第10話 太鼓門巨石生首事件
その夜、戌の刻。
忍者装束に身を固めた志乃は、城主の居室の天井裏に潜んでいた。
真下の
だらしなく脇息にもたれた康長は、
「のう、爺よ。なんとかぬのか。選りにもよってわしの目の前であのような騒動を起こされては、心ノ臓がキュッと縮みあがる。御殿湯での保養が台無しじゃわい」
他人の目がないところでは、いまだに渡辺筆頭家老を、
「爺よ」
甘えきった口調で呼ぶのは、幼少時からの仕来りであろう。
「申し訳ございません。若に無用なご心痛を……」
渡辺家老もまた喜々として「若」に応じている。
「なれど、若も一国一城の当主として、もう少し強気に出られてもよろしゅうございましょう」昼間の騒動の、城主の器量としては失格に等しい采配への不満を口にすると、果たして康長は、武士としては濃すぎて、かえって風格を損なうまつげをパチパチさせながら、「うむ、そうは申してもな。みなの不興を買った例の一件がな、あれがいまだにわしの瘤になっておるのじゃわ」いかにも気弱げに弁明した。
それを聞いた渡辺家老は一瞬、棒を飲んだように黙り込むと、出来の悪い息子を諭すように、
「ふうむ、太鼓門巨石運搬の一件でございますな。ご城主ともあろうお方が、いつまで気にかけておいでやら。20年近くも以前の古い出来事など、覚えておいでになるのはご当人のみ。ご城内でも、ご城下でも、みなとうに忘れておりますよ」
父の数正から建築半ばの城普請を託された康長は、小心ゆえの過剰な責任に逸り立ち、東方の太鼓門に据える巨大な石の掘り出しと運搬の指揮を自ら買って出た。
そのとき、運わるく城下の岡田地籍から掘り出した巨石のあまりの嵩と重量に、ひとりの人足がつい不平を漏らした。すると、それを聞き咎めた康長は、いきなり刀を引き抜いて人足の首を刎ね、その刎ねた首を槍の先に高々と差し上げて巨石の上に飛び乗ると、「見たか、者ども! 不平を言うやつは、これ、このとおりだ。分かったら、さあ引け、やれ引け!」血潮に染まった顔で猛獣のように咆哮した。
いまさら持ち出すに及ばぬ、ほぼ伝説と化した一件である。
「いやいや、どうして、みな執念深く、いまだに忘れてはおらぬぞ。その証拠に、いまでも侍どもから百姓町人に至るまでの老若男女が、わしの顔を見ると、取って食われるとでも言いたげに、慌てて目を伏せおる。まるで鬼か蛇蝎の如しじゃ」
「若、ご不憫な……」
渡辺家老は傷ましげに声を湿らせたが、天井裏の志乃は一片の同情も感じない。
それはそうであろう。若気の至りでは済まされぬ、極悪非道の罪障なのだから。
だが、眼下の渡辺家老は、ひたすら愛しの康長坊ちゃまの慰めにかかっている。
「事情を知らぬ者どもの下馬評はさておくとして、ご当家をつぶさに拝見して来たこの爺の目からすれば、まったくもって無理もない
うち萎れていた康長の顔面に、たちまち喜色がみなぎってくる。
こうなると、つい、言わずもがなの自慢話も出ようというもの。
「正直に申して、あのころのわしは、たしかに血気に逸っておった。でな、この際だから爺には打ち明けておくが、実を申せば、そのむかし、武田信玄さまが佐久の志賀城でご決行なさった、じつにお見事なご勇断な、あれに倣ったまでじゃよ」
――えっ、まさか!
志乃は自分の耳を疑った。
康長が称賛する勇断とは、いまを去る63年前、天文16年(1547)の佐久攻めで、進軍中に討ち取った3,000におよぶ敵方の生首を、征服した志賀城のまわりにずらりと並べて追手を威嚇したという、想像するだに空恐ろしい出来事だった。
――何年、人間をやっているのだ。
この男の内実は20年前と少しも変っていないではないか。
志乃は侮蔑をこめて、真下の城主の白髪頭をにらみつけた。
そのとき、相対する家老の貧弱な髷がずいっと前に傾いだ。
「ところで若、昼間の騒動の一件でございますが、図に乗った伴めらは、そう簡単に引き下がりはいたしますまい。もし、このうわさが御公儀の耳にでも入ったら、面倒な仕儀が生じることは必定と思われます。で、ものはご相談でございますが、
「なに、十兵衛さまにとな? ふむ、さすがは爺じゃ。それは名案かも知れぬな」
優柔不断な康長にしては珍しく勢いこんで、膝を打たんばかりに即答した。
十兵衛とは、武田信玄お抱えの猿楽師・大蔵太夫十郎信安の息子、大久保石見守長安の通称である。武田家の滅亡後は家康に召し抱えられて異例の出世を遂げ、
――天下の総代官。
として畏れられていた。
肝心の領内の仕置きはさておき、天下の動静には妙に鼻が利く康長は、早くから大久保長安に渡りをつけ、娘の千都姫をちゃっかり嫡男の藤十郎に嫁がせていた。
そういえば、と志乃は考えた。
義兄の沼田藩主・真田信之も大久保長安と内密な接触を持っているはずだった。
――なにやら面白くなってきた。
取次の鈴木右近さまと繋がる機会もさらに増えそうだ。
暗い天井裏で、志乃はひそかに胸をときめかせていた。
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