第72話 株の呪縛

「ここ、ライスが無いんです」


「へ?」


 いきなり切り出され、小夜が戸惑った声を出した。


「自家製のパンが自慢らしくて、選べるのは料理だけなんです。その代わり、パンと飲み物はおかわり自由」


「そうなんだ。面白いね」


「ごはん無くても平気ですか?」


「大丈夫。ごはんも好きだけどパンも好き」


「よかった」


 二人は笑みを交わし合った。

 その後、注文を終えた二人は昼食を共にした。小夜が選んだメニューは魚料理で、零央は肉料理だった。食事の最中にも店員の携えたバスケットで提供される自家製のパンを二人は適度に追加した。豊富な種類が用意されたパンは、それだけで食事を楽しいひと時に変えた。


 …不思議だけど、今日は格別だな。


 ひさしぶりに味わう店の料理に零央は驚いていた。何故だか、一口一口の味わいが鮮烈なのだ。これまでにこの料理店で食した料理から特別な変化があったわけではなかった。メニューこそ変わっても、食材や調理の仕方に大きな変化はないはずだ。違うとすれば、それは零央の方だった。


 …まるで、舌がすり替わったみたいだ。


 あり得ない出来事を零央は夢想していた。そんな錯覚を起こさせるほど、舌から伝わる味わいが異なっていた。素直に食事を美味しいと感じた。


 …気づかなかっただけで、相当なストレスだったんだな。


 原因に思い当たっていた。

 食事は三度三度食べてはいた。味や香りもちゃんと分かった。しかし食べる都度、味を噛み締めることはなかった。思考が株の損失に絡め取られていたからだ。他の何をやっていても株のことが頭を占め、振り払ったつもりでも居座り続けた。食事の味わいなど楽しめるわけもなかった。


 …そう言えば、朝起きた時も妙に爽快だったな。


 起床の時を思い返していた。中を占領していた異物が消え去ったかのように体が軽かった。睡眠から覚めたばかりのぼやけた頭で見るカーテンの隙間から差し込む光さえ煌めいて見えた。ベッドから降り、カーテンを開けて窓から眺めたいつもの庭の様子や陽の光までもが新鮮に目に映った。全てを肯定できた。

 大げさな感想ではなかった。事実そう思った。そう感じさせるほど、投資での失態は零央の精神に負荷をかけていたに違いなかった。呪縛から解き放たれて初めて分かる感覚だった。自業自得とはいえ、きついものはきつかった。いや、自分のせいだと分かっているからこそきついのだ。零央は対面でパンをちぎる小夜を見つめた。改めて感謝の念を感じた。


「?」


 視線を感じたのか、小夜が目を上げた。


「…じっと見られると、何か恥ずかしいんだけど」


 口元で零央は笑んだ。


「すみません。誰かと食事をするなんて、本当にひさしぶりで」


「? 父親や兄弟とは食べないの?」


「みんな行動がバラバラなものですから、食事もバラバラです」


「…そっか」


 軽く小夜は応じ、深く尋ねることなく食事に戻った。気遣いと零央は受け取めた。零央は食事を摂りつつ、さりげなく小夜を見ていた。


 …それに、今日は小夜さんが一緒だからだ、きっと。


 温かなものを胸に感じていた。小夜の存在は零央にとって、ある意味家族よりも近しいものになっていた。

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