく、よそよそしく感じられる。


 だが、通り過ぎる城下のたたずまいに、これといった変化は見られないようだ。


「どなたが藩主になられようと、手前どもにはいっさいの関係がございません」「さようですとも。天地がひっくり返りでもしない限り、どこまでいっても町人は町人、お武家さまになれるわけではないですから」「せいぜい年貢が上がらぬようにと祈りつつ、昨日につづく今日、今日につづく明日を恬淡と生きるのみでございますわ」平然とうそぶきそうな街並みから顔を背け、志乃は足早に歩いて行った。


 相変わらず人気のない岡宮神社に着くと、素早く辺りを見回して鳥居をくぐる。

 昨秋の落ち葉がうずたかく降り積もった参道を、カサとも音を立てない忍歩きで進み、重厚な社殿のかげにまわると、果たして、鈴木右近はすでに到着していた。


「右近さま!」

「志乃どの!」


 吸い寄せられるように駆け寄ったふたりはどちらからともなく手を握り合った。

 いつもは山奥の湖のように静かな右近が、珍しく今日は熱い眼差しをしている。

 ギュッと激しく掴みに来た両手が、右近の率直な想いを、生に伝えて来ていた。

 

 ――やっぱり、わたしの独りよがりではなかった。


 確信した志乃がひたと寄り添うと、馨しい男の匂いが甘く鼻孔を満たして来る。

 女子のようにやさしい顔がグッと迫り、右近さまのくちびるがわたくしの……。


 と思ったのは志乃の一瞬の妄想にすぎなかったらしい。なにも起こらないことに当惑して目を開けてみると、現実の右近は棒のように突っ立っているだけだった。


 もっとも信頼していた家臣の裏切りで、上野沼田の支城・名胡桃城城代の父親が切腹に追い込まれるという少年時代に舐めた辛酸が頑な人格を形成したのだろう。


 自分が生まれたときからの傅役もりやくとして、肩車をしてくれ、山にも連れて行ってくれ、手取り足取り乗馬や剣術を教えてくれ、さらに器用な手先で見事な仔鹿の人形を彫って、お守りとして持たせてくれた……。

 幼い自分をあれほど可愛がってくれた忠臣中の忠臣が、まさかかげで敵方に内通していようとは!  無防備な足もとを、いきなり横合いからすくわれた衝撃が、


 ――いまは笑顔を見せているこの人も、肚の中では……。


 拭い難い疑念となり、右近の内にしぶとく居座りつづけているのかもしれない。


 すぐ間近に立っている右近の痩身から、うわさに聞く上高地の風穴のような冷気が吹き出し、危害がおよびそうな至近距離への他者の踏み入れを堅く拒んでいた。


 気を取り直し、諏訪巫に還った志乃は、石川家改易の経緯をつぶさに報告した。

 志乃の目を見ようとはせず、面を伏せ加減にして黙って聞いていた右近からは「ならば、金蛇のお告げに従うがよろしいでしょう」簡潔な答えが返って来た。


 ――はぁ? たったのそれだけ。


 よくやったと褒めてくれるとか、難儀であったろうと慰めてくれるとか、拙者はそなたの苦労をよくわかっておるぞとか、もう少し色を付けられないものかしら。


 申してはなんですが、わたしは好いた方に褒められてこそ張りきる性質なのに、その辺の呼吸というか、女心がまるでわかっておられないんだから、この方は。


 ――なんとも張り合いのないこと。


 志乃が仏頂面をしかけたときだった。モゾモゾと自分のふところを探っていた右近の大きな手が、ようやくなにかを掴み出した。自信なさげに目を泳がせながら、オズオズと志乃の前に差し出す。鬼胡桃のような拳のなかからあらわれたのは、


 ――可憐な小花模様が浮き出た布製の印籠。


 両脇に垂らした緒締めも、先端の滑り止めの根付けも、鈍い光沢を放つ艶やかな色糸で、丹念に仕上げられている。逸品中の逸品と、ひと目でわかる上物である。


 志乃が目顔で問うと「上田紬でござる」右近はボソッと簡潔に告げたが、ただ、それきりなので、仕方なく、またしても志乃が話の接ぎ穂を補足してやることに。


「上田紬とは、たしか、貴重な山蚕やまこで織られた正絹の上物でございましたよね」

 男としては抜きん出て色白の顔を、鈴木右近は見る見る首まで薄赤く染めた。


「あの、もしかして、これをわたくしに?」

 問われた右近はあくまで目を逸らせたまま、あるかなきかに顎を上下させる。


「ありがとうございます。大切に肌身はなさず持ち歩いて、お守りにいたします」

 真摯な口調で感謝を告げると、右近は初めて志乃の目をしっかりと見てくれた。


 なんとまあ澄んだ瞳であろうか、汚れなき水晶のような……。

 もしや南蛮の血でも? と思いたくなるような茶色の虹彩が小さな生き物のようにチロチロと揺らぎ、無口な持ち主の繊細な心情を余すところなく表わしている。


 ――ああ、わたくしはこの方が好き。大好き。


 志乃はふたたび激しい恋情に打たれた。双方の気分が高まり、右近も志乃の想いに応えてくれる……かと思いきや、「沼田の御屋形さまへは拙者から報告しておきます」ごくあっさりと告げた右近は、そのままサッサときびすを返していた。


 ぽつんと取り残された志乃の気持ちは、だが、かつてないほど弾んでいた。


 ――ああ、うれしいこと。右近さまのお心の内がたしかめられたいま、わたくしはもはや、ひとりぼっちではない。どこへ行っても、右近さまと同行二人じゃ。


 かくなるうえは武田氏に発する諏訪巫として恥ずかしくない立派な働きを成し、千都姫さま、伊豆守さま、右近さま、みなさまのご期待にお応えしなければ……。


 森閑と静まりかえった境内にやわらかな木漏れ日が惜しみなく降り注いでいる。

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