第23話 ついに来た、石川家改易の沙汰





 

 慶長18年10月15日(1613年11月26日)寅の刻。

 未明の松本城を御公儀の役人十数名が急襲した。


 物々しい足音に気づいた志乃は、素早くとび起き、奥御殿の天井裏にひそんだ。

 眼下ではまさに、就寝中を叩き起こされ、ポヤポヤと薄い頭髪を逆立てた康長の面前に御公儀の役人頭が重々しく書付を翳している場面が展開されていた。

 

 ――石川玄蕃頭康長、大久保石見守長安の不正蓄財の一件に連座の儀、まことにもって不届き至極につき、来たる11月晦日(29日)をもって松本8万石の改易を命ずる。安曇1万5,000石の肥後守康勝、5,000石の紀伊守康次の両弟ともども豊後佐伯に流罪のうえ、毛利伊勢守高政にお預けを申し渡す。

 

 顔面蒼白になった康長は、座ったまま腰を抜かしかけている。


 ――かつて一度も経験がないゆえ、改易とはどんな状況なのか知らないが、天地が引っくり返るほどの一大事であることに間違いなさそうだ。秀吉から安堵され、現在は家康から預るかたちになっている松本10万石を取り上げられた康長や家臣たちには、この先に、どんな茨の道が待ち受けているのだろう……。


 義兄である上野沼田藩主・真田信之の命で、下女に化けて松本城に潜入している志乃には、正直なところ、石川家への忠誠心はひとかけらもなかった。だが、すぐ眼下で戦慄く康長のただならぬようすに、思いがけず同情が頭をもたげて来た。


 事はただちに渡辺金内筆頭家老に伝えられた。

 大慌てで駆けつけてきた役付連が広間に揃ったのは辰の刻だった。


「みなの者……こたび……御公儀から……改易を……申しつかった……」


 康長が掠れ声を絞り出すと、雷雲のようなどよめきが湧き起こった。


「コホン」いかめしげな咳払いをした役人頭が、北海の岩石のように凝結した一同を見渡して、ことさらに重々しく告げる。


「おのおの方の家族を含め、松本城下に6,000人、江戸屋敷に4,000人、総戸数およそ2,000戸。1軒残らず、11月晦日までに引き払うようお上の厳命である。ここに、しかと申し付ける」


 かしらのうしろに居並ぶ役人どもは、透明な絵筆でひと刷けされたように表情をかき消し、肩ひとつ動かす者とていない。


「しばし、お待ちくだされ。急に命じられましても、行く宛てなき者も多うございます」ほとんど絶叫を発したのは、役職の末席に連なっている伴三左衛門だった。


 ――あれまあ、またしても先輩方を差し置いて。


 だが、御公儀の役人の権威を恐れてなにも言えぬ俗物連より、はるかに見どころがあるかもしれない。廊下のかげで聞き耳を立てていた志乃は感心しきりだった。


 果たして、役人頭の肉厚の頬に、底意地のわるい翳が奔った。


「さように些末な仕儀、当方の知ったことではない。文句があったら城主に申すがよい。申すまでもないが、こたびのお上の思し召しは因果応報に発すると、さように心得るがよい。どうじゃ、思い当たる節、大いにあろうが、のう、玄蕃頭どの」


 いきなり振られた康長は、オロオロと当惑した。


 ――余計なことを申すな。


 とりあえず伴三左衛門を睨みつけておいて、「面目至極もございませぬ。仰せの通り、すべては拙者の不徳のいたすところにございます」礼を尽くせば処罰が軽くなるとでもいうように、丁重に下出に出た。だが、役人頭は取りつく島もない。


「とき、すでに遅きに過ぎるのではござらぬか、玄蕃頭どの。かくなる上は、いっさいの弁解無用。いまの貴殿にできることは、ただひとつでござるぞ。立つ鳥跡を濁さず、指定された期日に潔く城から退去される、たったそれのみでござる」


