第11話 猿楽師・山吹大夫





 慶長15年3月10日(1610年5月3日)卯の刻。

 格子窓の桟にはたきを掛けていた志乃は、東山の尾根筋から上る1本の煙を見た。


 ――右近さまからの合図だ!


 首尾よく進んでいるらしい。

 は今日と見た。

 先夜、渡辺家老と密談した康長が、


 ――家中の恥を曝すようではございますが……。


 家臣の内紛仲介の依頼状を送った。

 ときを同じくして、志乃からの情報を得た上野沼田城の真田信之からも石川家の事情を知らされた大久保長安が、さっそく手を打ってくれたものと見える。

 

 

 同日巳の刻。

 ひとりの猿楽師が松本城の本丸庭園にあらわれた。


 ふつうなら「遊芸人風情が大手門をくぐるとはけしからん」となるところだが、遊芸好きの城主からはお咎めもない。それどころか、ときがときというのに、


 ――珍しき出し物があるゆえ、みなの者、こぞって見物せよ。


 いたってのどかなお達しがあったというので、不穏な城内に巣食っていた武士も侍女たちも、久しぶりに胸を躍らせながら、ワラワラと浮かれ出て来ていた。


 折りしも、腕達者な錦絵師が、極太の筆に浅葱色の顔彩をたっぷり含ませてひと刷けした如きのどかな空に、鋼のように堅牢な漆黒の天守が黒々と屹立している。はるか西方に連綿と山巓を連ねる飛騨山脈は、やわらかな紫苑色に霞み、さながら牙を奪われた怪獣の如し。

 


 若き猿楽師はとびっきりの男前で、1匹の猿を肩にのせていた。

 押すな推すなと犇めき合う観客を悠然と見渡した猿楽師は、すべての老若男女の心の襞にヒタヒタと寄り添うような官能的な声で、朗々と前口上を述べ始めた。


「さてさて、みなさま方お立ち合い。手前は山吹大夫と申す旅の者にございます。となりに控えおりまするこやつは手前の相棒にて、三吉と申す忠義者。猿はむかしから神仏の遣いとされ、此岸と彼岸を身軽に行ったり来たりしつつ、神仏のご託宣を伝えてくれまする。これ、三吉、みなさまにごあいさつをば申し上げぬか」


 山吹大夫が軽く頭に手をのせると、あざやかな猩々緋しょうじょうひのちゃんちゃんこを着せられた紅鳶色べにとびいろの被毛の猿が、ピョコンと剽軽に腰を折ってみせたので、早くも一同は大爆笑となった。


 惚れ惚れする男前の猿楽師は、格好のいい頭にお決まりの烏帽子をのせている。

 絢爛豪華な御所車模様を浮き出たせた唐織の上着に濃紅の腰帯を巻き、その下には雅な古代紫の大口袴をつけていた。

 

「では、まず『忠度ただのり』を演じさせていただきます」


 山吹大夫はおごそかに告げると、艶のある声に微妙な抑揚をつけて唸り出した。

 

 ――恥づかしや 亡き跡に すがたを返す 夢のうち、覚むる心はいにしへに 迷ふ雨夜の物語り 申さんために 魂魄に 移り変わりて 来たりけり……。

 

 聴き入る聴衆の座に、ことに侍女たちの一群に、ザワッとどよめきが奔った。


「すてき! なんて渋いお声なのかしら。わたくし、身も心も蕩けてしまいそう」

「ほんと! このように美しいお声、いままで一度も聴いた記憶もございませぬ」

「それに、あの粋な都ぶり! 申してはなんでございますが、松本くんだりの武骨一辺倒な田舎侍なんかとは、ハナから比べものになりませぬ」

「どうしましょう。わたくし、あの方の面影が忘れられなくなりそう」

 

 女たちの恋心を鷲掴みにしつつ、当の山吹大夫は飄々と涼しげな顔をしている。


「あの冷たさに、堪らなくそそられますわね」

「キャアッ! こっちを向いてくださいませ」


 明けても暮れても退屈なお城住まいで、新鮮な刺激にかつえている女中衆だった。


 ――六弥太が郎等 おんうしろより立ちまわり 上にまします忠度の 右の腕を打ち落とせば 左のおん手にて 六弥太を取って投げ除け いまはかなはじと思し召してそこ退き給へ 人びとよ 西拝まんと宣ひて 光明遍照 十万世界念仏衆生 摂取不捨 とのたまひし おん声の下よりも 痛はしや あへなくも 六弥太 太刀を抜き持ち ついにおん首を 打ち落とす……。


 平安末期の『千載和歌集』に「読み人しらず」とされて鬼籍に入った藤原俊成の無念を物語る有名な題目『忠度』の山場を、ひとくさり唸り終えた山吹大夫は、「つぎに御地に所縁の場面をご披露申し上げます」淡々と告げるや、口上のつづきのように唸り出した。


 ――わが心 慰めかねつ 更科や 姨捨山に 照る月を見て……。


 老いて姨捨山に捨てられた老女の霊が、中秋の名月の夜さり、都からやって来た旅の男の前で舞う『姨捨』の一節だった。聴く耳朶に殷々と木霊こだまする名調子が、


 ――死のうは一定。


 織田信長が愛唱した小唄のように、若さは一瞬の光、だれもがいつかは生老病死の道をたどる事実をいやでも思い起こさせ、聴衆のなみだを誘わずにはおかない。

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