第15話 恋の道行き中町通り
文禄2年(1593)、文禄の役に駆り出された数正が、肥前名護屋で病没する(享年61)と、緻密に組まれた石垣、豊臣大名の権威を示す天守、論理的に構成された城下町、ならびに街道の完成は、嫡男の康長に引き継がれることになった。
――果たして、大甘の2代目に全うできるだろうか。
家臣や城下から危うげに注視され、責任の重さに押しつぶされた康長は「早く、一刻も早く」と功を急ぐ余り、分に過ぎた工事で領民を泣かせることになった。
その象徴が、先述した二ノ丸の太鼓門前に据えられた巨石「玄蕃石」だった。
築城用の石材は、山辺、浅間、岡田など周辺の山から切り出されたが、岡田から発掘された巨石は、先代の遺志貫徹に逸る2代目城主をことのほかに発奮させた。
手柄顔の役人の報告を聞いた康長は、興奮のあまり、膝の上の拳を震わせた。
「よくやった! さように珍重な巨石は、文字どおり当城の礎としようぞ!」
だが、岡田からはるかに遠い松本城までの運搬は、当然ながら難渋を極めた。
多人数で押しても引いてもビクともせぬ重さに音を上げ、苦情を訴えている人足がいると報告を受けた康長は、焼岳や御嶽山のような活火山のごとく憤激した。
「おのれ、先代の遺志を裏切る不忠義者が、百姓の分際で生意気をほざきおるか。そんなやつを放っておいてはのちのちのためにならぬ。腐った芽は早々に摘むに限る。そやつを即刻ここへ引っ立てて参れ。見せしめにわしが懲らしめてくれる!」
一刻も早い完成をと、逸りに逸る計画に水を差され、文字どおり怒髪天を突いた康長は、百姓や町人どもの面前で自ら刀を抜くと、いきなり不届き者を成敗した。
鮮血のしたたる生首を槍の穂先に貫き、運搬行列の先頭に立てた。
そのままのいきおいで自ら巨石の上に飛び乗り、大号令を発した。
「見たか、者ども。さあ、引くがよい!」
こうして太鼓門に据えられた巨石を、城下ではひそかに「玄蕃石」と呼んだ。
城主の居室の天井裏で聞いた一件もまじえた志乃の熱弁を、山吹大夫はほとんど表情を変えずに聞いていたが、やがて、ボソッと独り言のように吐き出した。
「いまの話が本当なら玄蕃頭さまは分がお悪い。ですが、物事にはすべて陰と陽がありますゆえ、ご本人にしかわからない事情がおありになったかもしれませんよ」
予想もしなかった反応に驚き慌てた志乃は、「たしかにおっしゃるとおりでございます。わたくしとしたことが、つい口が滑りました。お恥ずかしゅう存じます」率直に軽率を詫びながら、旅の人の耳には刺激的であろう、とっておきの地元譚として、さも得意げにペラペラしゃべりまくった自分の浅はかさを悔やんでいた。
――でも、そんな山吹大夫さまが、ますます好きになってしまいそう。
胸の中でつぶやき、冷たいほど端整な山吹大夫の横顔をそうっと見上げたとき、わがままを聞いてもらえない人間の子どものように、飴玉でも入れたように両頬をプウッと膨らませた猿の三吉の尖った目と、真正面からカチッとぶつかり合った。
――おおっと危ない。くわばらくわばら。
素早く下を向いた志乃は、なにも気づかない風を装った。
峻烈な飛騨山脈を自然の借景とする高原の城下町には、至るところに、鉤の手、行き止まり、食い違いなど、敵の侵入を阻む工夫が施されている。武家地のまわりには町人地が構成され、その合い間に寺社が配置されていた。大手門のかたわらに石川家の菩提寺の正行寺、西口の裏鬼門に浄林寺、古くから町人の
家並の下には縦横無尽に豊かな水脈が通っているので、城下をそぞろ歩く耳に、どこからか絶えず、せせらぎの音が聞こえて来る。他に類を見ない清冽な城下を、上田の山村生まれの志乃は、いつしか誇りに思うようになっていた。
朝夕、町人たちが手桶を下げて美味しい水を汲みに通い、親しみと若干の警戒をこめて「来たり者」「旅の者」と呼ぶ旅人もまたのどの渇きをいやし、汗を拭う、
――源智の井。
の制札に、今回の下剋上内紛事件の張本人のひとり、渡辺金内筆頭家老の署名を見つけた志乃と山吹大夫は、おや、まあ、というように、同時に顔を見合わせた。
――源智井戸 善水に候 なるほど 不浄なきよう 心付けもうすべく候 なお 制札ださしむべきものなり
午3月 渡辺金内 花押 肝煎 与惣左衛門
有無を言わせぬ威勢に終止符が打たれるときは、果たしていつになるのだろう。
同じ思いでふり返れば、黒々とそびえ立つ天守が凛然と城下を見下ろしていた。
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