第25話 家臣の心のうらおもて

 




 

 同日酉の刻。

 城へもどった志乃は忍者装束に着替え、素早く奥御殿の天井裏にもぐった。


 ――ええい、ままよ。煮て食おうが焼いて食おうが、好きなようにしてくれぃ。


 啖呵をきってゴロンと大の字になりたくなるほど見事になにもなくなった奥御殿では、残り少ない毛髪を真っ白に変えた康長が、越えられぬ父君をいただく2代目の生涯で最大の難局面に喘いでいた。


 目の前に山積の煩瑣な諸事、江戸屋敷に滞留中の妻子の安否、先々の思案……。


 孤独な苦悶の渦中にある康長のもとに、口いっぱい唐辛子を頬張ったような渋面の家臣が馳せ参じ、天井裏の志乃が思わず殺意を覚えるほど、露骨につっけんどんな報告を行っている。


「殿さまのご指示どおり、25年間におよぶ松本藩お仕置きの帳簿や日記の類は、ことごとく破棄し、女鳥羽川に流しました」

「ふむ、ご苦労であった」


「ですが、あまりにも厖大な量の紙を一気に流したせいで、川の流れが滞ってしまいましたので、やむなく川下のほうの河原に引き上げてあります。かくなるうえはたいへん面倒ですが、紙が乾くのを待って、焼却処分するしかないかと存じます」

「ふむ……」


「とにかく、なにをするにも目立ちますので、たいそう苦慮いたしております」

「……済まぬ」


 ――これはまた、おかしな話を聞く。


 天井裏の志乃は腹が立ってならない。


 改易の憂き目に遭ったのは、すべて康長のせいだと言わんばかりの横柄さだが、数正・康長父子2代にわたる隆盛期には、相当いい思いをさせてもらったはずだ。


 なのに、その恩義は都合よく忘れ、恩恵に与かれなくなったとたんに、ここぞとばかりに不平不満を言い立てるとは、武士の、人間の風上にもおけぬではないか。


 眼下で動く日和見侍の不潔に脂光りする髷の頭頂部を苦々しく睨みつけながら、志乃は、いつの間にか康長を擁護する側に立っている自分に気づいて苦笑した。


 ――これも一種の判官贔屓というのだろうか……。


 一瞬の休止もなくまわりつづける独楽のように、風雲急を告げる事態の変転に、還暦も近い康長の心と身体は、なかなかのことに従いていかれないらしい。


 ――人の心とは、これほどまでに変われるものなのか。


 殿さまの腰巾着と称された中年侍が、遠慮のない足音を立てて立ち去ったあと、悄然と肩を落として独りごつ康長が、志乃には痛々しく思われてならなかった。


 つい先日まで床に額を擦りつけていた家臣が、わざとらしい咳払いをしたり。

 立ち止まってお辞儀をするかと思いきや、あからさまに横を向いてみせたり。

 陰険な顔つきの不満分子どもが聞こえよがしの嫌味を大声でまき散らしたり。

 浅ましい本性を剥き出しにした残念無念な輩が、あっちにもこっちにも……。


 いまや両羽を捥ぎ取られた野鳥のように弱っている康長を、錐の先で突きまわすようにいたぶる家臣の醜悪な言動は、ほとんど松本城内の日常と化しかけていた。


「まったくもって、いい迷惑でござる。申してはなんだが、藩主として状況判断を誤った殿は自業自得としても、この寒空に追い出される、われら下々まで明日をも知れぬ身とは、まさに不条理の極みでござる」


「なんでも、後日、お城払いの割賦金なるものが下賜されるそうじゃが、江戸屋敷の整備や御公儀の普請にとことん遣い尽くした藩内の財政はスッカラカンにつき、さようなもの、文字どおりの涙金であろう」