 大勢の家臣の前でピシャリと決めつけられ、いましも首領の座を追われようとしている老猿のように、忿怒と絶望にゆがんだ康長の顔は首筋まで赤黒く染まった。


 ふたたび動揺が広がるなか、先刻からひと言も口を開こうとせぬのは、渡辺金内筆頭家老だった。歯のない口をポッカリと洞窟のように開け、おのれひとりは騒動の外と言いたげな顔を妙に白茶けさせている。


 ――ついに呆けられたのか、ご老体は。


 志乃は怪しんだが、そうではなかったらしい。


「思えば今日の結末は、あの日、先代さまが走り出されたときに、すでに決まっておったようなものじゃ」一瞬の沈黙を狙ったように嗄れ声が流れ出たので、一同、ギョッとして上座を見やった。


 渡辺金内筆頭家老は全員の注視など眼中にないかのような虚ろな表情で、不気味に芝居がかった独り言をつぶやきつづける。「東から西へ走って、さらに北へと。わしら家来ともども漂泊の28年。思えばなんとも滑稽な猿芝居じゃったわい」猿楽師めいた声音はしだいに、物の怪に憑かれたようなおもむきに変わっていった。


「考えてみるがいい。信頼しておったおのれを手ひどく裏切った男を、許せるはずがあろうかよ。憎さは限りなく憎し。なれど、正直な心情の吐露は許されぬ。無理やり封じこめて来た恨みや憎悪は、熟成された歳月の分だけ膨れあがるのは必定。そのあたりの人情の綾に思いを致さぬのは、裏切った側の甘えに過ぎぬじゃろう」


 ――そのとおりでしょうね。


 何事も、やった方は都合よく忘れるが、やられた方はいつまでも忘れないもの。

 それどころか、時間の濾紙に晒されて自ずから明らかになる事実を目の当たりにするにつけ、無理に抑えて来た負の感情を増幅させるのが人の心のありようだし。

 わが身の半生を思い起こした志乃は、渡辺筆頭家老の独言に得心していた。


 武者格子窓から晩秋の冷風がヒューッと音を立てて吹き込んで来て、みんな打ち揃って魂を抜かれた亡霊のような家臣団の首筋を、うそ寒く撫であげていく。


「ええい、やめい、やめい。爺、耄碌もうろくしおったか。埒もない戯言をほざくでない」


 辛うじて城主の威厳をとりもどしたと見える康長が、こわれた捩子ねじのように際限もなくつづくご老体の口説を封じようとしたが、なにもかもうっちゃってどうでもよくなった渡辺筆頭家老は、恬淡とした語りをやめようとはしなかった。


「指の節が白くなるほど堅く握られた、その拳をパッと開く時機を、どれほど待ち望んでおられたことか。かつてご先代に従って大御所さまのお側近くに長年お仕えしておった爺には、お心の内が手に取るようにわかってしまうのでございますわ」


 問答無用の述懐が胸に迫った家来衆は、寂として声も出せずにいる。


「あの当時、大御所さまのご信頼篤かった石見守さまと縁戚関係を結んでおけば、わが家も末永く安泰でいられるとて、風を見誤ったのは若の罪にほかなりませぬ。なれどその前に、先代さまの一件が越すに越せぬ大河のように横たわっておった。千都姫さまのご受難も、またしかり。親の因果が子に報い、子の因果が孫に報う。これ、往古からの真実でござる。殿。どうかご案じめさるな。こたびの一件はなにも格別な事例にあらず、しごく当たり前の世の倣いのひとつに過ぎますまいて」


 地獄の入口の閻魔大王のように言い捨てた渡辺筆頭家老は、ふらっと立ち上がった。土に還る日の間近さを思わせる小柄な老人の、大きく左に傾いだ背中を見送る一同の視界に、初冠雪の飛騨山脈が、ことさらに寒々しい峰を連ねていた。

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