第44話 暴龍

 かつてこのエデンの片隅。後に監獄の名を冠するスラム街にて、大規模な再開発計画が立案されていた。当時産業革命真っ只中の中国から技術者や労働者を招致するためのベッドタウンとして区画整理されたのが、現在のジェイルタウンである。


 計画の発案時にアルメニア政府が掲げた政策として最も物議を醸したのが、中国人を招き入れるに際してジェイルタウンにおける中国国籍移民への税金の撤廃。これが国内のみならず国外から大きな批判を受けた。


 当時のアルメニアは決して裕福なわけではなかった。外資や技術の向上により大きな躍進を狙った政府の思惑は〝自国民より他国民を優遇する愚策〟と捉えられ、国民の不満を煽ったのだ。次にヨーロッパ諸国やアメリカといった経済大国からの批判の声が上がった。〝我々アルメニアは自国内にてタックスヘイブンを作る〟と堂々と宣言するようなものである。これに対して中国は真っ先に反発するであろうと誰しも予想した。自国企業の利益による税収や、その支柱となる技術、労働力が横取されようとしているのだから当然である。しかし、他の思惑とは裏腹に中国政府はこれを快著。アルメニアの政策に対して当時の中国国家主席自ら握手を交わしたのだ。


 だが、それこそが中国側の策略であるということを知る者は誰もいなかった。アルメニアが誇る〝楽園〟が中国マフィアの手中に収まるまでは。


 中国政府のバックアップもあり、ジェイルタウンはアルメニア随一のチャイナタウンとして瞬く間に栄え、多くの中国人がこの場所に移住してきた。その成長スピードに合わせて中国大使館もここに移転する計画も進められていたほどである。


 まさに千客万来。来るもの拒まず。パスポートの国籍にチャイナの文字があれば、どんな人間であっても碌なチェックを受けることなくアルメニアへ入国出来たのだ。その時、移民に紛れて入国した男こそがこのリウロンだった。


 性は楊。肩書きは若頭。仇名は暴龍。


 人の良さそうな笑顔の仮面で龍の如き凶暴性を隠した男、紳士の皮を被った暴君とも揶揄されており、何かあればすぐに二丁のガバメントをブッ放すほど好戦的で有名だった。そんな彼を語る上で何より特筆すべきはステゴロ。つまり、素手での喧嘩の腕前である。


 幼少より非凡なる拳才を有しており、ありとあらゆる拳法を体得していた。中でも彼の最も得意としていた八極拳はまさに一撃必決。一度受ければ勝負が決まるので二打目は必要としないとまで謳われていた。彼がこの地に来た理由こそ、エデンへの虎皇会進出の足がかりを手にする為であった。


 中国では麻薬の取り扱いは極刑。世界屈指のドラッグへの罰則が厳しい国として知られており、それはかつて引き起こされたアヘン戦争に起因する。故に何があっても中国国内での麻薬の売買は許されない。相手が例え虎皇会であっても同様である。しかしそれは中国国内に限っての話。リウロンはディアブロ・カルテルが麻薬市場で莫大な利益を上げていることを知っていた。そして、リウロンは父のワンフーにこう進言している。


『楽園を拠点に虎皇会のためのシルクロードを築く』


 その地盤を作る為に、リウロンは中国政府の要人に莫大な賄賂を贈りアルメニアへのパイプを通させた。その後、単身海を渡ってアルメニアへと乗り込んだ。それを成せるだけの頭脳と力がこのリウロンという男には備わっていたのだ。


 しかし、彼は変わってしまった。一人の女性を愛し、その女性との間に子を儲けてからリウロンは争いを避けるようになった。


 今まで何も持たず、ただ拳を握り、叩き込むだけのリウロンに男として守るべきものが出来た。それが彼を大きく変えた。それまで奪う側にいた男に〝失うことへの恐怖〟が芽生えたのだ。ある者は言った。「暴龍は死んだ」と。しかし、別の者はこう言った。「龍は誠の道を見出した」と。


 家族を守るために拳を振るうリウロンの心技体、その全てが武の極致に達していた。まさに向かうところ敵なし。但し、それは拳が通じる相手に限っての話である。人智の及ばぬ力の前には無力であることを後にリウロンは思い知ることになるのだ。


 妻と幼い娘を襲った不可解な病。


 ある日突然皮膚に浮かび上がった無数の歯形のような黒い痣の発症から二人は著しく衰弱。多額の資金を注ぎ込み、世界中の医療機関を頼るも治療法どころか原因すら特定に至らなかったのだ。


 発症から約半年後に最愛の妻が死去。そこでリウロンは痛いほど思い知らされた。この世には、力だけではどうにもならないものがある。金では解決出来ない事があると。如何に自分が無力で弱い存在なのかと。


 失意のリウロンは、今にも命の灯が消えてしまいそうなほど衰弱しきった娘を腕に抱いて教会を訪れた。絶望に瀕した者が頼るものは、いつの時代も変わらない。


 彼は生まれて初めて神に祈った。


 跪き、涙を流し、自分のこれまでを全て悔いて祈った。


 どうか、どうか妻の忘れ形見である娘だけは助けて欲しい。そのためであれば、この命すら惜しくはないと。


『助けてやろうか?』


 無人かと思われた礼拝堂内に木霊した女性の声。この時、リウロンに救いの手を差し伸べた人物こそ当時の獅子十字隊隊長にして、後のアスガルド聖教最高権力者として君臨する女教皇ミリアだった。

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