4章 秘された聖域 - 2

「君だよ。ルイ・ナナオ。君がしたことはもう、君だけの問題ではない。まず君は、自分がしでかした行為の重大さについて、正確に理解をしてもらう必要があるな」


 君は一体何をした? ウフキルは静かに、だがこれ以上なく鋭い声音で僕へ問う。


「僕は、セッテさん……ドールを娼館から無断で連れ出しました。そのせいで保安局に追われています。もし捕まれば、僕は禁固、セッテさんは廃棄処分……」


 言って、今の今まで忘れかけていたことが僕の脳裏を掠めた。目まぐるしい展開の速さに置いていかれ、考えを巡らすだけの余裕を失っていたのだ。だが一度爆発的に膨れ上がった不安は、僕の心を激しく焦がした。


「……セッテさん。セッテさんはどこですか? 僕を助けたってことは、セッテさんも助けてくれてるんですよね? 会わせてください、セッテさんはどこですか?」


 ウフキルは掴みかかる勢いで立ち上がった僕に向けて首を横に振った。僕は眩暈がして、ソファの上に崩れ落ちる。世界が音を立てて崩れていくような、そんな気分だった。


「そんな……なんで……」

「すまない。俺たちの力が及ばなかった」


 ウフキルが頭を下げる。僕は笑うしかなかった。文字通り自分の命を懸けた一手も、さして意味はなかったという事実を受け入れられなかった。現実から目を背けるしか心を保つ術が見つからなくて、頭を下げるウフキルを非難してやろうと思った。


「嘘だ……嘘ですよね? 考えてもみてくださいよ。僕はドール捜査官とドローンを引きつけたんです。セッテさんは僕と違って走るのが速いんだ。ドール捜査官になんか捕まるはずがない。そうでしょ? ……ハハハ、そうだ、そうですよ、セッテさんが捕まるはずが」

「いい加減にしなさいよっ!」


 脇に控えていたキャトルが僕の胸座を掴み上げる。その美貌は、ドールとは思えないほどはっきりとした怒気によって歪められていた。


「どうして…………どうして僕なんかを助けたんですっ! セッテさんを……セッテさんを助けるべきだったっ! なのにどうしてっ?」

「アンタのせいで、こっちがどれだけ迷惑被ってると思ってるのっ!」

「二人とも落ち着こう」

「だけどこいつのせいで……」

「だとしてもだ。キャトル、放してやれ」


 ウフキルの声が割って入る。キャトルは僕をソファへと突き放す。軽々と押し倒された僕はソファに身体を埋めた。


「セッテという君が連れ出したドールが保安局に身柄を拘束されたことは事実だ。だがまだ手の施しようがないわけではない。ドールは廃棄処分される際、統括省の施設で人工脳のデータを吸い上げてから廃棄される。今後このような粗相が起きないよう原因究明と対策にあたるためだ。まあとにかく、セッテはブリッジを通ってファースト・ドームへと輸送される。その隙を突ければ、助けることは不可能ではないんだ。君はその事実を受け止め、僅かな可能性に賭ける覚悟はあるか?」

「助けて、くれるんですか?」

「いいや。彼女はドールだが、俺たちの仲間ではない。仲間ではない者を助けるために、仲間を危険に晒すことはできないよ。今回は利害がたまたま一致したから手を差し伸べただけ。彼女を助けるのは君だ。俺は今、その覚悟を君に問うている」


 ウフキルの声が研ぎ澄まされた響きを帯びた。


「僕は……」


 僕は即座には頷けなかった。既に保安局の手のなかにあり、廃棄処分を待つだけのセッテを救う方法など想像がつかなかった。そもそももうこれは僕個人の覚悟や意志でどうにかできるような問題ではない。もしセッテの身柄を奪還するというならば、それは明確に暴力を行使することになるだろう。つまりそれは、命を懸けるだけの覚悟があるのか、という問いだった。