「うっかり期待せぬ方がいい。期待しなければ落胆もせずに済むというものじゃ」


「こういう事態になってみると、父祖の代から石川家ひと筋に尽くして参ったわが家は、わが人生とはなんだったのか。考えれば考えるほど虚しゅうなりますわい」


 城内の随所で遠慮なく垂れ流される怨嗟や愚痴や悪口が、いまや数少ない肉親となった弟の康勝や康次との接見も許されず、残酷な孤独をかこつしかない康長の耳に入らないはずがあろうか。


 ――北信濃特産の根曲がり竹のようにひん曲がった根性と、粗悪な化粧紙のようにペラペラした卑しい口もと、いずれも二度と用が成せぬようにしてやろうか?!


 窮鼠を棒で追い詰めるような不人情ぶりを目の当たりにするにつけ、志乃は半ば本気の侠気に駆られ、廊下や天井裏の薄暗闇でくノ一の目を光らせながら、両手の指をポキポキ鳴らせずにはいられなかった。


 われ先に難破船から逃げ出す鼠の大群のように、担げるだけの物を背負い、持てるだけの物を持ち、行き掛けの駄賃に他家の物品まで失敬する下衆な家来どもは、長年お世話になった城主の康長に別れのあいさつひとつする気もないらしかった。


 嘆かわしいことには、手の裏返しは武士ばかりではなかった。


 つい先日まで綿羊のように従順だった女中たちも、そう申してはなんだが、根が無教養なだけに露骨に計算高い胸のなかでは、すでに「旧主人」として処理済みの康長に、蛇蝎を蔑むように胡乱な視線を放り投げて、一向に恥じるようすもない。


「いまのわしにとっては、一刻一刻が針の筵じゃ。かような蛇の生殺し状態にいつまでも捨て置かれるなら、いっそ今日明日にも豊後佐伯に流されてしまいたい」


 おのれの胃液の饐えた匂いを嗅いで、独りで苦悶する康長は、すでに十分な罰を受けた重罪人だった。


 ――依然として江戸屋敷で幽閉状態にある奥方の文月さまや、大久保長安事件の衝撃から立ち直れず、いまだに寝たり起きたりの千都姫さまと水入らずで暮らせることを思えば、殿さまが独言されるとおり、1日も早く九州へ送られた方がよいのではないか。


 もっとも、あえて中途半端な状況に捨て置き、ことさらじっくりと苦痛を味わわせたいというのが、石川父子を大久保長安と一蓮托生と見做したい大御所の腹の内なのかもしれないが……。


 風のうわさに聞こえて来る一部の大名連のように、御公儀からの一方的な改易に納得せず、あくまで城に居座って最後まで戦おうというほどの気概は、康長の場合まったく見られなかった。


 ――幕閣に抵抗するなど徒労の最たるもの。


 仰せに従うに限るとすっかり観念しているようだ。


 昨今の志乃は、気づけば深い物思いに沈んでいる。

 昼夜を問わない康長の苦悶を見るに忍びなかった。


 だが、ここに、心ある家臣の名誉のために特筆しておくべき尊い真実もあった。

 その人数はごく稀少ながら、引き潮の浜辺に打ち捨てられた若布のように惨めに落ちぶれた康長に、従前とまったく変わらぬ態度で接する忠臣もおるにはおった。


 その代表が、実は若手筆頭の伴三左衛門だった。

 意外な事実は、志乃にある種の感懐を抱かせる。


 ――人間とは一筋縄ではゆかないものと見える。


 冷酷な極悪人と思われていた者が、意外にも好人物の要素を持っていたり、徳のある善人として尊敬されていた者が思いもよらぬ性悪な一面を隠し持っていたり、いまさらだが、人間とは多面体の貌を持つ、いたって面妖な生き物であるらしい。


 自邸に引き籠ったまま、康長の呼び出しにも応じなかった渡辺金内筆頭家老が、枯れ木が斃れるように死去したと耳にしたのは、11月も半ば過ぎの時節だった。

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