第5話 想い人・鈴木右近

 



 

 

 鳥居を潜った目の先を、チラッと黒い影が走る。

 見て取った志乃は無言で、参道から足を逸らす。

 昨冬の落ち葉を踏み締めて拝殿の裏側にまわる。

 とそのとき、ついっと、影が寄り添ってきた。

 

 ――右近さま!

 

 志乃は声を出さず、胸いっぱいに叫んだ。

 抑えていた情愛が一気にほとばしり出る。

 

 鈴木忠重右近は、上野国沼田城の支城、名胡桃城城代・鈴木重則の嫡男だった。


 重臣の裏切りで、留守中に城を乗っ取られた責任を負って切腹した父に代わり、沼田城主の真田昌幸に、のち嫡男の信幸(信之)に召し抱えられたが、多感な時期に味わった苛烈な体験から強烈な厭世観に囚われ、ある日忽然と沼田を出奔した。


 10余年に及ぶ流浪中に柳生流剣術と甲賀流忍術を修得し、沼田へもどって信之の側近に返り咲いてから、御公儀にとっては外様である深志藩の石川家を探る間諜として主君の信之から送り込まれたくノ一・志乃の取次をつとめていた。ちなみに信之の正室・小松姫は、家康の重臣・本多忠勝の長女で、家康の養女でもあった。


 さらに時をさかのぼれば、諏訪巫の一座として流浪の歳月を送っていた志乃を見つけ出してくれたのもまた、志乃の異母兄に当たる信之の命を受けた右近だった。

 


 長身痩躯の影は白い顔を綻ばせ、

 

 ――志乃どの。

 

 唇を動かさず、甘い声で囁いた。

 

 右近36歳。

 志乃25歳。

 

 ひとまわり近くも年長ではあるが、聡明かつ繊細な虹彩が妖しくゆらめく魅惑の双眸、やさしげな眉、細く通った鼻梁、ほのかに赤い唇……女子と見紛うばかりの端麗な容姿にさびしげな翳を宿した右近が、志乃には慕わしくてならなかった。

 

 ――右近さまはわたくしをどう思われているのだろう。

 

 そのことがしきりに気になる。


 お城住まいの下女たちと大部屋で眠りにつくとき、志乃は右近の面影をまぶたに思い描いて、ひとり幸福な想いに浸っていたが、その恋しくてたまらない右近が、いまは手を伸ばせば触れそうなほど近くに立っていてくれる。


 夢にまで見た現実に心を躍らせながらも、志乃はくノ一の任務に徹そうとした。

 他人に悟られないよう、口の中だけで転がすような志乃のつぶさな報告を、猫のそれを思わせる複雑な虹彩の文字盤に映し取った右近は、ほんの一瞬、志乃を、

 

 ――男の目で見た。

 

 ような気がした。

 芯が熱くなった。

 

 ――右近さま。

 

 想いが通じたのか、右近はつと指先を動かしたが、すぐに静かに脇に降ろした。

 

 ――右近さまの意気地なし。それほど兄上が怖いのですか。それとも奥方の小松姫さまのほう? わたくしにはとうに、地獄へ落ちる覚悟ができておりますのに。

 

 志乃から目を逸らせた右近の端整な痩身は、次の瞬間、黒い森に消えていた。 

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