第6話 安楽寺の石仏と女の子
満たされない気持ちを持て余した志乃は、ふと思いついて安楽寺に立ち寄った。
このままお城に帰る気には、どうしてもなれない。
口うるさい下女頭にとがめられたら、言いつけられた買い物が1軒の店では間に合わず、何軒もまわったとか、草履の鼻緒が切れて往生したとか、あやうく町人のけんかに巻きこまれそうになったとか、適当に言い訳すればいいと肚を括った。
岡宮神社と同じく城の
古錆びた山門の前には、六地蔵、道祖神、三十三夜塔、庚申塔、馬頭観音などの石像が、ざっと見て数十体、罰当たりな言い方をすれば、
――うようよ。
と形容したくなるほど並んでいた。
赤子を抱いた柔和な観音像や、剽軽な猫をかたどったもの、風雪に晒され、お顔や裳裾の線が消えかけているものから、比較的新しいものまで、石像の建立を思い立った人びとや、一心に刻んだ石工の思いを手繰り寄せてみる想像は楽しかった。
――いつの世にも、人は与えられた命を懸命に生きてきたのだ。
そう考えれば、忍という危うい立ち位置も必然に思われてくる。
――人の心は変わるもの。今日はつれなかった右近さまも、いつなんどき、その気になってくださるかもしれぬゆえ、せいぜい女子力を磨いておかねば……。
岡宮神社での鬱屈を安楽寺に託した志乃は、案外、軽い足取りで歩き出した。
そのとき、猫の石像のかげから、お椀ほどの小さな顔がひょっこり現われた。
薄紅の地に赤い手毬模様のべべを着た幼い女の子。
丸い顔を縁どる切り提髪が、愛らしくゆれている。
「おねえちゃん、なにしてるの?」
女の子は懐こく話しかけて来た。
「仏さまたちとお話しているの」
釣られて志乃が答えると、
「ふうん、どんなお話?」
朝露に濡れた露草のように清らかな双眸が、真っ直ぐ志乃に向けられた。
「仏さまたちは、どこから来て、どこへ行こうとされているのですかってね、そうお訊ねしていたの」
子どもにはいささかむずかしいかもしれないと思いながらも、志乃は、日頃から胸に棲まわせている思いの一端を、ひょいと口にしていた。幼子の理解力が意外に侮れないことは、自分自身の幼少時を思い起こしてもきわめて明白な事実だった。
果たして女の子は、興味津々で問い返してきた。
「仏さまたち、おねえちゃんのお話がわかるの?」
「ええ、おわかりになりますよ。なんならお嬢ちゃんも試してごらんになったら? 可愛いお嬢ちゃんのお話に、仏さま方、きっと大喜びで答えてくださいますよ」
志乃が誘うと、素直な女の子はさっそく猫の石像に話しかけ始めた。
「猫ちゃん、猫ちゃん、石の猫ちゃん。あたしの声、聞こえていますかぁ? 聞こえていたらお返事してくださいませぇ」
――ミュー!
志乃が口の中で愛くるしい仔猫の鳴き声を発すると、驚きのあまりはらりと切り提髪をゆらせた女の子は、摩耗しかけた猫の石像の口許を、まじまじと見詰めた。
「あらま、本当に聞こえたのね、あたしの声!」
――ニャオーン。ゴロゴロ。ミャーオ。
志乃が猫鳴きをつづけると、女の子は苔が生えた石像の裏まで覗きこんでいる。
「この猫ちゃん、どこから来たのかやぁ。おねえちゃんには、なんて聞こえる? ……オラには、……オラにはせぇ、むかしのことはともかくとして、いまここに、こうしてみんなと一緒にいられるのが一番の幸せだって、そう聞こえるじぃ」
あどけなかった口調は、いつの間にか老女のような松本訛りに変じて来ている。
そのうえ語尾が妖しく滲んだので、志乃は思わず眉を開き、女の子を凝視した。
果たして。
赤い手毬模様の袂が、石像群のなかでもひときわ摩耗した像に吸い込まれていくところだった。お顔の表情も定かでない小さな石像は3、4歳の幼児を思わせた。
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