第29話 城山から鈴木右近に狼煙




 

 

 同日午の刻。

 志乃は島内村の対岸の城山に登り、山頂から上田方面に向けて狼煙を上げた。


 最初に1発。しばらく間を置いて連続で2発。

 3度繰り返すのが右近への合図と決めてある。


 真田信之と志乃の取次をつとめる鈴木右近は、関ヶ原合戦で西軍に就いた昌幸と信繁(幸村)父子が、紀州の九度山へ配流となってから藩主不在になった上田城を上野沼田から動けない信之に代わり、ひそかに守っている。


 半刻後、東方の王ヶ鼻の山蔭から、するすると1本の白煙が立ち上った。


 ――手応えや、よし!


 志乃は仁王立ちになり、両拳を握り締めた。

 少なくともこの瞬間は、あの山の向こうで鈴木右近さまがわたしを想ってくださっている。それがたとえ任務であろうと、なんてすてきな、珠玉の事実だろう。

 そう思うと、志乃はすこぶる幸福だった。


 一時はすこぶる男前の山吹大夫さまに傾きかけたりもしたけど、あのときは女子として無性にさびしかったんだもの、その辺のところは大目に見てくださいね。


 ――でも、わたしはやっぱり、右近さまが一番好き!


 手前勝手は承知で、胸の奥から湧き上がってくる右近への想いを止められない。

 人気がないのを幸い、志乃は思いきり大声を張り上げた。


 「おおい、上田の右近さま~。志乃は右近さまが恋しゅうてなりませぬよ~」


 松本と上田の間は重畳たる山々で深くさえぎられている。山彦など還って来ようはずもないが、志乃には鈴木右近の返事がはっきり聞こえるような気がした。


 「やっほう、志乃どの~。拙者も、そのぉ……志乃どのを、好いてござるぞ~」


 ――いやですわ、そんな直截な言い方をなさって……。


 ひとり芝居に満足しながら反対側の西の山麓へと一気に雪崩くだる急斜面の藪を見やると、仔犬ぐらいの体型の狸の仔がうしろ足立ちでコチコチに固まっていた。


 ――いきなり大声を出して、何事でございますか?


 とでも言いたげに、まん丸い目を大きく瞠っている。


「ごめんごめん、驚かせてしまったねえ。大丈夫だからね。そんなところで、棒を呑まされた鼯鼠むささびのような顔をしていないで、早くおっかさんのところへお帰り」


 走り去る仔狸を見送った視線で彼方を望見した志乃は、アッと息を呑んだ。

 遠くは安曇野から松本に至る平野が、圧倒的な迫力で眼前に展開している。


 浅緑一色に塗られた広大な平野のまん真ん中を、西の飛騨山脈から流れ下る梓川と、南の茶臼山に源を発する奈良井川が、銀色の帯のようにキラキラと光り煌めきながら蛇行して流れ、ひときわ川幅の広い犀川に、太い縄のように綯われていく。


 6年も住み慣れた松本城からは見たことがない、なんとも壮大な風景だった。


 川岸の森に埋もれ屋根の影すら見えないけれど、伊作と末夫婦が終の棲家と恃む小屋は、西からと南からの川が1本に縁られて北を目指す、あのあたりだろうか。

 ふたつの河川の合流地点に目を凝らした志乃は老夫婦の行く末に思いを馳せた。

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