4章 秘された聖域 - 3

 火星で最も身勝手で、最も無様な男。それが僕だ。

 そう思ったら、全身から力が抜けていった。溜まっていた疲労感が一気に押し寄せ、視界がぐにゃりと歪んだ。


「僕はまた、間違えた。僕はまた―――」

「それは違うと、思うよ」


 声がした。ノインだった。ハスキーな声は、ほんの少しだけ震えていた。


「違くないですよ。僕が馬鹿だった。僕はいつだって、身勝手な感情と行動で、大切なものを壊してきたんです……。何一つ変わってやしない。僕は」

「違う。少なくとも、セッテはアンタを身勝手だなんて、思ってない」


 ノインは僕の逃げ場を奪うような慎重さで、ゆっくりと言葉を選んで紡いでいく。


「アタシはセッテを助ける手筈だったんだ。だけど無理だった」

「そうですか」


 僕の応答に感情はなかった。ノインは悔しそうに俯く。見ればノインの左腕は不自然に力を失って垂れている。おそらくはセッテを助ける際に負った故障なのだろう。キャトルは僕がノインを責めないよう睨みつけてきていたが、そんなものは全くの杞憂だった。

 キャトルが僕を助けたように、セッテはノインによって助けられるプランだったのだろう。だがもう僕に失敗したノインを責める気はなかった。そもそもそんな資格がない。キャトルが僕を助けられたのだっていくつもの偶然が重なった奇跡に近かったし、元を正せば僕がセッテを連れ出したことが全ての元凶なのだから。


「セッテは、電磁パルスを受けながら、アタシに言ったんだよ。自分は平気。ナナオは必ず来てくれる。一緒に地球を見ると約束したって。助けられなかったくせにどの口でって思うかもしれないけど、正直、見直したんだ。人形みたいだったあの子が、あんな揺るがない目をしてるの、アタシは初めて見たから」


 たとえ離れても、必ず後で合流しに行きます―――。

 僕の脳裏に誰かの言葉が響く。僕自身の言葉だった。僕がセッテを納得させるため、軽々しく吐いた嘘。

 あのとき想定したのとは立場が真逆になってしまった。本当は僕が捕まり、セッテは逃げ延びるはずだったのだ。もし運命というやつがあるならば、僕はそいつを真っ先に呪うだろう。

 だがセッテは僕が吐いたその場しのぎの嘘を信じている。文字通り、自分の存在を懸けて。

 馬鹿だ。愚直にもほどがある。


「セッテさん、何で……」


 僕のか細く震えた問いは虚空に溶けた。

 答えを知るセッテはここにはいなかった。今まさに廃棄される寸前で、僕の助けを待っている。


「それこそ、本人に直接聞きなさいよ」


 キャトルの突き離すような声が、薄闇に響いた。


   ◇


 結局、一睡もできないままに夜が明けた。


「おはよう、ナナオ。……と言っても、あまり眠れなかったようだね」


 朗らかな表情で僕の前に腰を下ろしたウフキルに、僕は愛想なく視線だけ送る。疲れているのに眠れないというのは想像以上に心身を擦り減らすらしく、最低限の社交辞令ですら取り繕う気力すら持ち合わせることができなかった。


「答えを訊く前に少し話をしようか」


 ウフキルが咥えた煙草に火を点ける。僕は差し出された一本を受け取り、同じように火を点けてから煙を深く吸い込む。ひどい空腹と疲労のせいか、眩暈がした。


「この火星における労働力のおよそ三分の二は、ドールによって賄われている。つまりそれだけの不当な労働環境が、この火星に蔓延っているというわけだね」


 僕は黙ってウフキルの話に耳を傾ける。キャトルもノインも周囲にはいなかった。クラブには今、僕とウフキルの二人だけが向かい合っている。


「俺はほんの数時間前、君がしたことはもう君だけの問題ではないと言ったね? それはつまり君が軽率にドールを連れ出したことによって―――より正確には、君が連れ出したドールが廃棄処分されることによって、俺たち〈誰でもない者〉とその他大勢のドールに大きな不利益が生じるということだ」