「僕は、…………僕は」


 喉元まで出かかった言葉が何だったのか、僕は自分でさえ分からなかった。

 やがてウフキルの分厚い手がそっと僕の肩に置かれる。


「少し休んでいくといい。どうせ君に逃げ場はないんだ。明日の朝、もう一度同じことを訊く。そこで答えを聞かせてくれ」


 ウフキルの言葉は、肩に置かれた手以上に重く、僕の心に響いていた。


   ◇


 僕は音も明かりも消えたダンスフロアをぼんやりと眺めていた。

 食事も出されたが全く喉を通らなかった。心も身体も極限まで疲れ切っているはずなのに、眠ることもできなかった。

 目の前ではまだ少し中身の残った酒瓶が転がっている。誰が捨てたのか、踏まれてびりびりになった新聞紙が、クラブ内の僅かな空調に当てられて揺れている。誰もいないステージだけが、おぼろげな照明に照らされていた。

 ほんの数時間前まであったはずの賑わいは嘘のように掻き消えている。静寂が、僕の全身に圧し掛かっていた。

 ウフキルの言葉通り、僕に逃げ場はなかった。

 地上に出ればあっという間にドール捜査官に見つかるだろう。今の僕に逃げる体力も気力もない。そもそもセッテがいなければ、人並みの運動能力すらない僕がドール捜査官から逃げるなど不可能だった。

 だがここにいても逃げ場はない。今が何時なのかは分からないが、夜が明ければ僕は再び問われることになる。セッテを救うために、命を捨てる覚悟があるのかと。

 ウフキルが立ち去ってから、僕はずっと考えていた。

 どうしてあの瞬間、セッテの手を取って娼館から逃げ出したのか。

 どうしてセッテに、地球を見せたいと思ったのか。

 僕へと真っ直ぐに向けられたセッテの眼差しに、僕は一体何を見たのだろうか。

 セッテの頬を流れた一筋の涙に、僕は一体何を感じたのだろうか。

 分からなかった。分からないなりに考えてみれば、きっとセッテの姿にカレンの面影を見てしまったことが全てのような気がする。

 つまりは過去だけが僕を縛っている。法的な書面で言い渡されただけの判決では掬いきれないほどの罪と罰が、まるで呪いのように僕の全身に染みついている。

 地球でどれだけ罪を償おうと、火星での慣れない労働に心身を浸そうと、僕はあの日から逃げることはできないのだ。

 きっと僕は、セッテに全てを話したあの瞬間、許された気になったのだ。そして許されたつもりになって憐れんだ。自分の望みすら分からず涙するドールの少女を憐れみ、あたかも自分こそが救い手であるような気になって手を差し伸べた。

 それはエゴだった。驕りと忘却によってもたらされた陳腐な自尊心。

 それこそがこの逃避行の原動力であり、僕という人間の正体なのだ。

 だから答えられなかった。答えられるはずがなかった。

 僕に覚悟など、最初からないのだから。


「眠れないの?」


 ソファに身体を埋めながら、ぼんやりと天井を仰いでいると影が僕を覗き込んだ。


「……こんばんは、キャトルさん」


 見下ろしてくるきつい視線に、僕は反射で身体を固くする。


「そんなビビらなくていいわよ」

「あ、はい……ありがとうございます」

「言っとくけど、別にアンタを認めたわけじゃないから」

「ハハ、ですよね」


 キャトルは高慢に鼻を鳴らし、近くのバーテーブルに寄り掛かる。着ていたローブが僅かにはだけ、谷間が覗く。目を逸らした僕の視界にキャトルの影に隠れるように立っている小柄な女性が映り込んだ。褐色の肌のせいか、薄闇に溶け込んでいたらしい。服も黒い学生服のようなものを着ていた。


