第19話:彼女の名前は「愛美」
今回は薬の分量を減らしすぎたようで、少し早めに目が覚めてしまった。……なんだか薬に制御されている気がするな。でも、このまま生活できれば、愛美のことは忘れられる……。
弱い気持ちを吹き飛ばすように、バッと布団を蹴る。
ベッドから起き上がってからは、服を着替えた。
身体にぴっちりとフィットする黒いインナーの上に、昨日とは違う、藍色の服を着込む。ちなみに昨日の服は今、物干し竿の上だ。俺は下着と上着を二組ずつしか持っていないけど、今までそれで困ったことはない。洗濯のサイクルは十分回っている。
さて、服も着たし、昨日取ってきたユメミサ草の絞り汁を使って薬を調合しようか。
そう考えてリュックの中から薬が入った袋と
ドタドタドタ。
ユメミサ草の絞り汁が入った瓶の蓋をポンッと取ったあたりで、ドタドタと騒がしい足音が聞こえた。その音は奥から聞こえてきたもので、ルナの足音だとすぐにわかった。
なにかあったんだろうか。
匙を取り出しながらぼんやりと考えていると、バタン!と部屋の戸が乱暴に開け放たれた。
「大変ですの!!」
頭の寝癖もそのままに、血相を変えたルナがそこにはいた。
「……その様子から尋常ならざることが起こったのはわかります。ですが、落ち着いて、ゆっくりと話してください」
俺が匙をゆっくりとその場に起き、ルナの方を向いてそう言うと、ルナは素直に、二、三度深呼吸をした。
あれ?そういえば子猫がいないな。というのが少し気になったけど、ルナの部屋にいるんだろうとすぐに切り替えた。
「ありがとうございます。少し落ち着きましたの」
「それで、なにがあったんですか?」
「……愛美さんと言葉が通じなくなりましたの」
愛美……?もう忘れようと思っていた想い人の名が唐突に挙げれらた。そのことに心臓が跳ねる。
「すみません、今愛美と言いませんでした?」
「はい、そうです。私の部屋に来れば、ユーリさんでもわかりますの」
そう言ってルナは自分の部屋に歩いて行く。なぜルナが愛美の名を出したのか、そもそもなぜ知っていたのか、そして、ルナの部屋でなにが起きているのか、知りたいと思い、俺もそれに着いて行く。
ルナは早足で廊下を歩いて行く。着いて行く俺の歩速も自然と速くなる。
足の二倍の速さで心臓が跳ねるけど、それを無視してルナの部屋まで辿り着く。
「覗いて見てください」とルナに促され、そっと部屋を覗くと、中には想い人の姿などなく、いつもの子猫がいるだけだった。
なんだ……。って何を期待していたんだ俺はっ。
心に立つ
横から「ひっ!」とルナの短い悲鳴が聞こえる。
そして、じわりと、猫の毛に茶色いような汁がつく。
その様子を見て、思い出した。
あいつ、二日前も、あんな色の染みを作っていたな。こんなことしてたのかよ。
「見たでしょう!?ユーリさん!あんな野生的な愛美さんは初めて見ましたの!!」
「ちょっと待ってください。その、愛美って言う名前はあなたが付けたんですか?」
「え?ユーリさんが付けた名前ではないんですの?」
「違います。僕は今まで名前を付けるなんて考えませんでしたよ」
「でも愛美さんは自分でそう名乗りましたの」
名前を付けたとしても、愛美という名前は絶対に付けないな。俺は。
ということは……?
「……ひとまず名前は置いときますの。見ていてください」
そう言ってルナは猫に、「愛美さーん」と話し掛ける。
当然、付けた覚えもない名前を呼んだところで、猫は反応を示さない。
「……夢でも見たんではないですか?」
忘れようとしていた名前を急に聞かされ、心に波が立っていた俺はそんな冷たいことを言ってしまう。けど、結果としてそれが一番、俺を驚かせることに繋がった。
「絶対に夢ではありませんの。でも、昨日は人間になった愛美さんの夢をみましたの」
……なんだって!?
