第2話 最後の瞬間
…すぐ、元に戻るさ。
予想ではなく、単なる願望でしかない言葉を男は心中で唱えた。
呪文の効果はなかった。
極度の緊張状態に男は置かれていた。落ち着こうと思うのに体の内奥から抑えきれない不安が湧き出してくる。身体が硬くなり、息が詰まった。異様なまでの緊張は、身体の重みや痺れのような感覚を伴って男を責め苛んだ。
―気にしちゃ、いけない。
男は自分に言い聞かせた。
焦って平衡を失った精神は判断を誤らせる。身体の変調に気を取られた状態も物事の決定には相応しくない。心の余裕を失ってしまっては得られるはずの利益も得られない。損失ならば拡大してしまう。男には分かっていた。分かっていながらも心の動きを制御できずにいた。
唐突に過去に見たネットの動画が思い浮かんだ。
アメリカ人が自サイトに投稿した動画だ。高層ビルから身を投げる人物を捉えた映像は、トレードで失敗して破産した人物が友人に依頼して録画したものだった。何もかも無くした者が、せめて何かを世界に残したい。それが飛び降りた人物の意向だった。
投資家への戒めを標榜して公開された映像は膨大なアクセスを生んだ。着地の瞬間こそカットされていたものの、一人の男が屋上で躊躇する姿や遠目にも確認できる飛び降りた直後の引きつった表情、落下中に気を失って力が抜け、空中で姿勢が変わる様子には作り物には無い言い知れぬ迫力があった。人が自死する場面を録画し、公開したことや死の選択を制止しなかったことに対するあらゆる方面からの疑問や批判、自死の背景である意向を尊重したという友人の反論などは数々の論争を巻き起こし、映像は今なおネット上に存在した。
ネット上のニュースとして飛び込んできた情報は男を捕らえた。ヘッドラインを見た瞬間には記事のページに移り、付記されていたアドレスをクリックしていた。怖いもの見たさか、隠微な覗き見趣味か、それとも道義心や株式投資という共通項への関心だったのかは判然としない。あるいは、全部だったかもしれない。覚えているのは、たった一度で網膜に焼きついた映像と映像がもたらす恐怖だ。
男は、自分と映像の中の人物を重ねて身震いした。恐怖が男を押し包んだ瞬間、まるで見計らったように余力の数字が六桁に突入した。
男の自制心は崩壊した。
突如として男は動いた。別のページに移動すると、代用となっている現物の株を処分し始めた。僅かでも利益が残っているものから売っていく。現金を作らなければ取引を解消できない。信用で買っている銘柄から処分すれば損失は確定する。だが、損失の穴埋めのために現物株を売らねばならないのは同じなのだ。ならば、少しでも有利な取引をするためには選択権は自らの手で行使するべきだった。混乱している男にも僅かな分別が残っていた。狂ったように男は売却の支持を繰り返した。
売れ売れ、売ってしまえ! 全て売って、考えるのはそれからだ!
奇妙な高揚感が男を包んでいた。引き絞られるような感覚が胸にあり、下腹には排尿の一歩手前のような甘い感覚があった。快感なのかもしれなかった。損失が、ではない。損失を確定することによって極度の緊張状態と身の破滅さえ予感させる不安の波濤から解放されることが、だ。場違いな高揚感に身を任せながら男は手持ちの株を売り続けた。
最後の瞬間が来た。
現物の株を売り終わり、全てを現金化したところで信用分を売った。大きな金額の割に作業は指先一つだった。狂乱の作業の結果は数字の変化として残った。
男は虚脱状態だった。しばらくディスプレイに表示された数字を力無く眺め、のろい動作でパソコンを操作した。移動したのは市況情報のページだった。皮肉にも売った後で反発が始まっていた。自嘲の笑みを男は浮かべた。
再び資産残高の表示されたページに戻った。数字は、冷酷に変わることなくあった。
五千万に、芥子粒のような数字。
二時間に満たない間に、残高以上の金が市場に飲み込まれて消えていた。
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