「そちらの方は?」


 僕が言うと、小柄な女性は肩を小さく震わせる。僕そのものを恐れているというよりは、何か隠していることがバレないよう怯えているという感じだった。


「こっちはノイン。わたしの同僚」


 ノインと紹介された女性は小さく会釈をする。とりあえず僕も会釈で応じた。

 ドイツ語で〝9〟。それがノインの意味だ。キャトルにはガンを飛ばされたが、きっと二人はセッテと同じ娼館で使われているドールなのだろう。


「アンタの思ってる通り。わたしらはセッテと同じ娼館の娼婦」


 僕の思考を読んだように、そう言ったキャトルはどうしてか苛立たしげだった。


「どうしてセッテさんは、〈誰でもない者〉ではないんでしょうか?」


 僕はウフキルの話を聞いてから気になっていたことを聞いてみる。彼女たちがセッテの同僚であり、〈誰でもない者〉のメンバーだというならば、どうしてセッテはその仲間ではないのだろう。

 素朴な疑問のつもりだったが、キャトルはあからさまに舌打ちをした。


「誰でも彼でも仲間にするわけないでしょ。〈誰でもない者〉に見い出されるのは、抗う意志を示せるドールだけなの。現状に甘んじて、思考停止してるような、セッテみたいなのが仲間になれるわけないじゃない」


 キャトルの言葉には棘があった。どうやら聞くべきではないことを聞いたらしい。もちろんキャトルの言葉に思うところはあったけれど、僕は反論を呑み込んで代わりの話題を探した。


「あの、お二人はけっこう、その……自由に外出できるんですね」

「あ?」


 案の定、失敗。キャトルが僕を睨む。


「あ、いえ、セッテさんは、一度も娼館の外に出たことがなかったようなので」

「別にわたしらだって、空の下を自由に出歩いてるわけじゃないわよ。オーナーが用意してくれた地下通路とクラブだけ。時間制限もあるし」

「時間制限、ですか?」


 僕が訊き直すと、キャトルは不愉快そうに顔をしかめた。


「当たり前でしょ。道具であるわたしたちは発信機を仕込まれた上で管理されているわ。ま、わたしたちとノインはオーナーに発信機を外してもらって、ダミーも部屋に置いてるから問題はないんだけどね。それでも長時間、店から離れるのは危ないわ。店側だってわたしたちの行動を把握して管理する責任があるもの。万が一、逃げ出したりしないように見張るのよ。まさか、知らずに連れ出したの?」


 それは痛烈な皮肉だった。

 だがこれで納得がいく。あんなに的確かつ迅速にドール捜査官やドローンが僕らの居場所を見つけてきたのはセッテの身体に仕込まれていた発信機が理由なのだろう。要約すれば、僕らの居場所は常に丸裸だったというわけだ。

 逃亡など、最初から不可能だったのだ。僕だけが何も知らず、ただ大きな掌の上で無様に踊らされていた。

 僕だけが―――?


「あ、あの、キャトルさん」

「何よ?」

「セッテさんは知っていたんでしょうか……その、発信機について」

「当たり前でしょ。逃亡防止のために埋め込まれてるんだから。逃げても無駄だっていう、店側の圧力みたいなもんよ」

「じゃあなんで……」

「さあね。直接聞いたらいいんじゃないの」


 キャトルはそう吐き捨てて僕を突き離す。僕は頷く覚悟もなく、突き刺さるような言葉を躱すだけの余裕もなく、情けなくただ押し黙った。

 肌を引っ掻くような、辛辣な沈黙が流れた。

 黙っている間、僕は考えた。

 どうしてセッテは逃げられないと分かっているにも関わらず、僕の手を振り解かなかったのか。

 セッテは僕を肩に担ぎながら、一体何を思っていたのだろうか。

 つまるところ、僕は一人で盛り上がっていただけなのだ。鳥籠のなかに閉じ込められたセッテを身勝手に哀れだと断じて、後先のことも考えず、何の策も持たずに引っ張り出した。可哀そうなドールを救うという自分自身に無様に酔っていただけだったのだ。


「僕が馬鹿だったんだな……」


 火星で最も身勝手で、最も無様な男。それが僕だ。

 そう思ったら、全身から力が抜けていった。溜まっていた疲労感が一気に押し寄せ、視界がぐにゃりと歪んだ。

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