「不利益……」


 ウフキルはドールの権利のために戦うことを決意した男だ。だが理想論者ではない。もちろん本音では全てのドールを救い、地球同様に友として人とドールが肩を並べる火星の未来を願っているのだろう。しかしウフキルは大きな理念を抱くと同時、どうしようもない現実を正確に理解してもいる。彼が手を差し伸べるのは、キャトルの言葉を借りれば抗う意志を示したドール、つまりは〈誰でもない者〉に属する仲間だけだ。


「そう、不利益。ナナオ、君はドールが一機、廃棄処分されたあとに何が起こるか知っているか?」

「労働力の補充、でしょうか」

「惜しいね。当然だが労働力の補充はある。それに加え、今回のようなケースでは保安局と統括省の査察が入ることになる。どういう意味かは分かるだろう?」


 ウフキルの目が細められる。僕は数秒だけ黙考し、吸い込んだ紫煙を吐き出すと同時に答えを出した。


「発信機を外したことが露見するということですか」

「そういうこと。そうすれば俺の企みも当然バレる。そして〈誰でもない者〉はすぐさま解体だ」

「それで僕らのことを……」

「だが失敗した。そしてセッテは今まさに廃棄処分の手前だ。こうなってはもう全て手遅れなんだよ。だから俺たちは、本来の計画の段階を早め、行動を起こすしかなくなった」


 ウフキルは変わらず朗らかな調子で喋っている。だが、僕は空気が一気に冷え込むような錯覚に陥った。刃物を全方位から突き付けられるような緊張感のなかで、僕の頭にようやく浮かんだのは二文字の単語だった。


「反乱……でも、起こすつもりですか」


 ウフキルは声を上げて笑った。だが声が響くたび、部屋はさらに温度を失っていった。


「映画や小説じゃぁあるまいし、そんな物騒なことはしないよ。それに、ドールは人と寄り添う存在だ。人を支配したいわけでも、人を排除したいわけでもない。〈誰でもない者〉に集まったドールたちはさ、ただ人と共に生きたいだけなんだ」


 僕は息を呑む。肩を竦めるウフキルの表情は真剣そのもの、紛れもない本気だった。


「なら一体、何をするつもりですか……」

「一斉ストライキだよ。既にフォン・ブラウン地区のドールの半数近くが動員できる予定だ。本来はもっと短期決戦で追い込めるよう規模を広げるつもりだったんだけどね。それでも人々の生活は、あっという間―――一週間もすれば立ちいかなくなる見込みだ。そうすれば人間側はこちらの交渉に乗らざるを得ない。あくまでストライキは、同じテーブルにつき、対等な立場で対話するための手段だからね。そこからは僕やキャトルたちの腕次第だ」


 ウフキルは頬に浮かべた笑みを深くし、顔の前で手を組む。僕はとっくに燃え尽きている煙草を指の隙間から取り落とす。掌は嫌な汗で湿っていた。


「さあ、これでこちらの手札は全て見せた。ストライキの混乱でセッテの輸送にも必ず隙が生まれる。普通にやるよりは、いくらか成功率が上がるだろう。それでも助けられる可能性は高くはないが、もちろんゼロじゃない。あとはナナオ、君が覚悟を見せるだけだ」


 手が震えた。誤魔化すように拳を握った。全身が芯から凍りついたような猛烈な寒気がした。現実から目を背けたくて固く瞑った瞼の裏に、涙を流すセッテの顔が焼き付いていた。


「……正直なところ、覚悟とかはよく分かりません」


 ようやく絞り出した言葉は、この期に及んでまで情けないものだった。

 だが嘘は吐けなかった。ウフキルがどこまで誠実に、僕のような人間に向き合ってくれたからこそ、本心をぶつけなければならないと思った。


「セッテさんを助け出してみせるなんて言えないし、怖い。ただひたすら怖いです。理屈じゃないんです。ドール捜査官に追われるのが怖い」


 口が思うように動かなかった。震えて固まる唇を、僕は強く噛んだ。


「……それでも僕は、セッテさんに確かめたいことがあるんです」


 言い終えて、僕は俯く。ウフキルがどんな顔で聞いているのか、確かめることができなかった。

 ぱちん、と乾いた指の音が鳴った。

 恐る恐る顔を上げれば、ウフキルが白い歯を見せて笑っていた。


「いいじゃないか。十分だよ。君は君の理由で戦えばいいんだ」


 ウフキルは右手を僕に差し出す。僕はその分厚い手を、控えめに握った。

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