第27話 島内村の三ツ者老夫妻




 

 同日巳の刻。

 志乃は松本城から1里ほど西方に当たる島内村にいた。


 途中、城の北方にあたる城山から狼煙を上げ、異母兄の真田信之に石川家改易の一件を報告しようかとも考えたが、奥方の小松姫は大御所の養女でもあるし、父親の昌幸に「次男の信繁とちがい、長男は石橋を叩いてもなお渡らぬ慎重居士よ」と苦笑された兄からいまだに指示がないのはなにか理由があるはずと思い留まった。


 かつて、甲斐の武田信玄が隣国の信濃制覇を目論んだとき、子飼いの「三ツ者」が先んじて諜報活動を行った。志乃が身を寄せた伊作と末夫婦もその内の1組で、勝頼の代で武田氏が滅亡したのちも当地に留まり、百姓に身をやつして、ふたたび忍として活動する機会をうかがっていた。


 老夫婦が住む茅屋は、昼なお陰々とほの暗い、川沿いの雑木林の中にあった。

 5年前、松本城に入る前に訪ねたとき、志乃はひそかに訝しんだものだった。

 

 ――すぐそばを大河が流れているのだから瀬音が絶えぬのはわかるが、耳を洗う水音の高さが尋常ではない。ふつうの倍にも聞こえるのはどうしたことか……。


 それもそのはず、雑木林の底に埋もれた茅屋は、南方から流れ来る奈良井川と、西方からの梓川が収斂し犀川として拡大発展する、その地点に位置していたのだ。


 すっかり年老いたいまとなっては、忍への復帰などあり得ないと思われる老夫婦が、細々とした身過ぎ世過ぎと頼る生業は、木曽山中と飛騨山脈にそれぞれの源を発する、ふたつの河川の清冽な水を利用した山葵わさびの栽培だった。


「来たか、志乃。そろそろ来る時分だと、ばあさんとも話しておったところだぞ」

「城ではさぞかし難儀な目に遭うたろう。かわいそうに。ささ、囲炉裏のそばへ」


「ばあさん自慢の野沢菜漬けで、ゆっくり白湯でも飲むがいい」

「おお、そうじゃ。秋茄子のお焼きでもこしらえて、灰にくべようかのう」


「それがいい、それがいい」

 田舎染みた翁と媼そのものの風采の伊作と末は、口々に志乃を歓迎してくれた。


「そなたさえよければ、この家にいつまでおってくれてもわしらは一向に構わんのじゃからな」ぼそっと伊作が告げれば、妻の末は末で、皺ばんだ手でしきりに目蓋を擦りながら、「そなたには実の娘のような情を感じてならぬのじゃ。な、ずっとここにおっておくれでないか」ドキッとするほど真剣な眼差しを向けて来る。


「小父さん小母さん、ありがとうございます。お言葉に甘えてしばらくご厄介になりますね」素直に答えながら、志乃は平凡な暮らしに惹かれる自分を感じていた。


 もし勝手が許されるなら、故郷の上田を離れて以来、忠実につとめてきた諏訪巫もそろそろお役御免にしていただけないものかしら。そして、好いた殿御と夫婦になって、こんなふうに仲睦まじく老いていけたら、どんなに幸せなことだろうか。


 ――鈴木右近さまと山吹大夫さま。


 囲炉裏の榾火ほだびを見詰める志乃の脳裡を、ふたりの快男児が通り過ぎて行く。

 その晩から、志乃は高熱を出して寝込んだ。


「かわいそうに。溜めに溜めこんで来た疲労が、一気に噴き出したのじゃろう」

「無理もないわね。子どもの頃から休む間もなく働きに働いて来たのじゃから」


 老夫婦の親身な看病にもかかわらず、いっとき志乃は危篤状態に陥った。だが、芯に強いものを持っていたのだろう、遅い春の訪れと共に容体は快方へ向かった。

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