第16話 大夫の出自は武田の三ツ者
呉服や小間物、金物などの卸問屋が軒を並べる通りをそぞろ歩きながら、志乃はさり気なく訊いてみた「山吹大夫さまのご生国は、どちらでいらっしゃいますか」
これこそが恋というものであろうか。
昨日出会ったばかりの山吹大夫の人と為り、生きて来た道のすべてを知りたい。余すところなく知り尽くしたいという気持ちに、志乃はしきりに駆られていた。
とつぜんの不躾けな質問に、山吹大夫はしばらくためらっているようだったが、やがて、お城の庭園であれほどの熱弁をふるって観客をわかせた猿楽師と同じ人物とは思えないほど飾り気のない、素朴な口調でおのれの出自を訥々と語り始めた。
「手前、甲斐の生まれと聞かされていますが、物心がついたときはすでに二親ともおりませんでしたので、しかとはわからないのです。なんでも景徳院(武田勝頼)さまが天目山で自決なさったとき、すぐそばの藪のなかで泣いていたとか……」
「えっ、そうだったのですか!」
志乃は思わず声を呑んだ。
「ただ、手前を拾って育ててくれた百姓家は、武田の『三ツ者』でございました」
「ま、なんと……」
いきなり忍の名が滑り出たので、その無防備さ加減に志乃はふたたび驚愕した。
だが、ここまでの警戒心のなさは
さらに推して考えれば、志乃を信頼しての、開けっ広げな告白とも思われる。
「忍術を仕込まれていたある日、石見守さまがお忍びでお見えになりました」
「ほっ、それはまことでございますか?」
次々に重要な名称を紡ぎ出す山吹大夫の口許を、志乃は呆れながら見やった。
「戦を憎んで人を憎まずとして、かつての敵であった武田の遺臣を快く受け入れてくださった大御所さまに仕官なさった石見守さまは、釜無川や笛吹川の堤防の復旧工事、新田開発、金山採掘などに抜きん出て見事なお仕置きのご手腕をふるわれ、それまで荒廃しきっていた甲斐国を、わずか数年で立派に復興なさったのです」
きわめて流暢な猿楽の演目と逆に、自分語りはいたって不得手と見える山吹大夫にしては誇らしげな口調で告げると、遠いまなざしで甲斐の方角を眺めやった。
「猿楽師ご出身の石見守さまが昵懇になさっていた『三ツ者』の家で、小僧っ子の手前をお見初めになり自らお連れくださったのがわが生涯の師・養父の家でした」
「そうだったのですか……」
「猿楽と同時に忍を仕込んでくれた養父は、とりわけ石見や佐渡、甲斐などの鉱山事情に通じておりましたので、そのあとを継ぐことになった手前も自ずから、全国各地の鉱山を中心に旅をする猿楽巡業をつづけるようになったのです」
簡潔に要点を抑えた山吹大夫の話は、初めて聞く志乃の耳にも素直に馴染んだ。
「まことにもって、因縁深いお話でございますね……」
なんの因果か、いまこうして肩を並べている男の半生に思いを馳せながら、いつしか志乃は、山吹大夫がたどった数奇な半生に、おのれの来し方を重ねていた。
――似た者同士。
そんな言葉が胸をついて来る。
――偶然は必然だったかも……。
そうも思ってみたかった。
鈴木右近には少し申し訳ないが、山吹大夫への恋心は、いかんともしがたい。
煌びやかな舞台装束と打って変わって地味な小袖に、志乃はヒタと寄り添った。
山吹大夫の肩の上の三吉は、背中を丸く膨らませて地付きの凄味をきかせる虎猫との睨み合いに夢中だったので、先刻のように野暮な邪魔立てをされずにすんだ。
志乃の目から見れば、寄り添われた山吹大夫も、まんざらでもなさそうである。
両者の間にほのかな気が通い、いましも指先が触れ合おうかというときだった。
――アリャリャ―ッ!
甲高い奇声を発しつつ、金物問屋のかげから黒い覆面の武士が躍り出て来た。
「あっ、上野弥兵衛!」
叫びながら志乃はくノ一の本能から自然に両手を広げて山吹大夫を守っていた。
とっさに手を払い除けた山吹大夫は、逆に、志乃の前に大きく立ちはだかった。
――あら、いけない。山吹大夫さまも忍だったんだっけ。
女だてらに出過ぎたかたちの志乃は、ヒョコッと肩をすくめた。
大上段から振り下ろされた刀を、山吹大夫はヒラリと身軽にかわす。
同時に、いつの間にか抜いた懐刀を下から最短距離ですくい上げる。
その懐刀が、ザッと音を立てて、賊の袴を真っ二つに切り裂いた。
裂け目から剥き出しになった脛に、三吉がガブリと食らいついたから堪らない。
――いてててっ!
「覚えていやがれ」
賊は捨て台詞を吐いて退散した。
「三吉、よくやったな」頭をやさしく撫でてやりながら山吹大夫は志乃に告げた。
「あやつは大御所さまの息がかかった柘植一党の伊賀忍者で、たしか鳶丸とか申す悪党でございますよ」
俊敏な身ごなし。
鷲のような視線。
巧みな人心掌握術……。
ただものには見えなかったが、やっぱりそうだったのか。志乃は心から納得し、身体を張って庇ってくれた山吹大夫への慕情を、いっそう激しく掻き立てさせた。
だが、猿楽師の本業は旅にある。
翌日、名残を惜しむ志乃をひとり置き去りにして、猿楽師・山吹大夫と猿の三吉の一行は、いずこへともなく旅立って行った。
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