「夢で人間の愛美を見た!?」
俺はつい、ルナの肩を掴んで聞き返す。
「え、あ、はい。とても綺麗でしたの」
とても綺麗、という時点でなんとなくわかったけど、さらに聞かずにはいられない。
「それは黒い髪だったか?綺麗な茶色い瞳をしていたのか?」
「え、え。ユーリさん?どうしたんですか?」
「早く!」
この時の俺は、すっかり冷静さを欠いていて、つい大きな声を出してしまった。
そして、その声に反応した猫が「ブシャァァァ」と俺の背後に躍り出て威嚇する。
その姿に、以前の面影など微塵もないことくらい、俺にもすぐにわかった。
猫に注意を割かれ、背後を向いていると、ルナに両手を払われた。
「っ!」
「どうしたんですかユーリさん!怖いですの!!」
そう言って涙を流し、ルナは階下に走り去った。
二階に残ったのは俺と猫。
やってしまった。つい、感情を抑えられなくなって。ルナを追いかけたかったが、すぐにやらなくてはいけないことができた。
するべきことはわかっている。けど、順番を間違えたくなかった。
猫が現れた時期と、俺があの夢を見だした時期は、ほとんど重なっている。夢で会った時、愛美のことは女神だと思っていたけど、よく考えれば愛美は一度もはっきりと肯定したことはなかった。
それらのことと今日の出来事、そして俺の経験を結び付けると、一つの答えが俺の中で生まれた。
愛美が、居なくなるかもしれない。
早速部屋に戻り、俺はユメミサ草の絞り汁を口に含んだ。そして、猫にもユメミサ草に浸したエサをやる。
ユメミサ草は匂いの全くない種類なので、猫は無警戒に食べてくれた。
猫は人間より薬のまわりが早い。
俺は、すぐにこてん、と寝た猫を抱え、部屋に戻ってベッドに入った。
♥︎
––––ユーリさんのあの目の変わりよう、間違いありませんの。あれは大事な人を求める目でしたの。
一人で階段を駆け下りながら、ルナはそう確信していた。そして、途中すれ違ったマリーへの挨拶もほどほどに、屋敷を飛び出す。
向かったのは花畑。ルナには考え事をする時はいつも、花畑へ行くという習慣があった。一人になりたい時もそうだ。
花畑への道では、朝早いとは言え、何人かの村人とすれ違った。こんな朝早くからあんなに急いでどこへ行くんだろう、と村人たちはルナを訝しんだことだろう。
ルナはそんなことなどお構いなしに走る。今のルナに、そんなことには気が向ける余裕はないのだ。
––––そんな、嫌ですの!こんな形で自分に想いが向いていないと知るのは!
次第に道が細くなっていき、誰ともすれ違わなくなる。
花畑に着いても、ルナの足は止まらない。
青い花や黄色い花、ピンクの花など、普段通りの景色が広がっている。
「はぁ、はぁ、はぁ」
しばらく走り、花畑の真ん中辺りまでくると、ルナはもう走れなくなった。長年の運動不足のせいだった。むしろ、ここまでよく持ったほうだ。
息が切れたルナの目からは、堰を切ったように涙が溢れ出す。それと同時に、ルナは座り込む。
そして、
「あぁぁぁぁぁーーー!!」
ここなら、誰もいない。そう思ったルナは、声を上げて泣いた。
––––生まれて初めての恋でしたのに!せめて、ちゃんと断られたかったですの!
涙は、止まらない。ユーリへの想いも、止まらない。だが、その想いを受け止めるダムなどない。ユーリの気持ちは愛美へと向いている。ルナも、それを知っている。
知っているが、ルナは泣いた。失恋の悲しみを流し切り、消費する為に泣いた。
しばらく泣くと、さすがに落ち着いてきたルナは、状況を吟味する。
––––きっと、あの二人はあのまま結ばれますの。愛美さんには、夢をどうこうできる能力があるんでしょう。動物と人間でも、夢の中で愛を育んで、きっと結ばれますの。……今日は愛美さんの様子が変でしたけど、ユーリさんならどうにかしてくれるはず。病気や怪我に対してなら、ユーリさんは無敵ですから。
さわさわと花畑が揺れる。
この季節特有の、青い花びらが、宙に舞う。
ルナはそんな風景を見て、感傷にふけっているとさく、さくと足音が聞こえてきた。
振り向くと、生前のレナードと同じ目の色をしたサリエバが立っていた。
「振られちまったのか?」
ルナの涙に濡れた顔を見て、サリエバは眉をハの字にしてそう言った。
「何にもわかっていないようで、なんでもわかっていたんですね……」
「まぁな。一応血ぃ繋がってるし」
サリエバはそう言って眉を下げたままニカッと笑う。
「確かに、お母様もそうでしたの」
––––悩んでいたらすぐに気づいてくれる。そして、不器用でも何かしようとしてくれる、そんな人でしたの……。
「そんな暗い顔すんなよ。面と向かって振られたのか?」
「いえ、そういうわけではありませんの」
「なるほどな、にいちゃんに想い人現るってか」
「……さすがです」
「で、これからどーすんだ?」
「どうって、いつも通りに振舞うしかありませんの」
「本当にそうか?本当に、お前が入る隙はねぇのか?」
「えっ?」
「気持ちを伝えてみてもいいんじゃねぇかってことだよ」
「そんなこと……」
––––結果がわかってて伝えるなんて……。
「結果がばっちし決まってるとはかぎらねぇんだ。考えてみてもいいんじゃねぇか?」
「結果は決まってますよ」
「いや、わかんねぇぞ?俺らは神じゃねぇんだぜ?」
そう言って、それだけ言って、サリエバはルナに背を向け、去って行った。
––––私に、入り込める可能性があるってことでしょうか……?
ルナは、最近のユーリを思い出す。
––––ユーリさんは、最近、何かに悩んでいるようでした……。それがもし、愛美さんに対する迷いだったら……。もしかすると。もしかすると私にも可能性はありますの。
––––初めてこのお花畑に来たときのユーリさん。
サクラの話をした時のユーリさん。
どちらの時も、目が揺れていましたの。
一か八か……。
ルナはユーリに気持ちを伝えると決めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます